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何の前触れもなく、唐突に、それは生まれた。
美しい金の花弁で身体を彩る、それは金色の花だった。
世界中、どこを探してもそれ以上に美しい花など見つかりはしないだろう。そう思わせるほどの神秘的な空気をまとう花。
圧倒的だった。圧倒的なまでに美しく、その美しさを描き示すことはきっと誰にも出来はしない。
花が生まれたのは辺鄙な森の中であった。
周囲には多くの草木が溢れ、花の誕生を祝福するように揺れている。
自らを祝福する小さな存在たちを、花は守りたいと願った。
その願いに応えるように金の光はどこまでも溢れて、森の中を美しく舞い散る。輝く光で周囲を満たしながら、花は自分だけの楽園を作り上げた。
力の余波を受けた小さな存在たちもまた、花のために美しく成長していく。
そこは、多くが想像するような理想郷そのものだった。
天国。理想郷。ユートピア。その中心に君臨する華はいつしか『妖しの華』、妖華と呼ばれるようになった。
「幾重にも美しきが集まろうとも、心すべてを満たすことは叶わぬものじゃな」
花々が咲き誇るそんな世界で独り、妖華と呼ばれる女がぽつりと呟く。
かつて金色の花であった存在は、気付けば人の形を取るようになっていた。
意識したわけでもなく形作られたその姿。かつての花弁と同じ、金色の髪を長く長く伸ばした美しい女性の姿だ。
花園の中に彼女以外の人影は存在しない。当然のことながら、花々も草木も話し相手としては不足。
美しきを愛でるのは悪くない。けれど、永遠を保証されたその身に、ただ繰り返す日々は物足りない。
独りは寂しい。
金に縁取られる瞼が震え、永遠の孤独を心が嘆く。
ならば、と妖華は自分の魂を切り分けた。自分と同じく永遠を生きる存在として、魂と血を分けた存在を創り出したのだ。
そうして生まれたのはかつての妖華と同じ、美しい金色の花であった。
「美しき我が半身よ。妾の退屈しのぎになるがよい」
「喜んで」
独りきりだった世界は二人きりとなった。
金の花は美しい少女の姿をしていた。長い髪は同じ金で、その目は澄み渡る紺碧だ。
「そなたの瞳は美しい。まるで、空を写し取ったようじゃな」
自分とは違うその瞳は妖華のお気に入りだった。
「貴方の瞳も綺麗で、私は好きよ」
欲というのは際限のないもので、次から次へと湧いて出てくる。なんて話を聞くが、妖華の心は美しい二人きりの世界で充分に満たされていた。
花園の中心で妖華は悠久の時間を過ごす。その横で退屈を紛らわすように少女が様々なものを持ってくるのだ。
妖華の代わりに外の世界に触れて、知らない話を楽しげに話す。
それだけで完結した日々に、それ以上を望むことはなかった。
「ねぇ、妖華」
外へ出かけていた少女が名前を呼ぶ。
空を写し取ったような紺碧の瞳はどこか迷うように揺れている。
「迷子を見つけたの」
選ぶように紡がれた言葉に眉根を寄せた。
迷子。この花園に迷い込むものが時々現れる。
その美しさに誘われ、足を踏み入れたが最後、帰り道を失ったものを元の場所に戻す。それも彼女の役目で会った。
花園で彷徨い、死して養分となるのであれば構わないというのが妖華の考え。しかし、心優しい彼女はきちんと迷い子を元の場所へ帰すのだ。
妖華は自分にとって大切なものだけを大切にする。
少女は誰かの大切を大切にできる人物なのだ。
「迷子であれば、いつものように帰せばよいじゃろう」
「それは、そう、なんだけど……ええとね」
何やら歯切れの悪い少女の姿にますます眉根を寄せる。
「帰る場所がないって、そう言ってて」
「捨てられたということか。哀れなことじゃな」
見ず知らずの誰かが捨てられようとも妖華にはどうでもいいことだ。
捨てられた先がこの花園だというのであれば、少々物申したいところもあるが。
「あのね。その子たち、ここに置いててもいいかなって。ほら、帰る場所がないなんて可哀想だし」
「そなたの優しさは美徳じゃが、無闇な同情はかえって他者を傷付けるぞ」
「分かってるわ。でも……」
「……はぁ。その者らを連れてくるがよい」
引き下がる気のない少女に息を吐く。
