少年の日の思い出6
再生暦5008年5月
小瀧昴流――11歳
それから二週間ほど、何事もなく平穏に日常は過ぎて行った。昴流はさらに同級生たちと馴染み、今では学校帰りや休日に、大典を中心とした友人たちと街を歩いて遊ぶくらいに社交的になった。元々昴流は明るい性格だし、少し捻りのある見方や物言いを押さえれば、友人作りでは得をする人間だ。少しでも保護者的な感性を持つ人間は、昴流に手を焼いてやりたくなってしまうのである。
御堂瑛士が再びやってきたのは、桃偉が珍しく休暇で家にいるときだった。
空は灰色の雲で覆い尽くされ、日の光は一筋たりとも差し込んで来ない。不気味に冷たい風が吹き込み、細い鳴き声が聞こえる。
「うーん。決闘日和というところか」
などと呑気に呟いたのは桃偉である。彼の手には木刀が握られ、そして真正面には同じく木刀をもった瑛士がいる。
「で、また手合せに来たってことは、少しは力がついたということか?」
「たった二週間で劇的に変わるわけがありません」
「じゃあ何しに来た」
「強くなりに来たんです」
瑛士の素直な言葉に、桃偉は黙る。肩に担いでいた木刀を下ろすと、おもむろに瑛士に言った。
「瑛士。ちょっと構えてみろ」
「え?」
「ほら早く」
突然のことに驚きつつも、瑛士はいつものように木刀を構えた。それを見た桃偉が溜息をつく。
「見事に持ち方の基本すらなってねえな。我流っていうのが一目で分かる」
桃偉は瑛士の横に並び、木刀を構えた。
「いいか、まず刀の持ち方はこう。右が前、左は間隔開けて柄尻を持て。実際に握るのは左だ、右は添えるくらいでいい」
「は、はい」
「あとお前の斬撃はどれも力任せすぎる。至極避けやすい。当てなきゃ意味はないんだぞ」
桃偉は手取り足取り瑛士に剣術の基本を教え込んだ。そして小一時間もすると、瑛士もまともに刀が振るえるようになった。満足げに桃偉が頷く。
「いい感じだ。ま、騎士になりたいと言っているだけあって飲み込みは早いな」
「あ、有難う御座います。でも……どうして?」
瑛士の質問は当然だ。桃偉は明後日の方角を見る。
「強くなりたいんだったら、別に無理して騎士団に入る必要はないだろう」
「俺を……弟子にしてくれるってことですか!?」
「昼間は俺も忙しい。夕方に一時間くらいなら時間がある」
間接的だったが、それは承諾の言葉だった。瑛士はぱっと表情を明るくすると、勢いよく頭を下げた。
「有難う御座いますっ! これでもう、こそこそ団長の剣技を盗み見る必要がなくなります!」
「てめぇ、本当に盗んでいやがったか!」
昴流の分析は正しかったということだ。ふたりの稽古などどこ吹く風で庭先の花々の手入れをしていた昴流は、そのやり取りに思わず笑みを浮かべる。と、桃偉の大喝が昴流の背中に突き刺さった。
「おい、昴流! そんなところで土遊びしてないで、ちょっとこっちに来い!」
「ちょっ、土遊びって! 桃偉さんがろくに手入れをしないからやっていたのに」
「俺が花を愛でるような人間に見えるのか!?」
「折角見事な花壇があるんだから、花を植えないと勿体ないんですってば」
勿論この花壇は、昴流がすべて管理している。土を整えたのも花を植えたのも、水やりをしているのも昴流だ。早坂公爵家では庭いじりも仕事の内だったのである。
ぶつぶつ言いながら桃偉のところへ歩いていくと、桃偉は自分が持っていた木刀を昴流に差し出した。
「持ってみろ」
昴流は怪訝そうな顔をしながらもそれを受け取り、構えろと言われたので構えてみる。一応この二週間ほど学校で剣術を習っていたので、持ち方だけは瑛士より正しい。
「よし、じゃあ始めるぞ」
「ええっ!?」
ぎょっとした昴流が声を上げる。
「始めるって、僕も剣の稽古をするんですか!?」
