14
解かれ、新しく紡がれていく世界の中で二人は向かい合う。
白い空間でたなびく長い金髪が美しく絡み合う中で、金と紺碧の目が互いを映し出す。
「我が美しき花よ」
孤独ゆえに作り出した半身へ妖華は手を伸ばす。幼い顔立ちを慈しむようになぞり、そっと唇に触れた。
柔らかな感触を味わった指先を自らの唇を当て、そっと微笑んだ。
「大儀であった。そなたに褒美をやろう」
不思議そうに首を傾げ、それでも目を離さない紺碧に愛らしさばかりが浮かぶ。
この世の何を犠牲にしても彼女だけは守る。
決して譲れない望みは事実として実行に移された。
「妖華、と。これからはそなたがその名を使うがよい。借り物ではなく、そなたの真の名じゃ」
「でも、それじゃ貴方はどうするの?」
「妾はなくとも困らぬ」
名前を呼ぶものなどそう多くいない。
しかし、彼女は違う。多くに愛され、崇敬を抱かれ、妖界の王として生きていく彼女には名前が必要だ。
「そなたは名無しのままで不便の多かろう」
狭い世界を愛する妖華に対して、彼女は自らの世界を大きく広げ、多くを愛することを選んだ。
ならば、名を持つに相応しいのは自分よりも彼女なのだと。
「貴方の名前が呼べないと私が困るわ。とても寂しい」
紺碧を震わせて、愛らしくそんなことを言うものだから、妖華もまた迷いを顔に映しだす。
彼女を寂しがらせるのは本意ではない。
――姫。
悩む脳裏にふくよかな声が蘇った。
妖華に愛を注ぎ、「姫」と呼ぶ藍髪の青年。彼の姿が浮かんで、ふっと笑みを作った。
「なれば、妾のことは妖姫と。そう呼ぶがいい」
「……妖姫」
可憐な鈴の音が紡いだ新たな名前が耳心地よく滑り込む。
「妖姫、妖姫ね。素敵な名前だわ」
「そなたの力じゃな」
首を傾げて無理解を示す彼女改め妖華に笑みだけを返す。
彼女が名前を音にするたび、そこには言霊が宿る。美しき声音が美しきを運ぶ。
妖姫という名前が自らの中に溶けだして、一体化する感覚。それはとても愛おしく、堪らない心地よさが溢れていく。
「妖姫。貴方と作った国は私が絶対に守り抜くわ」
「無理をするでないぞ。そなたが望めば、妾は必ず力を貸す」
言って、妖姫と名前を改めた女性はその手で妖華の胸に触れる。
「妾は去るのではない。――妾はそなたと一つになるのだから」
先の戦いで妖姫は肉体を失った。けれども、神なる身は魂だけとなっても死ぬことはない。
器を失ったのならば、別のものを器とすればいい。
次の器として妖姫は自らの半身を選んだ。
肉体を失ったとて、愛おしい存在とともに生きられるのであれば妖姫は幸福だった。これから先、孤独を嘆くことはなくなったのだから。
「そなたにも期待しておるぞ、黒き娘よ」
「ありがたきお言葉、感謝します」
妖華の数歩後ろ、邪魔にならないよう息を潜めて立っていた黒い女性が恭しく頭をさげる。
忌々しい邪気から生まれた存在にこのような言葉をかける日が来るとは夢にも思っていなかった。
しかし、彼女が信頼に値する人物であることは知っている。宝である妖華を預けても構わないと思えるくらいに。
「妖華、私もいる。私も力を貸す。私たちで守りましょう」
「オンラ、貴方がいてくれるならとても心強いわ」
これで愛しい妖華も独りきりになることはない。
きっと寂しい思いはするだろう。
きっと悲しい思いはするだろう。
傷つき、心が罅割れても、寄り添う者が近くにいる。それこそ、もっとも大切なことだと妖姫は考える。
「願わくば、そなたの道行きに多くの幸福が降りかかるように」
寂しさの分だけ、愛しさで満ちるように。
悲しみの分だけ、喜びが溢れるように。
願い。そして、妖姫はそっと金の瞳を閉じた。
想い合う二人は向かい合う。
過去が消え、作り直される世界の中でも二人の愛は決して消えることはない。
「春華」
角なしの鬼が不器用に名を紡ぐ。
鋭く他者を拒み続けていたその目は柔らかく、愛おしさだけを映し出している。
「紅鬼」
高い位置にある鬼の目を真っ直ぐに見つめ返して、名は紡がれる。
近付き、抱き合い、絡み合う視線はゆっくりと距離を縮める。
「「愛している」」
