気味の悪い本
本文を読む前に留意して頂きたいことがある。
本――書物の価値をあなたは何に見出すだろうか。
私が小学校の低学年だった頃。その日は国語か生活科の授業、あるいは自習時間があったかもしれない。いずれにせよ、授業時間の枠の中で図書室を利用する機会があった。恥ずかしながら、元々私は本を読むのがあまり好きではなかった。俗に言う、活字が苦手な質の一人だったのである。読むといっても、厳密にいうと読まねばならないときでも、大抵の場合は図鑑か絵本を手にしていた。私にとっての本は読み物というより見る物に等しかった。そんなわけで、図書室で選ぶ本も必然的に限られていた。加えてその時は先生からの特別の指示や注意もなかった。図書を扱う場における最低限のマナーを守れば、他の誰かと本の共有もできた。私は知らないうちに、“あの本”へと吸い寄せられていたようだ。いや、自分で向かっていったという方が適切かもしれない。
自由に本を選ぶことが許されたので、私は仲の良い友人と二人で小動物の図鑑や写真集、色彩豊かな絵本などを見ていた。しかし、それもすぐに飽きてしまった。教育上の受動的姿勢に染まりかけていた私は、時たま訪れる能動的自由時間を利する術をきちんと心得ていなかったのである。もっとも、せっかくの機会を無為に過ごすことは憚られた。つまらない時間にすることは、猶更許されなかった。
私達は、それまでとは違うおもしろさを求めて本を物色し始めた。まず行き着いたのは漫画コーナーだった。常套的に小学校の図書室に置いてある漫画というのは、時代遅れで、堅苦しく、教育的に配慮されたものしかない。でも、もしかしたら、私達の好む漫画が新規で入っているかもしれない。そんな、幼稚で浅はかな所期はすぐに裏切られる。やはり、漫画コーナーは期待から最も遠い場所だった。流行りのコミック雑誌で連載されるような漫画があることなど、夢のまた夢だった。偉人の伝記をそれっぽくしたものがいくつかあったが、読ませるための見掛け倒しだとお見通しだったので手に取らなかった。
早くも直前の目的に齟齬をきたした私達に残されていた選択肢は『はだしのゲン』だけだった。他の学校の事情は存じ上げないが、ここにはそれがたくさんあった。本選びに迷っているならまずこれを読みなさいという、大人達の緘黙の切言が痛いほど聞こえる。小さな琴線に触れたものの、低学年の私達にはまだ早い気がした。見てはいけないような気がしたのだ。また、二人で一冊をシェアするには適さない本だった。分量も多かったので手を伸ばせなかった。それでも、意にそぐわない漫画でさえ巻数揃わず、飛び飛びに誰かに読まれているのはなんだか胸糞悪かった。機先を制され、別の手段を考えなければならない“二重の壁”が目の前に立ちはだかった。
漫画に見切りをつけた私達は、他の級友がどんな本を読んでいるか探り始めた。当時人気があったのは、怪談――昔の所謂“怖い話”がいくつか収められたシリーズ本だった。表紙や挿絵がアニメチックに描かれ、怖さの度合いが甘口・辛口・激辛などと表記されているから、大いに子供心を擽るのだろう。文章も平易であるから低学年にも比較的読み易かった。そのため、借りる者が多くいた。借りたまま返さない“借りパク”をする輩も少なからずいたほどである。だからなのか、図書室は慢性的な怖い本不足に陥っていた。運よく本棚にあったとしても、欲張りが数冊を独り占めして他人に読ませない事態もしばしば起きていた。読み物としての本が苦手な私でも、怖い本は別だった。怖いもの見たさが心身をつき動かすのである。勿論、興味はあったが、上記の事情を考慮しつつ避けてしまった。端から読めないだろうと、半ばあきらめていた。その時も、暴れん坊タイプの同級生が本を山積みにする壟断によって優越感に浸っている光景を目の当たりにした。それを見つけたところで何もできなかった自分が悔しい。どこかに忍ばせているものを暴き、咎める暇を持て余すほどの真面目な正義感も芽生えていなかった。他人の非を糺せるほど誠実ではなかった。そうして再び、二重の壁に直面した私達は、遠回りをして壁の向こう側へ行こうとしていた。その行動が“異質の怖さ”に辿り着く結果になるとは思いもしなかった。
