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「・・・海を見てるとさ、俺、いつも歩美の描いた絵を思い出すんだよね」
いくらか長い沈黙のあとで、葛岡くんは口を開くとポツリと言った。
わたしは窓の外に向けていた視線を葛岡くんの顔に戻した。
「西川さん、歩美が最後に描いた絵、覚えてる?海の絵なんだけど」
「覚えてるよ」
と、わたしは即答した。その絵のことを忘れるはずがなかった。
「・・・あの絵って、すごく綺麗な絵なのに、どうして見てると哀しくなっちゃうんだろうなって思う。・・・俺、その絵、歩美が死んだあとに、形見みたいな感じでもらって、だから、今でもときどき見たりするんだけど」
葛岡くんはそう言うと、眼差しを伏せて少しのあいだ黙っていた。きっとたぶん歩美が最後に描いたその絵のことを思い出しているのだろうとわたしは想像した。
やがて、葛岡くんは伏せていた眼差しをあげると、
「・・・きっとたぶん、アイツが死んじゃったから、だからそれで観てると哀しくなるっていうのもあるんだろうけど、」
と、葛岡くんは考えながら話すようにゆっくりとした口調で続けた。
「でも、それだけじゃなくて、あの絵には、綺麗なものに哀しみが混ざりこんでる感じがするんだよな」
「綺麗なものに哀しみが混ざりこんでる・・・」
わたしは小さな声で葛岡くんが口にした言葉を反芻した。
「そう。ただ一目観ただけで、その絵から冷たく透き通った風みたいなものが目の中に流れ込んでくるって言うか・・・とにかく、上手く言えないんだけど、あの絵を観てると、色々考えさせられるんだよね」
わたしは歩美が最後に描いたその絵の思い浮かべてみた。
手前に白くて美しい一輪の花が描かれていて、その奥に、砂浜と、その向こうに広がっていく海が描かれている。淡い色合いの、透明感のある、とても繊細で静かな感じのする絵だった。特別大胆な工夫がされているわけではないので、観るひとによっては退屈に感じられてしまうのかもしれないけれど、でも、わたしは歩美の描いたその絵が好きだった。
葛岡くんが言った通り、その絵は一目観た瞬間に、その絵の淡い、どこか喪失感のある青が、風のように心のなかに吹き込んでくるような印象があった。
「・・・たぶんだけど」
と、わたしはちょっと迷ってから口を開いた。
「綺麗過ぎるから哀しくなるんじゃないかな」
と、わたしは言った。
「わたしも上手く言えないんだけど、綺麗過ぎるものって、ひとの心を哀しくさせてしまうような気がする。
・・・世の中ってさ、結構汚いこととか醜いこととか一杯あったりするじゃん。いじめとか差別とか貧困とか・・・そういうどうしようもないこと。
でも、歩美の絵にはそういう不純なものがひとつもないからさ、だから観てると哀しくなるのかなって思う。どこか遠い憧れの世界を見てるような、手を伸ばしても伸ばして届かない何かみたいな・・諦念っていうのかな、そんな感じ」
「・・・なるほどね」
と、葛岡くんはわたしの意見に考え込むような表情を浮かべて頷いた。そしてちょっとのあいだ黙っていたけれど、やがて、
「だけど、確かに、歩美って綺麗なものが好きだったもんな」
と、納得したように言った。
「海とか、花とかそういうの・・・」
「うん」
と、わたしは頷いてから、
「歩美はそういう綺麗なものばっかり絵に描いてた気がする」
と、わたしは歩美の微笑んでいる顔を思い浮かべながら微笑して言った。
葛岡くんはわたしの笑顔に誘われるようにして微かに口元を綻ばせると、それからふと誰かの声が聞こえたように窓の外に視線を向けた。わたしも窓の外に視線を向けてみた。すると、そこには海が見えていた。暗い空の色素が溶け込んだ海は、とても孤独な寂しい色をしていた。