同時に開いた唇は同じ言葉を紡いだ。
最後の逢瀬。それでも伝えるべき言葉はこの一言だけ。
余計な言葉は不要。飾らない、剥き出しの愛こそが二人の結びつけるものであった。
距離はさらに近付き、薄く開いた唇を重ねる。言葉を重ねるより、重なり合った唇の方が互いの言葉を深く届ける。
短い永遠の中で奥の奥から溢れ出す愛を伝え合う。
世界がどう変わろうともこの想いだけは決して変わることない、と確かめるように。
「この子のことは私に任せて。何も心配はいらないわ」
膨らんだお腹を慈しむように触れた春華の目には強い覚悟が宿っている。強い、母の顔だ。
「ねぇ、紅鬼。貴方がこの子の名前を考えて」
「そういうことはお前の方が得意だろう?」
「貴方が考えて。貴方に考えてほしいの」
じっと見つめる目に気圧されるように紅鬼は黙して思案する。
名前。大事なものだ。
紅鬼自身、名無しの時期があったからこそ、その大切さは誰よりも知っている。
「……春の、花…薄紅の、小さい……」
「春の? それって桜のこと?」
「ああ、それだ」
春に咲く小さな花。
一人きりで過ごしていた頃、春になるとどこからともなく小さな花弁が迷い込むことがあった。
風に攫われて舞う薄紅の花弁は儚げで、紅鬼は触れることができなかった。
この手で壊してしまいそうと思ったから。
「桜の鬼……櫻鬼、はどうだろうか」
「素敵。素敵だわ、紅鬼」
愛らしい顔立ちの笑顔の花で飾り立て、春華は興奮気味に紅鬼の手を握り締める。
多くにとって恐怖の対象だった紅鬼に彼女は躊躇いもなく触れる。彼女に出会って紅鬼もまた、触れることを恐れなくなった。
「……ずっと、傍にいることはできないけれど……私が死んでも、百万の桜となって貴方を守るわ。……櫻鬼、私たちの愛しい子」
春華は紅鬼の手を握ったまま、自らのお腹に触れる。新しい命が宿ったお腹を。
紅鬼はもう一緒にはいられない。春華も力を使いすぎてしまった。きっと長くは生きられないだろう。
独りになる彼にこの先届けられない愛を、今この場で。
「――もう、いいかの?」
最後の別れを惜しむ二人を邪魔しないよう、距離を取って見守っていた一鬼が問いかける。
老いた響きで彩られた高めの声は消えゆく空間を見て紡がれた。
もう時間はない。世界は新しく作り直され、始まる。
「お主らの子は我に任せるがよい。老いた身であれど、お主らよりも長く生きるつもりではあるからの」
幼い見た目で老いた身など言われると冗談にしか聞こえない。
小鬼という種族特有の小柄さであり、実際は紅鬼よりも、春華よりも、どの鬼よりも長生きなのだが。
「翁がいてくれるなら心強いわ」
「子供の相手なぞ、まともにしたことはないから自信はないがのぅ」
「……一鬼なら大丈夫だろう」
低い声が紡いだ言葉に春華と一鬼は揃って目を丸くする。
やがて一鬼はその大きな目を柔らかく細めた。
「そうか、そうか。お主にそう言われたら頑張らねばいかんなあ」
幼い顔立ちに好々爺の表情を浮かべる一鬼。
なんとなく気恥ずかしさが勝ち、紅鬼はそっと視線を外した。
「なに、お主らができぬ永遠を我が過ごしてやるさ」
もっとも信頼している人物からの心強い言葉を受け取り、そっと笑みを作る。
不器用な笑みばかり浮かべる紅鬼にしては珍しい、温かみのある優しい笑顔だった。
春華がいる。一鬼がいる。他の鬼たちもいる。ならば、心配はない。
そう思って、紅鬼はそっと紅の瞳を閉じた。
そこにいるのは不思議な関係性の二人だった。
魂を分かち合った半身でもなければ、想い合った恋人同士でもない。はたまた友人でも家族でもない。
敢えて言葉にするとしたら腐れ縁、良い言い方をするなら相棒といったところか。
「終わりましたね」
「ああ。そして始まる」
ぽつりと呟けば、彼は青銀の髪を風に遊ばせながら返した。
神威にとって彼がどういう存在か。改めて考えるとちょうどいい言葉が見つからない。
その見つからない答えこそが正解なのだと、そう思う。
「お前は何を残すんだ?」
問いかけの意味を確かめるように神威は彼を見た。
文句を言いながら、今日まで神威を導いてくれた青年を。
