第十七話 お母さんの擬人化
心がママを欲していた。
「バブゥ……バブゥ!」
目の前の魔王に思わず抱き着いてしまう。
勢いが強かったのか、魔王は後ろ向きに倒れてしまった。
そのお腹あたりに、俺は顔を埋める。
なんだかそうしないといけない気がしたのだ。すぐ近くに、温もりが欲しくなったのだ。
でないと、不安な感情が俺を支配するのである。
世界でひとりぼっちのような孤独感が、俺を襲う。
「おお、よしよしっ。落ち着け、勇者よ」
そんな俺を、魔王はよしよしと抱きしめてくれた。
あやすように頭をぽんぽんと叩いている。
「ママァ……っ」
無意識だった。
というか、思考に霞がかかっていて、上手く考えることが出来なかった。
今の俺は、本能に支配されている状態である。
頭がバブっているというか、とにかく幼児退行してしまっているのだ。
「んぱんぱっ」
不意に何かを口に入れたくなって、魔王のお腹を甘噛みする。
「こ、こらっ、落ち着けと言っているだろうが」
と、ここで魔王が叱るように声を上げた。
ただそれだけで、俺の中で何かが爆発してしまった。
「ふぇ……オギャァアアアアア!」
泣き声をあげながら、俺は魔王のお腹でイヤイヤと首を振る。
自分でもよく分からなかったのだが、彼女に嫌われると考えただけで胸がいっぱいになってしまったのだ。
泣いて、泣いて、魔王に縋りつく。
そんな俺は、どこからどう見ても赤子そのものだろう。
「あ! すまない、勇者よっ。怒ったわけじゃないのだ」
魔王は俺の頭を抱きながら、上下に動かしてあやす。
ただそれだけで感情がすぐに落ち着くから不思議なものだった。
「ままぁ」
今度は甘えるように魔王のお腹をすりすりする。
「よしよし、いい子だぞ」
彼女は俺の頭を撫でてくれた。小さなおててに触れているだけで、なんだか心が安らいでいく。
この感覚は、何なのか。
さっぱり分からなかった。
「うーん、見事に幼児化しちゃってますね」
また隣から、サキュバスのユメノが俺の頭を撫でてくる。
魅了の術で、俺はどうやら幼児化しているらしい。
「『素直になれ』という命令に勇者が抵抗した結果、変に作用したのだと思います」
「ほう? なるほど……幼児化は一種の自己防衛と認識するべきだな。人間の心は複雑で、強いストレスを与えると激変すると聞いたことがある。今回はユメノの魔法がストレッサーになったわけか」
冷静に分析している魔王の言葉に、頭の中の俺はようやく理解する。
これは魔法による効果ではなく、現象なのだ。
体調の変化と似たようなものなのだろう。
「恐らく、しばらくしたら元に戻ると思います。それまでは……このまま、あやすしかないですね」
魔法じゃないので、元に戻るのも早いはず――と、ユメノは予想しているらしい。
「勇者の精神は強靭であるからな。まさか二度目でもう抵抗反発するとは、やはり規格外か」
「……自分で言うのもなんですけど、性欲の抑えられた最上級のサキュバスにレジストするって相当だと思いますよ? たぶん、次からは無効化されるかもしれません」
「うむ。そうでなくても、貴様の魅了は勇者の心に相当な負担になるようだからな……使用は控える。今まですまなかったな、勇者よっ」
魔王は俺をぎゅっと抱きしめてきた。
小さな胸だというのに、その抱擁力たるや凄まじいものである。
「バブゥ……」
元から魔王は面倒見の良い一面があった。
何をする時もそばに居てくれて、ずっと目を離さないでくれる奴なのである。
母性があるな、とは感じていたわけだが。
幼児化した今、魔王の母性を今はより強く実感している。
彼女の胸の中は本当に落ち着いた。
なんというか……思い出すのである。
まだ生まれてない時、俺は母なる女性の胎内にいた。
温かい優しさで包まれていた。
生れ落ちて、幼い頃から勇者として鍛え上げられてきたために、母という存在を俺はよく知らないのだが……
魔王に出会った今、なんとなく理解できた。
彼女に垣間見える母性には、常々お世話になってきたからである。
「ママァ……まんまぁ」
「おお、なんだ? おなか空いたか?」
慈しむような態度は、まさにお母さん。
お母さんの擬人化が、魔王なのでは――と、一瞬そんなバカなことを思ってしまうくらい、魔王に母性を感じてしまったのだ。
「それで、どうするんですか? 私も、勇者様をあやすの手伝いましょうか?」
「不要だ。我一人でいい……いや、むしろ我一人でお世話したい」
魔王は、俺が思うより楽しそうだった。
なんだかイキイキしているのである。
「大丈夫なんですか?」
「問題ない。というか、今の勇者かわいい……母性がくすぐられるというか、いつもとは違った意味でドキドキするのだ。甘えられるのは、嫌いではないっ」
魔王は、こんな俺でも受け入れてくれるらしい。
優しく、まさに母のように、ダメな部分まで肯定してくれる。
こんな彼女に、オギャらないというのは無理ではないだろうか!
「…………ん~」
俺はそのまま、魔王の胸の上で目を閉じる。
強烈な睡魔が襲ってきたのだ。
「もうおねむか? 仕方ない奴だな……我の胸で、眠れ」
魔王は俺の背中を叩きながら、俺の知らない子守歌を歌う。
魔族に伝わる歌なのだろうが、聞き心地が良かった。
「ばぶぅ……」
そのまま俺は、眠りにつく。
なんだか、味わったことのないような安らぎの中で、体感した眠りはとても充実したものだった。
そして、翌朝。
「うわぁあああああああああ!!」
我を取り戻した俺は、昨夜の出来事を思い出して叫ぶ。
死にたくなるほど、恥ずかしい一夜になってしまった。
でも、恥ずかしいだけでイヤではなかったのが、なんかもう末期だなと思ってしまうのだった。
俺も順調に、ダメになりかけているようである。




