光を辿る
私は博士と話していた。
「儂はもう後がない。この星に生きる人間を作るには、時間がないのだ。だから、君に魂の作り方を教えよう」
私は、老いて腰の曲がった彼の、綺麗に剥かれたゆで卵を思わせる頭をじっと見つめた。そして、暫く口を噤んでから、ようやく声を出した。
「上層部から派遣された以上、博士の命令は絶対です。私の行動決定権は上にありますが、ここにいる限り私は貴方の忠実な下僕です」
囁くように告げると、博士はこちらを見上げた。鋭い眼光が、私の胸に付いたバッジに記されている「The Protecting Endangered Stars Institution」の文字を煌めかせた。
詳細を説明しよう、と言う博士に連れられて、私はビルの隙間を縫うようにして歩いた。灰色の街並みは、近くにあってもどこか遠く霞んでいる。プラモデルのように生気を亡くした軒先が、幾重にも連なっていた。私も博士も黙って歩いた。硬い靴音が響いて、空に吸われていく。
無機質な自動ドアの音を聞き、博士の後を追ってエレベーターに乗ると、彼は突然口を開いた。
「君は、この星から人が消えてからどれほど経ったと思うかね」
簡単な質問だった。
「協会で閲覧した資料では、約二十年とありました」
私は回数表示が4を指したのを見送った。
「君の言う通り、最後に生き残った一家が心中したのは確かに二十年前だ。だがね、人は消えてはおらんのだよ。魂ばかりが潰えたのだ」
私は怪訝な顔で博士を見た。彼は無表情でエレベーターの扉を眺めていた。
「それは、博士がいらっしゃるからでは」
チン、と音が鳴って扉が開いた。フロアの床には「10」と書かれている。
「会えばわかる」
そう呟くと、博士は歩き出した。少し間を置いて、私も急いで後を追った。
清潔な白で囲まれた部屋が私を迎えた。所々宙に浮かんだ青い光は、様々な文字に変化して博士へ情報を伝えた。専門家でないと何に使うかさえ分からないような機械が、所狭しと並んでいる。床には、バラバラになったり、まとめられたりしたコードが散乱している。ディスプレイの林を博士について歩くと、急に景色が開けた。ちょうどその場所だけ四角く切り取られて、一面が緑に覆われている。文字通り、小さな森がそこに形作られていた。
そして、私はそこに蹲っている人影に気付いた。否、蹲っているのではない。座って、クマ――とっくに絶滅している生き物――のぬいぐるみで遊んでいる。小さな女の子。ブロンドの長い髪が、黒髪の私や、そもそも髪がない博士とは対照的だ。年齢もまだ十はないだろう。綺麗な顔立ちをしていて、入院服のようなものを着ている。しかし、その表情からは年に似合わずあらゆる物が欠如していた。私は、昔の自分の影を見たような気がした。それはすぐに消えてしまっていたが。
「この子が、この星最後の人間だ」
私が少女を観察していると、突然博士が言った。少女は相変わらずぬいぐるみ遊びに夢中のようだ。こちらを無視しているのか、それともこちらの声が届いていないのか。
「博士はそこに含まれないのですか」
「儂は君のように派遣された、外部の人間だ。君とは違う組織だが、この星の人間でないことに変わりはない」
様式美のような問答。私は協会で渡された資料を思い出していた。明らかに内容に齟齬がある。
「資料には、この少女のことは一切記述されていませんでした。約二十年前の一家心中で、この星の住人は完全に絶滅した筈です」
資料にはそれ以上のことは書かれていない。心中した一家の顔写真は誰一人として存在していなかった。現場の状況も不明で、遺書からは心中だと分かったが、死因は不明のままだ。
博士は少女を見ている。その目は、孫娘に対するそれではない。
「この子は、そのとき心中した一家の長女だ。と言っても、正確には違う。この子の父親はあの一家の父親ではない」
「母親が別の男と不倫関係にあったというわけですか」
私が半ば呆れたように言うと、博士は小さく笑った。
「そうだな、男ではないかもしれん」
私には、博士の言っている意味が理解できなかった。男でなければ何があるというのか。まさか女ではあるまい。手術を受ければ、男性でも人工子宮で妊娠することは可能だ。既に百年ほど前から技術は実用化されている。しかし、女性が精子を作り出すことは、現在の技術を以てしても不可能である。少なくとも、男性からの提供が必要とされるというわけだ。