お頭をてんてんして方々を回ったが、結局は元いた場所に戻ってきた。上履きを脱いで上がる、カーペット床の図書コーナーである。そこは、フローリング床よりも一段高い位置にある。寝転ぶのは禁止だったが、楽な姿勢で本を楽しめる空間だ。日当たりも良く、何を隠そう入り口から近いのでとても目につきやすい。本来なら読書にうってつけのはずなのに、なぜかいつも人気が疎らだった。この時間中も、どっかりと足を踏み入れたのは私達二人だけのようだった。人受けは芳しくなかったが、活字の多い本よりも大き目に作られた図鑑や絵本を広げて見るなら最適なスペースの一つに変わりはない。最初ここに来た時と違うのは、手ぶらであること、授業の終わりの時刻が差し迫っていたこと、そして、本を好きなように選べず、息が詰まる思いをしていたこと、の三つばかりだった。「何としてもおもしろい本を選んでやるぞ」という風に気負っていたのは、私一人だったようだが。
その本は、私達の身長と同程度である本棚の、最下段に入っていた。色鮮やかな絵本達に紛れ、黒い背表紙の一冊である。他の絵本と異なり見るからに怪しげな本であると直感が知らせた。心のセンサーは正常に機能していても、私は躊躇なく黒い本をするりと取り出す。そのままの勢いでカーペットの上にそいつを置いた。別の段を探していた友人も手を止める。すぐさまこちらにやってきて、私の横に座った。
背表紙と同様の黒い表紙。暗い紙面の右下端に、一人ぽつんと少女が佇む。色白の少女は赤いワンピースを着ていて、長い黒髪を垂らしている。表情は髪に隠れて窺い知れない。暗い中でも、少女の赤と黒の存在感だけは消えることなく、逆に際立っている。よくよく思い返してみるとそれは妙である。闇に交われば黒くなる。当然姿は見えないはず……。暗闇へ少女が同化しないことに、子供の私は何の違和感も覚えなかったのだ。
「どんな本だろう?」。見た目の暗さだけで内容を正確に推理できるほど、私はよくできていなかった。それよりも、ぞくぞくする無邪気な情動が私の好奇心を後押しする。本の真正面に座して、本を見下ろす格好であった私が、本を開くことになった。心の中では、友人と共に開きたかったが、他人に弱さを見せるのが嫌だった。
強気を演出しつつ、恐る恐る本を開く。
すると、表紙と相変わらぬ陰気な絵が見開きで広がった。――暗い。ひたすらに暗いのである。自分の体が光を遮っているからお負けに暗い。私は、少し後ろに身を引いた。影が邪魔して見づらいからである。本当はびびっていたからだろう、と尋ねられれば否定はできない。それにしても、ちょっとは明るくしてやったのに、まだ暗いままだ。こいつは、今の自分の力では到底かなわない代物かもしれない。こういう風に、正体不明のやつが一番危険なのだ。一体全体、何をしでかすかわからないから。一筋縄ではいかないぞ。でも、ここでひいてしまっては男が廃る。子供の虚勢だろうというのは、子供うちでは関係ない。何とかしなくては……。目を瞑って見ぬふりは格好悪い。動じない強さと偽って微動だにせず、というのも異様である。こんな時人のどこにあったかは知らない。いつしか、根拠なき見せかけの勇気が振り絞られていた。ひどくこわばった表情で本を眺めていた。
私は、絵本であっても絵だけで物語を読みこなすことを知らなかった。“絵のみ”の絵本を一度も見たことがなかった。絵本に言語はつきものだと思っていたのだ。活字が嫌いなはずだが、その力へ依存もしていたらしい。あるいは、怯えを紛らそうとしていたのかもしれない。無意識のうちに、最初から絵の鑑賞には入らなかった。いつもと同じ習慣で、言葉を探していた。
二、三行の短い文章がページの隅に書かれている。黒い文字が後ろの絵と重なり、非常に読みづらい。何とか読み取ると、赤いワンピースを着た少女についての説明文のようである。この女の子は、いつもひとりぼっち。お父さんもお母さんも、兄弟も姉妹も、親戚も、友達ですら、誰もいない。なぜ、そういう境遇なのか。「疑問に思うのは当たり前でしょ」といって冷たくあしらう具合で、理由は一切明かされない。少女の孤独さが、少女ではない語り部により、言葉を換えて淡々と語られていくのだ。
どこをどう見ても暗い絵の連なりで、次第に私は陰鬱な心気に乗せられてしまっていた。その調子でページを捲っていると、少女は闇の中を転々と移動していく。現実界のどこかにありそうで、なさそうな、描かれた背景は西洋の気色を彷彿とさせる。鬱蒼とした森、夜の公園、トンネルの入り口、背後に石垣の高い塀がそびえ立つ道……。いずれも真っ暗で、明かりは見当たらない。けれども、黒の濃淡を使った描き方のトリックからそのように判断できる。背景のシルエットは闇に紛れてぼんやりとしているのに、少女の様態だけはくっきりと描き出された絵のタッチ。変てこな世界に私の目が慣れたからなのだろうか。ここにきても構図が不自然だとは思わなかった。
虫一匹の気配すら感じられない暗闇を少女は一人で彷徨い続ける。全てのシーンで常にこちらを向いており、絵の中においても真ん中に描かれることはない少女。闇が主人公で、ちっぽけな癖に目立つ人間は飾りの引き立て役だと言わんばかりに。最後に、少女がいなくなる場面で物語は幕を閉じてしまう。