「他の同級生より、剣の腕じゃお前は遅れているんだ。早く追いつきたいだろう」
「……そりゃ、そうですけど……」
「ひとり教えるのもふたり教えるのも、たいした差じゃない。安心しろ、俺が教えるからには絶対に脱落させない」
こいつは厄介なことになった。昴流は青褪めてそう思う。学校での武芸の勉強だけで疲れているのに、家に戻ってからも稽古をしなければならないのだ。なるべく運動したくない、などという不真面目な少年には地獄と言えるだろう。
「なら、これからは兄弟弟子だな」
瑛士が笑って昴流に言った。今までの生真面目な態度はどこにいったのか、結構な砕けようだ。まるで大典の将来の姿を見ているかのようである。
「俺は御堂瑛士だ」
「――小瀧昴流です」
「そうか、じゃあよろしくな、昴流!」
もはや逃れられないことを悟った昴流は、小さく溜息をつくのだった。
そうして嫌々ながら始まった桃偉の稽古だったが、時間が経って桃偉の斬撃を身を以って体験すると、そのすごさに気付かされる。学校の教師など比べものにならないほど、重く速い一撃だ。手加減してもらってこれだ、本気になったらどうなるのだろう。いつの間にか昴流の中には、『いつかもっと強くなったら桃偉さんと本気で試合をしてみたい』――という、彼らしくない願いが芽生えていた。当然のことながら学校での剣の授業でも、昴流はめきめきと実力を伸ばしてきていた。生まれ持った俊敏性と、桃偉仕込みの剣技に、同級生の大半は敵わない。最近、ようやく大典と「剣」で勝負できるようになってきたのが少し嬉しいことだ。
瑛士はといえば、こちらは昴流とそもそも心意気が違う。彼は本気で強くなるために稽古をしているので、その上達ぶりには目を見張るものがある。桃偉も感心しているようだ。とはいえ瑛士とは、昴流が必要以上に絡もうとしないので、あまり話をしない。ふたりで黙々と稽古に励んでいるだけだ。
桃偉が騎士団長であることなど、昴流は殆ど考えたことがない。剣の腕は確かにすごいが、ほかの騎士を知らないので比較の対象にできないし、割と家には早く帰ってくるし、仕事の内容は教えてくれない。何より昴流にとっては父なのだ。
しかし騎士というのは戦ってこそ真価を発揮する。この平穏は一時のものであって、永遠のものではない。昴流はそれを思い知ることになる。
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その日は放課後の教室で、一週間後に迫った試験のため大典の勉強に付き合ってやっていた。腕っぷしは強いが勉強はできない典型的な少年である大典は、いつも試験は下から十番内にいた。ここ最近は昴流がつきっきりで勉強を教えているので、順位は中間くらいまで上がってきている。
「……なんだこれ、どうやって解くんだ?」
「それを解くための公式があったでしょ」
「忘れたよ、そんなもの」
「しょうがないな。じゃあ簡単なやり方を教えてあげる。裏技だから、誰にも言わないでよ」
昴流はそう言って、大典にひとつの公式を教えてやる。それは多分、13歳くらいの子供が勉強する内容の公式だ。それに当てはめると、答えは暗算の範囲で出てしまうのだ。
「うおっ、すごい! なあ、これってここの全部の問題に使えるのか!?」
「違うよ。この形の問題だけだ。他のだと答えは出ないよ」
「なんだ、そうなのか。でももっと早く教えてくれよ!」
「……そうやってなんでもかんでも使おうとするだろうと思ったから、教えなかったんだよ。ちゃんと仕組みを理解して、使っていいところだけで使いなよ」
かなり難解な勉強をしているように聞こえるが、実際は十歳の子供が、しかも騎士学校で学ぶ数学である。昴流にとっては一般常識のようなもので、わざわざもう一度学ぶ必要もないことだ。
