少年の日の思い出4
再生暦5008年4月
一週間して四月に入るころには、昴流の怪我も体調もすっかり良くなった。桃偉が留守の昼間は姉の咲良とふたりで家事に勤しみ、夜は桃偉がしてくれる土産話を聞く。やっていることは侍従の時と変わらないのに、心持ちひとつでこれだけ楽しくなるのかと驚くほどだ。昴流も徐々に生来の明るさを取り戻し、咲良も桃偉を父のように慕っていた。
その日は桃偉が早く帰ってくる日だった。昴流と咲良の間では掃除・洗濯と料理を当番制にしてあり、この週は昴流が料理担当だ。日が暮れはじめたときに帰ってきた桃偉に、昴流が声をかける。
「桃偉さん、お帰りなさい」
「おう、帰ったぞ」
桃偉は凝り固まった肩をほぐすように腕を回す。騎士団長ともなれば書類整理が多くて大変なのだそうだ。昴流は時々桃偉にマッサージをしてやっている。これも慣れたことである。
「お、もう夕飯の支度はじめてるのか。今日はなんだ?」
荷物をテーブルに置きながら桃偉が尋ねる。昴流が怪訝そうな顔をした。
「ステーキだって朝言いましたよ? ところで、肝心のお肉を買ってきましたか?」
「……うん?」
「『今日は早く帰って来られるから、市場で夕方からやっている特売に行って良い肉でも買ってきてやるよ』……って、自分で言いませんでした?」
それを聞いた桃偉の顔からさっと血の気がひいた。テーブルに置いた荷物の中から財布だけ引っ掴み、桃偉は回れ右をして玄関に向かった。
「――す、すぐ買ってくる! 言っておくが、忘れていたんじゃないぞ。今から行くところだったんだ」
そう言い訳してばたばたと出て行った桃偉の後姿を、昴流と、居間で洗濯ものを片付けていた咲良は苦笑いして見送った。
桃偉がひとっ走りして買ってきた肉は確かに上質なもので、それは昴流の手で最高のステーキに生まれ変わった。夕食の席についた桃偉が嬉しそうな顔をする。
「咲良はまだ分かるが、なんだって昴流までこんなに料理上手なんだ?」
「僕が料理できるのはそんなに意外なんですか? 料理は基礎教養ですよ」
昴流は肩をすくめた。咲良が三人分のお茶を注ぐ。
「ステーキなんて、ざっくり言えば焼くだけでしょ」
「いや、俺が焼くと黒焦げになるぞ?」
「……よくそんなので、今まで独り暮らしが成り立っていましたね」
見た目はなんでもできそうに整っているのに、どうやら生活能力は皆無らしい。このこじんまりした神谷家を、最低限文化的な生活ができるようにするのが自分と姉の使命かもしれないな、と昴流は思う。と、そこで桃偉の口から思わぬ提案が飛び出した。
「ところで昴流。お前、学校に行かないか?」
「……は?」
昴流はきょとんとする。咲良が首を傾げた。
「昴流はもう学校教育はすべて履修済みですよ」
「それは本人にも聞いた。俺が言っているのは勉強の上でのことじゃなくて、社会勉強としてのことだ」
「社会勉強?」
「お前、友達いるか?」
鋭く切りこまれ、昴流はうっと呻く。知り合いと言えば自分の家族か早坂家の主人たちだけで、同年代の友人はひとりもいないのだ。
「学校ってのは出会いの場だ。いま編入生として入学すれば、あと五年間学校に通える。まあ勉強は昴流には手ごたえがなくてつまらないかもしれないが、主席でも取っていい気分になれるぞ」
「なんで急にそんなことを?」
「急にじゃない。お前がここに来てからずっと考えていた。言っただろう、お前には自由な世界を見て、色んな選択をしてほしいって。お前が家の仕事をしてくれて助かっているが、だからといってここに籠りきりになっていては前と変わりがない」
昴流は少し考えた。俯きながらぽつりと呟く。
「一度勉強課程を修了した僕が、もう一度学校なんて行けるんでしょうか」
「黙ってりゃばれない」
「要するに騙すんですか」
