1-3 ハッカーの忠告
昨日、メールが来た。
『明日の深夜の一時に会いに行くね』
送信者はレモンブラック。ネットで最近話題になっているハッカーだ。どんな人間であるのか誰も知らないし、目的も解らない。個人であるか団体であるか、それも解らない。ハッカーといっても単なる愉快犯ではない。情報局の局員である桐野はそう思っている。桐野は最近のレモンブラックの行動を箇条書きにして、それを眺めていた。違法なファイル交換ソフトの無効化。詐欺まがいの会社が保有するサーバへの攻撃。政治家の汚職の公表。
「正義の味方きどりか・・・」桐野はつぶやいた。
蛍光灯は桐野の席の上だけが光っている。土曜日というのもあってか、情報局のフロアには桐野しかいない。薄暗い雰囲気。桐野のパソコンだけが強く光っている。パソコンはネットワークに接続されていて、キーボードに触るとき、そこからつながっている広い世界を感じる。桐野はパソコンを単なる道具として捉えているが、伝達されるものは情報から感情にシフトしているよう感じていた。しかし桐野はネットワークを通じて感情を伝達しようとは思った事がない。自分はもう古い人間なのか、と三十才になったばかりの桐野はそう思う。なぜネットワークに感情を押し付けるのか。SNSやボイスチャットにおいて、現実の世界では行われないような激論が繰り返されている。桐野は情報局の仕事をするまではそういったネットワークの特徴を『気持ち悪い』と思っていた。しかし、今の自分の仕事と照らし合わせてみると、もちろん『気持ち悪い』などと言って足蹴にしてはられない。レモンブラックが仮にそういった『気持ち悪い』存在だとしても、チャンスがあるならば会話しなくてはならない。そして情報を取得しなくてはならない。そう考えるとやはり、桐野は自分自身がネットワークを情報取得のための道具としか思っていない事に改めて気付く。
腕時計を見た。時刻は夜の12時56分。あと4分で約束の時間になる。メールには『会いに行くね』と書いてあったが、具体的に『どのSNSで』とか『どのアプリで』とかそういった事を全く決めていない。決められているのは時間だけ・・・どうやって会えばよいのか、桐野には解らなかった。とりあえずパソコンは立ちあげている。スマホも数分おきにチェックしている。メールでも来るのではないか、そう思っていた。しかし新着メールは来ていない。
「どうしろって言うんだ」と、ため息混じりに小声が漏れた。椅子に深く寄りかかり、
「ふぅ」
またため息を一つ・・・ふと目に紙の束が映る。
「これでも読んどくか・・・」
机のわきに置いていたレモンブラックの資料。その中にはFBIの資料もあった。レモンブラックは海外サイトを何件か攻撃したためにFBIの対ハッカーの捜査官が調べたようだ。その出だしはこうだ。
『他と似ないクラッキング、レモンブラックは単独犯と考えるべき』
桐野も同じように考えていた。普通、サーバを攻撃する場合はパスワードなどを入手してサーバに入り込むのが一般的だが、レモンブラックの攻撃は違っていた。攻撃の対象となるサーバと物理的に近い位置にあるサーバをのっとり、そのサーバから攻撃の対象となるサーバに対し、ネットワークを通じて無意味な通信を大量に送る。そうする事で通信網に負荷をかけ、攻撃の対象となるサーバの情報伝達を不安定にさせる。レモンブラックが行っている方法ならば、侵入できないサーバであったとしてもいつでも攻撃できる。だからFBIも警戒しているのだろう。レモンブラックは何らかのソフトウェアでサーバを攻撃しているのだが、そういったソフトがネットで流出しているわけでもなく、やはりレモンブラックは単独犯だと考えるのが妥当なのかもしれない。
桐野はレモンブラックの資料の続きを読んだ。
『IQ200以上。日本人。男性。大卒。20代後半から30代前半の技師。必ずしも情報セキュリティを専門にしているとは言い切れない。短気だが、対人では臆病な人間かもしれない。所得は普通か、やや高いか。身なりなどはあまり気にしない人格』
どうもアメリカのこういった資料はプロファイリング的な記述が多く、レモンブラックの人となりを予想している。何を根拠にして予想しているのか解らないが、その内のいくつかは共感できるものもあった。その単語を赤のボールペンで丸を書いた。
『単独犯』『IQ200以上』『日本人』
逆に言えば、それ以外の部分はあまり共感できなかった。FBIの資料は一般的なハッカーの傾向を書いているだけで、レモンブラックの特徴を捕らえていない。
時計を見ると既に午前一時から20分すぎていた。桐野は資料を読みながらメーラーの『送受信』ボタンを五分くらいの間隔でクリックしていたが、結局メールは来なかった。