「姫さんは妖だけの国を。鬼は自らの子供が生きてく家を。なら、お前は何を残す?」
「私には残したいと思うものはありません」
それだけ執着できるものを、唯一と呼べるものを神威は持っていない。
何故なら神威の中には前の世界への未練も、次の世界への期待も存在していないから。そこまで考えて、目の前に立つ青年を見た。
神威という名を与え、空っぽの自分を導いた青年、ヤツブサを。
彼は何も求めていない。それでも問いかけた意味はきっとあって。
「ヤツブサ」
銀の光をまとうその手を彼へ差し出す。
変わらず真っ直ぐに向けられるその目が訝しるように顰められ、
「これを貴方に」
言葉少なにそう示せば、ヤツブサは大きく息を吐き出した。深い溜め息は差し出したものに対する明確な拒絶だ。
「餞別にってか?」
「姫にも一部を渡しました。これは――」
「未来を紡ぐ本。言われなくても分かってるっつの」
不機嫌を態度に現したヤツブサは銀の光を手に取る素振りもなく、ただ神威を見つめる。
「俺とお前の間にこんなもん必要ねぇだろ」
いつだってその目は逸らされない。真っ直ぐに見据える目が求めるものを神威は一度として考えたことがなかった。考える必要がなかったから。
今、別れの言葉でヤツブサは一体何を求めているのだろう。
初めて考えることの答えは見つけ出せない。
「……お前、器はどうするんだ?」
「器?」
突然降られた話題に首を傾げる。らしいその姿に深く息を吐き出してヤツブサは口を開く。
「魂は残った。でも、肉体は失った。お前がこの世に干渉するには媒介が必要になる」
この先のこと、自分自身のことすら考えてこなかった神威はいつものようにヤツブサの言葉に耳を傾ける。
「姫は半身を器にするだろうさ。鬼の奴だって用意はしてるはずだ。お前はどうするんだ?」
「決めていません」
「だろうな。お前らしい」
呆れを滲ませた態度はいつものヤツブサらしい。なんとなく安心した。
「私は宿主を得ようと思いません。誰かと共にすること、私の性には合わないかと」
器を選べば、その者の一生を共にすることになる。
今までマイペースに生きてきた神威には想像できない代物だ。
強制されればやる。ヤツブサが言えば、そうなっても構わないとすら思っている。
けれど、自ら積極邸に誰かと同じ時間を歩もうなんて思えない。
「器を作ってまで世に干渉する気もありませんから」
新しく作られる世界に興味などない。
たとえ、肉体を失い、魂だけで暗闇を彷徨うことになっても、神威は一向に構わないのだ。
「ただ、器が必要だと言うのであれば――ヤツブサ、貴方が」
「却下。それこそ、俺の性に合わねぇ」
簡潔に断られ、神威は瞬きを一つ。
「では、死後の肉体を使わせてもらいましょう」
「そりゃあいい。んじゃ、俺はお前の肉体になる奴をのんびり見守ることにするか」
神威の言葉から自らの方針を決めるヤツブサは一歩下がった。
それが別れの意思表示だということは言われなくても理解できた。
不思議な気持ちだ。悲しいとも、寂しいとも思わない。
ただ常に傍にいた存在とこれからは別々の場で生きていくことになる。そう考えると形容しがたい感情が込み上げてくる。
ああ。これがもしかすると寂しいという感情なのかもしれない。
「神威」
距離を取ったヤツブサが変わらない表情で見ている。
「ほらよ」
その掌から放たれた何かが宙を舞う。きらきらと見覚えのある輝きを危なげなく自身の手の上に収め、神威はわずかに目を見開いた。
「いいんですか」
「俺のこと、忘れられたら困るからな」
青銀の鱗が神威の手の中できらめいている。
最後の龍の鱗。ヤツブサがずっと身に着けていたものだ。
「大切にしろよ」
「はい」
確かめるように鱗を握り締める。もう寂しさは込み上げてこなかった。
過去に思い馳せることも、未来を希うこともなく、ただありのままで神威は立っている。
流れる水のごとく。それが神威の在り方だ。
「ヤツブサ。後はお願いします」
抽象的とも取れる短い言葉を受け取り、ヤツブサは小さく笑った。神威もまた微笑を返し、そっと銀の瞳を閉じた。