「何事も柔軟な思考が大切だ」
「でも……」
「まだ心配事か?」
「学校に通うには、色々とお金の問題があるでしょう? 僕は殆どお金を持っていませんし……」
そう言うと、何をいまさら、という表情で桃偉が笑った。
「金なら俺が出す」
「そんな、悪いです」
「父親が息子の教育費を出すのは、そんなにおかしいことか?」
それを聞いて昴流は桃偉を見上げた。桃偉が肩をすくめる。
「と言ってもお前の努力次第じゃ、俺が金を出す必要はないかもしれないぞ」
「え?」
「本来編入生を受け入れる時期は過ぎてしまったが、それは俺のコネでなんとかする。そうすると今度は編入試験とやらいうもんをお前には受けてもらうことになるんだが、その成績次第じゃ特待生として奨学金が出るんだ。つまり入学金も授業料も免除」
その好条件に、思わず昴流は沈黙した。桃偉はステーキにフォークを突き刺した。本当に貴族だったのかと思うほど、食事のマナーは無視されている。昴流もそういったことは嫌いだったので、別に気にしないが。
「ただしひとつ問題がある。俺の顔が利く学校っていうのは、実はひとつしかない。だから昴流には入るか入らないかって選択しかさせてやれないんだが」
「どんな学校ですか?」
「平民向けの騎士学校だ」
その言葉に咲良が目を見開く。彼女にとって騎士とは『危険』そのものだ。可愛い弟をそんなところに行かせたくないというのがありありと見えている。
「昴流を騎士にするつもりなんですか!?」
「違う、違う。騎士学校といっても、卒業した全員が騎士になるわけじゃない。あくまでも、武芸に力を入れている学校だ。少ないが、女子も通っているしな」
つまり勉強が嫌いで運動するのが好きな子供たちが行く学校ということだ。あまり身体は動かしたくないなあ、と昴流はやや怖気づく。教育制度もあまり整っていない玖暁では、学校によって六年間だったり九年間だったり期間が異なる。桃偉が勧める騎士学校は、十歳から十六歳までの六年間。あと一ヶ月ほどで十一歳の誕生日を迎える五月生まれの昴流は、二年生として編入することになる。ところで、六年間の教育が義務化されるのは、桃偉も昴流もまだ知らないもう少し先の話――。
「それに……これからの時代は、騎士でなくとも自分一人の身を守れるくらいの武芸は習得しておいたほうがいい」
そのやけに実感こもった言葉に、昴流は真剣に考え始める。
「――とまあ、こんなところだ。あとはお前が行きたいか行きたくないかだ」
昴流は顔を咲良に向ける。咲良は微笑んだ。
「騎士学校というのが少し引っかかるけれど、学校に行くのは賛成よ。私は行きたくないけど」
「僕が学校行ったら昼間はいられないだろうし、姉さんの仕事が増えるよ?」
「ひとりでできるわよ。私、専業主婦とかって憧れだったの」
「そ、そう……?」
十六歳で専業主婦と言われても、と昴流は苦笑いする。
「どうする?」
「――行きたい、です」
そう言うと、桃偉がにっと笑った。
「そうこなくっちゃな。よし昴流、明日一日空けておけよ」
「必要なものを買いにでも行くんですか」
「いや、編入試験を受けに行く」
「嘘、もうですか!?」
先程、「俺のコネでなんとかする」とか言っていたのに、なぜもう準備が整っているのだろう。その答えはひとつ。
「……僕が行く前提で話を進めていたんですね?」
「善は急げ、ってな」
「急ぎすぎです! っていうか、ぶっつけ本番ですか!? ……もう、せめて試験科目くらい教えてくださいよ……!」
桃偉は面白そうに笑い、昴流はとても夕食どころではなくなってしまったのだった。
