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足跡の残らない未来の色

 自分が蝿やゴキブリをかわいがる姿なんて想像できなかったので、とりあえず私は無難な言い方をしておいた。


「でも!」


 女はひどく感情的になっていた。女の手元を見ると、ナイフの柄が先ほどよりも強く握られている。銀色の刃の先端が小刻みに震えていた。


 しかし女が感情的になればなるほど刺される確率は高まるにも関わらず、私は冷静になっていった。躊躇なく目を刺されることよりも、感情的・衝動的に胸を刺されることの方が、私にとって理解しやすいことだからかもしれない。


 しかしながら……、女の感情を鎮めることには成功していなかった。


「でも! この世界に私の居場所なんてないじゃない!」


 子どもが泣き叫ぶかのような甲高い声が発した言葉で。私は女が私の子どものことではなく女自身のことを話しているのだと理解した。


 女が話しているのは、私がこれからどういう行動をとるかではなく、女がこれまでに母親からどういう行動をとられてきたかということだった。


 過去の傷。傷つけないことよりもフォローすることを考えるべきだとは言ったものの、それは簡単に拭い去れるものではない。


 どのような言葉を言っても、他人のことよりも自分に関することの方を大切にする私には、彼女を慰めることなんてできない気がした。私は口をつぐんでしまった。


 私の様子を見た女は、クスリ、クスリ、と幾度となく笑う。壊れてしまった心はもう戻らない。いつの日だったか、彼女が寂しげな表情を見せていたことを私は思い出した。


 振りかざされた刃。その銀色がきらめく。でも、切っ先は銀色ではなく黒い点として私の左目に映る。ナイフが躊躇なく私の瞳を貫く。目に灼熱感を伴った激痛が走る。


 思わず、左目を押さえて私は下を向いた。左手に生温い感触。ぽたり、ぽたり、と垂れた血が机の上に斑点を描く。女は——、笑うことをやめない。


 でも私は、目の痛みよりも遥かに「左目ではもう何も見ることができない事実」が、心に押し寄せてくることの方が、息が詰まるほどに苦しい。


 意識が朦朧としてくる中で私の頭に、ずっと前に社会の授業で習ったことの1つがよぎる。


 ミケランジェロが毎日、天蓋に絵を描き続けた結果。腰が曲がった上に、目に絵の具が入って失明したこと。


 ——彼が最後に見た、眼球を覆った絵の具の色は何色だったのだろう。それは私が見た色とは違ったのかもしれないし同じだったのかもしれない。けれど。きっと、それが未来の色だ。


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