一段落したところで、大典が教科書を閉じた昴流を見やる。
「なあ、昴流ってなんでそんなに頭いいんだ?」
「なんで、って言われても……」
一番返答に困る質問である。昴流がもっと自分に自信を持っていたら、素直に有難うとでも言うところなのだが。
「なんか昴流ってさ、授業でやったことを完璧に覚えているとかじゃなくて、最初から知っているって感じがしてたんだよな」
大典は、時々この手の鋭い質問をしてくる。ただの体力馬鹿ではない。昴流は苦し紛れに、たった今思いついた嘘を口に出す。
「……実は、僕は玖暁の田舎の生まれでさ。学校には通えなかったんだけど、近所のお兄さんが頭良かったから勉強を教えてもらっていたんだ。で、今年になって皇都に住む親戚のところに引っ越して、学校に通えるようになったんだよ」
「そうだったの? じゃあ納得だな」
あまりにも純真に信じる大典に、昴流の胸にちくりと痛みが奔った。大典はその話を信じているというより、「昴流が」話した話だから信じているのだろう。それを思うと、本当のことを打ち明けない自分が卑怯に思えてくる。だからつい、昴流はそれを否定してしまった。
「嘘。ごめん」
「へ? 嘘?」
「うん。今のは、嘘だ……」
思いつめた表情の昴流の肩を、大典が叩く。
「聞いちゃいけない話だったみたいだな。ごめんよ、昴流」
「違う、大典は悪くない……!」
昴流は首を振った。ここまで自分の素性を黙っていたのは、貴族と知って大典に軽蔑されるのが嫌だったからだ。こうして仲良くなれたのに、軽蔑されたり、逆に敬遠されたりするのは嫌だ。けれどそれ以上に――大典を騙し続けるのは嫌だ。
桃偉は「なるべく話すな」と言った。絶対、とは言われなかった。昴流が大丈夫だと思った人間には打ち明けていい――そういうことだと昴流は認識している。今が、その時かもしれない。昴流はそう決心した。
「皇都の小瀧家って知ってる?」
「早坂公爵に仕えているっていう侍従だろ」
「うん。僕はその小瀧家の息子だったんだ」
あまりに急な話に、大典は目を白黒させている。
「え? だって、最初にそう聞いたとき、『国内に何人の小瀧がいると思ってる』って……」
桃偉が教師をはぐらかしたのと同じ方法で、昴流もまた同級生をはぐらかしていた。それほどまでに、皇都の小瀧家というのは有名だった。
「その時から君を騙していた。本当にごめん。軽蔑されても仕方ないと……思ってる」
しばらく黙っていた大典だったが、すぐに笑みを浮かべた。
「――貴族にも、昴流みたいな良い奴がいるんだな」
「……え?」
「貴族は嫌いだけど、昴流は好きだし、友達だ。貴族はみんな悪者だって決めつけそうだったけど、昴流がいてくれてよかった」
「大典……」
「お前が実は貴族だったのは驚いたけどさ……俺、気にしないから。だからこれからも、友達でいてくれよな」
その言葉に、昴流の涙腺が緩みそうになる。それをぐっとこらえ、頷いた。
「僕のほうこそ……有難う、大典。……君に話せて、本当に良かった」
肩の荷が下りた、と昴流は感じた。隠し事はこんなにも重いものだったということを、昴流は初めて知ったのだった。
「僕はもう貴族じゃないよ。自分の意思で、あの家から出たんだ。だからみんなと一緒だ」
「おう! じゃ、なんの問題もねえな!」
「でも誰にも言わないでくれよ」
「分かってるって。へへっ、なんかふたりだけの秘密って格好いいな」
大典は嬉しそうに笑った。勢賀大典という少年があの日声をかけてくれたことに、昴流は心から感謝していた。
学校の校門を出たところで、昴流は大典と別れた。家に帰ったら、姉さんに教えてあげよう。僕が貴族だと知っても、何も変わらないと言ってくれた友達がいるんだっていうことを。そう思いながら、学校から徒歩五分という位置にある神谷家に帰り、玄関の扉を開ける。