言葉を失った私の疑問を汲み取ったのか、博士は続けた。
「正確には、雄、と言えるのかすらも分からんな。モンスターだ。地球では一般的ではないかもしれんが、ここのような植民星では一般的。大概は、奴隷にされたり、人間の家族に溶け込んでペットのように暮らしたりする。それがロボットの星もあるが、モンスターのほうが低コストだ。そして、あまり知られてはいないが、ここのように人類が消え去る原因の一つでもある」
少女の父親がモンスター。にわかには信じられなかった。私は博士が年のせいで耄碌しているのではないかとすら疑った。
「モンスターについては知っています。確か、義務教育で教えられる筈ですから。しかし、妙ですね。地球連邦政府は一貫して、植民星定着のためにモンスターは有用だと主張していますが」
博士は手を掲げた。すると、青い光が指先で展開され、数多の資料が空中に表示される。モンスターについての論文だ。
「ならば君も知っているだろう。モンスターは元々、ベテルギウスの超新星爆発によって生じた強烈なガンマ線がある生命体に照射され、遺伝子が大幅に書き換えられた結果生まれたものだ。本来なら、ガンマ線の影響を受けた生命体は死滅してしまう。それでもなお形態を変えて生き続けているのだから、モンスターというのは生命力が人間の比ではないのだ。それに、モンスターどころか、『ある生命体』自体の仕組みは解明されていない。要するに、得体のしれない生き物を我々は利用しているのだよ」
私には、義務教育でモンスターのことを教える理由が分かった気がした。
「それでは、まるで数百年前の原子爆弾や核兵器のようではないですか」
得体のしれないまま使用した、人間の力を超える兵器。歴史では、日本という国が最初に被害に遭い、冷戦で米ソが作り続けたとされている。その後は列強が保持し、統制がとれていたが、百年ほど前に一度地球は滅びかけた。地球外植民の気運が高まった原因でもある。
「その通りだ。地球連邦政府は、ようやく世界一体となったにも関わらず、また愚かなことを続けている。現に、植民星の人間が消滅した原因の60パーセントはモンスターによる破壊活動による。政府は失墜を恐れてか、依然と隠し続けている。勿論、君の所属する協会にもな」
私にとって、衝撃だった。
……そうだろうか。本当に、驚いたのだろうか。少なくとも、その場では驚いてみせた。
「それでは、この子の母親は……」
「強姦だよ。直接的に表現すればな。大方、別の家の主人を食らったモンスターが、深夜にうろついていたこの子の母親を食ったとかいうあたりだろう。母親もそれを隠してたに違いない。その証拠に、この子はその一家でちゃんと育てられていた」
暖かみのない照明に照らされた少女の髪は、嫌に艶やかだった。伏せられた目は、血の色に光っている。私には疑問があった。
「それならば、この子は一家が心中した時点で生まれたばかりだとしても、現在は二十歳の筈ですが。生憎、そのようには見えませんね」
博士は指先で空中に広げられた資料を閉じながら、答えた。
「その子は二十八歳だよ。T細胞を検査したから確かだ。一家が心中したその日から、身体的成長と感情の起伏が停止している」
私と同じ歳だった。
「人間とモンスターのハーフは、年を取らないというわけですか」
「いや、そうでもないだろう。それなら、この子は今も赤ん坊の姿をしている筈だ。儂は、一家心中の日に何かあったと見ている」
博士は資料を片付け終わると、曲がった腰を更にかがめて、少女の頭を優しく撫でた。口元は緩んでいて、眼差しも柔らかなものへと変わっている。
「今の儂の研究は、専らこの子だよ。この子の感情の起伏が正常に戻れば、何故この子だけが生き残ったのかが分かるかもしれん。脳波を通してモンスターの仕組みを伝達してくれるかもしれん。そうしたら、モンスターと人間が共存するための手がかりがつかめる。儂の研究は最終段階にあるのだよ」
それを聞いて、私は少女に変化がないか少し気になった。しかし、先程見たときと全く変わっていなかった。博士が優しく微笑みかけても、少女の目は虚ろだった。私はため息をついた。
そして、ふと博士から最初に告げられたことを思い出した。
