第三十一話 不穏の襲来
幸せな時間というのはとても早く流れる。
魔界『ケテル』に来てからの日々は、実際には結構な時間が経っているというのに……思い返すとあっという間だった。
これも全部、魔王のおかげだ。
彼女が『隣に居ろ』と言ってくれたから、俺は幸せになれたのだ。
魔王には感謝しきれないほど、感謝している。
幸福をくれてありがとう――そう、毎日思っている。
彼女は俺を愛しているのだ。
じゃないと、こんな俺のためにここまでやってくれないだろう。それくらいは、愚かな俺でも理解していた。
大好きと、魔王はことあるごとに言ってくれた。その言葉に、どれだけの安らぎを得たことか。
俺も大好きと、言っていはいた。魔王を本心から愛していることは間違いない。
されども、俺は――魔王との関係を、未だに進展させることができていなかった。
なにが、勇ましき者だ。
大好きな人のために、何もできていない俺は……臆病者でしかない。
どうして俺はためらっているのだろう?
何が『真実の愛のために――』なのか。魔王が望んでいることを、苦しい言い訳で逃れ続ける俺は卑怯者だ。
何を恐れているのだろう?
俺はどうして、彼女の思いに……応えることができないのだろう?
魔王は俺を急かさない。
好きと言えども、だから『恋仲』になろうなどという台詞は、一度として口にしていない。
まるで俺に気をつかっているかのように。
本心では俺のことが大好きすぎてたまらないくせに、彼女は俺のために自分を抑えている。
これは自惚れなんかじゃない。魔王を見てれば誰だって分かる。
分からないやつはただのバカだ。分かっていて知らないふりをしているやつは、くだらない卑怯者だ。
つまり勇者でなくなった俺は、いつの間にか卑怯者になっていたらしい。
これではダメなのだ。
俺は幸せになると、魔王に約束した。
そして俺の幸せは、魔王なのだ。
魔王が幸せになって、俺も幸せになって、それが俺の理想である。
今のまま、ぬるま湯のような関係は俺も魔王も得をしないだろう。
だから、いいかげんに覚悟を決めないといけない。
今までは、人間のために自分を捨てていた俺が……今度は、魔王のために自分を捧げなければならない。
それは返って、俺の幸せに直結するのだから。
もうそろそろ、彼女の気持ちに応えないと。
ちょうど、そんなことを考えていた時だった――
「勇者よ、エルフが魔界に攻めてきたようだ」
不意にそれは訪れた。
幸せな日常を無粋に邪魔する、不快な事件。
セフィロトでは、こうやって種族同士が世界を争うのが常である。
抗いようのない、戦争の時間が始まろうとしていたのだ。
「我は魔王として……ケテルのセフィラとして、戦いに出る」
魔王の部屋にて。
突然、エルフの襲来を聞かされた魔王は、いつものふざけた調子を捨てて真剣な表情を浮かべていた。
俺も表情を引き締めて、彼女の言葉に頷く。
「分かった。じゃあ、俺も一緒に――」
「いや、貴様はここで待っていろ。戦いに出ることを、我は許さない」
そして彼女は、俺の言葉を一蹴した。
今まで何も役に立たなかった俺の、数少ない活躍できるであろう場なのに。
「俺が出たほうが早く終わるだろ? お前がどこかに行ってる間、一人になるとか……耐えられるわけがない」
「……嬉しいことを言ってくれるな。だが、ダメだ」
いつもなら、くいさがらなくても許容してくれる魔王だというのに……今は頑なに俺の申し出を拒絶していた。
「我は勇者を戦いに出すつもりはない」
「でも、ほら……もう魔界は俺にとっての家だからっ。万が一にでも負けないためにも、お前と同等の俺が出た方が絶対に良いと思って――」
「貴様を出すくらいなら、負けた方が良いであろうな」
魔王は、譲らない。
俺のわがままはなんでも聞いてくれたくせに、今回は聞く耳をもってくれなかった。
「勇者よ……我は貴様を、戦力としてここに招いたわけではない」
金色の双眸が、まっすぐに俺を見つめている。
思わず目が離せなくなって、俺もまた彼女を見つめ返していた。
魔王が、小さな口で思いを紡ぐ。
「ここでも、勇者である必要はないのだ」
どこまでも、俺のためだけを思って。
魔王は例え俺の意思に反しても、俺という存在を守ろうとしてくれていたのだ。
「力など、もう捨ててくれ……良いか? 前も言ったが、もう一度言っておく」
