八 迷い道
「ーーくしゅんっ!」
自分のくしゃみで天翔丸は目を覚ました。
「うぅぅ〜、さ、寒ぅ……」
身体がすっかり冷えきってしまっていた。天翔丸は自分の身体を抱きしめてこすりながら起き上がった。
「えーっとぉ……ここは……」
安倍晴明とかいう陰陽師に妙な術をかけられた瞬間、地面に穴があいてそこに落下した。いったいどこへ落ちてしまったのだろう。
周囲を見渡すと築地塀が目にはいり、見知った都の建物が見えた。
「あれ? ここ、都……か?」
地の底へでも落ちてしまったのかと思ったが、そこは都の大路のど真ん中だった。周囲を見回し、誰もいないのか、と思って自分には追っ手がいたことを思い出した。黒衣の男の姿は見当たらない。
「やい、陽炎!」
つっけんどんに呼びかけた声があたりに響きわたったが、返事はなかった。穴に落ちるとき、一緒に落ちたと思ったがどうやら離ればなれになってしまったようだ。
(へん、やっといなくなったか)
陽炎とはぐれて、天翔丸は清々した。
(よし、母上に会いに行こう!)
天翔丸は胸を踊らせながら、小走りに駆けだした。
母は陽炎に記憶を消され、息子のことを覚えていない。でも事を順序立てて話せば、きっとわかってくれるに違いない。記憶を消された直後に母と会ったときは混乱していてまともにしゃべることもできなかったが、いまなら冷静にきちんと事情を話せる。一緒に暮らしてきたというのは事実だし、息子がいたという証明になるものが何かしら残っているかもしれない。母とて記憶がなくても、何かおかしい、何かが足りないと感じているかもしれない。その理由を説明すればいいのだ。
すべてを説明してみせれば、自分が息子であることも証明できる。
(母上には息子が必要なんだ。俺が、母上のお手を引くんだ)
舎人たちが手を引いたのではきっと歩きづらいに違いない。自分は母にとって一番良い歩幅、歩きやすい歩調を知っている。
(また母上と一緒に暮らすんだ!)
懐かしい都の匂いとにぎやかな雰囲気が、復讐も鞍馬天狗の宿命もすべて頭の片隅に追いやり、天翔丸の胸を母への想いでいっぱいにした。母と一緒に暮らせるなら、他のことはもうどうでもいい。
天翔丸は希望を胸に抱いて顔をあげた。あげたとたん、ぎょっとした。
「え?」
空には明るい太陽が浮かんでいる。その太陽が目で見える速さが動いていた。それだけでも信じがたい異常事態なのに、じりじり西へとむかっていた太陽が、とつぜん東へ逆戻りしだした。
「ええええ〜っ!?」
おかしなことはそれだけではなかった、
改めてあたりに目をやると、春に咲く桜の横で、秋にしげる芒が穂をゆらしていた。地面の水たまりに氷がはっているのに、頬にふれる風は夏の湿気をふくんでいるようにじっとりとしている。
時間の流れがおかしく、季節までもでたらめだった。
(い、いったい何が起こってるんだ……?)