「博士、魂を作るとは、人間を作るとは、どういったことでしょうか」
博士は、撫でる手を止め、私の方を見た。そして、悪戯っぽく笑った。
「それは、この子が感情を取り戻してからだ」
君にも手伝ってもらおう。そう言うと、私にカードキーを渡した。「1022」と書かれている。
博士から渡されたカードキーは、私に割り当てられた個室の鍵だった。ちょうど少女の部屋と化している研究室と同じ階にある。博士は一体どこで寝泊まりしているのか、私には分からなかった。というより、興味がなかった。
今日はもう休んでいい。明日から働いてもらおう。そう言った博士の背中を思い出す。随分と小さな背中だった。私が来たところでどれほど研究が進むのか分からないが、本当に時間がないのではないか。私は博士が死んでも一向に構わないが。
本当のことを言えば、研究もどうでもよかった。協会に言われたから従っているだけで、そこに自分の意志はなかった。そう考えると、あの少女より質が悪いかもしれない。協会に入ったのも、絶滅危惧星を救いたいといった理由からではない。正当な墓地を探していたのだ。決して誰にも弔われないような墓地を。
あの子の目が、私の記憶の中でゆらめいた。幼少期の自分の影がまた現れて、今度は二人の目が合わさった。黒と赤の瞳が重なって、淀んだ沼の色になる。
早く、死にたいなあ。ぽつりと呟いて、固いベッドに倒れ込んだ。
翌日から、私の仕事は始まった。朝食を支給されたサプリメントで済ませようとしたら、博士から放送が入った。仕事の一環として、少女と食事を取れ、という。
私が昨日の研究室に向かうと、博士から言われたのか、入り口付近で少女は待っていた。昨日とは裏腹に、今日は髪に赤い大きなリボンを付けて、これまた高そうな赤いワンピースを着ている。白い靴下に赤い靴。一瞬博士の趣味かと勘繰ったが、詮索は止した。
少女の手を取って、指定された食堂へと向かう。少女は無口であったが、こちらの言うことは理解しているようで、大人しく従った。そういえば、この子は二十八だったな、と思い至る。博士は、私がこの子と年齢的に同世代で同姓であったから、私を指名したのだろうか。それにしても、この手は二十八と言うには小さすぎた。どうしても、慎重になる。
食事の際も、少女は話さなかった。一応この子の心を開くことが課題とされていたので、私は所々話しかけた。しかし、たとえ肯定か否定かで回答可能な質問であっても、少女自身のことは何一つ答えてくれなかった。たとえば、「二足す二は五?」なら、少女は首を横に振る。ただし、「あなたは赤色が好きなの?」という質問には、何も反応がない。私はそれを悟ると、話しかけることを止めた。
サプリメントではない、久々の食事だった。パンをちぎり口に入れると、口の中から水分が一気に失われた。紅茶を啜っても、香料が入ったお湯としか感じられない。地球に居る時は美味しいと感じていた食べ物が、今は無味乾燥な塊だ。少女を一瞥しても、美味しいといったような様子は微塵も感じられなかった。博士は食堂には来なかった。
博士から命じられて、私と少女は所謂ピクニックに出かけた。こうなると、何のためにここに来たのかいよいよ分からなくなってくる。自分の墓探しのために学歴を積んで協会に入ったのに、やることは子供のおもりだ。厳密には、違うのだけれども。
片手に博士から渡された弁当包みを持ち、もう片方で少女と手を繋ぐ。研究所の自動ドアを抜けると、灰色の世界が広がっていた。淀んだ空気に、冷たいビル群。モンスターの慟哭がまばらに聞こえる。ただ、姿は見えない。まだ人間がいて、賑やかに生活していた頃、この星は一体どんな景色だったのだろう。
私は指先を目の前で滑らせ、空中に青いディスプレイを浮かび上がらせた。この星にも開けた丘や森があるらしく、そこへのルートを検索する。最短距離を表示させると、私は少女の手を引いて歩き出した。そこまでは、約三十分かかるらしい。
私は歩いている間、小さな手を受け止めていた。その手は確かに少女のものだった。しかし、だんだんと別の少女に変わっていくように思えた。私は、記憶の中の小さな手を握っていた。そう、痣で紫になった手を。