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翌日、昴流は桃偉に引きずられて騎士学校の門をくぐった。皇都の中層には学校や私塾が多く立ち並んでおり、騎士学校もその通りに建てられていた。だいぶ歴史のある学校だそうで、今騎士団に所属している平民の騎士は、大体がここの出だ。かくいう桃偉も貴族でありながらその肩書きを捨て、逢沢侯爵に剣を学ぶ傍ら、この学校に通ったという話だ。桃偉の母校ならそれほど心配することはないかな、と昴流もようやく腹を括った。
一晩ではたいした勉強もできず、昴流は試験勉強なしで編入試験を受けることとなった。筆記に加えて実技試験、面接まであり、後半は「聞いてないよ」とぼやきつつなんとかこなした。その場で試験官が採点し、その日のうちに合否を教えてくれたのだが――。
「……百点満点中、言語九十八点、歴史百点、地理九十五点、数学九十五点、神核学九十二点――」
渡された結果を、桃偉は朗読する。そして二枚目の紙に視線を落とした。その横で昴流は無言で佇んでいる。自分の成績は既に把握済みであった。
「実技ランク五段階評価……『筋力』三、『柔軟性』四、『敏捷性』五、『持久力』四、『跳躍・投擲力』四――」
そして三枚目。
「『言葉遣い』五、『対応』五、『挨拶』五、『所作』五――」
そこまで読んで桃偉は、横にいる昴流をまじまじと見つめて一言。
「お前、化け物か」
対する昴流も即座に反論する。
「言葉の暴力ですよ」
「いや、俺の最大の褒め言葉だ」
にしても他に言いようがあるだろう、と昴流は溜息をつく。
こんなに出来のいい生徒は初めてだ、と面接官に驚愕されながら、文句なしで昴流は試験に受かった。しかも特待生としてだ。貴族の学校に平民が、というのは良くある話だが、平民の学校に貴族が特待生として入るとは妙なことである。しかし昴流が貴族の出だというのは誰にも伝えていない。小瀧という姓にピンとくる人もいたようだが、「世界中に何人の小瀧姓がいると思っている」という桃偉の突っ込みで事なきを得た。だが桃偉の身内だと答えると必然的に貴族になるので、昴流は「桃偉が戦場で拾ってきた孤児」ということになっている。
ここまで身分にこだわるのも、この騎士学校が「平民が騎士になるために」設立された学校だからである。
貴族が騎士になるのは、はっきり言って簡単だ。親の地位が高ければ、試験や実力なしで騎士という肩書が手に入る。剣を振るうことすらできないくせに部隊長を務めるような馬鹿貴族もいるのだ。そんな人間たちだけで騎士団が埋め尽くされては困るので、平民からも騎士を登用している。地位の差は埋まらないかもしれないが、実力さえあれば文句は言われない。桃偉はそうやって、優秀な平民の登用と貴族の不正行為取り締まりを両立し、腐敗を正していっているのだ。
そういうわけで、名前だけ書ければ騎士になれるような身分の昴流が、必死で勉強している彼らに混ざるのは良いことではない。平民の彼らからすれば貴族は憧れを通り過ぎて嫉妬の対象で、良い印象は持たれない。それを防ぐために、昴流は貴族という肩書を捨てるのだ。同級生となる彼らを騙したくはないが、昴流だって仲良くしたいと思っている。余計な波風は立たせないのが最善だろう。
早速明日から来てくれと言われたが、こんなにあっさりでいいんだろうかと疑問に思う昴流だった。
諸々の手続きが終わって家に帰りつくころには、空は夕焼け色に染まっていた。粗末な門を開けて庭に入ると、そこに留守番をしていた咲良がいた。先にそれに気付いた昴流が、姉に声をかける。
「姉さん、そんなところで何をしてるの?」
「あっ、昴流。桃偉さんも!」
咲良が振り返る。その表情は困り果てて疲労の色が濃かった。それまで姉の陰に隠れていて見えなかったが、彼女の後ろに誰かがいる。桃偉が首を伸ばし、「げっ」と呟く。
「なんだ、またお前か……」