ぱっと晴れる顔を見て、仕方がないと考えてしまうくらいに妖華は少女を愛していた。
間もなくして少女は黒い靄とともに再び姿を現した。姿かたちすら曖昧なその存在を見て、妖華はつい、と目を細める。
「邪気か」
この花園は陽の気で満ち溢れた神聖な場所だ。
穢れたものは何も入れないように結界を張った。妖華の力は大切なものを守るためのもので、そう簡単に入れるようなものではない。
邪気の塊は迷い子とは違う。どう足掻いても結界内に入って来られるものではないのだ。
「結界に齟齬があったか、あるいは……」
この世を創った白き存在が悪戯に紛れ込ませたか。
ただの邪気以上に濃度の高いそれは自然発生するようなものではない。
「どこから入ってきた?」
「……ワカ、ラ、ナ……イ」
不愉快な音が辛うじて言葉を成しているのが聞こえた。
よくもまあ、少女はこんなものと会話をしたものだと頭の隅で考える。
「ココ、ニイタ。……ウ、マ、レタ」
「生まれた? ここでか?」
「ソ、ウ」
肯定を聞き入れて思案する。
ここで生まれた。この花園で生まれた。
陽の気で満ち溢れ、美しさだけを詰め込んだこの花園で。
とても信じられる話ではないが、邪気の塊に嘘を吐けるほどの知恵があるとも思えない。
単なる勘違いで終わらせるほど愚かでもない妖華はそっと邪気の塊へ手を伸ばした。
「動くな」
短い言葉だけ言って、触れる。チャンスを得たと蠢く靄に不機嫌を宿し、触れた感触を確かめることに集中する。
「妖華?」
不安げに揺れるのは紺碧の瞳だ。
何よりも愛おしい存在の視線を受けながら、十数秒ほどかけたのちに妖華はその手を引き抜いた。
黒く染まった白い肌。不愉快そうに手を振れば、おぞましい黒は宙に散っていく。
「ここで生まれたという言葉に嘘はないようじゃな」
塊に触れたその手は確かに花園の気配を感じ取った。
妖華だけは絶対に間違いはしない、美しく清廉な空気。その残滓。
「この花園は妾と、美しき花の楽園じゃ。されど、それ以外が存在せぬ場所でもない」
例えば、花々に惹かれた動物や虫。
例えば、時より迷い込む者たち。
妖華と少女はその身に邪気を宿らせていない。しかし、生き物というものは多かれ少なかれ邪気を持って生まれてくるものだ。
何より、妖華の身体は、陽に傾いたその身体は邪気を寄せ付けやすい。
「ささやかな邪気が集い、こうして形を成したというわけか」
花園へ訪れた者たちから。そして外を出歩く少女にくっついて中へ侵入した邪気たち。
結界を通った時点で悪しきものは少女から弾かれる。だから二人は気付かず、少しずつ邪気は大きく濃く成長していったのだ。
そのまま花園を侵すことができたならよかった。けれど、妖華の力で守られているこの空間は邪気の塊程度がどうこうできるものではない。
逆に自分自身の方が、妖華の霊力に当てられてしまったのだ。
そうして結果的に生まれたのが目の前にある存在。邪気の塊でありながら、他者を害することのない、触れさえしなければ無害な存在だ。
「無関心であった妾にも責任の一端はある。此度だけの特例じゃ」
尊大にそう言って、妖華は再び邪気の塊へ手を伸ばす。今度は触れるのではない。
指先へと集まった霊力を黒い靄へ注ぐ。不安定で、不確かで、あやふやで、茫然としたその存在へ。
黒と、美しき金色の光が複雑に絡み、混ざり、そして一つになっていく。
朧げな意識を確かなものに、曖昧な形を明瞭に変えていく。
黒き塊はやがて二つに分かたれた。それぞれ別々に、新たな存在として生まれる。
一人は青年だ。浅黒い肌と、黒い髪を持つ精悍な青年。その瞳は深淵を映し出すような闇色をしていた。
一人は少女だ。青年と同じ肌と髪を隠すように黒いベールを纏っている。闇色の瞳はどこか憂いを帯びていた。
色鮮やかな世界に闇そのもののような存在が降り立っていた。
「名は我が花につけてもらうがよい」
「もう妖華ったら肝心なところで人任せなんだから」
「名付けは妾よりそなたの方が得意であろう?」
呆れたような、他の人では絶対に許されない態度を取る少女を前に、妖華は笑みすらもって答える。
「うーん、そうね」
闇を象徴するような男女。邪気から生まれた存在を見た少女は悩ましい声を零す。
それを二対の黒瞳は見つめるばかりだ。
「じゃあ……貴方はオンモ、貴方はオンラね」
