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海の絵  作者: 上原直也
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海辺の近くの空き地に車を駐車して、わたしたちは歩いて浜辺に向かった。途中にある自動販売機でわたしたちは缶ジュースを買った。


 訪れた浜辺に人影はなかった。まるで世界中から忘れ去られてしまったかのようにその浜辺はひっそりと静まり返っていた。


 わたしたちは波打ち際まで歩いていって、そこに立って何をするということもなく寄せては返す波を見つめた。強い風が吹いていて、わたしの長く伸ばした髪の毛を靡かせていった。わたしは軽く瞳を閉じて、少しのあいだそのままでいた。耳元を吹きすぎていく風の音は、どこか知らない遠く外国の、失われてしまったものを忍ぶ儚げな歌声のようにも聞こえた。閉じていた瞼を開くと、海の青が、とても濃く感じられた。


 わたしたちは砂浜に適当に腰を下ろすと、さっき買ったばかりの缶ジュースを飲みながらたわいもない話をした。高校のときの誰々が今どうしているだとか、最近流行っているドラマや、芸能人のこと。そんなことを思いつくままに話した。



 葛岡くんが歩美のことを口にしたのは、それからだいぶ経ってからだった。ふと会話が途切れてしまったあと、葛岡くんは、

「・・・どうして歩美は俺に何も相談してくれなかったんだろうな」

 と、ポツリと言った。それはわたしに向かって話しかけているというよりも、自分の心のなかの声をなんとなく口にしてみただけといった感じがあった。


「もし、相談してくれてばさ、もうちょっと違う選択肢だってあったんじゃないかって思うんだけどな」

 わたしが黙っていると、葛岡くんは更に続けて言った。

「歩美のために何かできたとかどうかはわからないけどさ、でも、少なくとも話を聞いてあげることくらいはできたと思うし・・・そうすれば、何かしら解決策だって見つけられたかもしれないって思うんだけど」



 わたしは缶ジュースを一口口に含んだ。歩美がひとりで悩んでいたことを知ったのは、わたしも歩美が死んでしまってからだった。歩美とわたしは親友だったはずなのに、少なくともわたしはそう思っていたのに、歩美はわたしに一言も相談してくれなかった。


「・・・だげと、たぶん、歩美は」

 と、わたしは缶ジュースの蓋の上あたりに視線を落としながらゆっくりとした口調で言った。


「わたしたちに自分の弱いところを見せたくなかったんじゃないかな。歩美ってわりと強がりなところがあったし、自分で全部抱え込んじゃうようなところがあったから」


 葛岡くんはわたしの言ったことについて少しのあいだ黙って何か考えている様子でいたけれど、やがて、

「でもさ」

 と、納得できないように言った。


「もうちょっと俺のこと信用してくれても良かったのにって思うけどな・・・だって、仮にも俺たちつきあってたんだしさ、恋人っていうのはそういうためにあるんじゃないかって思うんだけど・・・困ったときとか弱ったときに助け合うために・・・」


「・・・そうだげと」

 と、わたしは頷いてから言葉を続けた。


「でも、その前に歩美は葛岡くんのことが好きで、その好きなひとに、自分の暗いところとか、弱い部分をさらけ出したくなかったんじゃないかな。きっと。・・・もし自分が悩んでいることを話したら、葛岡くんに嫌われちゃうんじゃないかって、歩美は怖かったんだよ。たぶん」


「・・・そんなことで、俺は歩美のこと嫌いになったりしないのにな」

 と、葛岡くんは不満そうに小さな声で言った。


 それから沈黙が訪れて、その訪れた沈黙のなかにいくつもの波の音が吸い込まれていった。


吸い込まれていった波の音は沈黙のなかで出口を求めてもがいているような感じがした。でも、出口は見つからずに、ただあとからあとから次の波の音が吸い込まれていく・・・そんなことを、わたしは波の音に耳を傾けながら想像した。


 わたしはふと思いついて立ち上がると、波打ち際まで歩いていった。そしてその場にしゃがみこむと、足元に静かに広がっていく海の水に手で軽く触れてみた。手に触れた水は思いのほか冷たかった。見ていると、海の水のなかに、自分の指先が溶けていくような感じがした。