大まかな内容はこんなところだったはずだ。だが、忘れてはいけない“肝心な個所”をしっかり思い出せないのだ。強烈な色感と重い色合いは、まざまざと心に焼き付いているのだが。
終始暗い雰囲気、謎多き少女、はっきりしない記述、気になる終わり方……。
私はその本から得体の知れない恐怖を覚えた。それは、怪物やグロテスクなものなどを見た時に感じるような、知覚された怖さではなかった。対象を曖昧なままに感覚していたのである。明らかに不気味であったから怖くなってしまった、というわけではない。外界に其の儀はなかった。とすれば、怖いものは私の中でじっと息を潜めていたことになる。あの本は、私が自覚せずにいた恐怖を、内の外へ呆気なく抉り出していたようだ。
あくまでも内心で怖がっていた。友人のいる手前、それを悟られないように振舞ってはいたが。陰険なイメージが、じわじわと私を侵食していった。顔は渋面をつくっていた。私は「怖いものは怖い」と思う少年だった。怖さの質を考える心など、まだ持ち合わせていなかった。
「なに、これ? 変な本」。私は乱雑に本を扱いながら、気味の悪い本を嘲り罵った。
それから一週間ほど経ったある日。授業時間の枠の中で図書室を利用する機会が再び訪れた。私は稚気な“いたずら心”から、クラスメイトの女の子に例の本を見せようとした。言うなれば「いいものを見せてあげる」といって女子が嫌う虫やカエルを見せ、ビックリした反応を楽しもうとする感覚に近い。大方、悪い魂胆があることはうまくいかないものだ。元通りに片づけておいたはずなのに本は無くなっていたのである。「あれ、どこにいったのだろう」と疑念が生じる。自分だけのものと取っておいた“内緒の恐怖”が見当たらなくなっていることに口惜しさを覚える。誰かが別の場所へ移動させてしまったのだろうか。規格は絵本の体裁をなしていたから、別の本棚にはしまえないはずなのに。あるいは誰かが借りているのか。借りてまで読む分量だったろうか。低学年で、活字が苦手な私でも、せいぜい数分で見終わってしまうのに。パクるほどの価値もないはずなのに……。
まずい。このままでは嘘吐き呼ばわりされてしまう。自分が悪者にされる。蔑まされる不安が沸々と込み上げてくる。サプライズの演出に失敗して赤恥をかいてしまう。あたふたしている姿が思い浮かぶ。こんなみっともない小僧が見限られてしまうのは必至だ。意地悪な私は、ありもしない所まで執拗に探し回ったが、見つからなかった。本は、ちびに理由もわからず忽然と姿を消していたのだ。きっと、本が窮屈に耐えきれなくなったのだ。きっちりと折り畳まれている運命に嫌気がさしたのだ。紙の翼をばたつかせ、鳥のように遠くへ飛んで行ってしまったのだ。ふと気付けば、子供らしい見え透いた嘘がぽろぽろと零れ落ち、積み重なっていた。
「ねぇ、それってさ、どんなタイトルの本?」
嫌らしいほど必死な私を不憫に思ったのか、女の子の方から助け舟が出た。私は、舟に乗るどころか、その場で足すら動かせなくなってしまった。どんなタイトルの本だったろうか。さっぱり思い出せない。タイトルを確認するような性分ではなかったせいである。歳相応に幼かったから後々のことを考えて行動していなかったのもいけない。タイトルがあったかさえ定かではなかった。それはしょうがないとして、あの本に“見返し”や“扉”といわれるものはあっただろうか。おぼろげだが、表紙を開いて、いきなり物語が始まっていたような気がする。絵本というのはそういう作りになっているのだろうか。作者や版元、刊行年月日などを記す欄ぐらいは、どの本でもありそうなものだが……。私は焦った。曖昧な記憶を急いで呼び起こそうとしたが、却って空回りをするだけだった。頭も口もしどろもどろになった。外見にも内見にも“気味の悪い印象”しか残らなかった。女の子には、すっかり愛想を尽かされてしまった。
どうしてもうまく合点がいかない私は、一人になった後も秘かに記憶の穿鑿を続けていた。一緒にあの本を見た友人に尋ねれば何かわかったかもしれない。いや、「なんで?(そんなこと聞くの?)」と疑われてしまう。それを打ち消すための尤もな釈明を用意するのが面倒だった。貸し借りを記録する図書カードを調べれば、足跡ぐらいはわかったかもしれない。いや、全校生徒の分を全て調べるとなると大変な作業だ。タイトルすらわからない本だから調べ方に無理があるし、徒骨になりかねない。いや、こそこそと盗人のような怪しい真似はとてもできなかった。司書の先生に尋ねれば一発で済んだかもしれない。いや、お世辞にも文学少年とは言えなかった私に、そんなアイデアは思い浮かばなかった。早い話、他人に事情を知られるのが疎ましかったのである。結局、本につながる肝要な糸口はまるで掴めなかった。あの本の行方は、それきり不明である。
