少年の日の思い出1
「少年の日の思い出」
再生暦5008年2月
小瀧昴流――10歳
「なんだ、この不味い茶は!」
怒号とともに、茶碗が床に叩きつけられた。茶碗は粉々に割れて、注いであった熱い茶が床に飛び散る。
「すぐに片づけろ!」
それだけ言って手に持っていた書類に視線を戻した男の前に、ひとりの少年が歩み出る。年齢は十歳になるかならないかといったところか。その少年は表情を消したまま、深く男に頭を下げた。
「申し訳ございません、旦那さま」
その言葉は完全に無視されたが、少年のほうも自分の主人を無視した。手早く盆の上に割れた茶碗の欠片を乗せ、床を拭く。ちらりと男を見上げると、その表情には憤怒がたぎっていた。
(……今日は機嫌が悪いな。また取引に失敗でもしたんだろう……触らぬ神になんとやら)
一見して従順そうな少年は、年不相応にシビアな考え方をして主人をこきおろしていた。だがすぐに、一瞬であっても目の前の男を「神」と表現した自分にむかついた。そしてこちらに目もくれない主人に一礼し、部屋を出た。給湯室に向かって廊下を歩きながら、次第に少年の顔に不快気な表情が出てくる。
時は再生暦五〇〇八年二月。悪政皇と呼ばれる鳳祠真崎の御代。貴族による汚職が横行する毎日――。
そんな時代に、なぜ僕は。
こんなところで、悪徳貴族にへいこらしなきゃいけない?
「……あーあ!」
誰もいない給湯室の扉を閉め、少年は思わず嘆きの声を上げた。人前では絶対にできないことだ。とりあえず声を出して多少さっぱりしたので、黙々と割れた食器の処分に取り掛かる。
この国、玖暁皇国の財政を握っている早坂公爵に、何代も前から仕えている侍従家――少年、小瀧昴流は、その家の八人目の子供だった。両親も他の兄弟たちも例外なく早坂公爵とその家族に仕えている。父や成人した兄は公爵の秘書のような仕事を任されているが、まだ子供である昴流はもっぱらお茶くみや掃除をさせられることが多かった。
片付けを終えると、十五歳ほどの少年が給湯室に入ってきた。昴流が驚いて振り返ると、その少年は持っていた盆を棚の上に置いた。
「なんだ、昴流か……」
「圭也兄さん」
昴流の三人の兄のひとりだ。貴族というのは一夫多妻が当たり前で、貴族の端くれである小瀧家もそうだった。圭也は兄ではあるが、異母兄弟というのはなんとなく距離を感じてしまい、あまり話をしたことはなかった。もっとも、圭也のほうは何も気にしていないらしく、親しげに声をかけてくる。
「旦那さまの機嫌、悪かったみたいだな。若旦那さまもこの通り」
圭也がもっていた盆には、同じように割られた茶碗が乗っている。癇癪を起こすと手に持っているものを床に叩きつけたくなるのは、早坂公爵家の遺伝のようなものだ。
圭也の声には疲れが滲んでいる。人に奉仕する、言われた通りのことをするというのは、何も考えずに済むところもあるが、なかなか苦痛なことでもあるのだ。昴流が頷くと、圭也は何かに気付いたような声をあげた。急に右手を掴まれ、昴流は驚いて目を見張る。
「なんですか、兄さん?」
「怪我している。血が出ているじゃないか」
圭也に言われて昴流は初めてそのことに気付いた。右手の指から血がぽたぽたと滴り落ちている。感情をシャットアウトすると同時に殆どの感覚を麻痺させるため、怪我の痛みを感じていなかったのだ。昔から物を投げつけられるのはよくあることだったし、痛いときは我慢して謝っておくしかないというのが、侍従として身につけた教訓だ。
「ああ……本当だ。割れた茶碗の破片で切ったみたいです」
「悠長なこと言ってるなよ。手当てしてやるから……」
そう言われた昴流は、慌てて手を引いた。無理に笑みを浮かべて異母兄から遠ざかった。
「だ、大丈夫です。自分で手当てできますから。有難う、兄さん」
昴流は早口でそう告げると、傍にあった布で傷口を押さえて逃げるように給湯室を出た。――圭也に限らず、他の兄弟たちはみな事なかれ主義だ。自分たちの主人が悪さをしていると知っていても、ばれなければいい、それよりも安定した生活が大事と考えている。横暴な主人に多少の不満があっても、変えてやろうと意気込むことは決してない。
そんな人たちの傍にいたら、僕の性根まで腐ってしまう。
足早に廊下を歩き、この豪奢な屋敷の離れへ向かう。そこは小瀧一家に与えられた居住空間である。自分の部屋に入ろうとしたとき、ひとりの少女が声をかけてきた。
「昴流? 今日の仕事は終わったの?」
「! 咲良姉さん……」
小瀧家で、唯一血の繋がった姉――それが、小瀧咲良だった。同じ母から生まれた彼女とは、やはり特別仲が良かった。しかし咲良も人をよく見る侍従である。昴流が右手の指を布で押さえていることにすぐ気付いた。
「どうしたの、その指は?」
「ちょっと、食器が割れちゃって」
