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弱気でヘタレな王様登場です。
逃げたい。
国王の座につき、賢王と讃えられてもう二十余年。そんなロメオ国王が、凶悪な魔物に出くわした新兵の様に、脇目も振らずに逃げ出したい気分になるのは、この貴族家に関わった時だけである。
彼の前には、ふくふくとした笑顔のラース侯爵。楚々とした控えめな笑顔の娘のエリス。笑顔なのに殺気を隠す気のないエリスの専属執事、ハル。この専属執事は、いつだって殺気を垂れ流しているが、不敬だとか危険だとか言うのも諦めた。いつもの事だからだ。
ラース侯爵家。長年ロメオ王国を支える、有能で稀有な高位の貴族家である。王家の盾になる事もあり、剣として働くこともある。気が向けばだが。
それ以上に、怒らせると何をするか本気で分からない家臣なのだ。王家をつぶす事だって、朝食の卵をゆで卵からスクランブルエッグに変えるぐらい、気軽にやってのけそうだ。家臣なのに。
ラース侯爵家との付き合いのコツは、深入りせず、軽んじず。機嫌を損ねないよう、細心の注意を払いながら利益のお零れをもらう。これに限る。
口の悪い宰相などは、酒場の女との付き合い方と一緒だとか言っていたが、アイツの交友関係はどうなっているのか。若い時分の気分が抜けず、未だに城下の酒場をウロついているのか。いつかアイツの奥方にチクってやろう。
ともかく。ラース侯爵家は、決して手中に収めようとか、意のままに操ろうとか、謀ろうとか考えてはいけない。例え相手が幼子であろうとも、あの家の者ならば、取り扱い注意だ。
そんな事を思いながら、国王は精いっぱい威厳がある風を装って、口を開いた。心臓はバックバクだが、悟られてなるものか。
「ラース侯爵よ。此度の件、ブレインとレイア嬢から、報告は受けたのだが……。さて、その方らは、余に何を望むのだ?」
ラース侯爵家の者に要望を聞くときは、率直に聞くことが望ましい。なんせ彼らの価値観は、一般的な貴族とはかけ離れている。こういった事を望んでいるだろうとか、こうした褒美を喜ぶだろうとか、凡そ、他の貴族が望みそうなことは全く興味を示さない。たまに、本当にそれでいいの? という、ぶっ飛んだ望みを持っている事もあるので、率直に聞くほうが早いし、正確だ。
「そうですねぇ。エリスがベルド殿下の側妃になることは望んでおりませんので、穏便にお断り頂けたらと」
のほほんと話すラース侯爵に、エリスはにこにこ微笑みながら首肯する。その優しい笑顔が怖い。なぜか、背中が冷え冷えとする。
専属執事に至っては、さっさと侯爵の言う通りに働けと言わんばかりの目つきだ。お前がやらないなら、あの国潰すぞと言っているようにも読み取れる。目は口ほどに物を言う。恐ろしい程に分かりやすい。
まあ、この答えは予想していた。ウチの国の王族に嫁ぐのも嫌がるぐらいなのに、ジラーズ王国に嫁ぎたいと思うはずがない。
「そ、そうか。ラース侯爵家を継ぐのはエリス嬢だと決まっているものなぁ。側妃など、困るよなぁ。うん」
貴族の後継は大事な問題だ。色々あって、兄のハリーから妹のエリスに後継を変更したばかりなのだ。これ以上揉めるのは、ラース侯爵家が目立つことになりかねない。
「それと。イジー家の者は、引き続きラース侯爵家に仕えたいと望んでおります。私としましても、彼らの意思を尊重したいのです」
「うんうん、そうであろう。イジー家ほどの忠義者が、今更、長く仕えた主人を変えるなど、不本意であろうよ」
そもそも、あの『静謐の狂気』をはじめとする曲者だらけのイジー家を、ラース家以外がどうやって従わせるというのか。彼らを召し抱えたが最後、あっというまに傀儡にされ、地位も名誉も金も全て奪われ、主従が入れ替わっているだろう。イジー家はラース侯爵家に心酔しているから、大人しく仕えているのだ。誰にでも従順ではないことぐらい、目の前で殺気を飛ばしている狂犬執事を見れば、分かるだろうに。
「ブレイン。ラース侯爵家の意向は分かったな? それで、ベルド殿下はどうお考えなのだ?」
王太子ブレインは、ロメオ王国において、ベルド殿下の公式な世話役だ。次代の国王同士、友好関係を結んでいたほうが将来的には良いだろうと、国王が任命したのだが。自由奔放なベルド殿下に、ブレインは手を焼いている様子だった。
「私も、何度もラース家の現状をお話して、考え直すようにベルド殿下を説得したのですが……。ベルド殿下は、ラース侯爵家への婚姻の申し込みについて、撤回なさるお気持ちは無いようです。逆に、ラース侯爵へ正式に申し込むので、面談の手配をしろと要求されました。出来なければ、自分が直接、ラース侯爵家へ押し掛けると……」
申し訳なさそうに、ブレインが告げると、ラース侯爵家の空気が僅かに変化した。
「まぁ。本当にラブとダフを気に入っていらっしゃるのね。わたくしのようなつまらない女を娶ってまで、仕えさせたいだなんて」
エリスが微笑めば微笑むだけ、周囲の気温が下がっていく様な気がするのは、気のせいだろうか。
