Capture11:命を育てるということ
どこか切なく、寂しげな表情を浮かべ、風磨は言った。
「子猫に名前つけないのはどうしてなんだ?」
至極純粋な疑問が玄関へと続く廊下に溶けて消えていく。
「……名前をつけると、あれだ、愛着が湧くだろう?」
「愛着?」
颯太の返答に風磨が眉根をひそめるのも無理はない。子猫を一時的に保護している現状を、颯太はまだ彼には伝えていなかったから。
「月曜日までなんだ、実は」
颯太の言葉には具体的な『何か』が抜けていた。それだけじゃない。無意識に声のトーンは下がり、風磨を捉える目線は風磨を捉えているようで、本当は、もっと他の『何か』を見据えていた。
「僕に動物の面倒を見るのはハードルが高いんだよ。今までだって動物を飼った経験や知識はないし、何かあったとき、僕には子猫を手助けしてやれる自信がない。実際、そうなったとき一番困るのはあの子だ。せいぜい僕に出来るのは右往左往するだけ。そんなもんクソの役にも立たない。 だったら、経験と知識の両方を併せ持ったプロに任せるのが、結局、一番安心できるし、正解なんだよ」
颯太自身、言っていることは間違っていないと思う。いや、それどころか、まごうことなき正論だ。間違いなく正鵠を射ている。
それなのに、なぜかすこし、心の奥底がざわついている自分がいる……。
「なにか? じゃあ、子猫は施設かどこかに預けるつもりでいるのか?」
「ああ」
「天上さんは無理なわけ?」
「それこそ無理な話だな」
「なんで?」
「母親が猫アレルギー持ち」
「あ〜、それは御法度だわな」
猫アレルギーの主な症状は、くしゃみ、鼻水、目のかゆみなどがある。重症化すると呼吸困難やアナフィラキシーショックを起こし、最悪、死に直結してしまう。
日本でも、猫アレルギーによるアナフィラキシーで死亡する例は、年間50〜70件程度報告されており、猫アレルギー持ちの人が猫と暮らすということは、言い換えればいつ爆発してもおかしくない不発弾を抱えながら生きていくようなもの。世の中には動物を飼育したくてもそれが叶わない人たちだっているのだ。
「颯太、俺はさ、2時間くらい子猫ちゃんと一緒にいて気づいたことがあるんだ」
玄関に向けて歩き出しながら、風磨は話を続ける。
「子猫ちゃんな、颯太たちが家を出て行った後、1時間近く玄関の扉に向かって泣き続けてたんだぜ」
「……」
「まあ、その後は泣き疲れて玄関でそのまま寝ちまったけどな」
まさかそんな背景があろうとは思わず、颯太はとっさに言葉が出ず、口を閉ざしたまま、玄関で靴を履き替える風磨の背中を見ていた。
「確かに、命を育てることには責任が伴う行為だと俺も思う。颯太の言う通り、大変で、決して軽くなんてないし、そもそも軽んじたらダメだ」
日本では年間、約2万5千匹の猫や犬が繁殖業者やペットショップで死亡しており、野外での死亡数を含めると、日本全体の猫の遺体回収数は推計で約29万匹と報告されている。これらのことを加味するまでもなく、動物を飼育することは決して簡単な行為ではないのはバカでもわかる。
「でも、俺はさ、あの姿を見ちまって……いや、これは俺が言うべきことじゃなかった」
風磨は最後に「悪い」と謝罪の言葉を付け足して口を噤んだ。そして、振り返った次の瞬間には、
「んじゃ、帰るわ」
と、もういつもの表情と声色に戻っていた。
「今日は、ありがとな。ほんとに助かった」
「おう。あ、それと月曜日は覚悟しておけよ。一応、俺の方からフォローいておくけどよ」
にったりと含みのある笑みを浮かべ、玄関の取っ手を握る。
ちょうどそのタイミングで、リビングのほうから子猫を腕の中に抱いた天華がやってくる。
「助かるよ」
「気にすんな」
「村瀬くん、今日はありがとうございました」
「いえ、全然」
「にゃあ〜」
「お、子猫もお礼を言ってるんじゃないのか」
「それは素直に嬉しいな」
先ほどの風磨の話によれば、子猫と風磨が接した時間は短かったのだろう。でも、風磨と子猫の間には確かな『想い』のようなものが芽生えているような気がする。少なくても颯太にはそう思えた。
誰しも寂しいとき、辛いとき、泣きたくなるとき、誰かが隣にいてくれるだけで心強いものだ。子猫も颯太と天華が自宅を留守にしたとき、風磨がいてくれたことで押し寄せる孤独感は薄れたに違いない。
たとえ子猫自身にその自覚はなくても、そういうのは感覚で分かり合える。分かち合える。まさに今、子猫が風磨に一鳴きしたのがその証拠なのではないだろうか。
「じゃあ、また、学校で」
最後に風磨が子猫の小さな頭を撫でてから玄関の扉を開いて外へ出ようとした。
「天上さん、僕」
「留守番は任せて」
「助かる」
風磨をマンションの外まで見送りたいと告げる前に天華が首を縦に振って留守番を買って出てくれた。
どこか通じあっているようなやり取り。少しだけむず痒くて、でも、じんわりと心に広がる歓喜。今までに経験したことがない、不思議な心境。
「じゃあ、ちょっといってきます」
「ええ」
玄関の扉を閉め、颯太と風磨は連れ立ってエレベーターへと歩みを進める。
エレベーター前にはすぐに着いた。1階に止まっていたエレベーターを3階のボタンを押して呼び寄せる。20秒もしないうちに上がってくるはずだ。
「思ってたんだけどさ、なんかお前ら、いい感じだよな?」
「奇遇だな。実は僕もそうじゃないかって思っていたところだ」
上昇してきたエレベーターの扉が開き、風磨、颯太の順に乗り込む。
「天上さんと付き合えたら、お前、すげえぞ」
「そりゃあ、あんだけ可愛ければな」
後から乗った颯太が1階のボタンを押したあとすぐに閉ボタンを押す。
1秒後、扉が閉まりはじめ、
「それだけじゃないぞ」
「ん?」
「颯太、お前、実はすげー人と知り合ってんぞ」
そんな風磨の言葉とともに、エレベーターの扉はがちゃりと閉じ切った。