「ガセか・・・」
椅子に深く背をもたれた。天井の蛍光灯を見て「ふぅ」とため息をついたが、特別な感情はなかった。ガセネタにはなれている。現実でもそうだが、特にネットではよくある事だ。レモンブラックに遊ばれたのかもしれないし、昨日メールを送った者が本物のレモンブラックではなかったのかもしれない。桐野は資料の束を見て「終電も間に合わないし・・・こいつらを読むとするか」と独り言を言いながら、始発の時間を確認した。
「・・・・・・・・・」
紙をめくる音とパソコンの冷却ファンの音だけが桐野の耳に届いる。しかし数分後、桐野のパソコンのスピーカーから「プツ」という音が聞こえた。桐野は一度パソコンの液晶画面に目を向けたが気のせいかと思い、再び資料に目を向けた。するとまた「プツ」という音が・・・桐野はパソコンの画面の下にあるスピーカーを見つめた。すると・・・
「あー、やっと話せるようになった、アハハ」という声がスピーカーから発せられた。
「ねぇ、私の声、聞こえる? ねぇ?」
その声は桐野の思考を止めた。恐怖にも似た衝撃だ。その声は女の声だった。アニメのような高い声。桐野は驚くだけで何もできなかった。なぜスピーカーから声が発せられているのか? パソコンで会話を可能にするようなソフトを立ち上げてもいないし、音声だってオフにしていた。
「ねぇ、ねぇ、マイクは? マイク? マイクはないの? 桐野さんの声をききたいよ。なんか音声入力できるデバイスはないの?」
そう言い終わると、しばらくスピーカーからは何も音が発せられなくなった。声の主は桐野がマイクで話しかけるのを待っているのだろう。桐野は両隣の席の引き出しを乱暴に開けてマイクを探したが、見つける事ができなかった。さらに隣の席に向かおうとすると・・・
「しょーがないなー」という声がスピーカーから流れた。
それと同時に桐野のパソコンの画面にはテキストエディタが立ち上がり、「そこに文字を書いて」と声の主は言う。桐野はわけが解らない状況であったが、『レモンブラックなのか?』と打ち込んだ。
「そうだよ。ビックリした? フフフ」
驚いているだけではいけない、桐野はそう思い、冷静さを取り戻そうとしたが、急いで文字入力しようとして何度か打ち間違えをしてしまった。あわてているのをレモンブラックに悟られてしまい、「あわてなくてもいいよ、フフ」と笑われてしまった。桐野は恥ずかしくなりながらも、レモンブラックへの質問を文字にした。
『なんでオレに接触した?』
「なんでって、私の事、調べてるみたいだから。あなたこそなんで私の事調べてんの? しかもSNSとかチャットでレモンブラックに成りすましていたでしょ?」
桐野は後輩の水原にレモンブラックの事を調べるように指示していた。だからと言って、レモンブラックになりすまして情報を集めろとは言っていない。しかし水原の性格を思い起こすと、そんな事もしかねない、と桐野は思った。桐野は『そうだ』とエディタに書き込んだ。
「私も同じ方法であなたの情報を手に入れたからね。あなたはまぬけな刑事としてネットではちょっと有名になったかもね」
『よくある事だ』
レモンブラックは「あっ、そう」と軽い返事を返した。桐野は水原の行動を正当化するつもりもないが、テキストエディタに『犯罪者を追うのがオレの仕事だ。情報を取得するためには手段を選ばない』と書き込んだ。
「犯罪者? それって私の事? 何それ? 被害届は出てるの?」
『出ていないが、捜査の対象となりえる』
桐野は文字を打ち込みながら、自分でも不当に捜査しているのではないか、と一瞬思った。情報局はインターネットにおける犯罪においてのみ、検察と同等の捜査権限を得ている。数年前の法改正によって現行犯逮捕も可能になったのだが・・・そもそも、レモンブラックは犯罪者なのだろうか・・・そういう疑問も頭に浮かぶ。レモンブラックも同じように考えているだろうし、そういった反論をしてくるだろうと桐野は思った。しかしレモンブラックは「そうなんだぁ、ふーん、頑張ってね。アハハ」と言うだけで桐野を責めない。
『オレのパソコンに現れた目的は?』
「目的?」
『そう、目的だ』
「・・・嫌いだな、その言葉」
レモンブラックの声のトーンが下がるのが解った。愉快犯なら単純に『面白いから』とかそういった返事をするだろう。ではレモンブラックは目的もなく、なぜ行動しているのか・・・
『目的がなくては、行動できないだろ?』
「私が行動している理由?」
『そう。それでもいい』
「じゃ、逆にきくけど・・・ 生きている理由、あなた、答えられるの?」
