第六十五話 疫病のごとく、じわじわと蝕む。それがニト教なり
魔族には宗教という概念がない。
彼らの心は強く、拠り所を他に求める必要性がないのだ。善悪の基準も自分自身であり、気ままに振る舞う種族である。
それはある意味ではとても扱いにくい存在だが、同時に彼らは自らの価値観を他者に押し付けることをしないので迷惑な存在ではなかった。
意見がぶつかれば拳で語り、強い方が正しいとされる世界でもある。
基本的に、単純なのだ。そのせいで哲学的も、教義も、倫理観も、何も生まれない。
とある魔族は言う。
「神様? なんだそいつ、ぶっ殺す!」
他の魔族は言う。
「俺より強ければ言うこと聞いてやってもいいぜ?」
別の魔族は言う。
「神様? 様呼びされるのが当たり前なんて、むかつく」
こんな感じの脳みそ筋肉がうじゃうじゃいる世界である。
彼らは強い。
神様に縋るほど、弱くないのだ――
「ニト教万歳! ニト教万歳! ばんざぁああああああい!!」
――それも、今は昔の話。
現在、魔族には一つの宗教が疫病のように流行っていた。
「うるさいわね、朝から! 何よ、ニト教の信者だったら午後十一時起床を心がけなさいよ!! まだ十時三十分じゃないっ」
ニト教――神殿にて。
大勢の魔族が声を上げる中、いかにも寝起きと言わんばかりの修道女が祭壇の上にいた。
彼女はニト。ニト教の教祖様であり、現在は祭壇で寝ていた無礼者でもある。
だが、周囲の魔族は気にしていなかった。この程度のことを気にする者が、ニト教に入信できるはずがない。
「ニト様だっ……おい、ニト様が起床なされたぞ! 頭を下げろ!!」
一斉に跪き、首を垂れる魔族一同。
魔王の御前より、統率の取れた動きだった。
「まったく……何か用なの? このあたしの睡眠を邪魔したんだから、それほどの用があるのよね?」
ニトは不機嫌そうに祭壇を叩く。神に対して失礼な気もするが、この程度のことを気にするものがニト教に入信しているはずもない。
誰からも、ニトに対するツッコミはなく。
「酒を入手しました!」
「何それ詳しく!!」
信徒によるその一言に、ニトは目の色を変えた。
「先日、勇者が滅ぼした第四世界『ケセド』をご存知でしょうかっ。死霊族の世界です!」
「ええ、布教に行ったことがあるから当然知ってるわよ。でも、あいつら意思がないから誰も話を聞いてくれなかったわ……危うく死にかけたし」
「その第四世界を、我々一部の魔族は魔王様の命で調査しておりました。すると――偶然にも、酒を見つけたのです!!」
「えぇ!? あいつら死んでるくせに酒とか飲むの!?」
「いえ、どうも死霊族には、戦利品を一か所に集める習性があるようです。酒もその一部で、他世界から来た者から奪ったのだと思われます!」
戦利品といっても、中には剣などの錆びる物もあったし、食べ物など腐れている物もある。だが、お酒は腐れずに残っていたのだ。
ケセドの気温は低く、酒を保存するのにはうってつけの環境でもあったのだ。いい感じに寝かされていたのである。
「第四世界は勇者が破壊しましたが、運のいいことにその場所は無傷でした! 戦利品の中に魔法アイテムもあったので、その効果でしょう!」
ともあれ、大量の酒がそこにはあった――と。
その魔族は説明しているわけだ。
「ふーん。で、そのお酒はどこにあるのよっ。というか、よくよく考えるとそのお酒って魔王様に献上しないといけないじゃない! ぬか喜びさせるなんて……っ」
「大丈夫です、ニト様! ここに、きちんとありますのでっ」
そう言った直後、その場にいた全員が服に仕込んでいた酒を取り出した。一人からおよそ三本くらいの一升瓶出て来て、ニトの前に並べられる。
「ニト教の十戒その二『汝、お酒をたくさん飲め』を実行するために、持ってきました!」
そう。彼らはケセドの調査を厳命されていながら、欲望のために運んできたのだ。
「ちょ、ちょっと……大丈夫なの? 盗んだりしたら、魔王様が怒るんじゃない?」
「いいえ、我々は盗んでません! ただ、そのお酒が我々にくっついてきただけです! 魔王様が命じた『ケセドを調査せよ』はきちんと遂行したので、何も問題はありません!」
論理は破綻していた。
だが、酒を飲みたいという気持ちは痛いほど伝わってきた。
清々しいまでに欲望に忠実な彼らを見て、ニトは――涙を流していた。
「流石はあたしの信徒たちね! いいわ……宴会よ!!」
それは、喜びの涙。
つまり、彼女もまた酒を飲みたいという欲望に負けたのである。
「宴会だぁああああああああ!!」
そうして始まる、ニト教の宴会。
酒はいつの間にか増えていた。ケセドから取ってきたものだけじゃなく、他のも追加されている。
「ニト教万歳! ニト教万歳! ばんざぁああああああい!!」
この場の魔族は、誰もがニト教に心を奪われていた。
彼らは『欲望のままに生きよ』というニト教の教義に、強い感銘を受けた者たちである。
そもそも魔族は欲望に弱い種族なので、ニト教との相性が良かったのだ。
一度ハマると、もう抜け出せなくなる。快楽至上主義のニト教は、魔族にとって居心地の良い宗教だった。
魔族はそもそも、神を毛嫌いしている種族ではない。
一部ではあるが、神に仕えている者もいる。称号持ちでいうと、六魔侯爵の一人である『神魔侯爵』が神官である。その他、回復系の術を使う者は神を信仰しているのだ。
もともと理解がないわけではなかったのだ。
ただ、種族柄信仰が根付きにくいというだけである。
しかし、一度信仰すれば、根が単純な魔族……どっぷりと、心酔してしまうのだ。
「わははははは! さぁ、今から布教活動に行くわよ! その辺の魔族も宴会に呼びましょうっ。みんなで一緒に、酒を飲もうじゃない!!」
酔っ払った勢いで外に繰り出した一行は、手あたり次第にその辺の魔族に絡んでいく。魔族は基本的にお酒などが好きなので、断る者はいなかった。
そして、大勢で飲む陽気な酒を忘れられなくなって、ニト教に入信するのである。
ニトは戒律や教義で信者を縛ることはしない。
彼女は『快楽』によって、信者を縛る。
欲望を悪とするエルフなどには決して認められない宗教だが……欲望を善とする魔族からしてみると、まさに理想の宗教だったのだ。
現在、魔族には疫病のように『ニト教』が蔓延している。
流行り病のように、少しずつ……魔界が蝕まれていた。
「今を楽しく生きましょう! 将来なんて、将来の自分がなんとかしてくれるわよ!!」
「ニト教ばんざぁああああい!!」
刹那的な快楽を、魔族はただ貪っていく。
ニト教が国教になる日も、もしかしたら近いのかもしれない――




