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創作私観

作者: 佐倉唯月

私は詩を書き始めて三年目、小説を書き始めて(初期のものを小説と言って良いのなら)五年目になります。それだけ続けているということは楽しいのですね、好きなのですね。そのように尋ねられたとしたら、私はきっと返答に迷うことになります。私は小説を、詩を書くこと、すなわち創作をすることを「楽しい」「好き」とは思いません。時には「苦しい」とさえ感じながら言葉を綴ります。しかし、創るという行為を止めることができないのです。

 創作とは何かしらの伝えたい意思の上に成り立つものだと私は思っています。それは決して平和や人権のような崇高なものに限りません。帰り道に月を眺めて湧いた寂しいという感情、自分の好きなシチュエーションなどという小さなことでもあります。つまり、意思を伝える手段として、話す代りに小説や詩にそれらを溶け込ませているのです。

 ここで少し話を戻しますが、私は創作を苦しいと思うこともある、と先に書きました。これは、私の「創作の概念」に由来しています。

伝えたいことを言葉で描くのが創作であるのならば、出来上がった作品は著者の感情や思考で構成されているということになります。それは裸体を晒すことと大差なく、多大な羞恥を背負うのです。

人は(特に日本人は)大抵、他人に対し己の心の内全てを見せることはありません。どこかしらに誰の目にも触れない部分を持っているものです。それは自分が周囲と違うことで、仲間内から外れないようにするための当然の防衛ゆえでしょう。しかし創作をするということは、その本来他人の目に触れない部分を自分から晒しにかかっているということなのです。

では、なぜ恥ずかしいと思いながらも創作をするのでしょうか。何かについてどうにか思うことは個人の自由ですが、それをわざわざ表に出す必要はどこにもありません。それにもかかわらず私が言葉を綴るのは、羞恥以上に、あまりに意思が強烈だからだと思います。湧き上がる感情や思考は、一人で抱えるにはどうにも膨れすぎていて、外に吐き出さずにはいられないのです。これはすなわち伝えたいという欲求です。

さて、ここで一つ疑問があがります。「なぜその手段が声でなく文字なのか」です。一人で持てないなら、友人なり家族なりに話せばことは足りるのでは、と思うことでしょう。しかし、そうはいかない理由があります。

先程私は「人は大抵、他人に対し己の心の内全てを見せることはない」と述べました。その理論に則ると、特定の誰かに言葉を宛てる会話の場合、告白でもない限り伝えたい意思に不完全燃焼が生じてしまうのです。

一方文字はというと、(これも手紙を除けば)不特定多数に向けたものなので、それを隠す必要性はありません。関わりを持たない個々である「大勢」ならば、十人十色なのですから。

こうしてこの文を書いている今も、私は恥ずかしさと鍔迫り合いをしながら、溢れた思考を文字に変換しています。そしてこれからも、しかもおそらく一生、創作をして生きていくのだと思います。創ることを止めるのは私が息絶えたときであり、私が息絶えるのは創ることを止めたときでしょう。もはや私は書かずにはいられないのです。それがたとえ、ときに苦を呈するものだとしても。

最後までお付き合いいただきありがとうございました。

あくまで私個人の考えなので「そうじゃない!」と思う方、どうかこんなものお気になさらず。作品たちが十人十色のように、創作に対する考えも十人十色です。それでいいと思います。

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