「ただいま……って、あれ」
家の中を見た昴流は、戸口で足を止めた。雰囲気がどことなく殺伐としているような気がしたのだ。それはきっと、ばたばたと忙しく部屋を駆けまわっている咲良のせいだろう。
「姉さん? そんなに慌ててどうしたの?」
「あっ、昴流。お帰りなさい。その、実はね……」
咲良が言いかけたところで、部屋の奥から桃偉が姿を見せた。昴流は目を見開く。
「桃偉さん! こんな早い時間に帰って来るなんて珍しいですね」
「ああ、ちょっと事情があってな」
桃偉は神妙な顔つきでそう言うと、昴流の前に歩み寄った。そして昴流の前にしゃがみこみ、目線を合わせる。
「落ち着いて聞けよ?」
「は、はい」
「青嵐軍が国境を越えて進軍してきた。まもなく戦争が始まる」
「戦争……」
自分で呟いて、ようやくその意味を悟った。はっとして桃偉を見つめると、桃偉は頷く。
「俺はこれから戦場に行く。いつまで長引くかは分からんが、まあ留守をよろしくな」
「桃偉さん……そうですよね。桃偉さんは騎士なんだから……」
「ただの騎士じゃないぞ、騎士団長だ。騎士団長っていうのはうしろでふんぞり返って命令を出すのが仕事だ。だから心配するな、ちゃんと帰ってくる」
昴流を安心させるためにそう言ったのだろうが、後ろでふんぞり返って命令を出すだけなんてことができない人だというのは、昴流もよく分かっていた。きっと最前線に出て、味方を引っ張るのが彼の役目なのだろう。
昴流は無言で頷いた。それを見た桃偉は優しい笑みを浮かべ、昴流の頭にぽんと手を置いた。その桃偉の動作が、昴流は何より好きだった。
「……なあ昴流。騎士っていうのは誇りある存在だと思うんだ。この国のすべての人を守るために戦う。己の『殺人』という業と引き換えにな。これは単純だが誰にでもできることじゃない。人を殺すのは罪だからな……俺も『人殺し』とか『化け物』と罵倒されたことは、少なくないんだよ」
「……罵倒されても、桃偉さんにとっては誇りなんですか」
「ああ。いっそ狂ってしまえば、殺人の罪に悩む必要はないだろう。だが俺たちは人間でなくてはいけないんだ。人間として戦い、命を奪わなきゃいけない。それで悩むことがあっても……ひとりひとりに戦う理由や信念がある。それを失わない限りは人間でいられる。人間でいれば、犠牲の少ない方法を探すこともできる。で、これが騎士としてあるべき姿だと俺は思っている」
桃偉は語り聞かせるようにゆっくりと言葉を発していく。
「前に、お前が騎士になると言ったら全力で反対すると言ったが……少し考えが変わった。お前の選択肢の中に『騎士』という未来があって、もしお前がそれを選ぶんだったら、俺はお前を応援する」
「どうして急に?」
「昴流が本気で騎士になりたいと思うのなら、その選択肢を取りあげるのは父としてどうかと思った次第だ。ほら、子は父の背を見て成長すると言うだろう?」
最後の最後に冗談めかした桃偉だったが、その言葉はどれも本気だということを昴流は察していた。咲良が、まとめていた桃偉の荷物を差し出す。桃偉は礼を言ってそれを受け取り、壁に立てかけてあった刀を掴んだ。
「じゃ、行ってくるな。風邪を引いたりするなよ」
ちょっとそこの八百屋まで、という気軽さで、桃偉は家を出て行った。もう平民たちの間にも出撃の報は伝わっているのか、みなどことなく落ち着きがない。そんな中悠然と歩いていく桃偉の後姿は頼もしくもあったが、見送るのは切ない気持ちになる。
もし将来昴流が騎士になったら、姉にこの気持ちを重ねて味あわせてしまうのだろう。今はまだ、自分が騎士になるなんて未来は想像できないが――いつか僕の気持ちも、騎士に傾くのだろうか。昴流はそんなことを考え、桃偉の姿が群衆の中に見えなくなっても、ずっと玄関に佇んでいた。