少年の日の思い出2
再生暦5008年3月
神谷桃偉――37歳
昴流への対応は、日に日に酷くなっていった。侍従の同僚たちからもそうだが、神谷家の人間からの暴力が増えたのだ。茶の味が気に入らないという理由で平手打ちされたことは数知れず、少しでも手を止めようものなら罵声が飛ぶ。そのたびに昴流は「申し訳ありません」で凌いだ。まともな人間なら精神的にも肉体的にも耐え切れなくなっていて当然である。昴流だって平気なわけではないが、逃げたくないという意固地があるのでまだ辛抱している。だがどうやら昴流に死んでほしいわけではないらしく、食事も出るし一応休息ももらえるのが救いだった。
昴流を痛めつけて何の得があるのか――早坂家と神谷家は、仲間とでもいうべき間柄だ。ふたつの家で協力し、財政を独占している。勿論、良い協力ではない。そんな同盟相手から送られてきた侍従を痛めつけるのはなぜか。
ひとつは、神谷家が早坂家を蹴落とそうとしているということだ。早坂家からの侍従が何か不祥事を起こせば、それは小瀧家の責任。その責任は、早坂家の責任でもある。そうやって早坂家を追い落とし、富を独占しようとしているのかもしれない。
もしくは、昴流本人に恨みがあるのか。いや、昴流本人とは言わない。小瀧家か――昴流と咲良の母親の関係か。
これらすべての可能性を考えたほうがいいかもしれない――と昴流は、とても子供の考察できることではないことをいとも簡単に考え出してしまう。
このまま引き下がるわけにはいかない。こちらも何か、言い逃れのできない証拠を探しておこう。実家に愛着はないが、さすがに死んでくれとまでは思わない。問題ごとになったとき、せめて対等な取引ができるくらいの材料がほしい。
そうして昴流は、休憩時間の合間に広大な屋敷を隅々まで歩いて回った。そんな元気は本当はないのだが、昴流もよく分からない衝動に駆られてあちこちを調べていたのだ。「何かありそう」――というのが行動の理由かもしれない。
昴流がその部屋を見つけたのは、調査を始めて一ヶ月が経った頃だ。広いうえに休憩時間も短いので、これだけの日数がかかってしまった。
基本的に昴流が立ち入りを許されていない厨房の床――絨毯に隠された扉を見つけたのだ。人がいなくなった深夜を見計らい、昴流はそっとその扉を持ち上げてみる。するとそこには、地下へ降りる階段があった。これだけの規模の屋敷なら地下室やら隠し部屋やらが無数にあると思って間違いない。そう思って、壁や床を重点的に調べた結果だ。
頼りは手に持っている小さな神核のみ。だが昴流は臆することなく、階段を降りて行った。左手を壁に当て、右手に持った光の神核で足元を照らす。照明の類は一切なく、とても生活できる空間ではなさそうだ。
階段が終わると、一直線に廊下が続いている。しばらく進むと、目の前に扉が現れた。鉄製の重そうな扉で、閂がかけられていたが簡単に解除できるものだった。昴流はゆっくり閂を外し、ノブを掴んだ。そして扉を引き開けた。
その途端――。
「……っ、この奴隷商人が! 覚悟ッ」
「!?」
若い男性の怒声が響いた。昴流の視界は、室内から飛び出してきた風の塊だけを辛うじて捕えていた。次の瞬間には、胸部に激痛が走る。昴流の手から神核が落ち、光が消えた。
「うっ……ぐ、ぁ……ッ!?」
昴流は呻いて地面に倒れた。このときばかりは、自分の軽率さを呪った。すると、目の前に立っている男性が戸惑いの声をあげた。
「な……子供、か……!?」
自分の身に一体何が起こったのだろう。胸が痛い。痛いなんてものではない。
これほど強く、死を意識したことはいまだかつてない――。
「――おい、そこに誰かいるのか?」
これはまた別人の声だ。昴流が地上から降りてきた廊下を、誰かが歩いてくる。侍従の誰かだろうか。だとしたらまずいのだが――。
「! あんた、誰だ……見ない顔だな」
男性が誰何する。
「安心しろ。俺はお前たちを助けに来た……」
そんな言葉が聞こえる。だが昴流は声を認識するのが精いっぱいだった。すると、そんな昴流の身体を誰かが抱き起した。それは「助けに来た」と言った男性のものだった。歳は――三十代半ばか。
「大丈夫か、坊や!? すぐ治療するからな……!」
