自由な空が恋しくて
「あーした、てんきになあれ!」
家の外から聞こえてきた声に、瞬時に意識を引き戻される。閑散とした部屋の中、私は窓ガラス越しに外を眺めていた。
夕日の中、にぎやかな声に押されて、小さな靴は空を舞う。赤々と照らされた靴。それは、頰を同じく赤色に染める子どもの顔をほころばせた。
純粋無垢な表情を見ていると、私はつまらないな、と思う。
——明日の降水確率は90パーセント。それでも、子どもたちは天気予報より茜色に染まった片っぽの小さな靴を信じるというのに。
明日は晴れてほしいと思った。晴れたなら、私は少し小さな靴を信じることができるから。
もし。雨が降っても、明日は赤い靴を履いて街へ出よう。冷たい雨に、気持ちまで侵食されないように。心だけは踊っていられるように。
翼のない「私」なんて「私」ではないと、心の奥で拗ねたふりをする私は、もういなかった。もともと、空が恋しい思いはあっても、地に足がついていることが嫌な気持ちはしない。
雲の上に雨空はなく、大地の上に雨空はある。そして、雨はあまり好きではないけれど、雨空が空であることに変わりはなかった。
今日は、足の裏から根が生えるのではないかと心配するように、そっと両足を床に触れさせていた私。微かにしなうフローリングの床は、以前よりも私の足になじみやすくなっていた。
「莉帆ー」
階下から、お母さんが私を呼ぶ声がする。無駄に明るい声は、私に何かを頼みたい時の声。それに、私は気づいていないふりをして返事をする。
「はあい」
部屋から出て、階段を降りていく。玄関の前でエコバッグを持って、お母さんが笑顔で待っていた。おとなしく、私はエコバッグを受け取る。それから。すぐに支度を済ませて、私は近所のスーパーへと向かった。
——アルバイト募集中。の貼り紙が、やたらと目についた。
私は今まで、ただ紙が貼ってあるなと思っていただけだったから、たいして大きくもない黒で印字された文字に目がいくのは不思議だった。
私は、お金を貯めたいのかもしれなかった。お金があれば、翼が買えるだろうか?
壁にくっついた時計が、貼り紙の上で6時23分を示している。着実に、時計の針は進んでいた。
牛乳や卵の入ったエコバッグを手に提げる。背後から、「ありがとうございました」と、レジ打ちのおばさんの明るい声が聞こえてきた。
それほど買ったわけではないのに、荷物が少し重い。肩が強ばっていた。まるで、おばさんが感じるはずだった疲れを、代わりに私が感じているかのようだった。
重みを振り払うように深呼吸をして、店を出る。迷っている時や悩んでいる時の私には、いつもと違う道で帰ろうとする癖がある。だから、赤い靴を履いた足が、勝手に歩いた。
——確かに、もういいと思ったはずなのに。まだ、引きずっている。
忙しなく、車が走っている大通りを左に曲がる。脇道へ入ると、夕方であるにも関わらず、並んでいる家々に人の気配がない。辺りに、静けさが漂っていた。
道の真ん中に寝そべっていた黒猫が何か言いたそうな顔をして、じっとこちらを見ている。私が足を進めると、ゆっくりと起き上がってどこかへ行ってしまった。
ぽつん、と頭に何かが当たって、私は空を仰いだ。急に雨の匂いを深く感じる。蜘蛛の巣のように張り巡らされた電線の向こう側で、低く垂れた蒼鉛色の雲が空を覆っていた。
なぜか、通行禁止の4文字が浮かび、もうどこにも行けない気がした。今は、翼を持っていないのに。もっと自由でありたい、と思った。
高校生にもなって、私は両親と先生を神と崇めて、自分1人で決断することなく生きている。おかしいことだとは、ずっと前から気づいていた。
でも、神を目の前にすると、私の思いは霞みがかって見えづらくなってしまう。それに、私の考えることなんて浅はかなものであって、両親や先生の言うことの方が正しいことが多いと感じていた。
でも、いつまで私の居場所を、私は他の人に決めてもらうつもりなのか。このままでは、進学することも具体的な大学名も、将来や生き方さえも決められてしまうような気がする。
雨が降りはじめる。私は折りたたみ傘をバックの中から出して、差して歩いた。雨足が強まり、自然とうつむきがちになる。
雨粒が勢いよく、コンクリートにぶつかるのが目に入った。小さな傘からは振動が伝わってくる。必死に雨粒を弾き、アンバランスな音を立てている。その音は、不器用な子どもの泣き声に似ていた。