第百六十六話 名無しのゼロ
「ステラ?」
いつの間にか奇妙な覆面を被ったステラが、人が変わったような冷たい声でそう命じたのである。
奇妙な沈黙が辺りを支配した。
障壁が破れる瞬間を待っていたステラの背後にサーシャが回ったかと思うと、ポケットに入っていた覆面をステラに被せたのである。
止める間もない一瞬のできごとだった。
「――――名無しのゼロ、か!」
「寄生型秘宝だと知っていたはずなのに、警戒を怠ったわね」
寄生のスキルは覆面を被らなくても発動する。
そして名無しのゼロはサーシャのポケットのなかで決定的な瞬間をずっと待ち続けていたのである。
「ステラから離れなさい!」
「身の程をわきまえなさいディアスヴィクティナ。貴女が命令するんじゃない。私が貴女に命令するのよ」
フォウもイリスも動けなかった。
絢爛たる七つの秘宝が、自分の制御を離れたことを松田は感覚的に悟った。
「私は秘宝の主人ではない。本当の意味での製作者、秘宝の魂の鍵を握るもの。この私の命令はリアゴッド様にもお前の命令にも優先する」
「真のマスター権限ってわけか」
今のディアナたちは製作者に裏コードを入力されたようなものだ。
松田が主導権を奪い返せる可能性は零に等しい。
「さあ、ディアスヴィクティナ。あの男を殺しなさい」
「お父様…………」
殺す?
自分が松田を、お父様を殺す?
自分でも意識しないまま右腕があがっていくのを、ディアナは奇声を上げて――思い切り右手に向かって頭突きをした。
「はあ?」
「私のお父様に対する愛をなめんじゃないわ!」
「ちょ、冗談でしょ? なんで動けるの? 私の制御は完全に作用しているはずなのに――」
ありえない事態に名無しのゼロは惑乱する。
ああ、そうか。
サーシャに寄生していた名無しのゼロは、ディアナと006が融合したことを知らない。
そして松田のスキル、秘宝支配絆の存在も。
だから完全なはずの制御が不完全なことに動揺しているのだろう。
「いい加減目を覚ましなさいステラ!」
「何を言うの! 私がステラよ!」
「母親の呪いを受けてステラは前世の記憶を失った。ステラの魂は前世と同じでも、もう以前の記憶は蘇らない。だから、前世ステラのコピーである自分の人格を転写しようとしているわね? 名無しのゼロ!」
「違う! 私はステラだ! 私こそがステラになるんだ!」
「そんなコピーなんかに負けるなステラ!」
つかつか、とディアナはおもむろに松田の前に進み出ると――
「目を覚まさないならお父様は私がもらう!」
ぶちゅううううううううううううううう
――と熱烈に唇を奪った。
「ディアナなんかにご主人様は渡さないです! わふわふ」
「そんな! まだ転写が終わっていないのに……」
邪魔な名無しのゼロを破り捨てるように放り投げて、ステラもまた松田の唇に吸いついた。
千年以上の時を跨いだ、名無しのゼロとリアゴッドの計画が潰えた瞬間であった。
『造物主様!』
『なんてこと! こんなときに力が使えないなんて……』
こっそりと松田に隠れてリアゴッドを回復させようとしたグローリアだが、名無しのゼロに権限を奪われてしまったためにそれすらままならない。
星を砕くものの一撃は、名無しのゼロに止められる瞬間、わずかながらリアゴッドへと届いていた。
重傷を負って意識を失ったリアゴッドに、ノーラが冷然と剣を振り下ろした。
「次の舞台が始まる前に、用の済んだ役者には退場してもらわないとね」
そして自分もまた松田の背中に抱きついていく。
彼女にとって、次の舞台のヒロインは自分なのだから。
リアゴッドの呼吸が停止した瞬間、コリンとグローリアは魂切るような悲鳴をあげて沈黙した。
主人のいない、封印の状態に戻ったのである。
「どうします?」
ディアナに問われて松田は苦笑した。
「しばらくはそっとしておいてあげたい、かな」
主人であるリアゴッドを殺しておいて、所有権を奪うというのは松田の倫理観的にかなりアウトであった。
「どうせディアナにご主人様の子供は産めないのです。だから正妻は私のものなのです。わふ」
「それなら私が一番お似合いだと思うけど?」
「おばさんは黙ってるです。わふ」
――――なんだろう、一部名無しのゼロの人格が転写されてしまったせいか、ステラがかなりパワーアップしている気がする。
散々苦労させられたが、幼女と美少女と美女に囲まれて、好意を寄せられるのも悪くはない。
手に入れようと思えば手に入れられる。失敗してもいつでもリセットできる。
そんな人生に価値はあるだろうか。
リアゴッドが描いた理想郷は、社畜であったころなら共感したかもしれないが今は無理だ。
「――――ここまで全部あの神の思惑どおりだったら癪だな」
この新しい世界で松田は生まれ変わった。
社畜であった過去の自分を乗り越える大団円をあの神が望んでいたとは思えないが、確実にその過程を楽しんでいるはずだった。
遥か天空で全てを見守っていた神は笑った。
「ジェームズ・ボンドも言っているだろう? 退屈は人間を腐らせる、と。まだ人類は永遠を手に入れるには早すぎる」
だから神は松田をあの世界に送った。
もちろん自分が楽しむ退屈しのぎも忘れずに。
「せっかくの第二の人生を急ぐ必要はないよ松田君、僕にはいくらでも時間があるのだから」
その後大陸は激動の時代を迎え、松田はそのなかで大きな役割を果たすのだが、それはまた別の話である。
――――ただ彼が我がままに生きたことだけが、この世界での真実だ。
長い間お付き合いいただきありがとうございました。
7巻完結に伴い、飛刀アイヤーナのエピソードやディアナとステラが恋愛を意識していくイベント、ステラの父の回想、そしてシェリー、マリアナが援軍としてかけつけるエピソードなどが削られることになりました。
いろいろと書ききれなかった部分もありますが、完結させることができて満足です。
次回作にてまたお会いしましょう。




