少年の日の思い出3
再生暦5008年3月
小瀧咲良――16歳
翌朝、例にもれず早朝に目が覚めた昴流はベッドの上に起き上がった。よほど適切な治療だったらしく、胸の傷はそれほど痛まない。神谷桃偉の姿は室内にはなく、なんだかしんと静まっていた。
改めて部屋の中を見渡す。使用人としてあてがわれた昴流の自室ではなく、どこかの客室のようだ。こんなところを使ったと他の者に知られたら、さぞ怒鳴られるだろうな――と昴流は他人事のように思う。
とりあえず着替えておこうとベッドから降りたとき、急に部屋の外が騒がしくなった。昴流がはっとした瞬間、客室の扉が勢いよく開かれた。
「……! 小瀧昴流! 貴様、こんなところに……!?」
「――若旦那さま?」
現れた人物を見て、昴流は意外に思った。この神谷家の当主の息子――桃偉の説明通りなら、彼は桃偉の弟なのだろう。若旦那とは昴流はあまり顔を合わせたことがない。そんな相手がまさか昴流を知っているとは思わなかった。
若旦那は大股で昴流に詰め寄ると、その胸倉を掴んだ。咄嗟のことで昴流も反応できない。小柄な昴流の身体は、巨躯を誇る若旦那の太い腕で持ち上げられてしまう。
「貴様、自分のやったことが分かっているのか……!?」
「っ……なんの、ことでございますか……?」
息が詰まりそうになりながら、昴流は問い返す。すると余計に締め付けが強くなった。
「すっとぼけるな! 貴様が早坂家の密偵だったっていうのは分かっているんだ、貴様が地下の奴隷たちを逃がしたんだろう!?」
――どうやらこの若旦那は、昴流が本当に密偵だったと思い込んでいるようだ。それを口実だと知っているのは、神谷家の当主だけか。それだけに、若旦那は自分から奴隷がいたということをばらしてしまっている。
視界に白い靄がかかり始める。意識が途切れようとしている証拠だ。
いつもなら、「申し訳ございません」と言うところだ。だが――もうやめにしよう、と決めた。その場しのぎの言葉ではなく、自分の意思を言葉にしたい。
「僕は……僕の思うままに、行動しただけです……そんなに必死になるってことは……悪いことだっていう自覚は、あったみたいですね……」
「……っ、この糞餓鬼が!」
昴流の身体は壁に叩きつけられた。その瞬間、胸に激痛が襲った。傷口に酷い衝撃が奔り、昴流は力なく床にうずくまる。
若旦那がさらに歩み寄り、昴流の胸元に足を乗せた。昴流は咳き込み、少量の血を吐き出した。あまりの激痛に、今度こそ気を失いそうになる。
「――そのくらいにしておけ」
部屋の戸口からそんな声がかけられ、若旦那が振り返る。そこには神谷桃偉が佇んでいた。
「なっ……桃偉兄上!? なんでここに……」
「色々と勘違いをしているようだが、その少年は早坂家の密偵ではなく、俺が個人的に捜査協力を依頼した少年だ。そして地下の人々を解放したのは、この俺だ」
前半部分は桃偉の出まかせだ。それで彼は、昴流と昴流の家族を守ろうとしてくれている……。
「兄上が、奴隷を……?」
「本日二回目、だな」
「は?」
「『奴隷』。お前らが裏でやっていたのは、人身売買か」
知っているくせに白々しい、とは昴流しか思わない。若旦那もようやく、嵌められたことに気付いたらしい。
「お前の言葉、しかとこの耳が聞き届けた。せいぜい言い訳でも考えておくんだな」
桃偉の冷たい笑みは、見る者を凍りつかせるほどの力があった。真っ青になった若旦那は、桃偉を押しのけるように部屋から駆け出していく。勿論桃偉はひらりとそれを避ける。そしてすぐさま倒れている昴流のもとに駆け寄った。
「昴流、大丈夫か!? 遅くなってすまなかった……」
桃偉に抱き起された昴流は、薄く目を開ける。
「……桃偉、さん」
「ん? どうしたんだ?」