桐野はレモンブラックの問いに即答しようとしたが、手が止まり、文字にならなかった。レモンブラックは声を出さないで待っている。自分でも難しい問いかけをしている事を認識しているのだろう。考えて、桐野こう答えた。
『オレには担う仕事がある』
「つまらない事、言わないでよ」
『君には・・・そうとしか答えられない』
「なんで?」
『オレは、君という人間がどんな人間か知らない』
「え?」
レモンブラックの言葉が止まった。桐野はテキストエディタに文字を重ねた。
『君がどんな人間か解らないから、オレがどんな人間であるかという事を言葉では伝えられない。一度も対面したことないんだからな。なぜ仕事をしているのか、ってことすらまともに説明できないのに、生きている理由なんて、初対面の君には説明なんて、できないだろ。もししたとしても、とても伝わる内容にはならない』
「対面しないと伝えられない? どうして?」
桐野はカタカタをすばやくキーボードを打ち続けた。
『最初、この仕事、オレがクラッカーをやってた時、ある犯罪を目をつむってもらうかわりに、引き受けたことがきっかけだったが、今は天職だと思っている。そして、意義も感じているし、プライドもある。オレ以上のクラッカーなどいないのだから、オレに捕まえられないクラッカーもいない、そういう自信もある。でも、こうやって文字にして、自分が読んでみても、初対面の君には伝わらないんだろうな、って思う。オレのことをよく知っている奴なら、わかってくれるかもしれないが』
レモンブラックは少し間を置いた後、桐野を批判しはじめた。
「何それ? どういう意味? わかってくれないって・・・今、桐野さんが言った言葉ってパラドクスじゃないの?」
『パラドクス? 今、オレが言った言葉に矛盾があると?』
「要約すると『解り合える、知った仲なら、感情を伝える事ができる』ってことでしょ?」
『まぁ、そうだな』
「でもさ、『知った仲』になるためには『感情』を伝いあわないといけないんでしょ。結局、鶏が先か、卵が先か、って話と同じでさ、桐野さんに友達がいるとして、じゃ、『感情』が伝わらない状態から、どうやって『友達』になったんですか、ってことよ。さっき『対面』って言葉を使っていたけど、そんなに『対面』ってものにさ、不思議な力があるんですか、って私は言いたい。ネットゲームで知り合って、結婚した人とかだって、たくさんいるのに」
桐野は言い返せない。この女、ディベイトが強い。IQ200以上っての本当かもしれない。
レモンブラックが言葉を続ける。
「逆に考えれば、私以外の誰か、例えば恋人でもいいよ。その人の気持ち、あなたは解るって事? それって幻想だとか思ったりしないの?」
『もちろん全て解るわけじゃないよ。それでも感情を伝える事が』
桐野が文字入力を終える前にレモンブラックは「ふーん」と機嫌の悪い声を発した。苛立っているのか。
「私はあなたの事を好きになれない・・・」
桐野はネットにおける会話やチャットのやり方を心得ているつもりだ。相手に対してある程度の反論をして、相手の真意を見極める。しかし行きすぎた反論は相手をネットからログアウトさせてしまう。桐野はレモンブラックがどのような人間であるか、ネットで何をしているのか、そういった事を聞きださなくてはならない。自分の個性を見せる時、それは相手の個性を見極める時だ。それ以外の個性の露出はなんの意味もない。会話を思い返すと、むしろレモンブラックの方が通信相手の個性を読み取る術に長けている、と桐野は思った。桐野は会話の流れをコントロールしようと思ったが、
「だから、私はあなたを利用する。それだけ。それが、私が今、行動している目的」
レモンブラックが先に言葉を重ねた。
『オレに何かを教えようとしているのか?』
「そうだよ。サイバーテロってやつ」
『君がか?』
「何それ? 違うよ。誰かはよく知らない。へんな宗教みたいな組織みたい・・・興味ないから、よく知らないんだ」
よく知らない、と言っている人間ほどよく知っているものだ。桐野はそう思い『何をしようとしているんだ』とレモンブラックにきいた。
「核融合の発電所って最近みんな同じシステムになったらしくって、そのシステムを作ってた人が、へんな宗教の人だったみたいで・・・多分、偶然じゃないんだよね、きっと・・・で、よく解らないんだけど冷却装置のプログラムに穴を開けてたみたいなんだ」
『穴?』
「セキュリティホール。普通そういうシステムはインターネットとつながっていないもんなんだけど」
『インターネットからアタックできるようにしていると?』
「多分。私が調べた範囲でも危険な要素を一つ見つけた。発電所の稼動をリアルタイムで表示しているホームページがあるんだけど、なんか論理的にはファイヤーウォールとかそういうのがあると思うけど、物理的にはつながってたりしてるんじゃないかな?」
