即興
パソコンと電話の音が頭に響く、疲れている訳ではない。音が異常に響く、病院へ行こうかと考えたが、忙しくてそれ所ではない。
そして朝起きている事が辛い、眠いとかではなく太陽が肌を焼いている、そんな気がしてならない。早めに寝てもその症状は治まる気配すら無かった。
そして誰にも言えぬまま2週間が過ぎた時、後輩にそれを言われた。
「高宮先輩……大丈夫ですか?眼が真っ赤に染まってますよ……それに……」
戦々恐々の表情で、言葉を濁す後輩に声を掛けた。
「ありがとう、でも仕事も佳境に入っているんだ。今休んでいる暇は無い、一段落したら病院に行くさ」
そう告げ、微笑むと後輩の顔が更に引きつり、慌てて去っていった。
人の顔を見て逃げるなんてと……そう思ったが、今はそんな事を気にしている暇は無かった。着実に仕事は進んだが、それ以上に症状は悪化した。
陽に当たるだけで皮膚は火傷の様に赤く染まり、果てには髪も伸びた。いくら前の晩に切ろうが目が覚めると腰にまで伸びている事に驚愕する。
普通ではない、自分の体に何が起きているのか、病院に行く事すら恐れた。
「おはようございます!」
出社して大きく挨拶をする、しかし、誰も返事を返さない。
「どなたですか?」
「え?高宮真砂ですが……」
「高宮に御用ですか?申し訳有りませんが、高宮は席を外しておりまして……」
応対する後輩の目が真実を語っている、彼は、自分を高宮真砂として見ていないという事に。
「わ…・・・分りました……改めてお伺い致します……」
声が震えそうになるのを堪えて、後輩にそう言った。扉を開けようと振り返る真砂の眼に、鏡が映った。
いつも通りの顔は白く。瞳は血の様に染まり口からおぞましい牙が覗いている。
その後の事は覚えていない。気が付いたら自分の部屋に戻っていて、ベッドの上で座り込んでいた。
「あれは夢なんだ……そうだ、会社に行かなきゃ……」
再び、玄関を開けようとして陽の光が手を照らす、それと同時に手の甲が一気に焼けた。
「うわあああああああああ!」
玄関が閉まると同時に叫ぶ、激痛が手の甲から全身へと広がって行くのが解かる。
余りの痛さに涙が溢れたが頬を伝う気配が無い。苦痛で体を這わせた時、頬を擽る物が見えた、金に輝く髪を。早朝に切った筈の髪が、僅かな時間で伸びたのだ。
「ははは……ハハハハハハ!」
余りにも現実離れした事に笑いがこみ上げる。陽の光に当たれば火傷をし、口から生える牙は御伽噺の様な存在そのものだ。激痛よりも自分を失った事に呆然とし、壁を背に座り込む。
何を責めれば良いのか、たとえ責めたとしてもそれは無意味だと言う事も悟る。
しかし、まだ望みは有った。本物の吸血鬼なら人の生き血を吸いたくなる衝動がまだ見られない、このまま過ごせば、何とかなるのでは無いかと真砂は考えた。
「疲れた……一眠りしたら、きっと……」
一縷の望みを信じ、そのまま瞼を閉じる。
真砂が目覚めたのは来訪を鳴らすベルの音だった。普段通りに玄関を開けるとそこには後輩が居た。
「あ……すいません部屋を間違えました……」
「いや、間違えてないよ……車谷君」
面を喰らった様な表情で真砂を見返す後輩に告げる。
「外は暑いだろう?話したい事も有るから、とりあえず上がって」
おそるおそると言った様に部屋に入る、ソファーに座らせる。
「済まないが、今有るのはビール位なんだ。酒の肴も無い」
テーブルの上に置いた冷えたビールを、なるべく自然に振舞おうと思ったが、どうも上手く行かない、冷えた瓶詰めの発泡酒を震える手で何とか注ぎ終わった。
「飲んでくれ、警戒するのは解かるが、今開けたのをその目で見たばかりだろう?」
そう告げると、車谷は一気に酒を飲み干した。
「先輩……なんですよね?」
「ああ……容姿は変わっても俺は高宮真砂だよ、自分自身、何が起きたのか検討もつかない、何から話せば良いのか……」
全てを話した、体調の事、これからどうするべきか、研究目的で体を弄られるかもしれないという不安をも、後輩に言った。しかし、このままで居る訳にも行かず、大きな病院へ行く事を約束した。
「済まない、仕事を抜けたりして……」
「大丈夫です!先輩が治らない限り仕事は終わらないですから!」
冗談を含めつつも真砂は、衝動に駆られていた、それは絶対に行ってはならぬ衝動で、もし行えば自分を失ってしまう事だった。
「……車谷、早く帰ってくれ……」
唐突に言われた事に、余程応えたのか車谷は真砂の隣へと近づいてきた、口が疼き、喉が渇く、耐え難い衝動が更に激しくなる。車谷に流れる命の脈動が聞こえたと同時に、意識は途切れた。
そして……真砂の目の前には……惨劇だけが……残った。