「初めて……だったんです。僕……ああやって、反論したの……もう、謝るだけなのは、嫌ですから……あれで、良かったんですよね……?」
桃偉は微笑み、頷く。
「ああ……良いんだ。お前は正しいことを言った。胸を張れ」
昴流はほっとしたように息を吐き出し、そして気を失った――。
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「――ぅ……?」
昴流は自分の呻き声で目を覚ました。ゆっくりと視界が明るくなっていく。
「昴流! 目が覚めた?」
聞き慣れた声がして、昴流は一瞬で覚醒した。声がしたほうを見やると、そこには姉の咲良がいた。
「姉、さん……? なんで……」
昴流はきょとんとしたまま、部屋を見渡す。嫌でも見慣れた早坂公爵家の自室でもなければ、神谷家の部屋でもない。屋敷と言うより、平民の家の一室だった。豪華さはないが、木の香りが落ち着く。新築っぽいな、とぼんやり昴流は考えた。
「ここは?」
「神谷桃偉さんの家よ」
「!?」
今度こそ昴流はぎょっとした。その時部屋の扉が開き、桃偉が姿を見せた。何ともラフな和服姿だ。
「よう、起きたか?」
「桃偉さん……!」
桃偉が歩み寄ってくると、入れ替わりで咲良が立ち上がった。台所を借ります、と言って咲良は出ていく。桃偉は頷きながら、それまで咲良が座っていた椅子に腰を下ろす。
「驚いたか?」
面白がるようなにやにや笑いを、桃偉は浮かべる。いや、実際面白がっているのかもしれない。
「お前が気絶したあと色々と悶着があったんだが、最終的に奴らは人身売買を認めた。こうなっては言い逃れはできないからな、裁判に持ち込んでいくらか権力を奪うことはできるだろう」
「そうですか……」
「で、昴流は俺が捜査協力を頼んだ少年だ、とか言ったから、お前を引き取らないわけにはいかなかったわけだ」
「……そう仕組んだんでしょう?」
「ご明察」
桃偉はあっさり認めた。
「早坂家に部下を送って、お前の姉さんも誘拐してきたことだし」
「ゆ、誘拐!?」
「昴流が怪我をした、って言ったらついてきてくれたぞ。勿論、事情は説明してあるから心配するな」
「よく……姉が分かりましたね?」
「ちょっと調べればすぐ分かることだ」
そこまで言った桃偉は、おもむろに腕を組んだ。
「お前の母親……逢沢侯爵家の息女だったそうだな?」
「はい」
「逢沢侯爵は、俺が剣の教えを受けた師だ。多分、お前の母親とも会っている」
昴流は目を見張った。逢沢侯爵家は騎士の家系で、侯爵自身も騎士団の部隊長だった。だから桃偉がその弟子でもおかしくはないが、これはなんという巡りあわせだろう。
「だから提案すると言う訳でもないんだが……お前、俺の家族にならんか」
「え……?」
「ああやって啖呵を切った手前、もう早坂家には戻れない。お前はあんな悪の巣窟に籠っていないで、自由な世界を見るべきなんだ。貴族に仕えているだけでは分からない平民の暮らしを知れば、お前には色々な選択肢が生まれる。一生侍従っていうのは嫌だって言っていただろう」
昴流はゆっくりベッドの上に身体を起こした。散々若旦那に暴力を振られたせいで、前より痛みが酷くなっている。若干顔をしかめながら、昴流は口を開く。
「――どうして桃偉さんは……そんなに僕のこと、気遣ってくれるんですか」
「さあな……強いて言えば、昔の俺と似ているからかもしれないな」
「昔の桃偉さん……?」
「いつの時代も貴族が腐っているのは変わらない。子供のころから俺は、貴族って肩書きが大嫌いだった。平気で不正行為を繰り返す父親も大嫌いだ。この閉塞感に耐え切れなくなって、俺は家を飛び出して騎士になったんだ」
桃偉は昴流に向きなおった。
