第百二十二話 ヘルマンの戦い
ヘルマンの目覚めは最悪であった。
暗殺などという愚劣極まる任務を断り、騎士団長を解任されたヘルマンは自宅でヤケ酒を呷っていたのである。
別に騎士団長を解任されたからといって生活に困るわけではない。
ヘルマンは歴とした貴族であり、子爵の地位にふさわしい領地もある。
しかしその領地も収入も公国という母屋があってのこと。
隣国に攻め滅ぼされてしまっては領地も家族も根こそぎ奪われてしまう。
それがわかっているからヘルマンは鬱々として国家の行く末を案じるのであった。
後釜に座ったオナンは出世のためならなんでもやる男だ。
公子の命令であれば、それが国家の利益に反しようがなんだろうがやるだろう。
だからといって公子に対する忠誠など欠片もありはしない。用済みになればいつでも塵のように捨てさる。
そんな男に公国の軍権を握られてしまったことが悪い方向に出なければいいが。
残念ながらほぼ間違いなく悪影響が出るだろう、というのがヘルマンの読みであった。
「くそっ!」
二日酔いの頭痛を呪いながら、ヘルマンが着替えに袖を通すと、すでに太陽が西へと傾きかけていることに気づいた。
記憶が飛ぶまで飲んでいたので定かではないが、おそらく眠りについたのは夜明け間近であったろう。
酒臭い息を吐いて、ヘルマンはこれからのことに思いを巡らせた。
「――――また国を出るのもいいか」
武者修行と称して各国を渡り歩いた若き日。様々な強敵、挫折、そして勝利と栄光。
その記憶に今でも胸が騒ぐものがある。
同時にそれが叶わないこともヘルマンは自覚していた。
自分の帰りを待っていてくれた婚約者。子供こそいないが温かい親族、精魂込めて鍛え上げてきた部下。
すべてを捨てて立ち去るにはヘルマンには捨てられぬものが多すぎた。
「ヘルマン殿! ヘルマン殿!」
ひと際大きな騒がしいダミ声には聞き覚えがある。
公国騎士団のムードメーカーである騎士ガウスの声に間違いなかった。
「どうしたガウス?」
「おお、お休みのところ――いやいや、本当に申し訳ない」
ヘルマンの全身から漂う強烈な酒臭に全てを察したのか、ガウスは言いにくそうに頭を掻いた。
生真面目なヘルマンが深酒するほど騎士団長の解任は理不尽なものであった。
それでも騎士として伝えるべきことは伝えなくてはならない。たとえそれがどれほど残酷なものであったとしてもだ。
「申し上げにくいことながら――実は国境を突破して公都を目指してくる軍団がありまして……ヘルマン殿にはその指揮を執るようにとの命令でございます」
「侵攻? いったいどの国が相手だ?」
顔色を変えてヘルマンはガウスに尋ねた。
デアフリンガー王国にしろ、リュッツォー王国にしろ、攻め込まれたら公国などひとたまりもない。
当然ながらそれを知るヘルマンは惑乱する。
「それがどうも正体不明でして――信じられないことに七百の軍団ほとんどがゴーレムだというんです。正直斥候の正気を疑いますよ」
「――――ゴーレム? 今、ゴーレムと言ったか?」
「はあ、それが?」
「マクンバの知り合いから、途轍もないゴーレム使いが現れたと聞いたことがある」
武者修行の放浪の成果で、ヘルマンには各国に今なお時節のあいさつを交わす知り合いがいた。
その一人から、マクンバにおける迷宮の氾濫を一人で阻止したと思われる謎のゴーレム使いの存在を聞いたのである。
そういえばその男は、確か噂ではエルフで鍛冶師ドルロイの弟子ではなかったか?
「いや、待てよ!」
ヘルマンの脳裏に引っかかるものがあった。
マルグ公子が暗殺を命じたドワーフの名はハーレプストと言ったはず。
ハーレプストといえば五槌ドルロイの兄ではないか!