昴流はうっすらと目を開ける。だが霞んだ視界には、人間の輪郭しか映らない。
「……申し、訳……ありま……せ……」
条件反射で、決まり文句を口にしてしまう。男性が何か言ったようだが、昴流の意識はすでに闇に落ちていた。
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「……ッ!」
声にならない苦痛の呻きが聞こえる。それが自分の口から発せられたものだと気付き、昴流ははっと目を覚ました。
「目が覚めたか?」
そんな声が聞こえ、昴流は声がした方向を見やった。昴流が寝かされているベッドの傍に、ひとりの男性が座っている。まだ夜明け前らしく、室内は薄暗い。
「貴方……は?」
昴流が掠れた声で尋ねる。男性はうっすらと笑った。
「神谷桃偉だ」
「……神谷!?」
昴流は目を見開いた。神谷姓ということは、この家の人間ではないか。痛む身体を無理矢理起こすと、桃偉が支えてくれる。
「おいおい、大丈夫か」
「申し訳ありません……神谷さまの御前で、ご無礼を……!」
非礼を詫びると、桃偉は渋い顔になった。
「なんで俺に謝るんだ? 怪我をしたのはお前で、お前には一切非がないぞ」
「それでも……」
「俺はお前が思っているような人間じゃない。お前を殴りつけたりしないから、安心しろ」
そう言ったのは、昴流の傷を治療したときに、体中に痣があるのを見たからだろう。あれは一目で暴力によるものだと分かるはずだ。
「それと、神谷さまなんて大層な呼び方をしなくていい。名前で呼んでくれ」
「……桃偉、さん」
「ああ、それでいい」
桃偉はにっこりと笑った。その笑顔は若々しく、均整のとれた体格は非常に頼もしい。
「で、お前は? この家の侍従か」
「……小瀧昴流と申します。神谷家には修行のためにお世話になっています……」
「小瀧というと、早坂公爵家の侍従一族だったな。そうか、もうそんな時期か……それで昴流は、あそこで何をしていたんだ?」
あまりに違和感なく名前を呼ばれたので、昴流は驚いた。大貴族である神谷家の人間なのに、この人は違う。やっと昴流はそのことを認識できた。が、あっさりと胸の内を明かすわけにもいかない。
「単なる好奇心です」
「嘘つけ。単なる好奇心で深夜に厨房に入って絨毯めくって、隠し扉があったから降りてみようと思うのか。あげくに殺されかけて」
にべもなく一蹴された。桃偉はぐりぐりと昴流の頭を小突く。
「くえない坊やだな。子供の過ぎた遊び心で話を済ませようとしてるな?」
「っ……い、痛いです」
昴流はそう言って桃偉の手から逃れたが、その行為はごく自然な動作で、別に不快なものではなかった。父親がいたら、あるいは――という気持ちにさせる。桃偉の年齢的には、昴流の父親だと名乗っても問題なさそうである。
「ほら、じゃあ正直に話せ。お前は何を探していたんだ?」
「……不正行為の証拠、です」
「証拠?」
「元々神谷家は、財力では早坂家に一歩及びません。けれど執拗に僕を追い詰めようとしているのは、僕が何らかの問題を引き起こして、その責任を早坂家に取らせるためとしか考えられない。格下が格上に楯突くのは、相手の協力なしに金稼ぎできる手段ができたからもう必要ない、ということでしょう? その金稼ぎが合法的な商売であるはずがないんです。だから、神谷家の弱みを握るつもりであちこち探していました」
協力相手は、裏を返せば最大のライバルである。早坂家はどうにかして神谷を切り離そうとしていただろうし、神谷も早坂家を下してのしあがりたかったはずだ。
そこまで説明すると、ぽかんとしていた桃偉がまじまじと昴流を見つめた。
「……お前、歳は?」
「あと二か月で十一、ですけど……」
「学校は?」
「行っていませんが、皇立学園の卒業認定証ならもらってあります」
皇立学園は玖暁最難関の学校だ。十五歳で卒業だが、そこの卒業認定証をもらっているということは、十歳にして昴流は十五歳までの勉強をすべて終えたということだ。国内最難関の学校で、だ。
「……俺の部下の何万倍も頭が回るな。道理でなんだか達観した坊やだと思った」
桃偉が困ったように髪の毛を掻き回す。昴流は身を乗り出した。
