第十八話 人間の世界にようこそ
「あ、あの、勇者? 今日も、よろしくね?」
魔王の部屋にて。
赤ちゃんプレイによる羞恥からようやく回復した頃に、彼女はやって来た。
「ようやく来たな。昨日はよく眠れたか?」
「眠れた……けど、ごめんね? ミナ、気絶したりして」
「あー……気にしてないから、大丈夫だ。とりあえず、今日は出かけるぞ」
俺は立ち上がって、部屋の外に出る。
ミナは俺の後ろをついてきながら、不思議そうに首を傾げている。
「どこに行くの?」
「人間界だ。第十世界『マルクト』に、ちょっと用事があってな」
「……人間」
俺の言葉に、ミナは表情を暗くした。
彼女にとってはあまり良い思い出がないだろう。
少し前までは、あそこに誘拐されて怖い思いをしていたのだから、無理もない。
それでも、俺は人間の世界に彼女を連れて行きたい理由があった。
「これは命令じゃないから、本当に嫌ならそれでいい。でも、出来ればついてきてほしいんだけど……どうだ?」
彼女の手を握って、訴えかける。
「何かあれば俺が守る。こう見えて、魔族から人間を守っていたくらいには強いんだぞ? 安心していいから」
小さなおてては震えていたが、しかし彼女は気丈にコクンと頷いてくれるのだった。
「ん……分かった。勇者が、守ってくれるなら……ミナ、行くの」
ぎゅっと手を握り返してくるミナ。
「勇者の噂も、よく聞いてた。とっても強いって、知ってるよ? 人間はまだ怖いけど……勇者は、信じていいよね?」
温かい手は離れる気配がない。
大丈夫だと、伝えるためにも。
真っすぐな瞳に、俺もまた強く頷き返した。
「信じてくれ」
「うん。信じるっ」
この時初めて、ミナは笑ってくれた。
子供らしい無邪気な笑顔は、魔王とはまた違った趣があってなんともいえない気分になる。
ロリコンじゃなければ癒されていたはずなのに……業の深き事よ。
ともあれ、俺とミナは人間の世界『マルクト』に行くことになった。
しかし、今は転移魔法が使える魔王がいない。
別の世界に行くには、正規の手段で行くしかなかった。
「まずは『セフィロトの世界店』だな」
俺とミナは魔王城を出て、セフィロトの幹に向かって歩き出す。
どこからでも見える、天にそびえる大樹の幹だ。
俺たちセフィロトに生きる生物は、セフィロトという大樹の枝に世界を形成して暮らしている。
だが、別世界にはそうやすやすと行けるわけではない。
何せとてつもないサイズの大樹なのだ。
樹を登ればいつの間にか到着していました、なんていう距離じゃないのである。
だから、通常別の世界に行きたい場合、『セフィロトの世界店』という各世界共通のお店に行く必要があった。
どの世界においても存在するこのお店は、決まって幹の方に設けられている。
「イラッシャイマセ」
中に入ると、顔を黒い布で隠した怪しい人影が姿を現した。
この『セフィロトの世界店』というお店の主である。名前はないらしいが、一般的には『店主さん』などと呼ばれていた。
「何ヲ買イマスカ?」
カウンターの方に歩み寄ると、店主さんがカタログなる本を差し出してくる。
カタログには様々な商品が載っていた。
一例をあげるなら、魔王やタマモが愛煙していた【月花の煙草】などだろうか。
このアイテムは魔界とは違う別世界でしか生産されないものなのだが、この『セフィロトの世界店』でのみ取り扱っているのだ。
入手先などはまったくの謎。そもそもこの店主さんも謎の存在なので、俺たちは理解することを諦めている。
「あー……マルクトに行きたいんだけど」
興味を惹かれるアイテムも多数あったが、今は手短に用件のみを伝えることに。
「アイヨ。一人、白金貨一枚ナリ。二人ダト二枚デス」
そうすれば、店主さんはいつも通りの無機質な声で金銭を要求してくるのだった。
金銭を払うこと。これこそが、別世界に移動する正規な方法なのだ。