学年が上がるにつれ、絵本を手に取る動機は喪失していった。怖くなったからではなく、高学年になってまで絵本は恥ずかしいからである。成長に見合った本を選ぶのは然もありなんと思える。私は一丁前に江戸川乱歩などを読みだすようになった。より高度な本を志向することで、お子様向けの本への関心が自然に弱まっていったのである。それと比例するように、あの本への執着心めいた気持ちも影をひそめていった。まだ子供だったくせに「絵本は子供のものだ」と、幼い面を持つ自分から遠ざけていた。図書室を利用する時、たまに思い出すことはあっても既にどうしようもないから、何とも思わなくなっていた。在校中にはしなかったけれども、蒸し返すことさえしなければ、あの本のことなど忘れていた。私は、健全無事に小学校を巣立った。
私立中学への受験に失敗した私は、地元の公立中学へ進学した。あの本の記憶はそこで不意にフラッシュバックすることになる。
英語の授業中だった。教科書に掲載されている写真を見て、私は衝撃を受けた。
――ピューリッツァー賞を受賞した、『ハゲワシと少女』。
当時のスーダンにおける飢餓を訴えた、センセーショナルな一枚である。写し出された状況は、荒野に蹲る痩せこけた少女を、ハゲワシが獲物として狙っているように見える。見る者の心を大きく揺さぶる反面、報道の在り方やメディアリテラシーの観点から色々と物議を醸したことでも有名だ。
私は『ハゲワシと少女』から、あの本を見た時と酷似した気味の悪さを感じた。本に描かれていた暗い絵と、残酷な現実を写し取った写真は一見して比較するだけでは全くの別物である。それなのに、なぜだろうか。思い起こせば両方の場合で言葉の力に容易に頼れなかった私の状態は似ている。小学生の時分は暗さが、中学生では英語力の乏しさが読解の妨げとなったのだ。しかし、だからといって同じ気持ちに苛まれたわけではない。寧ろ、言葉のわかりづらさが真に迫る方向へ作用した。言語の障壁を超越して伝わるものは確かに存在する。実際のところ、二つのピクチャーには、言葉による説明がほぼ不要だった。見てすぐ、ダイレクトに心を鷲掴みにされ、形容しがたい恐怖心を掴んで離さなかった。それだけの凄まじい力を湛えていたのである。では、共通する気味の悪い感じを抱かせた、禍々しいパワーの根源とは何だったのだろう。解決にいたるアプローチの仕方は、写真を調べる他にない。そこで私を待っていたのは、いやな真実だった。
「なぜ、少女を助けなかったのか?」
『ハゲワシと少女』を撮影したケビン・カーターは、写真を世に出した後でそのように痛烈に批判された。カーターという男は、とんでもない悪党だと見誤ってはいけない。彼は決して無慈悲な人物ではなかったと推定される。現場にいた友人の証言や手記によれば、写真を撮った後で彼はハゲワシを追い払い、荒廃した気分に打ちひしがれている。「少女を助けなかった」とは、必ずしも断定できない。問題の本質は、今にも事切れそうな少女を眼前にして、カメラを向けてしまったことにある。写真など撮らなくていいから、まずは命を救うべきではなかったのか、と。報道を優先させ、人命を後回しにした判断に矛先が向けられているのである。つまり批判者は、あの写真が存在すること自体を論難している。だが、前々から助けていれば写しようがなかった状態の責任まで彼一人に押し付けてしまうのは筋違いである。「報道か人命か」以前に、こんな難件が存在しないこと。それこそが人として当為なのだから。
「なぜ、少女を助けなかったのか?」
――至当な意見である。人道上の見地からはカーターの選択が正しかったとはいえない。ただし、反論の余地がない言葉を浴びせかけて彼を責める前に考えるべきことはある。
そもそもカーターは、善良な人間を演じることもできた。もっとも彼は、その類ではなかった。ある意味、正直すぎたのかもしれない。あの場において自分の仕事を放り、人助けをして称賛される道を端無くも捨てたくらいだ。裏を返せば、冷酷な人間になってまで駆り立てられたものが彼にはあったということだ。フィルムにしても、撮影後に証拠湮滅しようと思えばできたのに、しなかった。衝撃的な写真は封印し、別の写真で代替することもできたのに、しなかった。穏便な善後策を選ばなかった。裏を返せば、過激な手段でなければならない何らかの事情があったということだ。終には、写真を公表した。自らが追及の矢面に立つことは容易に想像できたはずなのに……。敢えてリスクを冒してまで痛棒を喰らわしたかったのは、飢餓の問題だけだったのだろうか。私には、どうしても違うように思えてならない。