あたりをじっくり観察するうちに、天翔丸は決定的な異変に気づいてぞっとした。
人が、一人もいなかった。
都は人が住まう場所だ。なのに人っ子ひとり見当たらず、物音一つしない。
掘ったて小屋のあたりには草履が転がっていたり、作りかけの竹籠が放置されていたり、井戸端の桶にはいまくみ上げたばかりだというように水がなみなみと入っていたり、いまさっきまで人がいたと思われる形跡はあるが、肝心の人の姿はなかった。
「おーい、誰かいないかーっ!」
こだまする声が無人の都に吸いこまれるように消え、すぐに耳に痛いほどの静寂にもどった。何度呼びかけても、誰も現れなかった。
天翔丸はごくりとつばを呑みこんだ。
「で、でもここは都だからな! 都はよく知ってる、だからぜんぜん問題ないっ! とにかく歩こう! おう!」
恐れをごまかすために、一人会話をしながら歩きだした。
あたりを見回しながら歩いていくと、やがて見覚えのある建物を発見し、現在位置が判明した。
「よし、ここは六条だな!」
都の中央を南北に貫いている朱雀大路を縦とすると、都を横に区切っている道は北から一条大路、二条大路とつづき、最南の九条大路まで規則正しく順に並んでいる。
母の邸は、左京の七条に位置している。ここから南へ歩いていけばたどりつくはずだ。
天翔丸は南へむかって歩を進めたが、歩いていくらもたたないうちに立ち止まった。
「あ……れ? ここは……」
ふと横を見ると、ある官僚の邸を発見した。以前、母がここへ笛を奏しにきたのに何度か同行したからよく覚えている。ただその邸のある場所は、六条でも七条でもなかった。
「ここは……四条か?」
六条を南へむかっていたはずなのに、なぜか北の方角にある四条にいた。
道に迷ったのだろうか? いやしかし、都の道は碁盤の目のように東西南北に整然と仕切られている。迷うはずがない。
方向を間違えたのか? いや、これはそういう問題ではない。そもそも六条からいきなり四条に行けるわけがないのだ。いつの間にか道をすっ飛ばして移動していた。いつどこで飛んでしまったのか、まるでわからなかった。
不可解な事態に血の気が引いていくのを感じ、背筋がぞくぞくした。
「が……がんばれ、俺! 道は他にもある! うん!」
自分を励ましながら、天翔丸は両手を大きくふって再び歩きだした。
今度は道をしっかり確認しながら歩いたのだが、四条だと思ったらいつの間にか二条におり、南へむかっているはずが西へ行き、方向転換して東をめざせば、北にいる。
整備された見通しの良いまっすぐな道が、ねじれ曲がった山道のように思えてきた。
どこをどう歩いているのか、まったくわからない。進めば進むほどにわからなくなる。頭の中にある都の地理も、自分の方向感覚も、もはやあてにはならなかった。
そして、いくら歩いてもやはり誰とも会わなかった。
「誰かいないのかよぉ……」
心細くなってきて、自然と声も小さくなる。
背筋がぞくぞくするのは寒さのせいばかりではない。直面している未知の異常事態が、じわじわと恐怖となって身体の芯からせりあがってくる。天翔丸はすっかり冷えきってしまった自分の手に息を吹きかけ、両手をこすり合わせながら角を曲がった。
そのとき、いきなり動くものが足にぶつかってきた。
「きゃあ〜っ!?」
ぶつかってきたものが悲鳴をあげ、その小さな身体が地面に転がる。
それは見覚えのある子犬だった。
「あれ? おまえ、道案内人のそばにいた犬じゃないか」
足の一本欠けた三本足の子犬が、おびえた様子で天翔丸を見上げた。
天翔丸はずっとこわばっていた顔をようやくゆるめた。
「はぁ〜、よかったぁ。ぜんぜん誰とも会わなくてさ、犬でも会えてうれしいよ。……ん? おまえ、さっき叫ばなかったか? きゃあ〜って、しゃべったよな?」
動物や妖怪が言葉をしゃべること、言葉が人間だけのものではないことを天翔丸は知っている。だから特に驚くこともなく、気さくに子犬に話しかけた。
「なあ、おまえ道わかるか? なんか迷っちゃったみたいで。……あっ、待てよ!」