「高いね……ミナ、お金持ってないの」
提示された金額に、ミナがぷるぷると首を振る。
そうなのだ。別世界に移動するには、多額の金が必要である。
一人白金貨一枚は相当なものなので、他の種族に戦争をしかけたりする時などは人数の調整が必要だ。
だいたいは少数精鋭にしたりするのだが、それは今関係ないので割愛しよう。
ちなみに、例外は一つだけ。
第零世界『ダアト』のみは無料で行くことができる。あそこはいわゆる『地上』に分類されるため、お金は必要ないとかなんとか。
そのため、ミナが家出先に選んだのもダアトだったのだろう。
お金がなくても旅立てる唯一の世界なのだが、強力な魔物も多いので危険な場所だ。
凶悪な魔物が多数繁栄しており、何よりセフィロトの住人は魔物に嫌われている。
反面、樹上の世界は比較的安全だ。
特にマルクトなんて、そこの住人である人間が危機感をまったく持っていなかったくらい、安全で恵まれた環境だったりする。
「ねえ、勇者? お金、どうしよう……」
「俺が出すから、心配するな。金だけはある」
心配そうな顔をするミナに、俺は懐から白金貨の詰まった袋を取り出して笑いかけてやる。
魔界に来る前、半分の世界を売り払って稼いだ金だ。
魔王城ではまったく使っていないので、大量に残っている。
「毎度アリ! ドウゾ、良イ旅ヲ!」
店主さんに白金貨二枚を手渡してすぐ、俺とミナの周囲に魔方陣が展開された。
次いで、奇妙な浮遊感の後に――俺たちは、人間の世界『マルクト』にある『セフィロトの世界店』に到着する。
「イッテラッシャイ!」
店主さんは『ケテル』店の奴とそっくりそのまま一緒なのだが、そのあたりの理由は解明されていないので答えなどない。
そういうものだと認識して、すぐに忘れるのが得策である。
「到着したぞ。じゃあ、行くか」
「ん……手、離さないでね?」
ミナは俺の手をぎゅっと握りしめながら、ちょこちょことついてくる。
二人並んで店の外に出ると、最初に見えたのは――眼鏡にスーツを着た、初老の男性であった。手には白い手袋をつけている。
「ようこそ、おいでなさいました。お待ちしておりましたよ?」
丁寧な物腰で、俺とミナに深々と頭を下げている。
「魔王から話は聞いてたのか? 今日はちょっと用事があって来たんだけど」
「ええ、存じております。なので、少し挨拶をさせていただこうかと思いまして、参った次第です」
初老の男性は柔らかい笑顔を浮かべて、俺とミナに歩み寄ってきた。
「勇者っ」
だが、ミナは恐がるように俺の後ろに隠れてしまう。
それも仕方ないことだ。何せ、この男性の外見は――ほとんど人間なのだから。
「おやおや、まずは自己紹介からした方が良いでしょうな」
そいつは笑いながら、ゆっくりっと手袋を外して手の甲をこちらに向けてきた。
そこには、魔族を示す『逆さ十字』の紋章が刻まれている。
「私はタナカと申します。出身はマルクトで、見ての通りかつては人間でしたが……怯える心配はありません。きちんと魔族の洗礼を受けて、今は六魔の一角『黒魔侯爵』の地位を預かる者ですので」
厳密にいえば初老の男性――タナカさんは人間ではない。
だから、怯える必要はないと笑っていたのだ。
「人間の世界にようこそ」
そう言って、タナカさんは手を差し伸べてくる。
俺は魔族と何度も戦っている身なので、当然顔見知りだ。
躊躇いなく握手を交わして、次は彼女の番である。
「……あ、のっ。ミナ、です」
彼女も、タナカさんの自己紹介と、俺が握手したのを見て少しは安心してくれたようだ。
握手を交わして、再び俺の後ろに隠れる。
そんな彼女を、タナカさんは孫を見るように優しい目で見つめていた。
ミナは怖がっているようだが、動けない程ではないようだ。そのことにまず安心する。
何はともあれ、こうして俺とミナは人間界にやって来たのだった。