「なぜ、少女を助けなかったのか?」
カーターは、そうやって社会を風刺するつもりだったのかもしれない。皮肉にもそれが、彼自身の墓穴を掘る破目になってしまった。人心は、彼が思うほど単純ではなかったのだ。しかし、どこに責任転嫁されようとも、刻まれた黒い歴史が覆ることはない。ハゲワシに命を狙われた罪のない少女は、無数の人間の見えざる手に掛けられ、餓死しそうだった。そう解釈しても、何らおかしくはないのである。
あの写真で伝えたかった真実は、闇の中へ永久に葬り去られた。受賞から約一ヶ月後、カーターは自殺した。彼は薬物依存者で、若い頃から精神的に不安定だったそうだが、何がそこまで追いやったのか。本当の理由は、もはや知れない。一つだけ不可解なのは自殺の仕方である。車内を密閉し、エンジンをかけたまま排気ガスを車中に送り込み、死んでいたらしい。飛び降りや首吊りなどと比べ、遥かに面倒で時間を食うやり方を選んだ背景には、相当の覚悟があったと思われる。一思いに命を絶てない、無力感も同じだ。死を間近に意識しつつも、死ねない矛盾。生と死、両方に対する失意と未練。二つの狭間で心は揺れ動き、果ては等価値と見做していた上の所業だろうか。
最期まで揺らいでいたであろう、生前の彼の様子から垣間見えるのは、選択が巻き込むものの恐ろしさである。それに付随して、我々へメッセージを送っているようにも思える。
「もし、あなたが私だったら、どうする?」と。
終始暗い雰囲気、謎多き少女、はっきりしない記述、気になる終わり方……。
私は、あの本に登場した少女の処遇をどうしていただろうか。少なくとも、良いようにした覚えはない。マイナスの局面へ引っ張られていたのは、否定しがたい事実だ。
「なぜ、少女を助けなかったのか?」
あの本における忘れてはいけない肝心な個所。その在り処は、本にではなく、本を見て刺激を受けた私の思考回路にあったようだ。おそらく、本についての率直な感想が非難すべきものだったから有耶無耶にしていたのだろう。本の中、心の中のこととはいえ仮初にも思い出したくなかったのだ。
二つのピクチャーは、悪しき心を暗に炙り出していたことで結び付いた。そしてそれが、気味の悪い感覚を催した事由である。私は、あの本から邪悪な心の一端を打ち見ていた。あの写真は、その全貌を象徴的に撮み出していた。両者の接点であり、根底にあったのは、人の闇なのである。
授業はいつの間にか終わっていた。痛ましい気持ちになり、何かせねばと思っても何もできない自分が歯痒くなる。中学生の私には、自責の念に駆られるだけで精一杯だった。
義務教育の課程は、あっという間に過ぎていった。
私は、第一志望の公立高校に合格した。全日制の普通科に在籍する高校生になった。
放課後の教室。同級生の友人数人と、嘘か本当かわからない話で盛り上がっていた時。ある友人の話に、私は引き込まれてしまった。
「こっそり聞いた話なんだけど……」
間髪を容れず「誰からだよ」と苦笑交じりの突っ込みが入れられた。友人曰く、小学校の教員を志している姉、とのこと。詳しく尋ねてみれば、彼の御姉さんが大学の交友から偶然耳にした噂話のようだ。その交友は、教師の家系に生まれ育ち、教育界の事情に精通しているそうである。どうやら、ゴシップ好きな御姉さんが盗み聞きした話を、彼は聞かされただけらしい。
「怖い話というより、“都市伝説”みたいだけど、いい?」
「そんなことはわかってる」「勿体振らずに早く言え」と容赦なく急かされるのは、どこでも同じなのだろう。“だけど”が口癖のやや臆病な友人が委縮したのは一目瞭然だった。だけど、小刻みに震える口は徐に開かれた。
「……いきなりだけど、みんなは知ってる? “ブラックブック”っていう本」
「知らない」「聞いたことない」と口々に答える中、私だけは知らないふりをして押し黙っていた。唐突に本の単語が出てきたものだから、そうすぐには頭の中を整理できなかったのである。はっきりいって、タイトルからしていかにも胡散臭い本は、それまで見たことも聞いたこともなかった。だが、心当たりが「無きにしもあらず」なのは説明するまでもなかろう。不本意ながら私は、その場の空気を読んで「どんな本なのか?」と質問してみた。彼の答えは、意外だった。
「いずれ大事件を起こしそうなヤバイやつのことが載っている本だよ。名前とか、住所とかも具体的にね。何となくだけど、ブラックリストの“予備軍”的な感じ。ぱっと見は、文字通り黒い本らしいけど。二つの意味でブラックブックというわけ」