「まあ、そうだったの。消毒してあげるから、こっちへいらっしゃい」
圭也に同じことを言われた時は完璧に拒否したのに、咲良相手では昴流も拒否するのが難しい。ひとつには彼女が割と強引ということもあるし、昴流が咲良を苦手としていないのでつい頷いてしまうのだ。
咲良は自分の部屋に常備してある応急処置の医療箱を取り出し、丁寧に昴流の傷口を消毒し、包帯を巻いてくれた。
「このくらいの傷、と思わないですぐ手当しなさいね? 大切な手なんだから」
咲良の優しい笑みに、昴流は頷く。
「……うん。手が使えなくなったら、僕は仕事もできないただの役立たずになっちゃうもんね」
「そういう意味で言っているんじゃないの。貴方の手は、楽器を弾いて美しい旋律を奏でることができて、とても繊細な絵を描ける手よ。仕事をするためだけにあるわけじゃないわ」
あまりに急な話に、昴流は瞬きをした。確かに昴流は楽器も弾くし絵も得意だ。だがそれはあくまでも趣味であり息抜きだ。仕事以上に重要なことではない。
「侍従として特定の人間に仕えていても、誰も楽しんではくれないの。でも昴流が楽器を奏でて絵を描けば、色んな人が笑顔になってくれるはずよ」
「姉さん、さっきから何の話……」
「昴流は、こんな狭い箱庭の中にいることを当たり前だと思わないで、ってこと」
「……当たり前だなんて思っていない!」
昴流が吐き捨てるようにそう告げると、咲良はそっと昴流の包帯を巻いた手を両手で包み込んだ。
「なら良いの。……ところで、もうすぐ修行に行くのよね?」
咲良の話が変わる。小瀧家の子供は十歳になるころに半年間、他貴族の屋敷へ修行に行く。その家の他の使用人たちに交じって、違った環境で奉公をしなければならないのだ。咲良も五、六年ほど前に修行に行った。行く場所はその時々によって異なるが、結局のところ早坂公爵家と友好関係にある貴族のところだ。要するに、汚職に手を染めている者たちの家である。
「うん、来週から。……ねえ姉さん。もしかして僕に、逃げろって言ってる?」
鋭い指摘に、咲良は沈黙した。昴流としては、姉がそうそそのかしているとしか思えなかったのだ。侍従として一日中をこの屋敷の中で過ごしている昴流にとっては、久々の「外」。これを逃せば、いつ外に出られるか。
「僕は逃げない」
「……え?」
昴流の言葉に、咲良が首を傾げる。昴流は微笑んだ。
「自分の役目から逃げない。真っ向から否定する。……もし逃げたとしても、その時は姉さんも一緒に」
昴流と咲良は、明らかに他の兄弟とは違う。現状に強い不満を持ち、変えてやろうと意気込んでいる。それはなぜか――。
理由は簡単だ。元々昴流と咲良の母と小瀧家、早坂家は敵対していた。ふたりの母は玖暁の騎士の家柄としてそれなりの名誉を持つ家系に生まれた。だが正義に則り行動する彼ら一族は、利益を優先し悪事に手を染めていた早坂家にとっては目の上のたんこぶだった。だから早坂公爵は事故に見せかけて彼ら一族を殺害した――ただひとり、美しい娘を除いて。殺害するのに一役買った小瀧家の長は功績を讃えられ、その褒美としてあえて殺さなかった娘を貰い受けたのだ。
それが、昴流と咲良の母――。
母は家族の仇の男に嫁がされ、咲良を生み、昴流を生んだ。二年ほど前に病死したが、彼女は最後まで小瀧と早坂公爵を憎んでいた。それでも咲良と昴流は心から愛してくれた。小瀧と早坂が一体自分の一族に何をしたかを幼いころから娘と息子に聞かせ、決して彼らに忠誠を誓ってはいけないと言い聞かせてきた。
そんなことがあったから、昴流は他の兄弟と馴れ合わず、淡々と役目をこなしながらも不満を募らせている。むしろ、この生い立ちである昴流に蟠りなく接することができる圭也などが異常だと思う。
母は優しかったが、いつも悲しそうにしていた。哀れな母の積年の恨みや嘆きを、少しでも晴らすことができたら――昴流も咲良もそう思っている。どうやったらこの政治制度が変わるか。考えてみれば、ひとつしか思いつかない。
皇が代わればいいのだ。
現皇の真崎には、双子の息子がいる。どちらもまだ幼く、昴流より2歳年上なだけだ。そんな彼らに皇という重荷を吹っ掛けるのは酷というものだ。下手をすれば、今以上に貴族が付け上がって皇を傀儡にしようとするだろう。そうならないためには、ふたりの皇子がもっと大人になるしかない。あと何年待つことになるだろうか――。
真崎が急に良心に目覚める、という奇跡を信じるほど、昴流は甘い世界で生きてはいなかった。
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翌週、昴流は予定通り他貴族の屋敷へ赴いた。といっても早坂家もこれから行く屋敷も、同じ皇都照日乃の街中にあるので、これといって戸惑うこともない。皇都に屋敷を構えているのは上流貴族で、国の政治を握っている人々だ。