「お前が仕えていたのは、お前の母の一族を殺した仇だ。そんな相手に、自分の心を殺してまで従う必要はない。お前はもう……自由に生きるべきなんだ。俺が傍で、お前の未来を見守ってやる」
「!」
そう言われた時、昴流の中で何かがほどけたような気がした――。
視界が霞んでいる。それを不思議に思う間もなく、毛布の上で握りしめていた拳の上に、小さな滴が零れ落ちた。一滴だったそれは、二滴、三滴と増えていく。
「自由に生きて――良いんですか」
くぐもった声で尋ねると、桃偉は大きく頷いた。それが合図だったかのように、昴流の頬を涙が伝った。桃偉は身を乗り出すと、昴流の小さな身体を抱きしめた。
「……やっと、子供らしい顔をしたな」
「……え……?」
「これからは我慢する必要なんてない。嬉しいときは笑って、むかついたときは怒れ。怖かったら怖がっていい。泣きたかったら泣いていい」
子供にしては、なんて陰のある子だろう。それが桃偉の、昴流の第一印象だった。幼くして闇を知り、陰謀を知り、策略と裏切りを知っている目をしていた。子供にそんな顔をさせてはいけない。桃偉はその一心で、なんとか昴流の心を溶かしてやろうとしてきた。
どうやらそれは、成功したらしい。腕の中で泣きじゃくる昴流を見やり、満足げに桃偉は笑みを浮かべた。
昴流が幾分か落ち着いて泣きやんだ頃、咲良がスープの皿を乗せた盆を持ってきた。口を開こうとした咲良だったが、桃偉が昴流を抱きしめている光景を見て唖然とした。昴流がそんな風に、誰かに触れられることを良しとしているのは初めて見たのだ。
「昴流……」
ようやく弟の名を呼ぶと、昴流は目元を拭った。若干目が赤くなっているが、その顔に浮かんだのは明るい笑顔だった。
昴流が、笑ってる――皮肉っぽい笑みや、無理に作った笑みは、よく見ていた。だけど、こうにも心から嬉しそうな笑みは、久々に見た。
「姉さん。僕、侍従はやめる。ここで生きることにするよ」
昴流のその言葉に、咲良は微笑んだ。
「そうね……それが良いと思うわ」
「うん。姉さんは……どうするの?」
「あら、私もここでお世話になります」
「え?」
昴流が目を見張る。咲良は片手で、部屋の隅に積まれた荷物を指差す。
「見ての通り、私と昴流の荷物は全部こっちに移してあるのよ」
「い、いつの間に……っていうか、最初からこうするつもりで……?」
桃偉を見上げると、桃偉はにっと笑った。
「まあいいじゃないか、細かいことは」
「……ちょっと待ってください、それじゃ、僕と姉さんは早坂家から逃げ出したってことになるんですか?」
「いや、俺が誘拐したことになってる」
「ええっ!?」
「安心しろ。追っ手が来たとしても、この騎士団長・神谷桃偉の家の敷居は絶対に跨がせない。そんな無礼者がいたら返り討ちにしてくれる」
昴流は溜息をついた。これから先のことを考えると、なんだか頭が痛くなりそうだ。
ああ、眩暈までしてきた――。
「……昴流!?」
のんびりとしていた桃偉の声が緊張味を帯びた。それを聞いて昴流ははっと我に返る。どうやら後方に倒れかけてしまっていたようだ。桃偉の腕が昴流の身体を支えていた。
「どうした、傷が痛むか!?」
「いえ……なんかほっとしたら、急に力が抜けて……」
言い終わる前に、昴流の言葉は咳で阻まれた。桃偉は昴流の前髪を搔きあげると、その額に自分の手を当てた。
「熱が出てきたのかもしれないな。咲良、悪いんだが台所の棚に薬箱が入っている。持ってきてくれるか?」
「はい!」
咲良がスープをテーブルの上に置いて駆け出していく。桃偉はそっと昴流から手を離すと、その盆を引き寄せる。
「スープくらい喉を通るか?」
「多分……」
「じゃあ少しは何か食ったほうがいい。食い終わったら薬を飲んで寝ろ」