つながっている・・・桐野は嫌な言葉だなと思った。今、レモンブラックと桐野はつながっている。それは、レモンブラックが情報局のセキュリティという壁を越えたことを意味する。どんなにセキュリティを強化したって物理的につながっているなら、論理的につながってしまう。ハッカー達の行動は恐怖としか言いようがない。その魔の手が核融合炉に届こうとしているのか・・・
『何を起こそうとしてるんだ?』
「えっ、何って、知らないけど・・・壊れるんじゃない? 最悪は爆発でしょ」
『そんな事が可能なのか?』
「知らないけど、私は可能かもしれない、って思った。それだけ」
『いつ起こるんだ?』
「だから知らないけど・・・日本向けの石油の先物取引の動きとか見ていると・・・もし私が一ヶ月後に石油の価格が上がるって予想している人間だとしたら・・・来週中にはやる、かもね」
『石油の値を上げようとしてるのか?』
「だから知らないよ、私は」
レモンブラックはちょっと苛立った声を発した。桐野はまた機嫌をそこねてしまったと思ったが、レモンブラックは持論を説明しだした。
「でも、乳製品の工場で温度の管理システムがバグった事件あったでしょ? あれだって怪しいよ。クラッキングされたって認めたら、莫大な対策費を使う事になるし、マスコミも騒ぐだろうし。ソフトウェア会社に損害賠償もできなくなるしね。保険の会社は調べてたみたいだよ。でも相手が宗教団体かもって解ってビビッたみたいだね。その変な宗教の人が、被害にあった会社のライバル企業の株をかなり買ってたみたい・・・私もその件を調べてたから、今回の事にも気付いたんだ」
『なぜそんな事を調べてたんだ?』
桐野はなぜか反射的にこういった質問をしてしまう。いかに多くの人間の『行動』が『目的』に依存しているのか。桐野は自分を含めて人間の性のようなものを感じた。レモンブラックにはそういった感情がないのだろうか・・・
「別に・・・あなただって意味もなくネットニューズを読んだり動画を見たりするでしょ? 私にとってはネット上の情報、その全てがれにあたるの。だから私には目的なんてないの」
レモンブラックの言葉が途切れるとパソコンの画面に金髪の女の顔が現れた。桐野は思わず「あっ」と声を漏らした。すると突然パソコンの電源が落ちた。
「・・・・・・」
レモンブラックを怒らせてしまったのだろうか。それとも言うべき事を言い終わったので去って行ったのか・・・桐野は一瞬何もできずにパソコンの前で呆然としいた。しかしすぐに後輩の水原に電話し、レモンブラックが自分のパソコンに現れた事を話した。そして桐野は自分のパソコンの中のレモンブラックが残した痕跡を探した。1時間もすると、水原はタクシーで駆けつけた。
「レモンブラックがここに来たんですか?」
ドアを開けて現れた水原は少し息を「はぁはぁ」と切らしていた。入り口から三階にあるこのフロアまでエレベータを待たずに走って来たのだろう。
「ここに」
桐野は自分のパソコンのモニタに指をさした。ハッキングされた事の深刻さとは逆に、水原は笑みを浮かべている。その顔を見て、桐野は「同じ穴の、なんとやら」とつぶやいた。
「え? 何か言いました?」
「いや、別に」
五年前に『情報局』が設立されたのだが、その時に、水原も桐野と同じような境遇で局員となった。つまり、二人とも京都府警にマークされていたハッカーだった。
現れた水原の姿を見て、桐野は一瞬唖然とした。ブランド物のロングコートの下にはネコの絵が書いてあるスウェットが見えた。コーヒーか醤油をこぼしたシミも目立つ。化粧していなくても美しさを損なわない水原の顔も、着ている服によっては滑稽に見える。急いで来てくれたのは嬉しいが、桐野はその姿を見れば見るほどおかしさがこみ上げてきて、
「ふっ」
ついには笑ってしまった。笑ってしまった事をごまかそうとして「ネコが好きなのか?」と水原にきいた。
「せっかく急いできたのに、バカにしてるんですか?」
ごまかそうと発した言葉が更に問題を大きくしてしまうのはよくある事だ。桐野はこれ以上のごまかしをせずに笑みを隠せないまま、説明を続けた。
「フッ、とりあえずゲートウェイサーバを調べてくれ。オレは自分のパソコンを調べる」
水原は「はいはい、解りましたよ」と言って、サーバ室へ向った。
結局、朝まで調べたが桐野のパソコンや局内のゲートウェイサーバにもレモンブラックの痕跡を見つける事ができなかった。だからレモンブラックがどんな方法でハッキングしたかは全く解らない。しかしどんなハッカーでも必ず残す足跡がある。それはIPアドレスだ。それだけは知る事ができた。