ブラックリスト――過去に罪を犯した者や要注意人物の名などが記された名簿である。その予備軍を記載した本となれば、一層気味が悪い。限りなくブラックに近いグレーの、予言の書といったところか。性悪説で人を見ている。人の見方は思想の自由があるとしても、“おそれ”だけでは実体がないから危うさの明証にならない。ブラックブックとやらが作られる根拠はどこにあるのだろうか。
「危ない人って色々いるけど、ブラックブックがメインにするのは、子供なんだよね。しかも、小学生。まぁ、六年もあれば、ヤバイやつをチェックできるでしょ、みたいな。それで、足掛かりとしてまずは“ブラックな学校”を調べるらしくて……」
私は、話の肯綮を履き違えていた。てっきり大人のことかと思いきや、子供だったのである。予備軍というのも変に頷けてしまう。“小学生”と、彼はあっさり言い流したが、浅くて深いポイントが多分に含まれていたのではないか。
この国には、いかなる人にも憲法で規定された初めての御勤めがある。そこには、名前や住所などの個人情報を偽りなく提供しなければならない。悪の芽はいつでも顔を出しうるが、その様子をじっくりと観察できる環境がある。多感な時期の性質と将来の危険性に脈絡をつけることを、疑いなく信じている場合がある。大事に至る前に、小さいうちから何らかの手を打っておこうとする。これを「荒唐無稽な発想だ」と、強ち言い切れないと思うのは、私だけの邪推だろうか。話を聞いていて胸を過ったのは、小学生が同級生を殺害したという、いつぞやの悲しいニュースだった。私の所見の背景にあるのは、小さくとも大きな、黒い問題の山々だ。そういった事象の闇が影を落すのは、当事者だけではないのかもしれない。
一方で当の話題は、私が引っ掛かっているものとは若干逸れていた。
「……何、ブラックな学校? それはさ、想像だけど、いじめとか不登校とか学級崩壊が起きているところじゃないの? あと、変態教師がいるとか、モンスターペアレントがいるとか?」
たかが都市伝説といえども、火の無いところに煙は立たない。昨今何かと世間を騒がせている“学校選択制”が、この話のネタ元らしい。学校選びが子供の一生を左右するのではないかと懸念する風潮が影響しているのだ。同時に、優良な学校と劣悪な学校が混在する現状や、教育に纏わる諸問題をも孕ませているから然るものである。ブラックブックは、時代の申し子ともいえそうである。彼は、こうも言っていた。始めは、ブラックな学校の実態を調査した報告書だったが、青少年育成の名目があらぬ方向へ独り歩きしてブラックブックになったと。
「ぶっちゃけ、僕、小学四年生の時だけど……“かつあげ”されたんだよ。同じ学校の六年生に。……あいつら、どうなったのかな」
彼が話す悪者像は、ニュアンス的に不良へシフトしていた。言わず語らず、ブラックな学校の悪ガキがブラックブックに載る可能性が高いというのは察しが付く。厄介なのは、その先だ。「ワルはつるむ」のである。朱に交われば赤くなる、だけではない。一事が万事、ワルが絡むと、ワルに関係するものが全部ワルに見えてくるのだ。友達、同級生、担任、学校、家庭、地域、教育、子供……。直接関与せずとも、ワルの所在が際限なくどんどん派生していくのである。この時、彼の目と口調には、遣り切れなさそうな悪しみが込もっていた。そこには、かつあげした連中に憤る以上のものがあったと見受けられる。もしや、ワルの言い成りになってしまった己もワルなのではないか。他律的な傾向がある彼なら、そう考えかねない。まるで、被害に遭う方も悪いと見られるのを承知した上で、ワルを徹底的に責め切れないような様子だった。……あくまで、彼の性格を知ったつもりでいる私の主観だけれども。
丁度、取留めのない意見が四方八方から出てきた頃だった。「ほんとにヤバイやつって、いかにもワルそうなやつとは違わないか?」と、聞き手の友人の一人が言挙げした。その揚言が妙に皆の同感を誘ったのである。無論、裏付けや確証などないのだが、私は即座に反論できなかった。本来は、ほんとのやばさ、ワルの規準など人それぞれである。現実はというと、千差万別の物差しを一緒くたにしているに過ぎない。ただ、他人も同じことを考えているから、多数決的にそれが正しくなってしまう面は多々ある。そうした心の働きを具現化したものが黒い本だと思うと、末恐ろしい。悪を律する土台に、絶対はないのだ。
名誉毀損やプライバシーの侵害など、思いつくだけでも多方面のルールに抵触しそうなブラックブック。果して、とんだブツを作り、利用するのはどこの誰なのだろうか。
「ええっと、誰かがわからないのが一応オチなんだけど……予想はつくでしょ?」
