恋、焦がれるもの。
5感を1つ失えば、他の感覚は敏感になる。人は体の中でさえ情報社会に生きていて、正しい情報を得るのに苦労しているのかもしれなかった。
でも、2番めの神は本質を見抜くことに関して、あくまでも視覚にこだわっているように思える。やっぱり絵は、視覚で描くものなのだろうか……。
神は再びチョークを持ち、黒板に文字を刻んだ。
——恋、焦がれるもの。
「君たちには、恋い焦がれるものがありますか? ……すぐに思い浮かんだ人も、思い浮かばなかった人も、それについて今日は考えてみてほしいのです」
「それは、」と。神は言葉を続ける。
人かもしれないし、物かもしれない。
目に見えるものかもしれないし、見えないものかもしれない。
一時的なものかもしれないし、半永久的なものかもしれない。
過去に失ってしまったものかもしれないし、今もまだ手元にあるものかもしれない。
目を閉じた時、独りになった時。
まぶたの裏側に、ふっと浮かび上がるものかもしれない。
目を開けた時、誰かと一緒にいる時。
ロウソクの火が、ぽっと灯るようにして映るものかもしれない。
「ちょっと、考えてみてください」
2番めの神の言葉に対する、生徒たちの反応は多種多様だった。黒板を見つめる人、瞑想に耽る人、ノートに何かを書きこむ人、友人に意見を求める人。
——私は。
やるせない気持ちで私が見上げた空は、窓ガラスを通しているのにも関わらず、青かった。瞳孔に突き刺さるような、まぶしさを感じる。無限に広がっているかのような空から、私は目をそらした。
——人には、触れられないものだって、あった。
無意識のうちに、ため息をついていた。椅子に少しもたれかかると、机と体の間から足先が見える。
刹那、私は反射的に両足を床から離して、戦慄した。
床のタイルの1区画。私の足下だけに小蝿のような昆虫が、びっしりとくっついていた。濁った色の羽根が床に紛れようとしているかのように。
しかも、どうやら昆虫は左のスリッパの側面の小さな穴から這い出てきたようだ。私は右足で左のスリッパの側面を、そっと押さえた。
押しつぶした感覚はなかった。でも、昆虫は黒い点になって学年色の緑のスリッパにこびりついた。
私は思い切って、床に両足を下ろした。おもむろに、足裏へ体重を乗せて床を押さえる。やっぱり感触はない。でも、再び足を上げると、床には足跡が付着していた。
周りの昆虫はタイルから逃げることなく、床に同化している。私はタイルの1区画を、ゆっくりと踏み続けた。黒ずんでいる足跡を塗りつぶす。それから、黒くなったタイルを隠すように、両足をつける。
足の裏には、ぴりぴりと痺れるような刺激がある。
私は、私の、鼓動が早くなるのを感じていた。
さまざまな反応を見せる生徒たちの中、2番めの神は再び机と机の間を縫うように歩き、口を開いた。
「恋焦がれるものであればあるほど、本質は見抜きやすくなります。頭によく思い浮かぶようになってきたら、絵に描き起こしてみてください。次回からは、『恋焦がれるもの』が持ってこられるものでしたら、持ってきても構いません」
「もっと早く言ってくれたら、今日持ってきたのに」
ぽつり、と。誰かが呟いた。
その言葉を受けて、2番めの神は不敵に笑う。
「最初から持ってきてくださいと言っていたら、君たちは恋い焦がれるものではなく、描きやすいものを持ってくるでしょう?」
聞こえてるし、と数人の生徒が笑った。私だけが独りで、そわそわしている。一方で、室内の空気が和やかになったことを私は感じていた。
誰かが、1つ質問をする。
「先生。先生の、恋焦がれるものって何ですか?」
「……手袋ですかね」
その声は、私の心が落ちつきを取り戻すほどに穏やかで綺麗だった。いつになく先生は、優しい顔をしていた。