突然、子犬が脱兎のごとく駆け出し、逃げた。
が、駆け出したとたん、足をもつれさせてすっ転び地面にひっくりかえった。どうも鈍くさい犬のようで、天翔丸はたやすく捕まえることができた。
「なんで逃げるんだよ?」
子犬は天翔丸の手から逃れようと手足をじたばたさせて暴れた。
「わ〜〜ん、助けてぇ! 覇者に食べられちゃうよぉ〜!」
「は? 誰が食うか! おまえ失礼な奴だな。人を下手物食いみたいに……いててて! こら、暴れんなって!」
「吉路様ぁ、吉路様ぁぁ〜〜!」
子犬の声に答える声が聞こえた。
「どこだね、小路」
「あっ、吉路様だ!」
子犬が天翔丸の顔面を思いきり蹴った。
「ぶっ!」
天翔丸の手がゆるんだ隙に子犬が逃れ、走って角を曲がった。
天翔丸がその後を追って角を曲がると、はたしてそこには子犬の飼い主がいた。
「道案内人!」
天翔丸は子犬と同じように喜びいさんで駆け寄った。
相手は道の案内人。迷っているときに、出会ってこれ以上心強い相手はいない。
「いいところで会った! 道に迷っちゃってさぁ。いったいここはどこなんだ?」
案内人は感嘆あふれる声で言った。
「これはこれは……驚きました。あなたがこれほどの強運の持ち主だとは」
「え?」
「一日に二度も、しかも道に迷っているそのときに私と巡り会った。それが強運の証です。私はこの小路を探していたつもりでしたが、どうやらあなたに引き寄せられたようです。これだから覇者はあなどれない」
天翔丸は目をぱちくりさせた。道案内人の言葉を頭で反すうし、意味を考えてみる。
「あのさ、意味がよくわからないんだけど……?」
案内人はなにやら意味深に微笑んだ。
「その強運に敬意を表して、ご助言させていただきます。これより、あなたは岐路にさしかかります。くれぐれも進む道をお間違えになりませんよう。もし間違えれば、命を落としますよ」
天翔丸はぎょっとした。
「命を……落とす? 俺が死ぬっていうのか?」
「はい」
案内人は真顔できっぱりと言い切った。
天翔丸は氷水でも浴びせられたように身震いした。占いなど信じるたちではなかったが、不思議と案内人の言葉には疑いを許さない重みがあった。その口から出された死の宣告は、なぜか妙に胸にせまってくる。
「そ、そんなこと言われたって……どうすればいいんだよ? 助かる方法は?」
「あります。一刻も早くあの方の元へお戻りになり、助けを求めることです」
「あの方? 誰?」
「あなたのお連れ様、蒼き瞳の御仁です」
天翔丸は心の底から嫌な顔をした。助かる方法があると聞いて喜んだ気持ちも一気に萎える。蒼き瞳の御仁などという者は、どう考えても一人しかいない。
「陽炎に助けを求めろっていうのかよ?」
「はい」
「どうしても?」
「助かりたければ、そうなさることです」
天翔丸はうなった。これ以上はないというくらい抵抗を感じる。
それが陽炎以外の誰かであったなら、迷うことなく助けを求める。いけ好かない大鴉の黒金であっても百歩ゆずって頼むことをしよう。しかしよりにもよって憎っくき復讐相手に助けを求めろとは。
「他に方法はないのか?」
「ありません」
案内人ははっきりと言いきり、さらにつづけた。
「あなたと陽炎様は、強い縁で結ばれています。互いがいなければ立つことすらできないほど弱々しいのに、ひとたび並び立てば比類なき強さを発揮できる。あなた方はお互いを支え合いながら生きてゆく宿命です」
「なんだそりゃ!?」
天翔丸は声を張りあげた。
「おいおい、いまの冗談は笑えねえぞ。冗談にしてはたちが悪すぎる。俺と陽炎が支え合うだと〜?」
「現に、支え合っていらっしゃる」
あまりのことにあっけにとられた。なんというでたらめな占いだろう。
天翔丸は咳払いをし、真面目な顔で抗議をこめて説明した。
「いいか案内人、よく聞け。俺とあいつが支え合ったことなんて一度もないし、これから先も絶対にない。なぜなら、俺にとって陽炎は疫病神だからだ。あいつと出会ってからろくな目に遭ってない」