ようやく捻り出したその名前を聞き、黒き二人は恭しく頭を垂れる。
「この姿だけではなく、名前まで与えてくださり感謝いたします」
「この命、お二人と我が半身のために使うと誓いましょう」
そうして二人だけの世界に新たな住人が加わった。邪気から生まれたその存在は、花園に集い生まれる邪気たちを管理する役目を与えられた。
同じ失態を繰り返さないための保険だ。
「妖華と二人きりも悪くなかったけれど、こうして賑やかなのもいいわね」
「私たちはあまりに賑やかな性質じゃない。騒ぐのは苦手。でも騒いだ方がいいかしら?」
「言葉の綾よ。人が増えただけで少し賑やかになった気がするの」
「そういうもの?」
少女はすぐにオンラとオンモと友人となった。堅苦しいのは嫌いだと敬語を使うのを止めさせ、対等な関係として触れ合った。
妖華が三人の交流に関して口を挟むことはなく、少女のしたいようにさせていた。
「ねえ、妖華」
住人が増えても、二人で言葉を交わす時間は尊いものだ。少女の美しい声が鼓膜を震わせるだけで妖華の心は弾む。
友人はできても、少女は妖華と語らう時間を忘れない。むしろ昔以上に妖華を楽しませるための話を持ってきてくれる。
「世界には居場所のない存在がたくさんいる。誰にも交われない存在、それは妖と言うんですって」
この世には様々な種族が溢れている。一番多いのは人間。森で潜むように暮らしている鬼たち。人の言葉を話す狼なんてものもいるらしい。
もっと遠くにいけば吸血鬼と呼ばれる種族や、精霊なんてのもいるらしい。
そのどれにも属さず、居場所もなく揺蕩う存在こそが妖。
妖しの華と呼ばれた妖華もまた、種族的には妖に当てはまる。
だからこそ、少女は思ったのだ。
「この花園を妖たちの居場所にしない? 居場所のない彼らの帰る場所になってあげたいの」
「それがどういう意味が分かっておるのか?」
妖たちの居場所を作る。つまり、この楽園が失われるということだ。
美しいものを汚すのにもっとも簡単な方法がある。それは、多くの手に触れさせることだ。
住人が増えれば増えるほど、美しさを保つのは難しくなる。妖華にはそれが耐えられない。
名も顔も知らない誰かのために、もっと言うなら愛しい半身以外のために砕く心など持ち合わせていないのだ。
「分かっているわ。でも私は、ここを私たちだけの場所にするのは勿体ないと思うの」
肝心なところで少女は頑固だった。決して譲らないと語る紺碧の目は懇願するように妖華を見ている。
「貴方の力は守るためのものでしょう?」
それはとんでもない殺し文句だった。
守るための力。万物を守る力。
異端として生まれ落ちた妖華が奪った、神の力。
大事なものを守れればそれでいい。けれど、それはただ大事なものだけを守ればいいなんて単純な話でもなかった。
真に大事なものを守るには、相手が大事にしているものも守らなければならない。
「相分かった。この地を居場所なきものの帰る場所としよう」
「ありがとう! 愛してるわ!」
そうして後の世で妖界と呼ばれるようになる国は始まったのだった。
「住人が増えれば邪気も増えよう。そなたたちにも役目を与える」
花園の中で生まれ、妖華の手で形を定められた黒き存在へ。
恭しく頭を垂れる二人は続く言葉を待つ。
「この花園内の邪気の管理をそなたたちに任せる。あれの信頼を裏切らぬようにな」
「この命に代えましても、与えられた役目を全うすることを誓います」
この地の王として君臨するのは妖華の名を借りた少女。
その裏で必然的に溢れる邪気を管理するのはオンラ。オンモはそのサポート役であり、汚れ仕事を担った。
そして妖華は今まで通りに美しい花園を維持することに力を注いだ。
一人きりだった花園は、魂を分けた花を生み出して二人になり、迷い込んだものに居場所を与えて四人となった。
そして、王たる少女が導き、噂を聞きつけた者が訪れて、国と呼べるほど大きくなった。
「ふむ」
雑音が増えた世界で妖華はふと感じ取った気配に瞬きをする。異端の気配、自分と同じ。
興味を持った。自分と同じ存在など今まで魂を分けた少女しかいなかったから。
今の今まで花園から一歩も出ることのなかった妖華は、その日初めて外へ足を踏み出したのだった。