「・・・歩美はさ、一体何を思って、この浜辺を絵に描いたんだろうね」

 と、わたしは自分の指先に視線を落としながら、誰に向かって問いかけるでもなく言った。


「ただ哀しくて、行き詰って、この海を絵に描いたのかな。それともこの海に、希望とか、救いを求めて描いたのかな」


 そう言ったわたしの科白に返事はなかった。ただ勢いよく打ち寄せてきた海の水がわたしの足元を洗っていっただけだった。



「・・・きっと、救いを求めて描いたんじゃないかな」

 いくらかの沈黙のあと、ふいに、となりから声が響いた。


 振り向いてみると、いつの間に移動したのか、葛岡くんがわたしのとなりに座っていた。葛岡くんは両手の掌で海の水を掬うと、その掌のなかに溜まった、透明な海の水を見つめた。葛岡くんの瞳のなかにはその海の水の色彩が淡く溶け込んでいた。


「・・・アイツにとって絵は、美しいものや、綺麗なもの、自分の好きなものを描く場所だったと思うんだ・・・だから、哀しくて、行き詰って描いたんじゃないと思う。・・・もっとたぶん、願いとか、祈りとかを込めてこの海を絵に描いたんじゃないかな・・結局、アイツ自身は、希望とかそういうものを見つけられなかったのかもしれないけど」


 わたしは葛岡くんの言葉に耳を傾けながら、歩美の描いた海の絵を思い浮かべてみた。



「だけど、俺も最近、歩美が死んじゃった気持ち、少しはわかる気がする」

 少し経ってから、葛岡くんは静かな口調で言った。


「歩美とはまた全然悩みの次元が違うのかもしれないけど、それでも、ときどき、生きていることが嫌になったりすることがあって・・・上手くいかないこととか、嫌なことが結構たくさんあったりして・・・だから、もちろん、本気そう思うわけじゃないけど、もういいかなって、死んでもいいかなって、投げやりな気持ちになったりすることがあるかな」


「・・・そっか」

 と、わたしは葛岡くんの言葉に頷いた。葛岡くんがそんなふうに思ったりすることがあるなんて少し意外に思った。でも、葛岡くんが言っていることの意味はよくわかる気がした。


 わたしも葛岡くんと似たような想いに捕らわれることはよくあった。大して才能もないのに絵なんて描いてどうするんだろうとか、将来のこととか、生きていくことの難しさや、厳しさを思うと、思わずそこから逃げ出したくなるような気持ちになることはあった。



「でもさ、そういうとき、俺、歩美が最後に描いた絵を思い出すんだよね」

 少し間をあけてから、葛岡くんは穏やかな口調で言った。わたしが振り向いて葛岡くんの横顔に視線を向けてみると、葛岡くんは更に続けて言った。



「・・・そういうとき、歩美の描いた絵を見てると、少しだけ気持ちが楽になる気がする・・・歩美か死んじゃったことを思い出して哀しくなるはずなのに、でも、その絵を見ていると、不思議と慰められるような気もして・・・きっとそれはたぶん、あの絵のなかには歩美の優しい気持ちも混ざり込んでるからだと思うんだけど」



 確かに歩美の描いた絵は見ていてただ哀しくなるだけじゃなくて、どこかその哀しみをやわかく包み込んでいってくれるような穏やかさもあった気がした。


 きっとたぶん、歩美は最後まで信じようとしていたのだとわたし思った。希望や救いがこの世界のどこかにはあると彼女は信じようとした、信じたかったのだ、と、わたしは感じた。あの絵は、彼女が最後に描いた絵は、彼女にとって祈りのようなものだったのかもしれないな、と、わたしは思った。だから、わたしたちは彼女の絵を見ていると、哀しくなるのと同時に、少し、優しい気持ちにもなれるのだとわたしは想像した。







 わたしはそれまで座っていた状態から立ち上がると、目の前に広がっていく海を見つめた。曇り空の映しこんだ海の色はくすんだ鈍い青色をしていた。それでも海の色は青くて、その海の青は、ずっと遠くの向こうの方まで広がっていた。


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