「いいえ。あなたはあの方の導きで、最良の道を歩んでこられています。月蝕の夜、強運を上回る災厄がおしよせ、あなたは命を落としてもおかしくありませんでした。あのとき、救ってくれたのはどなたでしたか?」
天翔丸は返答につまった。
「一度だけではないでしょう。幾度となくふりかかってきた災難を、ことごとく退けてくれたのはどなたでしたか?」
天翔丸は追いつめるように案内人の言葉はつづいた。
「あなたはご自分の置かれた立場、そして状況をよく理解しておられない。失礼ながら無知でいらっしゃる。いまはあの方の言うことに従いなさい」
「ーー従えだと?」
天翔丸はうなるような声でさえぎり、瞳に怒りを浮かべて案内人をにらみすえた。
「なんで俺があいつに従わなきゃならないんだ。なんであんたにそんなこと言われなきゃならないんだ」
「あなたがあなたの困難な運命を生き抜くためには、そうすることが賢明だと」
「俺は運命なんか信じない。そんなものの言いなりになってたまるか。俺がどうするか、決めるのは俺だ。勝手なことを言うな」
天翔丸の強い反論に、案内人は戸惑いをあらわにした。
「いえ、あの、私はただ助言を……あなたに良き道を進んでいただきたいと、あなたのために」
「だから言うとおりにしろと、命令するのか」
天翔丸は、案内人の言葉に陽炎と似たものを感じた。あなたのためだといいながら、こちらの意見をまったく聞こうとしない。気持ちを考慮しない。こうしろ、ああしろと一方的に指示し、従えようとする。
不愉快だった。
「その道を進まなければ死ぬなんて、そんなの道案内じゃない。脅迫だ」
宿命とか、運命とか、そんな言葉に天翔丸はうんざりしていた。
ーー鞍馬天狗は戦うのが宿命です。
脅しとしか思えない言葉を思い返して、天翔丸は奥歯をかみしめた。
(おまえの言うことなんかに従わねえぞ。絶対に負けねえ)
怒りを新たに決意したとき、案内人がぽつりと言った。
「……そのとおりです」
そして冷たい地面に両手をついて土下座し、これまでの明朗な声とはまったく違う、弱々しい声で言った。
「申し訳、ありませんでした……私は今をもって、道案内をやめます」
「え?」
案内人の反応に、天翔丸はあわてた。
「なんで? なんでやめるんだ?」
「あなたのおっしゃるとおりです。私の言いざまはまさしく脅迫。人を脅すような者に、もはや物を言う資格などありません」
「何もやめることないじゃないか!」
「いいえ。もう、やめるべきなのです」
案内人は自分を強く責め立てた。
「今回だけではないのです。これまで私は無責任に言葉を吐き、それをぶつけられた方の気持ちを考慮せず、多くの方を傷つけてまいりました。私は自分のしてきたことの罪悪に気づいて心改め、以後、出会う方々を幸福に導くために道案内をしようと決意しました。私は証明したかったのです。この力は誰かを絶望させるのではなく、希望を与えられるものなのだと……そう信じたくて辻に座り、道案内をしてまいりました。しかし……私は己の傲慢さを戒めたはずでしたのに、また同じことをくりかえして……なんという愚か者か」
案内人はがっくりとうなだれて、一気に老けたように小さくしぼんでしまった。
天翔丸はあせった。ちょっと文句を言っただけのつもりだったが、案内人がこんなに落ちこんでしまうとは思わなかった。
「ご、ごめん! 俺が悪かった。言い過ぎた!」
「いいえ、あなたは悪くありません。悪いのは私です」
「いまのは八つ当たりだ。いろいろ腹立つことがあったから、ついあんたに当たっちゃったんだ! 俺のためを思って言ってくれたんだろ? 悪気がなかったんならいいよ!」
「いいえ……私は最低の人間です」
うなだれる飼い主に子犬がすり寄り、慰めるようにその手をなめるが、案内人はうなだれたまま顔をあげようとしなかった。深い自己嫌悪に陥って立ち上がる気力もなくしてしまったようだった。
天翔丸は案内人の前にしゃがんで顔を寄せた。
「最低なんかじゃないよ。あんたはいい人だよ」
少し顔をあげてこちらを見てきた案内人に、天翔丸は優しく語りかけた。
