Chapter6:わかってるの意味
颯太が身支度を整えてからリビングに戻ると、子猫を抱きかかえた天華と風磨が何やら話をしているようだった。
「お、準備終わったか」
颯太にいち早く気づいた風磨が天華の背中越しに声をかけてくる。
「悪い、待たせた。天上さんも」
「今、天上さんにこの子との接し方をレクチャーしてもらっていたところだ」
「それは大切だな」
「ではさっき言ったことを守ってもらえれば大丈夫だと思うから、村瀬さん、あとはよろしくお願いします」
「あ、はい。できる限り頑張ります」
「まあ、案外人懐っこいし、大丈夫だと思うぞ」
昨夜も颯太が移動するたびに少し離れた位置からちょこちょこ後ろをついて回ってきて、気分はさながらカモガモの親だった。
不意な動作でよろけたり、つまづいたりして踏み付けでもしたらただでは済まないのではらはらもさせられたものだ。
「まあ、何はともあれ、少しの間よろしく頼む。わからないことがあればいつでも僕に電話してくれ」
「了解」
「あ、だからって留守番で寂しくなったみたいな電話は受け付けないからな」
「まじでか。でもそんときは子猫に寂しさを埋めてもらうから無問題」
「まあ、世の中にはペットに寂しさを埋めてもらってる人もいるし、村瀬も部活やら勉強やら彼女やらでささくれだった心を思う存分に癒してもらうといい」
「颯太たちが帰ってくる間に俺なしでは泣いちゃうくらい仲良くなってるさ」
「沼男め。でも残念だったな。その子は僕にもう夢中なんだぞ。なんたって昨日は一緒の布団で寝たからな」
「なにっ!? すでに同衾済だとっ!? くっ、これから育くもうとした俺と子猫の愛を真っ向から潰してきやがった! くっ、そうくるか、この女たらしめっ!」
「ふっ、失礼だな、純愛だよ」
「ならばこちらは親愛だ!! 俺の溢れ出る父性にてでろでろに甘やかしてやるからな!」
「負け惜しみ乙。だが子猫は僕のものだ!」
「違うっ! この子は俺のものだっ!」
「いや違うっ! 子猫は僕のっ――」
「いつまでそのくだらないやり取りを続けるつもり?」
絶対零度のような冷たい声。
恐る恐る背後を振り向むくと、氷柱のような冷徹の眼差しを向ける天華が不機嫌そうに立っていた。
「それに、その子はわたしのだから。そこは勘違いしないでくれる?」
今日1番低い声で独占欲を剥き出しな発言をする天華を前に、先ほどまで醜い争いを繰り広げていた颯太と風磨の心は1つになる。
「ま、まあ、そういうことだから」
「あ、ああ。子猫のことは任された。そ、颯太たちも楽しんでこいよー」
明らかに棒読みでそう口にする風磨に留守を任せ、慣れない手つきで子猫を抱きかかえた風磨とそんな彼の腕のなかでこちらを見つめる子猫に見送られるかたちで、颯太と天華はマンションを後にするのだった。
マンションのエントランスを出た2人は、小さな橋を渡り、わんぱくな子供たちが駆け回る公園を尻目に市街地に足を向ける。
本日の天候は晴れ。
綿あめみたいな雲が青空をいくつも漂う比較的穏やかな天候で、昨日の雨模様が嘘みたいなお出かけ日和。
颯太と天華は閑静な住宅街を歩き、子猫を拾った陸橋の下を通り抜ける。
陸橋を通り抜ける際、視線は無意識に子猫が遺棄されていた場所に向いていた。
あの時、子猫を保護しなかったら未だにここで独り泣いていただろうか。
そんな情景が脳裏に過り、自然と胸がきゅっと痛くなった。
一晩、子猫とともに過ごしたことで徐々に、けれど確かに愛情が芽生えていることを自覚する。
あの冷たく硬いダンボールのなかに押し込められ、身勝手に遺棄されたと思うと、子猫を遺棄した無責任な人間に怒りにも似た苛立ちを覚える。
人一人分空けて颯太の横を歩く天華の歩行速度が速いのは、できるだけ早く子猫のもとへ帰りたいからだろう。
自宅を出る際、天華の目は最後まで子猫を見つめていた。
惜しみない愛情で接してくれる2人に別れたくないと伝えるように、か細い声で鳴き声をもらす子猫の姿には颯太も心を痛めた。
それ以上に後ろ髪を引かれていたのは、言うまでもなく子猫を拾いたいと口にした天華の方だった。
でも、今回の外出はその子猫のためでもあるがため、心を鬼にして、ぎゅっと拳を握りしめ、彼女は半ば振切るように自宅を出てきた。
天華が子猫に向ける感情は強く、そしてどこか筆舌に尽くし難い重さのようなものがあると颯太は思う。
その理由までは分からないし、他人に話すにははばかられる込み入った事情があるのかもしれない。
たとえば、
「天上さん」
「なに」
「さっきの子猫の名前の件だけど」
「……わかってる」
そう口にしたあと、
「わかってるから」
と、もう一度小さくそう呟き、天華はさらに歩行速度を上げた。
たとえば、そう、天華は子猫に名前を付けたがらない。
あと数日すれば訪れる別れを危惧しているから。
名前をつければ愛情が強くなると自覚しているから。
そして最後の「わかってる」は、まるで自分に言い聞かせているかのようで、義務付けているかのようだった。
そんな複雑な心情を抱える彼女の背中を、颯太は1人静かに追いかけることしか出来なかった。
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