私も、無口な子だった。少女は後天的なものであったかもしれないが、私の無口も後天的なものだ。今の私は年齢的には大人だから、きちんと大人として振る舞っている。ただ、まだ小さなままの自分が、確かに深い井戸の底に居る。それは、突然飛び起きて、私の目の前に影として現れる。そして、消える。
もう記憶にないことだ。私は虐待を受けていた。いじめを受けていた。これらは、後になって知り合いから聞いた。最初、私は病院のベッドで聞いたが、嘘だと思った。そんな記憶はなかったからだ。私の記憶では、母親も父親も友達も優しかった。誕生日パーティーを開いたり、テーマパークに行ったりするような、普通の家族の記憶しかなかった。しかし、身体中の痣がそれを裏切った。私は知り合いや、医者の言ったことを信じるほかはなかった。
私にもよく分からなかった。知らぬ間に施設に預けられた。知らぬ間に裁判が行われた。知らぬ間に両親は獄中で死に絶え、遺産が入ってきた。大量の遺産だった。私は意志が欠落したまま、惰性で勉学に励んでいたので、高等教育を受けることが出来た。そして、大学に入ってから、小さな影が見えるようになった。
きっかけは些細なことなのだ。街で物乞いをする子供を見た。それだけだ。その街では珍しかったが、当時近隣地域で内紛があり、難民が流れ着いていたのでおかしい事ではなかった。しかし、私はその子供を見た瞬間に、その場から逃げ去っていた。否、私が見たのはその子供ではなかった。紫の手足をした、みすぼらしい子供だった。私だった。
突然右手を強く引かれた。
私は我に返り、驚いて少女の顔を見た。少女は表情で何も示していなかった。しかし、周りを見渡すと気付いた。もう、開けた丘についていたのだ。
私は、一面に揺れる青い草を見た。風が静かに揺蕩っている。空は青々とはしていないが、先程の街と比べると澄んでいた。灰色の雲は緩やかに流れている。
私は斜面に青い花を見つけると、その傍に腰を下ろした。少女に促すと、少女も座った。少女の黄金の髪が揺れる。
私は青い花を摘むと、そっと少女に差し出した。他意はなかった。花は綺麗だと思った。
「……ありがとう」
意外にも少女は受け取った。そして……言葉を発した。私は、反応が一瞬遅れてしまった。そして、声に気付いて目を見開いた。か細い、鳥の囀りのような声だった。しかし、その一瞬の一言は私の心を掴んで離さなかった。狼狽えたまま、どういたしまして、と告げる。
すると、少女は小さく微笑んだ。花が綻びるかのようであった。少女の目には心なしか赤い血のような生気が宿った気がした。
「あなた、名前は何ていうの」
私は、いつもなら少女が答えられないことを、思わず訊いてしまった。少女は微笑んだままだった。私は落胆した。それは表には出さなかったが、研究の成功以上に胸に迫るものがあっただけ、大きかった。
「……マリア」
息が詰まった。
答えた。少女は答えたのだ。
私は不安になって、また訊いた。
「本当に話せるの。私のことは分かる」
「ええ。……あなたは、イエナ。博士が、連れてきた人」
話せるということが分かって、私は胸をなで下ろした。しかし、その分段々と少女が、マリアが疑わしくなってきた。
なぜ、最初から話さないのか。なぜ、博士とは話さないのか。マリアが声を発した時、私は目頭が熱くなった。なぜかは分からない。ただ、その分だけ不信感は募る。赤い瞳は、真っ直ぐにこちらを見つめている。
「なぜ……」
私は思いとどまった。また、マリアが口を噤んでしまったら。私に何ができるというのだろう。私の目的は墓だった。まだ、死神さえも見つけてはいない。それでも、今訊かねばならない気がした。これもまた、理由が見つからなかった。
「なぜ、マリアはずっと話さなかったの」
マリアはしばらく黙っていた。今度は、落ち着いて待つことにした。マリアは少し下を向いた。赤いリボンが揺れる。
「わたし、ずっと話せなかった。声が、出なかった。博士に、言おうとしたの。たくさんのこと」
黄金の髪が、手に持った青い花に降りかかった。
「でも、声が……哀しい声が、聞こえた。遠い所、から。響いて聞こえた。助けて、って言ってた。これは、あなたの声」
マリアは顔を上げてこちらを見た。血の色が不安そうに揺れていた。
「そうだよ」