「おやおや。ベルド殿下は随分と情熱的ですなぁ。我が家へ押し掛けるなどと」
ラース侯爵は落ち着いた様子で、相変わらずのほほんとしている。否。多分、ラース侯爵はベルドにさっぱりと興味がないのだろう。至極、どうでもよさそうだった。
ハルは、なぜか、懐から取り出した剣を、おもむろに磨きだした。
やたらと大きな、ギザギザした刃の凶悪な剣だ。それをとても清々しい笑顔で磨いている。凛とした美青年が山賊が持っていそうな剣をニコニコと磨いているのは、不気味な事この上なかった。
ハルの凶器を見た見た近衛兵たちがざわざわと動揺する。この執事は、謁見の間に入る前、入念なボディーチェックを受けたはずだ。それなのにどうしてこれほど凶悪な武器を持ち込んでいるのか。一体どこに隠していたのか。近衛兵たちは国王やブレインを守るために、一歩前に出て、臨戦態勢となった。
逆に、国王や王太子の側に控える影たちからは、諦めたような乾いた笑いが漏れていた。これまで何度もラース侯爵家と関わってきた影たちは、彼らの異常性を身をもって理解している。ラース侯爵家に関わる時は、死を覚悟せよというのが影たちの共通認識だ。凶悪な武器を隠し持っていたぐらいで、動揺するはずもない。
むしろ、まだ武器を見せつけているぐらいなら、攻撃よりも威嚇を目的としているのだろうと、警戒を解いたぐらいだった。あの執事が本気で殺る気なら、こっちが構える間もなく魔術で殲滅しているだろう。
緊張する近衛と、弛緩する影たち。どちらを諫めるべきかと、国王は悩んでいた。ハルを咎めるのは、最初から選択肢にない。咎めても無駄だからだ。
「エリス様」
その時、涼やかな声がエリスを呼ばわった。
レイアが、ほんの少し眉を下げて、困り顔を友人に向ける。
「貴女の執事が、陛下の御前で無粋な真似をしているわ」
レイアの言葉に、チラリとエリスがハルに視線を向ける。
「ハル」
その一言だけで、ハルは手にした剣を瞬く間に消し去り、レイアに向かって恭しく頭を下げる。
「これはこれは。私としたことが、女性の前で無粋なものを……。失礼いたしました、レイア様」
なんと。あの狂犬執事が分を弁えた行動をしたばかりか、エリス以外の者に頭を下げた。
国王はそのことに、なんだかとても感動した。
色々と事情があってブレインの妃に選ばれたレイアだったが、国王はレイアを改めて評価をし直した。
レイアはエリスとの仲も良好だと聞いている。あのエリスと友人関係に築けるとは、なんと素晴らしいのか。こうなればなんとしてもブレインに嫁してもらい、ラース侯爵家と王家との架け橋になってもらおう。友人のレイアが間に入れば、少しはエリスとの交渉も楽になる筈だ。ラース侯爵家と穏やかな関係が築ければ、謁見の前日に胃が痛くなることも減るに違いない。なんていい嫁だ。絶対逃がさんぞ。
一方、ブレインはなんだか落ち着かない気持ちだった。
フラれたとはいえ、一度は想いを告げたエリスと、妃候補であるレイアが揃っているのだ。何も悪い事をしているわけではないが、まるで妻と愛人に挟まれた男のような気分だった。しかも、レイアとエリスは友人関係にあるのだ。落ち着けるはずがない。
内実はエリスにもレイアにもなんとも思われていないのに、無駄な心労を抱えているブレインだった。
「とりあえず、一度、ベルド殿下と話をしてみるか。エリス嬢の父であるラース侯爵からハッキリと断られれば、ベルド殿下も潔く諦めるかもしれない。余が、エリス嬢がラース侯爵家の後継であると認めているのだから、妃になるのは無理だと伝えよう。さすがに、それで理解するだろう」
国王がそう気軽に言うが、ブレインとエリスは懐疑的な表情を崩さなかった。
あの頑ななベルドが、そんなに素直に言う事を聞くだろうか。王太子であるブレインが、なんども懇切丁寧に説明したのに、まったく譲歩することがなかったのだ。たとえ父親であるラース侯爵に断られても、国王が口添えをしても、こじれる気がしてならない。
普通はブレインに窘められた時点で、引くべきなのだ。他国に留学している立場で、揉め事など起こすこと自体、ありえない。ベルドがロメオ王国ですべきことは、勉学は別にしても、一番はロメオ王国とジラーズ王国の関係を強固にすることだ。それが分らぬほど、頭が悪いわけでもないだろうに。なぜあれほどイジー家の双子を側近にすることに、固執しているのか。
「陛下。ジラーズ国王に事情をお伝えしてお諫め頂くのはいかがでしょうか」
ブレインが念を入れてそう進言すると、ロメオ国王は頷く。
「そうだな。ベルド殿下と話した後、ジラーズ国王には、事後報告として書簡を送ろうか。まぁ、他国の地でそう無茶をするほど、ベルド殿下も道理の通らぬ方では無かろうが」
そう、楽観的に考えていたことを。ロメオ国王は後ほど、酷く後悔した。
「平凡な令嬢 エリス・ラースの日常」
「平凡な令嬢 エリス・ラースの憂鬱」
の後の作品ですので、先にお読みいただくことを推奨します。
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