それから彼女は優しく微笑んで、俺の手をぎゅっと握ってくれた。
「勇者は、ただ幸せになってくれればいい。我の願いは、それだけだ」
――ああ、ダメだ。
そう思って、俺は言葉を失う。
そんなにまで俺のことを思ってくれる相手に対して、これ以上のわがままを言うことはできなかった。
ひたすらに深い愛情に、胸がいっぱいになってしまう。
喉が詰まったように何も言えなくなった。
魔王はそんな俺を優しい目で見て、おもむろに背伸びしたかと思えば……小さな手で頭を撫でてくれた。
「よしよし、不安になる必要はないからな。すぐに帰って来る。その時はまた、イチャイチャさせてくれ」
魔王は今、世界を……魔族を背負っている。
一族を守る、という重圧だってもちろん感じているはずなのだ。
それなのに、俺のことを気遣っている。
この思いを裏切ることは、できなかった。
「……せめて、見送りだけさせてくれ」
せめてもの気休めに、魔王は仕方ない奴だと頷いてくれた。
二人で部屋を出る。
魔王であれば転移魔法ですぐにこの場を離れることができたはずだが、なおも俺に気遣ってくれたようだ。
ありがたい。
なんて声をかけようかと、考えながら歩くこと暫く。
魔王城の外に到着すると同時、二人と遭遇した。
「あら、丁度いいじゃない。魔王様、この子がお話あるみたいだから聞いてあげてくれるかしら?」
修道服を着た小人族の少女、ニトと……もう一人は、エルフのミナだった。
たぶん、ミナがニトから色々と教わっていたのだろう。
もしかしたら、エルフの襲来を耳にしてから……魔王に何か言いたいことがあったのかもしれない。
「あのね、魔王様っ……エルフが来たって、本当なの?」
その言葉に、魔王は無言で頷いた。
途端にミナは青ざめた表情になって、ぺたりと膝をついてしまう。
「ミナの……ミナの、せいでっ。たぶん、ミナを取り返しに、来たんだと思う……ごめんなさい、魔王様」
なるほど。エルフはプライドが高く、だからこそ自種族を大切にしている。
ミナを連れ去られて、怒っているというわけか。
「ミナ、すぐにエルフのところに戻るからっ……迷惑をかけて、ごめんなさいなの」
そのまま頭を下げて、ミナは震える声を発する。
自分のせいで迷惑をかけたと、彼女は言っていたのだ。
対して、魔王は――
「おい、我の所有物のくせに、勝手なことをするな」
不敵な笑顔を、浮かべていた。
「ミナエル・エロハよ。貴様は既に我が保有しているのでな……奪おうとする略奪者は、死あるのみだ。何を勝手に戻ろうとしている? 馬鹿を言うな」
青ざめる彼女を元気づけるように、魔王は力強く言葉を放つ。
「それに、魔界は残念ながら血気盛んな輩で賑わっていてな……戦争など、祭りでしかない。今更中止にしたところで、暴動が起きるだけだろう」
故に、俺と同様にミナも勝手なことをするなと、釘を刺される。
「勇者と一緒に留守番でもしていろ。なに、大したことではない……軽く蹴散らして、すぐに戻ってくる」
そこまで言ってから、魔王はミナを持ち上げて俺に放り投げてきた。
反射的に受け止めながら、彼女に視線をやる。
「…………っ」
だが、何も言葉が思い浮かばなくて、結局は見送りの言葉も言えなかった。
「魔王様に、神の加護を……あたしが祈ってあげるわ。たぶん死なないから安心しなさい」
俺に代わって声を発したのは、ニトであった。
珍しく神職者みたいなことを言う彼女に、魔王は手を上げてありがとうを伝える。
それからもう一度、俺の方を見て――優しく微笑んだ後に、このまま消えてしまうのだった。
「【転移】」
魔王が、戦場へと転移する。
俺は呆然としたままに、胸元で震えているミナを抱きしめることしかできなかった。
「情けない顔したら、魔王様が悲しむわよ。笑いなさい、勇者」
おもむろに、隣のニトが俺を小突いてくる。
「あと、祈ってあげなさい。あんたにできることは、それだけなんだから……ま、あたしもだけどね。万が一に備えて神殿で祈っておくわ。勇者も、ミナと一緒に大人しくしてなさいね?」
彼女はそう言って、そのまま神殿の方に歩いていくのだった。
後には、俺とミナが残される。
色々と複雑な思いがあった。
でもやっぱり、ニトの言う通り俺には祈ることしかできないのだろう。
「部屋、行くか」
「…………うん」
俺もミナも、暗い表情のままで部屋へと戻る。
胸の中に、複雑な思いを抱えたままに――