私達が予想以上に話へ食い付いていたからだろうか。彼は、膨らむ鼻を右手の指で隠しながら目を細くしていた。
帰り道。その日に乗った電車は、いつもと変わらぬたった三駅間の距離にもかかわらず、ひどく気分が悪くなった。原因はきっと、駅前の路上で異臭を放つ、戻したての嘔吐物を目にしたからだろう。まったく、関係ない私にまで吐き気を誘うから堪ったものじゃない。見知らぬ誰かへ憤慨する中に、僅かだが精神的な気持ち悪さがあるのは気のせいだろうか。いや、悪いのは私じゃない。吐き散らしたやつが悪いに決まっている。そう何度も自分に言い聞かせた。呪文のように唱えて目が回り、ますます気味が悪くなってしまった。
午後七時過ぎ。帰宅すると、家がやけに静かである。暗いのに電気を点けていない。顔を顰めさせる生臭さが玄関にまで立ち込めている。荷物を持ったまま居間へ行き、手探りで灯りをつける。ちかちかする閃光で、明るくなる室内。家族が全員うつ伏せになって倒れている。床を這うのは赤黒い血。皆、体は青白くなり、少しも動かない。
何もおそれることはない。これは、心理テストの、とある仮定の話だ。
「お前だったら、このあとどうする?」
私は大学生になっていた。心理学を専攻する友人が、気味の悪いことを出し抜けに私へ尋ねてきたのだ。講義前の短い時間だったから、煩わしいことこの上なかった。私は「家に帰ったらまず、ただいまっていうよ」と、ぶっきらぼうに答えた。彼は些か驚いていたが、次の瞬間には「へぇ~マジか?」と、それとなく私の答えに念を押していた。
昼休みになり、学生食堂でその友人を見かけた私は、すぐさま詰め寄っていった。「さっきのはどういうつもりだ?」。すごい剣幕で食ってかかったせいか、彼はへらへらしながらも少し怯えていた。そして、「わるい、わるい。まぁ、落ち着け」といってカバンから一冊の本を取り出した。
『ちょっとキケンな心理テスト』。
心理テストブームの頃に親が買ったものを自宅から持ってきたのだという。それはそれとして、本を見せられただけでは何の答えにもなっていない。私は、目を三角にして彼を睨みつけた。どこか上から目線の彼は、お構いなしの風でペラペラとページを捲っている。目当ての節を見つけると、「ほら、ここだ」と指し示して、私に本を突き出した。
上記の心理テストの解説を記したページが開かれていた。私は、怒りが覚め遣らぬまま本を奪い取り、文章を流し読みした。
あの状況で普通の人ならば気が動転して何もできない、もしくは、救急車や警察を呼ぶなどするのが妥当であるらしい。行動から読み取れる心理である。特に異論はない。だがそれは、自分が被害者側の立場にいる大前提のもとで成り立つ。では、加害者側だとしたら、自分が人を危めていたとするなら、話は違ってくるだろうとの寸法だ。
――時は数十年前に遡る。平穏に過ごしていた一家が皆殺しにされる事件が起きた。警察は、現場近くに住む一人の男を殺人容疑で逮捕した。その男は、殺害後に現場へ戻ったそうである。なぜ、戻ったのかという取り調べに対し、男はこう供述した。
『冷たい骸に挨拶しにいった。満面の笑みを浮かべて「ただいまぁ」と……』
私は、そんなつもりで言ったわけではない。どれもこれも、俄には信じられなかった。つまり、この本の挿話は本当にあった出来事で、結果だけ照らし合わせると私は異常犯罪者も同然であると。狡猾な彼は心理テストに託けて、どうにか私を誹謗中傷したかったらしい。全容が見えてくるにつれ、彼の何食わぬ顔が私の神経を逆撫でした。とはいっても、成人していた私。子供のように、感情に任せて無分別な言動などできない。意識して大人の対応を心掛けていたのだが、まだまだ私は孺子だった。
「これは御挨拶だな。てめぇは、オトモダチをなんと弁えているんだよ」
「だって、お前……二、三人、平気で殺してそうだから」
冗談でも言って良いことと悪いことはある。本気でキレかけた私は、衆人環視の最中、はっと我に返った。たとえ冗談でも、嘘でも、その場しのぎでも、私は殺人者と紛う心理でいたのだ。そこをブラックジョークで突かれた私に、彼を往なす権利はないのである。所詮は、同じ穴の貉だ。足掻けば足掻くほど、逆効果になるのは目に見えた。
「そうかもな」。後味の悪い言い種をした。私が悪者として折れて、御遊びが終わった。くだらないことでこんなにムキになっている自分がバカらしい。思わず、噴き出すように笑ってしまった。笑いながら、わざと大きな音を立てて本をバシッと閉じ、グニャリと捩れるまで紙の塊を強く握りしめていた。
ふいと真顔に戻ったところで、私はつまらぬことを口走った。「興味深い本だから、しばらく貸してくれないか」。私の駄々を彼はすんなり聞いてくれた。「先人に学んどけよ」は余計な一言だったが。滅多に他人へ私物を貸さない彼にしては、珍しく素直だった。