私は、マリアの目を見て微笑んだ。もう、不信感も落胆もなかった。それどころか、墓への願望もなくなっていた。どこか、遠いところが透けて見えた。あの空の向こうの、限りない宇宙が。
「この花、綺麗だね」
私は、なぜ博士が私を指名したか、ようやく分かった。
私はマリアと食事を取った。博士から貰った弁当箱を広げる。ありふれたサンドイッチと水筒が入っていた。小さいティーカップも付いている。私はティーカップの一つに紅茶を注ぐと、マリアに差し出した。マリアは受け取ると静かに口を付けた。私も自分の分を注いだ。
おそらく、朝飲んだ紅茶と同じものであったと思う。ただ、味がはっきりと変わっていた。今は、深い香りのする紅茶の味がした。サンドイッチも、スポンジのような塊ではなくなっていた。瑞々しいレタスは口の中で弾け、肉は柔らかく沈んだ。
私は、食事中にマリアと話そうとは思わなかった。しかし、驚くべきことにマリアの方から話しかけてきたのだ。
「イエナ、は、どうして、ここに」
私はどう答えるべきか、困ってしまった。絶滅危惧星を救うためとか、協会に言われたからとか、人間を作るためとか、色々理由は考えられた。そのどれもがその通りであったが、そのどれもがその通りでなかった。私の本来の目的は、客観的に見れば酷く自己を冒涜していた。
「……ここで、死ぬため」
私はマリアの表情を伺った。怪訝な顔をするのだろうか。少なくとも、一般的な人間はそうだった。しかし、マリアの眉も口元も、静かな笑みを湛えていた。無言の肯定だった。少なくとも、そう思いたかった。
しかし、口に出してみて、死にたいという言葉は強烈な違和感を放った。私は本当にそうなのだろうか。紛れもなく、昨日の時点ではそれだけが意志だった。今ではもう、墓への欲求は影を潜めている。ただ、マリアとこの星のゆく先を見つめたいとだけ思った。
私は、いつまで生きるのだろう。
博士には、少女が言葉を発した、とだけ連絡した。少女の名前がマリアであることや、ずっと話そうとして話せなかったことは伝えなかった。感情の起伏が正常かどうかは、私には分からなかった。
研究所に戻ると、博士が出迎えてくれた。マリアを見ると、途端に顔が綻んだ。
「本当に、話せるようになったのか」
それは、私に訊いているのか、それともマリアに訊いているのか分からなかった。ただ、マリアが、うん、とだけ答えた。それを聞くと、博士は飛び上がらんばかりに喜んだ。
詳しくは研究室で訊こう、と言うと、博士は一足先に建物の中へ入っていった。私とマリアも後へ続いた。手は、しっかりと繋がれたままだ。
研究室には、昨日は見なかった新しい機械が増えていた。そのどれもが低い唸り声を上げている。博士はどこからかパイプ椅子を引っ張り出して、そこにゆっくりと腰掛けた。そして旧式のパソコンを起動し始める。
「名前は何と言うのかね」
答えるべきは、私ではなかった。
「……マリア。マリア・マグダレナ」
私はマリアの苗字を初めて聞いた。マグダレナ、という響きに覚えがあったが、それが何であるかは思い出せなかった。
「君の一家は、マグダレナで間違いないんだね」
博士は冷たい目をディスプレイに釘付けにしたまま、念入りに訊いた。マリアが肯定すると、満足そうに呟く。
「確かに、あの一家はマグダレナという名前だったよ。やはり、この子──マリアは生き残りだったのだ」
博士は何やらキーボードで打ち込むと、マリアの方に向き直った。青々とした光が、博士の半身を照らしている。また別の光がやってきて、マリアの頭に降り注いだ。マリアの髪は、やや緑がかった。
「君はなぜ、生き残ってるか分かるかい」
博士の高い鼻からは、何も読み取れなかった。小さく落窪んだ目は静かな青を宿している。マリアは小さく、たどたどしく答えた。
「分からない。……お母さんも、お父さんも、みんな、毒を飲んだ。わたしも、飲んだ。でも、わたしだけ、生きてた。わたし以外、死んでた。それから、何も分からない……」
マリアは無表情だった。しかし、底に潜んで静かにさざめく感情の波を、確かに博士は感じ取ったようだった。
博士はディスプレイをじっと見て、何度も頷いていた。何かをまた打ち込んでいる。
「感情の起伏が、微量ながらも発見できる。君がどうやったのか知らんが、ハリストスカヤ君、お手柄だ」
私はなぜ褒められたのか、疑問に思った。褒めるなら、あの青い花の美しさを褒めた方がまだ理にかなっている気がした。