「桃偉さんは、一体何者なのですか? ここに来てお会いしたのは初めてですよね……?」
「ああ。俺は神谷家当主の長男だ」
「つまり、次期当主?」
貴族の跡取り息子とはとても思えないので驚いてしまった。すると桃偉は首を振った。
「いや、継承権は俺を飛び越して弟に移った。言ってしまえば、俺は勘当された身だ」
「勘当?」
「今の俺は、玖暁皇国騎士団の団長だ。権力を嫌った変わり者の騎士だよ」
数秒間沈黙した昴流は、ようやくその意味を悟った。騎士団の団長、つまりこの国で最強の騎士。それが神谷桃偉なのだ。
「俺は騎士として、貴族どもの悪行を暴いて回っている。今回この屋敷に来たのも実家帰りというわけではなく、昴流と同じように不正の証拠を探しに来たんだよ」
息子が父の悪行を暴く。今の社会の体制的に、悪者扱いされるのは桃偉のほうだ。それでも彼は、たったひとりで悪の巣窟へ足を踏み入れたのだ。
「お前が睨んだ通り、この家では不当な金稼ぎをしている。人身売買をして、地方で捕えた人間を奴隷として他貴族や他国に売りつけているんだ。その儲けができたから、早坂を切って捨てようとしている。この後はお前の推測通り、お前を追い込んでボロが出るのを待っていたんだろう」
「奴隷……」
「あの地下に捕らわれていたのがそうだ。あの暗がりでは無理もないが、あいつらはお前を神谷家の人間だと思い込んだんだろう。で、こいつで一突きだ」
桃偉が取り上げたのは、先端が鋭く削られた木の杭だ。あの地下室にあった木の板か何かを、丹念に削ってまるで刃物のようにしたのだろう。先端には血がついている。こんなもので刺されてよく無事だった、と今更に昴流は恐ろしくなる。
「あの人たちは、どうなったんですか?」
「全員逃がした。屋敷の外に待機させていた俺の部下たちが、安全な場所まで連れて行ってくれたはずだ」
それを聞いて昴流も少しほっとした。それから自分の胸元に手を当てる。そこには白い包帯が巻かれていた。桃偉が手当してくれたのだろう。
「……お前を使って早坂家を落とす策がもうひとつある」
「え?」
桃偉は木の杭を棚の上に放り出した。
「お前が早坂家の密偵だったと言うんだ。協力相手の屋敷に密偵を紛れ込ませるのは背信行為。何よりも忌まれることだ」
「……そうか、そういう手もあったのか……」
昴流はぽつりと呟く。謂れのない言いがかりであっても、これは否定しがたい。
「俺はこの実態を公のものにして取り締まる。それで昴流、お前に聞きたいんだが……」
桃偉は昴流に向きなおった。昴流もなんとなく居住まいを正す。
「お前は、早坂家や神谷家が好きか? 侍従として貴族に仕えられるのは幸せか?」
「いいえ」
昴流はきっぱりと答えた。
「僕は……誰かに仕えて一生を終えるなんて、絶対に嫌だ」
不正を暴けば、当然その家は失脚するか、そうでなくとも政財界での地位を落とすことになる。そうなれば昴流の仕事もなくなるのだ。それを考えての質問だっただろうが、昴流には躊躇う理由がない。
「ただ……」
「ただ、なんだ?」
「早坂家に残っている姉だけは、傷つけたくない……」
言い辛そうだ。桃偉はふっと笑みを浮かべ、昴流の頭に手を置いた。頭の良いこの少年のことだから、何かを変えようとするときに他の何かに気を配るという甘さは許されない、と思っているに違いない。それでも大切な人なんだろう。小瀧家はやたら子供の数が多いと聞くし、実の姉くらいは、と思うのは当然だ。
「任せておけ。……じゃあ、協力をしてほしい」
「……分かりました」
「有難うよ。……奴らは昴流のことを密偵と言うかもしれんが、こういうのは先に行動した者勝ちだ。俺が屋敷に侵入しているのは誰も知らない。奴隷がいなくなっているのは朝になればばれるだろうし、その時奴らはこれ幸いとお前の責任とするだろう。それを俺は逆手にとって言質を取る。……少しばかり嫌な思いをするかもしれんが、我慢してくれるか?」
昴流は桃偉の顔を見上げ、ゆっくり頷いた。桃偉はもう一度微笑むと、昴流をベッドに寝かせた。まずは休め、ということである。昴流は素直に彼の言うことを聞いた。彼を少しも疑わなかったわけではないが――まるで父のような兄のような桃偉に、心が安らいだのは本当だった。