午後九時過ぎ。帰宅して諸々の用事を済ました私は、借りた本を読むことにした。これといってやることもなく、単に時間を潰したかったからである。純粋に読書をできれば、それで良かった。すっかり冷静だったし、気分的にも深い意味はなかったはずだ。
不倫しやすい人、騙されやすい人、洗脳されやすい人……。タイトルに違わぬ診断が、章ごとに出てくる。古臭い本だけれども、テストしている人間の心理は今と大して変わらない。良くも悪くも、こんなものか。さして関心のない分野を読み飛ばしていると、昼間の件が再び現れた。“罪を犯しやすい人”の章であった。そう見られていたのは不愉快であるが、生憎、私の場合は当たっていない。気にする必要などないのだ。それに、下手に拘れば誰かの思う壺である。何にせよ、嫌なことは忘れようとしたのだが、しつこい蟠りは残っていた。事実無根であっても、疑われ、悪く見られるのは、それだけ深刻なのである。不安を掻き消すため、私は先を読み進めた。メインテーマをなるべく外し、雑学的な知識を拾おうとしていた。
――某国における精神鑑定の一環で、異常犯罪者に絵画を描かせることがある。獄中アートともいうべき作品には、常人にはないセンスや、怪しい魅力に満ちているものもあるとか。芸術的だけでなく、犯罪心理学の特異な標本としても価値が認められるため……。
そこまで読み、本を伏せた。価値あるものを排除しようとする人なんていない。近時の私の悪を取り捨てることへ躍起になる一方で、頭の中に蘇ってきたのは往時の私である。それは、原点への立ち返りだった。つなげてはいけない点を、この線でつなげようとしている自分がいた。
絵は、描く人の心理が投影されるものである。それゆえ、アートや標本などと称された危険人物の心理が、絵画となって体現されているかもしれない。だが、厳秘であるはずの絵の現物を、一般の人々がそれと知って目にする可能性は極めて低い。異常がある罪人の絵となれば、余計に見えないだろう。我々が見て知れるのは精々、事件の異常性や凄惨さといった外面の要素である。目につくのは内面ではない。もし見えるとすれば、犯罪者が引き起こした惨事に累を及ぼされた人達の心理である。私が注目したのは外であり、内のほうだった。
恐怖を呼び起こす事件などは精神衛生上忘れるべきだが、普通の人にそれはできない。悲劇を繰り返さないためにも、風化させてはいけないと思うのが人である。何らかの手段を用いて、メッセージを伝えようとする人もいるだろう。絵の形式で気持ちを表現しても不思議ではない。そこで、だ。
例えば、幼女ばかりを殺害するような人間と、その被害者である少女が題材になっている絵本があるとは考えられないだろうか。幼い子供が凶悪犯罪に遭う事件は、未だ後を絶たない。子供にこそ知ってほしい事実はある。だが、殺人、虐待、強姦などは、そのままの形では子供に伝えられないし、理解もしがたい。ならば、作者が有害と判断したものや実名などは“善意の検閲”を行って抽象し、具体描写しなければよい。そうして、気味の悪さだけ残った作品が出来上がる。絵本であれば、小学校の図書室に置かれることもある。子供でも手に取り易いはずだ。
終始暗い雰囲気、謎多き少女、はっきりしない記述、気になる終わり方……。
難解な内容だった。あれは、都合上そうなっていたのかもしれない。絵は、少女だけが闇と同化せずにいる奇妙なタッチだった。あれは、少女が“あの世に逝った犠牲者”を、闇は“人間の心象風景”を表していたのかもしれない。作者、タイトル、版元などが不明だった。あれは、特定されないための措置なのかもしれない。本の作りが普通とは違っていた。あれは、本らしさを消してメッセージ性を強める工夫だったかもしれない。これといった理由もなく図書室から突如失せていた。あれは、やはりあってはいけない本だったからかもしれない。何しろ異様に気味の悪い本だった……。全て、情況証拠の域を出ない。ただ、私にとってあの本が、ヤバイ書物であると信じるには十分だった。
子供で、訳もわからずとはいえ危険な情景を見ていたと思うと、ぞっとしてくる。今となっては、怖さが云々のレベルの問題ではない。あの時の私は、被害者側と加害者側、どちら寄りの心理で本を見ていただろうか。よもや後者に自分を重ねてはいなかっただろうか。その上で気付かぬうちに感情移入し、少しでもあちらと通じた部分があったとすれば忌々しい。「三つ子の魂百まで」とはいうけれども、過去を顧みずにはいられなかった。
そう、あれは、
私が小学校の低学年だった頃……。