9 王様の妻
セレナにとって、これこそが望んでいたことだった。
身体チェックを受けた上で、王の寝室へと向かう。
聖女の勤めは三日間休むことを許された。祈りに力を取られることもない。
眠る王は息も乱れ、もう長くは持たないことが見るだけでわかった。
「王様…」
セレナは王に深々と礼をし、王の眠る寝床にそっと横たわった。
王の左手を取ると、両手で包み込んで自分の額に当て、ただひたすら祈った。
自分の治癒の力が及ぶような簡単な病ではない。しかし、他の全ての祈りをやめ、全力で祈ったなら、少しは…。
ガゼボで手を取ってから、ずっと考えていた。
敬愛する王のために、自分ができること。
それは、自分の命を紡いででも、この良き王をもうしばらく生き長らえさせること。
そして、まだ未熟な王子を導いてくれることを。
どうして王の死後に財産など望むだろう。王こそこの国の財産。この人にこの国の王でいてもらうことこそ、自分の望みなのだ。
他国から逃げてきた自分に、生きる術をくれた人。ずっと宛てもなく逃げ惑い、疲労と空腹で死を覚悟した日々。養護院に保護され、軟らかく煮たかゆを口にしたとき、ようやく生きることを許されたように思えた。
文字や数字を知り、更に学ぼうとする村人を何人も見てきた。計算をごまかされることもなく、文字が読めないからと偽の証文を取られることもない。遠くの人と手紙で想いを伝え、先人の知識を得る。それがどれだけこの国の暮らしを安定させているか。
隣国とも対等で、戦争の気配もなく安心して生きていける。経済も潤い、ひもじい思いをせず、寒さに凍えず、平穏に日々を暮らせる、それを当たり前と思えることこそが夢のようだ。
遠い存在で、ただ感謝するだけの人だった。本当なら自分のような者が手を触れるなど、あってはいけない人。
だけどどうか、もうしばらく。せめて次の王を導く間だけでも…
目覚めた王は驚いた。
自分の目の前に若い女性がいて、同じベッドで横たわっている。自分の左手を両手で包み込んでいるが、その力は弱々しく、少し動かすと簡単にほどけた。
起き上がると、体の調子は良く、痛みも苦しみもない。生死の境をさまよっていたのが嘘のようだ。
この女性に見覚えがあった。しばらく前に会ったことがある。
少し体調が良かった日に庭を散歩していたら、ガゼボでぐっすりと眠っていた、第一王子ヘンリの婚約者だ。
天気も良く、花も咲いていたので、月に一度のお茶会を外でセッティングしたのだろう。その途中で居眠りしたのか、そのまま王子は立ち去り、侍女達も黙って茶会の用具を下げた。誰もこの者を起こすことはなく、屋外に一人取り残されていた。
異様に過密なスケジュールは本人の未熟さを補うためと言われていたが、嫌がらせもあったに違いない。それに食らいついてはいたものの、ずいぶんくたびれているのだろう。
上着を掛けても目は覚めなかった。
少し話をしてみたくなり、そのまま目覚めるのを待った。
あの時の聖女。名は、セレナと言ったか。
どうして自分のベッドで寝ているのかはわからないが、この体調の回復は間違いなくセレナの聖なる力によるものだろう。あのガゼボで施された治癒の後のように、穏やかに力がみなぎっている。
ノックと同時に扉が開き、ゆっくりと顔を向けると、
「へ、…陛下!」
侍女が叫んだ。
ノックをすれど返事が返ってこないのが常になっていたこの部屋で、上半身を起こし、不思議そうに自分を見ている部屋の主人。侍女は涙を流しながら、歓喜の声を上げて人を呼びに行ったが、ドアは開けたままだ。ちゃんと夜着は着ているが、今こうして若い女性と一つのベッドに横たわっている自分を思うと、妙に恥ずかしくなった。
かなり回復しているとは言え、まだ起き上がるには不充分で、自身の背中に枕やクッションを重ねてもらい、何とか上半身を起こしたままの姿勢を保った。隣にはセレナが眠ったままだったが、そのまま眠らせた。
侍従や弟であるクスト、二人の子供ヘンリとリクハルドが駆け付け、自分の回復を涙を流して喜ぶ姿を見て、まだ死ぬには未練が多かったことを改めて感じた。
侍医の診察を受け、体力は落ちているが特に異常は見当たらないと言われた。ただしまだ無理は禁物、と念を押され、当面安静に過ごすことになった。政務を行えるようになるにはまだ日数が必要だが、病を患う前よりも体が軽く感じられ、数日すれば軽い散歩くらいならできそうだ。
自分だけでなく隣に眠るセレナも見てもらったが、最低限の力で細々と生きているような、かといってどこかが悪いということもない状態で、このまま様子を見るしかなかった。セレナが目覚める気配はなく、小さな寝息を立ててはいるが、よく確認しなければ死んでいるのではないかと思わせるほどに顔色も悪く、体温もずいぶん低くなっていた。
「実は、…聖女セレナ殿は、あなた様の奥方となりまして…」
宰相が婚姻の証書と、もう一枚、婚姻終了後の取り決めの証書を見せた。
「ヘンリ殿下と婚約を解消された後、神託を果たすために、セレナ殿自身が王との婚姻を望んだのです」
死にかけの人間と結婚させるとはずいぶんむごいことをすると思ったが、それがセレナ自身の提案だったと聞いてますます訳がわからなかった。遺産目当てですらないのは目の前の証書からもわかる。
セレナを別室に移動させようとする侍従を止め、
「新婚なのだからいいだろう」
と言うと、さすがの侍従も苦笑いをしたが、軽く礼をして王の意向に従った。
王妃の指環を持って来させ、セレナの左の薬指にはめた。若干大きく、目覚めたら別の指環を買い与えることを考えた。自分が選び、ちゃんと指にあったサイズのものを。
子供と同じくらいの年の女性がこうして眠る姿を見るというのも不思議な気がした。
侍医に勧められるまま再度横になり、眠るセレナの髪をゆっくりと撫で、力尽きるまで自分に尽くしてくれた聖女がせめて穏やかな夢を見られることを願った。
眠ったままの妻と三日間を過ごし、四日目。久々にダイニングで食事を済ませて部屋に戻ると、そこにセレナはいなかった。
机の上には王妃の指環が置かれ、その横にあったメモにはたどたどしい字で、
王様、ありがとう
とだけ書かれていた。