昴流は頷き、咲良が作ってくれたスープを口に運ぶ。彼女の料理は久々で、懐かしくて優しい味がした。なんとかスープを完食すると、咲良がもってきた薬箱から桃偉は迷わずに小瓶を取り出した。小瓶の中には緑色の液体が入っている。
「こいつは俺が懇意にしている薬屋が調合したものだ。効果のほどは保証するから、ほれ、ぐいっと」
瓶の栓を外した昴流はしばらく逡巡していたが、やがて一気に薬を飲みほした。途端に昴流は渋い顔になる。
「……まるで草そのものを食べてるみたいだ」
「美味しい薬なんてあるわけないだろう。にしても、そんなに苦いか?」
「いえ……いつだったか、お嬢様に食べさせられた炭のクッキーより、余程マシです」
それを聞いた咲良が思わず吹き出す。昴流が言った「お嬢様」とは、早坂家の若旦那の幼い娘のことだ。六歳だったが、まだ貴族の特権意識は芽生えていなかったらしく、割と侍従たちと仲良くしていた珍しい子だ。歳が近かった昴流がお守りを任されることが多かったが、クッキーを焼いたから食べてみてと言われて差し出されたものを見て、昴流は愕然としたものだ。もはや食べ物とは言えないくらいに炭化したそれを差し出しながら、「早く食べて」と急かされてはたまったものではない。じゃりじゃりと苦いクッキーを食べて、表情を繕いながら「美味しくできていますよ」と言うのは至難の業である。しかも相手は悪意があったわけではなく、ただ無邪気に感想を聞いて喜んでいたのだ。そのあと、昴流が体調を悪くしたのは言うまでもない。
口直しの水を飲んだ昴流は、咲良に促されてベッドに横になる。と、急激な眠気が襲ってきた。瞼を持ち上げているのが非常に辛い。
「眠気は薬の効果だから、気にするな。寝ろ、昴流」
ぼんやりと桃偉を見た昴流は、諦めたように瞳を閉ざした。
規則正しい寝息が聞こえてきて、咲良はほっと息をついた。そして桃偉に向きなおる。
「桃偉さん、本当に有難う御座います。昴流だけでなく、私まで助けていただいて」
「なあに、気にするな。どちらかというと、昴流のことは巻き込んで利用してしまったからな」
咲良は首を振る。
「それでも救われました。これから私たちでお役に立てることがあったら、なんなりと申しつけてくださいね」
「申しつけるって……そういう侍従生活が嫌で、お前らはここに来たんだろう。それじゃ逆戻りだぞ」
「あら、仕事として強制されるのと、自分から好きでやるのではだいぶ違いますよ。お世話になるのに何もしないなんて、私も昴流も納得できません」
困ったように髪の毛を掻き回した桃偉は、「ああ」と何かを思いついたらしく声を上げる。
「なら、ふたりでこの家の家事を頼むよ」
「家事?」
「掃除とか料理とかだ」
「騎士団長の邸宅ともなれば、使用人のひとりやふたりはいるものだと思っていました」
「だから、俺はそういう権力が嫌なんだって。いまはここで独り暮らしだ。掃除や洗濯はともかく、料理だけはてんで駄目でな……家事を引き受けてくれるなら、とても助かる」
咲良は微笑んだ。
「分かりました、お引き受けします。元々そういうのは得意分野ですから」
「そうか、じゃあよろしくな」
桃偉は頷く。そして昴流に視線を戻した。じんわりとその額には汗が滲んでいる。薬の効果が発揮されるより早く、急激に熱が上がってきたようだ。先程までは静かだった呼気も、荒く短くなっている。
「――あまり、体調は崩さない子なんですけど……緊張の糸が切れたんでしょうね」
咲良は呟きながら、タオルでそっと昴流の汗を拭ってやる。桃偉は椅子から立ち上がった。
「さてと、さすがに俺も腹が減ったな。明日になれば昴流も元気になっているだろうから、俺たちも飯にしないか?」
「そうですね。じゃあ、私が作ります」
「今日はいい――と言いたいところだが、俺の壊滅的な料理を食って腹を壊されちゃたまらないからな。悪いが、頼む」
咲良は苦笑し、頷いた。