そこにいたのは、咲良と同い年くらいの少年だった。背が高く、立派な体格をしている。その腰帯には、本物の刀が差されていた。少年は桃偉に深々と頭を下げる。
「お久しぶりです、神谷団長!」
「おー、久しぶりだ。元気そうで良かった。そんじゃあとっとと帰れ」
ひらひらと桃偉は少年に手を振り、家の中に入ろうとした。すると少年は桃偉の傍に駆け寄り、桃偉を引き留める。
「今日こそ、俺と手合せをしていただけますか!?」
「無理だ、疲れた」
「では明日まで待ちます」
「明日は一日いない」
「なら明後日に」
桃偉が盛大に舌打ちしたが、少年はめげなかった。昴流は咲良にそっと耳打ちした。
「……何があったの?」
「一時間くらい前に、桃偉さんはいないかって訪ねてきたの。今はいませんって言ったら、帰ってくるまで待たせていただきますとか言って……」
「家の中に入れてやれば良かったんじゃないのか?」
「それが、入らないって拒否されたのよ。今日はお引き取り下さいって言っても首を振るし、丁度困っていたところよ」
一時間も庭で立たされていたのか。それを思うと昴流は姉に同情した。
溜息をついた桃偉は、昴流に視線を向けた。
「昴流、家の中に木刀がある。二本持ってきてくれるか」
「あ……は、はい!」
昴流は頷き、家の中に駆け込んでいった。居間の壁に立てかけられていた木刀を抱えて外に戻ると、面積だけはある庭に桃偉と少年が向かい合っていた。桃偉に木刀を渡すと、その一本を桃偉は少年の足元に放った。それを拾いながら、少年は言う。
「木刀でなくとも、俺はこの刀で……」
「お前が刀を抜くなら俺も抜くが、……死にたいのか?」
冗談とはとても聞こえない声音で、桃偉は少年を圧した。少年は生唾を飲みこみ、大人しく木刀を構える。
少年が一気に間合いを詰め、桃偉に斬りかかった。その素早い動きと正確な太刀捌きには光るものがあった。剣術に関しては素人同然の昴流が見ても、思わず声を上げてしまうほどの動きだ。だが桃偉はそんな一撃を、自分の木刀を軽く持ち上げただけで防いだ。そして、無造作にすら見えるほど大きく腕を振るった。
桃偉の木刀は、したたかに少年の肩を打っていた。少年は苦痛の声を上げ、肩を押さえてうずくまる。たった一撃。これだけ短時間で終わる試合も珍しい。
桃偉が騎士団長で、とても強いということは勿論昴流も知っていた。だが実際に彼が戦っているのを見たのはこれが初めてだ。そして、その強さが本物であるというのも、昴流は実感した。
桃偉は木刀を下ろし、少年を見下ろした。
「木刀でなければ、今の一撃でお前は確実にあの世行きだ」
「っ……」
「もういい加減に理解しろ。戦場はお前が考えているほど甘くはない。刀というのは殺しの道具だ。殺し合いと決闘の区別もつかないようなお前に……ただ強くなりたいという、漠然とした理由だけで騎士の名を望むお前には無理だ」
「それはただの差別だ! 貴族のように、戦うことすらできない者が部隊長を名乗っている。神谷団長はそれを正して、平民の登用枠を作ってくださったんでしょう!? 皆が一様に、国家のためにと願っていなければ騎士にはなれないのですか!? 俺の知り合いは、ただ『稼ぎが良いから』という理由で騎士になった! それを許したのは、他でもない貴方だ!」
痛烈な反論で、客観的に聞いている分には少年の言い分は正しいような気がした。だが桃偉は取り合わなかった。
「お前が俺に一撃叩き込めたら、お前の熱意を認める。最初に交わしたその約束は違えない。早く俺に刀が届くように精進しろ」
少年はまだ何か言いたそうだったが、一応「もう一度来い、そうしたら相手をしてやる」と桃偉は言っている。それをくみ取ったのか、少年は立ち上がって桃偉に頭を下げると、踵を返して去って行った。