「私」の後ろには「私」がいる
空き地の周りには、昭和風の家々が行儀よく並んでいる。今、私が立っているのは1本の道だった。先に行けば行くほど、だんだん狭く暗くなっていく道。遠ければ遠いほど、見えづらい。
不意に、「私」は「私」が、後ろにいることを感じた。背中に、じめっとした視線がある。「私」は「私」が、見ていることを強く感じた。
振り返れない。それどころか、1歩も動けない。
どうしようもなくなって「私」は、きつく目を閉じた。感覚が研ぎ澄まされていく。「私」は「私」の存在を、さらに強く感じる。
「私」の耳だけが、雨音を捉えている。相変わらず、アンバランスな音。妙に、大きく聞こえた。雨以外の音が、しない。
辺りは、静まり返っていた。その静けさは、永遠に続いていくようだった。
その中で。カランコロンという下駄の音がしたかと思うと、急に後方から他の人の気配がした。クスリ、と私の耳元で笑い声がして、完全に静寂が途切れる。
背後から、にゅっと白い手が伸びてきた。差し出されたのは、蛇の目の傘。そして、私は傘を持っているのに、ただ、雨に濡らされていたことに気づく。
ほとんど反射的に振り向くと、艶やかな黒髪の女性が佇んでいた。青磁色の着物に身を包んで、白い手で蛇の目の傘を差している。
「迷い子なのね、あなた」
形の良い唇が動いた。1番めの神々とは全く違っているけれど、完璧な声。そう思う私を見透かしたように、女性は肩を揺らしてクスリ、と笑う。
「あなたって、なあんにも知らなさそうね」
クスリ。おかしそうに唇を歪ませる。背の高い女性は、私に目線を合わせるようにして、膝を少しだけ曲げた。
「元の世界にお帰りなさい」
女性は私の肩を、とん、と片手で押す。あっけなく、私の体は後ろに崩れ出す。無意識のうちに、私の手が伸びる。
荷物が手から離れるのとともに、私の指先と雅やかな着物との距離が、どんどん遠ざかっていく。容姿端麗な女性は、にっこりと笑っていた。どこか、寂しそうな笑み。
瞬きをすると、視界に私の家が入ってきた。私は、片手にきちんと手提げを持った状態で、家の前に立っている。雨は降っていなかった。でも、雨の匂いを色濃く感じた。
路地を挟みながら、家々が並んでいる。その中の1つ。寄棟屋根の2階建ての家。
クリーム色の壁に、緑がかった瓦。1階と2階に1つずつ窓がついている。家を囲むのは、私の背丈くらいの、壁と同系色のレンガ。
閉塞感のある、その家は。紛れもなく、私の家だった。
灰色の床のマンションが、どうして自分の家だと思ったのか、どうして見慣れた風景だと思ったのか。そもそも、どういう道のりで辿りついたのか。今となっては、わからない。
隣の広い駐車スペースで、靴を投げて遊んでいた子どもたちは、もういなかった。いつのまにか、日が暮れてしまっていた。
夕闇の中で、門扉を開いて家の中に入る。ステンレス製の扉を開けると、玄関に1番めの神がいて、花瓶の水を替えているところだった。
淡いピンクの星型をした小花が、半球状に寄り添って咲いている。ペンタスの花。1番めの神々が、好んでいる花。
1番めの神は私に気がつくと、三角の顔を上げて無色透明な声で言う。
「帰ってきたか、愛しい子。——翼を食べておいて、良かった」