「そのゴーレム軍団のなかにエルフがいなかったか?」
「そういえばドワーフとエルフがいたと聞いたような……」
「間違いない。連中の狙いは――ラクシュミー嬢の奪還だ! 迷宮の氾濫を阻止するほどの恐ろしい戦力で」
公国に迷宮はないが、ヘルマンはいくつもの迷宮に探索者として挑戦した経験がある。
あの膨大な魔物が一気に地上に溢れれば、これを撃退するための戦力は優に数千に達するであろう。いや、それでも足りないかもしれない。
見かけの数以上にそのゴーレム軍団は手強いはずだ。
何より、戦わぬ方法があるのなら、損害の大きい戦いなどしないにこしたことはないのだから。
「お前は何を言ってるんだ?」
心底不思議そうにマルグはヘルマンを見た。
「件の軍団の目的がはっきりした以上、ラクシュミー嬢を解放すれば敵はつとめて公国と事を構えようとはしないでしょう。一刻も早く彼女の解放を!」
マルグのもとへと向かう道すがら、斥候からの情報をヘルマンは精査していた。
エルフの男と二人の幼女、正しくマクンバに現れたというゴーレム使いの特徴に一致する。
おそらくはこのエルフが、スキャパフロー王国での混乱と深いかかわりがあるのに違いなかった。
触らぬ神に祟りなし。すでに国境警備隊が潰滅している今、公国騎士団まで潰滅するようなことがあれば公国が亡国の危機である。
「せっかく向こうからのこのことやってきたのだ。殺すなり捕らえるなりすれば彼女もいい加減諦めるだろう」
「そのためにどれほどの犠牲が出るとお思いか!」
身分も立場も忘れてヘルマンは激高した。
まさかこれほどにまでマルグがラクシュミーに執着していたとは。この人にとっては臣下の命や公国の命運などどうでもよいことなのだろうか?
「今さら何を言う? お前たちが私のために尽くすのは当然であろう?」
心底不思議そうにマルグは言った。
尽くされて当然。ラクシュミーを手に入れるためにハーレプストが必要なら、それを手に入れてくるのが臣下の役割だと、至極当然のようにマルグは認識している。
「下手に大きな損害を被るようなことがあれば、デアフリンガー・リュッツォー両王国が黙ってみているとお思いか?」
「ならば損害を少なく達成するのが貴様らの使命ではないか! くだらぬことを言っていないでさっさと出撃せぬか!」
方針を示せばあとは現場の責任。なぜかそれを頑なに信じている経営者は多いのだ。
「たった一人の女に国運を投げ出すべきではありません」
「くどいっ! できぬのならば貴様もその家族も抗命罪に問うがよいのか!」
本気で妻や両親まで連座させそうなマルグの権幕に、ヘルマンはすべてを諦めた。
「――――御意」
一瞬本気で逃げてやろうか、とヘルマンは思っていた。
というより、どうやって部下の損害を少なくしてこの亡国から逃げ出すかを現実として考えている。
巨大な組織が崩壊するときは大抵同じ道筋をたどるものだが、無能な社員が出世して有能な社員が社を見限る。
あとは屋台骨に限界が来た瞬間に、一気に倒壊だ。
見かけは巨大で堅固そうにみえる大企業でもその例外ではない。
今の公国はまさにその岐路にいるのだが、マルグは全く気づかない。むしろラクシュミー攻略に目途が立ったと嬉々としてさえいた。
「宮仕えのつらいところですね」
気の毒そうに自分もまた肩を落とすガウスに、ヘルマンは冷たく囁いた。
「戦って勝てない相手なら、無理に命を捨てるなガウス。どうせ負けた責任は俺がとるのだからな」
はなからオナンが責任をとるなど考えてもみない。責任をとるつもりがないからこそ、ヘルマンは選ばれたのだ。
もちろん、成功したときの功績だけはもらっていくが。
報われないとわかっていても、まだヘルマンは完全には公国を見捨てていなかった。
問題なく勝てればよし。もしも敗北して任務を全うできず責任を押しつけられるくらいなら、家族を連れて逃げる。
