相互リカイ
帰り道。漆黒の闇に浮かんだ月は、ただの丸い余白だった。風にたゆたうこともなく夜をくり抜くのみの月が、つまらないものだと感じるのは久しぶりのことだ。
塀ばかりが高い、閉鎖的な私の家を素通りして闇に紛れる。鉛のような闇が私の中へと流れこみ、蓄積されていく心地がした。薄暗い考えだけが思いつき、私は心を閉じる。耳元では確かに、羽音が聞こえた。
——携帯の着信音が鳴る。メールだ。
ポケットから取り出そうとして、手を滑らせる。瞬く間に携帯が落ちていった。アスファルトに当たって、裏の蓋が外れる。早く拾わなければ、と思いつつ、私はその場に立ち尽くした。
——人は人の痛みを知ることができません。
虚空の1点を見つめて、私の中の大人が呟く。その、諦めの入り混じる曖昧な笑みが、幼い私の胸中を塞いでいく。
言葉を見つけたいのに見つけられなかった。同じ状況に陥っても、人が感じる痛みは人によって違う。
それは当たり前のことだ。負う傷の深さや形がすでに違っているのだから。だからこそ、人は人を傷つけたことにさえ気づけず、傷つけ合っていく。
——人を理解したい。
この想いは儚く、翼を失くしたのに飛びたがる鳥と、本当は飛べることを知っているから怖くて飛べない振りをした私に似ている。
自分は簡単に、人に理解されたくない気持ちと、自分はできるだけ苦労することなく人を理解したい気持ちが私の中で混在していた。矛盾している。
でも現在、飛ぶことができないからといって、飛ぶこと自体を諦めてしまうことは幸せだろうか。飛べることができるからといって、飛ばないことを選ぶ場合もありうる中では……。
——あるいは、怒るべきだったのかもしれない。
12番めの死神の子に手を踏まれた時。2番めの神が私を無視した時。1番めの神々に翼を食べられた時。女に左目の光を奪われた時。
何で私があなたたちなんかに傷つけられなきゃいけないのか、と。あなたたちなんて、ただちょっと私の人生に脇役で出てきただけのくせに、と。
感情の赴くまま痛みを叩きつけるように叫んで、全力で怒りを訴えれば良かったのかもしれない。
——あるいは、やり返すべきだったのかもしれない。
12番めの死神の子の足を手で踏み返して、2番めの神の言葉に耳を傾けず、1番めの神々が大切にしているペンタスの花を踏みにじって、女の瞳に私の血で濡れたナイフの切っ先を向ける。
別にできないことではなかった。そうしても良かったし、そうするべきだったのかもしれない。それでも、私がそうしなかったのは——。
閉じたはずの私の心が、傷が、流れ出す。体に染みついた癖で、私は空を仰いだ。
いつのまにか、闇色の空を厚い雲が覆っていた。雨の匂いが色濃くなる。空気はひんやりと冷たくて肌寒い。でも、私はさほど気にしなかった。
アスファルトに打ちつけられた携帯を見つめる。きっと、届いたメールは元・12番めの死神の子からで「本、燃やしておくよ」くらいの内容だと大方の想像がつく。
よくよく考えてみれば、私に携帯なんて必要なかった。こんな時に連絡を取れる相手もいない。助けを求めることのできる人の番号が、登録されていない携帯なんて持っていても空しいだけ。
雨足が強くなる。水しぶきを上げる雨。その姿は闇の中で白く私の右目に映って、雨も息をしているんだなと私に思わせた。
やたらと、雨の音だけが耳につく。私は真っ黒な傘で顔を隠して再び歩きはじめた。流れこんだ鉛のような闇が私の足を重くしていた。その灰色が、私を濁す。




