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鉄の牢獄にて


「あっ。それ、そういうの!」


 気づかないうちに声が大きくなっていて、私は慌てて口を押さえる。ガタンゴトンと揺れる音を改めて感じる。


 人はいないから、こちらに注目している人はいなかった。それだけ確認すると、私は控えめに言った。


「そういうのが、好きなんです。ずっと昔からその感じを覚えるのが空だったから、空が好きなんです。他にも理由はあるんですけど、それが1番の理由です」


 おばさんの表情も私の表情も、やわらかい。あたたかい空気が車内に流れていた。おばさんは何度も頷いている。


「うん、うん。良かった。違ってなくて。私も、ちょっといつもと違った感じがするのが好き。日常じゃない感じ。実はそういうの、私、よく小説に書いたりする」


「えっ! 小説、書くんですか?」


 驚きの色が私の声に混じった。小説を書く。それは書いたことのない私にとって、信じられないようなことだった。でも、おばさんにとって小説を書くことは特別でも何でもないことらしい。表情を変えることなく言う。


「うん。今も持ってるけど、読む?」


 おばさんが鞄から取りだした紙を受け取りながら私は頷いて、読み始めた。次の文章だった。



〇〇〇



 図書館に1歩、足を踏み入れたならば、日常の雑音とは隔絶された空間にやってきたかのような気分になるのは僕だけだろうか。


 今日は特に。まだ昼前だからか人も少なくて、物音がしない。階段で地下へ降りていくと、人の気配さえ感じなかった。


 休講になった科目が僕の取っていた科目だけだったならば、人が少ないのも当然だろう。しかし、違和感を覚えたのも事実だった。


 僕がこうしている間に、他人はどうしているのだろう? なんて。そんなことを考えてしまう最近の僕はどこかおかしい。


 ——まるで、人間に興味があるみたい、じゃないか。


 考える、という行動は1度始まると止まることを知らない。僕の頭は高速で回転をする。読みたいものや借りたいものもない僕自身は、なんとなく本棚を見て回る。


 ——ん?


 目に入ったのは、古めかしい1つの本だった。紙は黄ばみ、表紙は剥がれて、埃っぽいその本は色褪せて茶色になっていた。元の色はきっと赤……なんだろうと思う。


 汚れていてタイトルが読めない。ところどころ、染みに侵食されていた。重みのある、その本のページを僕はぺらぺらと、めくる。


 ——本をめくる度に思う。


 こんな薄っぺらな紙を集めて、こんな小さな文字を並べて、この本が伝えたいことは何なのだろう、って。


 小さな1つの文字である形態素は何も意味を示さない。単語でさえ、強いメッセージを持たない。それでも、言葉は連なって意味を持ち、何かを伝えようとする。


 ぺらぺらの紙に1文字1文字を打ちつけられた本が描くのは、世界だ。そこに虚ろなものはなく、天があり大地があり、鉄があり木材があり麦があり、人物が住む。自然を使って家を作り、街を立てる。


 特に、物語に至っては開拓ゲームが繰り広げられているかのようなイメージを僕は持っていた。


 ——土地を耕すために、原理を知る。肥料を与えるために、人と関わり道理を知る。


 そんな風に思っていたせいだろうか。僕は急に、物語と僕自身の距離が縮むような感覚を覚えた。


 見あげるような、背の高い本棚に並ぶ色とりどりの本。弾力のある灰色のカーペット。白い壁に貼られた赤い文字の注意書き。……図書館では静かに。


 けれど。

 僕はそのどれでもなく、手で広げている生成りの紙に黒い文字を浮かびあがらせた茶色の本に、視線を注いでいる。


 惹かれていた。

 何にかはわからない。

 しかし惹かれていた。


 ただ小さな黒い文字を追っていただけの僕が、どこか遠くに感じた。



 〇〇〇



「ある意味では日常に限りなく近い非日常ですよね」


 読んだ後どんなことを言ったらいいのか思いつかなくて、日常でないことについて話そう、と私は思った。


「うん。——実はあなたも日常、あんまり好きじゃない?」


 おばさんが言葉を返してくれたので、ほっとする。


「そうなんですね、たぶん。非日常を感じた時、それが悪夢でも、日常に戻りたいとは思わないですから」


「うん。私、その言葉を待ってたんだ。あの人の言葉を借りるなら……、あなたはもうここから出られない」


 急に、冷ややかな声が私の耳に届いた。気がつけば、おばさんが私を見下している。冷徹な瞳だった。


 先ほどのあたたかい空気がまるでなかったかのような殺伐とした雰囲気に思考がついていけない。


 急に、視界が変わった気がした。目の端に何かが入ってきて視界を邪魔する。隣を向けば、私。


 呆然とする私の目の前で、私は電車を降りていった。

「よい悪夢を」という言葉を残して。


 電車に取り残された私は、すでに私を受け渡して、私でなくなったことを知る。鏡を目の前に掲げた時、そこにあるのは鏡ではなく自分自身だと誰かが言っていた。


 ——空が大きな水鏡であるように、鏡に映る全てが私ではなくても私の1部であることに変わりはない。

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