金目のものと家財を馬車に乗せて身一つで逃げれば、まだヘルマンを受け入れてもらえるだけの伝手は残っていた。
(おそらくは負けるだろうしな……)
勝利のために命をも捨てるという覚悟が、今のヘルマンにはない。
指揮官が命を捨てる覚悟をしていない軍隊が、決死の覚悟で戦うはずもないからだ。
何よりヘルマン自身が、部下たちを死なせる覚悟が持てなかった。
指揮官というものは、いかに効率的に部下に死ねといえるかが職務である。
しかしこんな間抜けな理由で部下に死ね、とはヘルマンは言える自信がなかった。
「考えても詮無いことか。これほど大量のゴーレムと戦った経験など、大陸どの国を探してもないのだからな」
松田の操るガーゴイル型ゴーレムが、上空から公国軍の接近を発見した。
総勢およそ四千弱。公国のような小国としては破格の数であろう。
もしこの四千を失えば、もはや公国は治安維持にも事欠く有様になるはずであった。
「随分と張り込まれたな……」
「いやいや、国の心臓部を死守するのは当たり前だと思うよ?」
「でも、普通は使者を送るとか、交渉しようとするものじゃありません?」
別に松田は公国を更地にして滅亡させたいというわけではない。
ただラクシュミーを返してもらえればよいのである。
もちろん黙って大人しく返してくれるとは思っていなが。
「どうやら、その使者が来たようだね」
ただ一騎、無骨な全身鎧を身にまとい、一人の男が馬を駆け寄せてくる。
松田はゴーレムたちに道を開けさせた。
あるいは相討ち覚悟の暗殺者という線もないではないが、今の松田にはフォウという保険がある。
「――この集団の指揮官にお会いしたい。私はヴェッテルスバッハ公国騎士ヘルマン・グラウゼルである」
「――――できるね」
ヘルマンをみたノーラが小声で呟いた。
宝石級探索者であり、剣士でもある彼女はヘルマンを自分と同レベル、あるいはそれ以上の戦士と見抜いたのである。
「念のために聞くのだが、ハーレプスト殿を引き渡す気はないかな?」
「否、と答えておこう。試みにこちらも聞くが、ラクシュミーさんを返してくれる気は?」
「返したいのはやまやまだが、公子が離そうとしないのでね」
「まあ、そうだろうと思ったけどな」
所詮は下は上の意向に逆らえない。逆らうならば一切のしがらみを断ち切って辞めるしかないのだ。
現代日本と違い、この世界はそうしたしがらみを断ち切るのがひどく難しそうだった。
おそらくは目の前のヘルマンも、そのしがらみを断ち切れないばかりに意に染まぬ命令を聞いているのだろう。
「勝手は承知だが、折り入って君に頼みがある」
「どうぞ?」
マルグの理不尽な命令に、心ならずもヘルマンが身を委ねていることはわかった。
ヘルマンの頼みとなれば、それほど無体なことではあるまい。
「できれば戦わずに済ませたのだが立場上そうもいかなくてな。もし叶うなら敗北して退却する我々を追撃しないでほしいのだが」
「…………公都へは退却しないのなら」
せっかく見逃してやっても、公都へ戻れば元の木阿弥になるだけだ。兵士に上官は選べないのだから。
「もちろんそんなヘマはしないさ。兵たちにはほとぼりが冷めるまで戻るなと伝えてある」
重大な裏切り、反逆罪で処刑されても文句の言えない所業であった。
だがヘルマンは微塵も後悔していない。
こうして傍にいるだけで、深海に沈んだかのような圧迫感を感じる。このゴーレム軍団が弱かろうはずがなかった。
今後公国の運命がどう転ぶにせよ、一定の戦力は維持されなければならない。
その被害の許容できる範囲でゴーレム軍団と雌雄を決する。
それがヘルマンが悩みぬいて出した結論であった。
被雇用者であるサラリーマンのできる極限の判断と言い換えてもよいだろう。
「…………いいやつほど貧乏くじを引くのは異世界でも変わらんもんだなあ……」