昴流は目の前に現れた巨大な邸宅を見上げる。神谷家だ。早坂家と同じように玖暁の財政を担っている。不法に稼いだ金を半分こする相手だ。
まずは様子見だ。しばらくは大人しく仕事に専念しよう、と昴流は決めた。制限時間は半年だ。何か行動を起こすにしても時間はある。そうして神谷家の門をくぐった昴流は使用人たちの暮らす寄宿舎へ案内され、侍従長だという男性の挨拶を受け、主な同僚たちを紹介された。早坂家の侍従は小瀧の名を持つ者しか許されないが、神谷家の侍従はそうではない。玖暁の各地から職を求めてやってきた人々が多く、その顔触れは様々だ。
早速昴流は仕事を任された。掃除である。掃除する場所は、これから半年間自室となる部屋――自分の部屋は自分で住めるように掃除しろ、というわけだ。一応客人のはずなんだけどなあ、と思いつつ掃除道具を持って指示された部屋の扉を開けると、見るも無残な光景が広がっていた。長いこと使われていなかったらしい、ということは一目瞭然なのだが、それだけではない。床が水浸しだったり、照明が割られていたり、ベッドに妙な粉がかけられていたり。どう考えても悪意ある人間の所業である。ベッドの上の粉は小麦粉だか砂糖だか知らないが、どうやら食べ物らしい。空きっぱなしの窓から虫が入り込んで必死で運んでいる。
廊下の奥からくすくすと笑い声が聞こえた。振り返らなくても昴流には嫌というほどわかる。成程、これが新人に対する洗礼か。お手並み拝見、というところなのだろう。
「……やってやろうじゃないか」
昴流はぽつりと呟き、掃除道具を床に置いた。自分はまだ子供だ、とか泣き言をいうつもりはない。腕まくりをし、いつ終わるともしれない掃除に取り掛かったのだった。
――掃除が終わったのは夜だった。ずっと掃除に没頭していたため、昼食も夕食も食べ損ねた。どうせいま腹が減ったと言ったところで、自分で作れと言われるだけだろう。にしても声くらいかけてくれても、と思わないでもないが、甘えは捨てないといけないようだ。面倒なのでそのまま、綺麗に洗って乾かしたシーツを敷いたベッドに倒れこんだ。さすがに照明の修理はできなかったので、持参した光の神核をテーブルの上に置き、ぼんやりと光を灯らせている。これは予想以上に前途多難かもしれない。昴流はそう思いつつ、一日の掃除の疲れが出たのか、急降下するように眠りに落ちた。
前日に夜更かしをしても朝きっちり同じ時間に起きることができるのは、昴流の癖である。そのおかげで、丸一日何も口にしないという事態は避けることができ、きちんと朝食を食べた。そして本格的に仕事が始まったのだが、これがまたきつい。まず屋敷内の全部屋を掃除することから始まる。勿論侍従はたくさんいるので分担しているが、昴流の担当が多いような気がするのは、きっと気のせいではない。そうしてなんとか掃除を終えると、息つく暇もなく客人に茶を出し、馬車で届けられた何やら得体の知れぬ、やたら重い荷物を五〇〇メートルほど離れた倉庫に運ぶこと十数往復……。
大の大人でもきつい仕事を、まだ十歳の少年にやらせるとは何事だ。姉の咲良が知ったらそう怒鳴りつけそうである。同年代の少年のなかでも割と体力や忍耐心に自信があった昴流も、さすがに半日でぐったりしてしまった。
休憩は昼食の時の1時間のみで、午後になってもぶっ通しで仕事を言いつけられた。次は、優雅に午後のお茶を楽しむ神谷夫人のために、そのお茶の用意をすることだ。それまでに比べれば労力の少ない仕事ではあったが、いくらなんでも顔を見たことのない人のための茶を淹れるのは難しい。人には色々と好みがあって、何度かお茶の様子を観察してから、昴流は相手の好みを学んでいくのだ。誰も教えてくれないし、一発で当ててみろという試練なのか。
とりあえず何種類かの茶葉と菓子を用意して神谷夫人の部屋へ向かおうとしたのだが、疲労でふらふらになっていた昴流は背後から人が近づいた気配に気づかなかった。
「! う、わっ……」
背中に強い衝撃をくらった昴流は、呆気なく廊下に転んでしまった。盆に乗せていたものがすべて散らばってしまう。幸い分厚い絨毯の敷かれた廊下なので食器が割れることはなかったが、湯が零れてしまった。
「奥様のためのお茶なんだ、慎重に運べ!」
面白がるような声が昴流の背中にかけられた。振り返ると、十代後半くらいの青年がにやにやと笑みを浮かべていた。彼はそのまま踵を返してしまう。昴流は溜息をついた。
どうやら、これは新人に対する洗礼などではなさそうだ。もっと悪意のある、昴流個人に対する嫌がらせだ。その理由はなんだろう、調べる必要があるかもしれない――。
そのあと、もう一度お茶の用意をして時間に遅れた昴流が神谷夫人に怒声を浴びせられたのは、言うまでもないことだった。