「モンスターは、人間が死に至るような毒では死なないことが確認されている。どうやら、儂の仮説は間違っていなかったらしい」
博士の目は、忙しなく動いている。口を片方だけ持ち上げて、薄気味悪く笑った。私はマリアの手を強く握った。
「博士、マリアの感情が取り戻せたなら、もう人間の魂を作る段階にあるのではないですか」
咄嗟に出た言葉を、推敲なしに発した。人間の魂を作る、とは一体どういうことか、まだ理解出来ていなかった。ただ、博士がそう言っていたのだ。感情が取り戻せたら、と。
博士は無感動な目をして、こちらを向いた。青い光が瞬く。
「この子を使う」
皺だらけの指は、マリアを指していた。
翌日から、私と博士は準備を始めた。三階にある倉庫から、古い機械を研究室へと運ぶ。私たちが往復を続けている間、マリアはまた一人で遊んでいた。着ているものは入院服に戻っている。
博士は大まかに説明した。マリアを母体として、この星の人類を増やしていく、という。理論上、マリアは子を産むことが出来ない。しかし、ベテルギウスの超新星爆発で生じたガンマ線、それを模したものをマリアに照射し続ければ不可能ではない。元々、それが原因でモンスターは生じたのだ。マリアの身体に影響がないことは、博士が証明している。
私は当初、博士を疑った。マッドサイエンティスト、その言葉がお似合いに思えた。しかし、博士の真剣な眼差しは、一人の研究者の純粋な熱意を伝えた。マリアに被害がない、ということが分かって、私はようやく納得した。現に、今は博士を手伝っている。
機械を運びながら、私は思った。もう死ぬ必要はない、と。時折、私はマリアと目を合わせることがあったが、その度に小さな私は泣き止んだ。井戸の奥底で、静かな寝息を立てているのが分かった。マリアにどんな力があるのかは不明だ。それがモンスターの能力なのだ、と言われれば、その通りであるような気がした。しかし、おそらくマリアには何の力もないのだろう。その赤い目を見て、私の身体が硬直することはなかった。
私は一度、私と同じ歳のマリアを見てみたかったのだ。
準備を開始してからどれほど経過したか、最早覚えていなかった。私も博士も、夢中でコンピュータを立ち上げた。とうとう装置が完成して、あとはマリアが入るだけとなった。
私は、マリアにこのことを伝えなければならなかった。思えば、とっくに感づいていたのだろう。相変わらず感情の起伏は小さかったが、マリアは賢かった。
私が雑駁に説明すると、マリアは表情を変えることなく承諾した。
「わたしが、役に立てるなら、それで」
それだけを言った。
マリアは博士に促されて機械に入った。ちょうど、大人が一人入れるぐらいの大きさのカプセルだった。マリアが入ってから、博士は入念に蓋をした。機械に入力して、二十四時間の照射を設定する。これはテストを兼ねていた。成功すれば、すぐさま協会から送られてきた受精卵をマリアの身体に仕込み、またガンマ線を当てる。今度は十ヶ月だ。非人道的だろうか。博士は無言だった。
二十四時間の照射が始まった。私は椅子に座って、マリアの脳波を示し続けるディスプレイを見ていた。マリアは眠っているようだった。
二十時間を超えたあたりで、私の意識は突然途絶えた。
タイマーの電子音が鳴り響く。私は飛び起きた。……飛び起きた。 どうやら、眠っていたらしい。肩から、知らぬ間に掛けられた白衣が落ちた。
機械に残留したガンマ線の除去が始まった。これには約十五分かかる。私はその間に顔を洗い、マリアのために新しい入院服を用意した。博士から渡されたのは、私が着るようなサイズの服だった。
電子音がまた鳴って、機械の扉がゆっくりと開いた。ガンマ線除去剤の煙が機械から噴き出している。その白いもやの中に、私と同じぐらいの背丈がある黒い影が見えた。こちらに向かって歩み寄ってくる。
煙が途切れたところで、黄金が光った。マリアの長い髪だった。マリアは、失った時を取り戻していた。
連日の睡眠不足で死相が浮かび、黒い髪が纏まっていない、イエナ・ハリストスカヤ。美しい黄金の髪と、生気を宿した真紅の目に女性らしい身体をした、マリア・マグダレナ。この二人が同じ歳であると、一体誰が分かるだろうか。
私はボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を思い出していた。古い絵だが、未来がそこにはあった。
私はマリアに服を差し出すと、博士を呼んだ。端末で連絡を取ると、数分のうちに博士はやって来た。マリアはもう着替えていた。
大人の姿になったマリアを見ても、博士は大して驚かなかった。それどころか、妙に誇らしげな顔をしていた。
「やはり二十四時間の照射は、効果があったようだな。それでは、すぐに施術に取りかかろうか」
そう言うと、博士は私に「レオナルド」の起動を命じた。「レオナルド」は手術機械「ダヴィンチ」の後続機である。人間の手を必要とした「ダヴィンチ」に対して、これは完全にAIが操作を担っている。
私は既に研究室の隅に設置しておいた「レオナルド」のスイッチを押した。低いファンの音が響く。協会から送られてきた精子を専用の容器に入れ、機械に取り付けた。あとは、マリアが入るだけだ。
二十八になったマリア。博士に促されて、機械に近づいてくる。私は直視できなかった。ずっと大人のマリアを見たいと思っていた。それなのに、目を逸らしてしまう。私は自らの罪に自覚的になっていた。今なら、磔にされても構わない、とさえ思った。
マリアが私に罪を着せたのか、私がマリアに罪を犯したのか。それは誰が知っているのだろう。私は無神論者だ。「レオナルド」の手で受胎告知を受けるマリアを、祝福しなかった。
機械に入る直前、マリアは私を見た。目が合った。赤い目が爛々と輝いていた。そしてマリアは微笑んだ。私に向かって。私は、それに応えることができなかった。右手にあった、小さな手の感触はまだ残っていた。
無情にも機械は動き始める。私は、手近な所にあるメスを取って、博士の頭に振り下ろすこともできた。そういう考えが頭をよぎった。マリアは手術台に大人しく横たわった。施術が始まる。私と博士は、モニターだけを持って部屋を出た。
今回の施術は約一週間かかる。私と博士は、次の十ヶ月間に渡るガンマ線照射の準備を始めた。その間、私は空だった。
何ヶ月が経過したのだろう。
マリアの施術は無事完了し、ガンマ線照射の段階に入った。私は博士から、ありとあらゆる機械の使用方法を教わった。そして、それが済むと、博士はぱたりと亡くなった。協会にその旨を伝えると、私は博士の亡骸を燃やして、骨を風に撒いた。
私は博士を少なからず恨んでいた。しかし、死に際の床で、博士は私に「マリアをよろしく」とだけ告げた。横を向いて寝ていた博士の背中は、不思議と大きく見えた。私は、涙一つ流さなかった。
その後は、ただ空虚な日々を過ごした。一度は消えたはずの死への欲求が、またじわりと擡げてきた。研究室の隅に生けられた青い花は、とっくに枯れてしまっている。
突然、けたたましいアラームが鳴った。長い十ヶ月が終わったのだ。マリアが出てくる。そう思うと、私の足はすぐに動いた。服を用意する。そしてお湯、丈夫な寝台、新しい布やタオル。
ちょうど用意し終わった頃、機械の扉が開く。白い煙が蔓延する中、こちらを歩いてくる人影。お腹の辺りが膨れていた。もう少しで全てが成功する、私は確信した。
黄金の髪が見える。以前のような艶はなかった。その瞬間にマリアは倒れ込んだ。私は咄嗟に支えて、寝台へと寝かせた。生命の誕生を、この目で見るとは思いもしなかった。
博士から教わった方法を忠実に守る。その昔、産婆が出産に携わっていた頃のような方法。完全に機械化された現在において、時代錯誤なのが皮肉に思える。
頭が出てきた。顔、手、腰、脚……。マリアは必死に息をしていた。私には一生分かりえない苦痛に顔を歪めていた。そして、赤い小さな命が生まれ落ちた。それはけたたましく泣いた。私はそれを湯にゆっくりと浸した。
マリアは寝転びながらそれを見ると、笑った。指先を伸ばして、自分の子に触れた。赤ん坊は泣き止んだ。そして、笑った、ような気がした。
光を辿った先には、幸福があるという。胎内という洞窟から抜け出てきた赤子は、果たして暗闇の先で幸福を見つけることができるのだろうか。
私は、この星に骨を埋めようと決めた。
マリアとその子どもたちが、この星で過ごしていくその姿を、最期まで見届けようと思う。
To be continue……?