「くわしい事情は知らないけどさ、あんたは自分の悪いところを反省して、それを克服しようとしてるんだろ? だいたい大人ってのは自分が間違ってても非を認めよとしない奴が多くて、子供ってだけで見下してきたり、莫迦にしたりする。でもあんたはそうじゃない。年下の俺に対して礼儀正しく接してくれるし、悪いと思ったらきちんと謝ってくれる。俺から見たら、ものすごくまともな大人だ」
天翔丸は案内人の肩をぽんと叩いた。
「だからさ、これからも道案内をがんばれよ。失敗したっていいじゃないか。がんばってればそのうちうまくできるようになるよ。俺は占いとか信じないたちだからあれだけど、あんたの案内を必要とする人、きっといるって」
そういって、天翔丸は微笑みかけた。
案内人はその笑みをじっと見つめて、やがてふわりと目元をなごませた。
「あなたはとてもお優しい方ですね……これまでつらい思いをしてこられたでしょう。腹立たしく、理不尽な目にも遭ってこられた。しかしあなたはご自分がどんな苦境にあっても、傷ついている者がいればその心を思いやり、いたわることができる。なかなかできることではありません。あなたは慈悲深い心と、苦難に屈しない強靭な精神をお持ちだ。ご尊敬申し上げます」
「え……えぇ〜?」
その発言にはかなりびっくりしてしまった。老人が孫ほども年下の子供にむかって尊敬とは、いくら何でも言い過ぎではないか。
そもそも怒られることはよくあっても、褒められることはめったにないのが天翔丸という少年である。このように大人からべた褒めされるなど初体験。なにせ慣れないことだったので、天翔丸は返答に困ってしまった。
「あなたはお強い。なれどこの先に待ち受けるあなたの道は、一人で歩むにはあまりに険しすぎる。共に歩みゆく道連れが必要です」
案内人はその場にひざまずき、
「あなたは誇り高くご自分の信じる道を行かれる方、道案内を必要としないことはわかりました。ですがここは今しばらく、私の話に耳をかたむけてはもらえませんでしょうか。ここぞというとき、私の言葉が助けになれるかもしれません」
両手を地面につけ、深々と平伏した。
「あなたの生涯に関わる大切なことです。どうか、どうかお願いいたします」
その横で子犬も「お願いします」と言って、頭を下げた。
天翔丸は頭をかきながら小さく息をついた。
正直なところ、占いなど聞く気分じゃない。だが全身を投げ出すようにして頭を下げる老人を無下にはできなかった。それに生涯に関わることを言われては少々気にもなる。
「わかった。聞くよ。聞くけど、あんたの言うことに従うとは限らないぞ。どうするか決めるのは俺だからな」
案内人はほっと息をついた。
「はい、それで結構です」
案内人は道の片隅に端座し、その前に天翔丸はあぐらをかいて座った。
「あなたはこの世でもっとも恐ろしいものが何か、ご存知ですか?」
いきなり唐突な問いを投げかけられ、天翔丸は眉をひそめた。しかし一度聞くと言ったからにはつきあうのが筋であるから、腕組みをして真面目に考えた。
「恐ろしいものねえ。妖怪……いや、怨霊か? 暗闇とか……いやいや、死ぬことかな?」
思い浮かぶものを口に出してみたが、案内人の答はどれとも違った。
「孤独です」
「孤独……?」
よくわからなかった。一人でいると寂しいとは思うが、それが恐ろしいという感覚とはうまくつながらない。
「大勢といれば孤独をさけられるというわけではありません。集団に身をおいてもなじめなければ孤立し、かえって孤独を深めてしまいます。確実に孤独をさけるには、信頼できる者を探すことです。心から互いを理解し合える、そういう相手を見つけて共に歩むことです。あなたにはどういう相手がふさわしいか、おわかりになりますか?」
「どういうって……」
脳裏に思い浮かんだのは母の姿だった。母と一緒にいたときは孤独を感じたことはなかったし、笛を協奏するのも母となら自然とうまくできた。お互いのすべてをわかりあっていたし、息も合っていたと思う。
「私は『相性』が重要だと考えています。どんな相手でも語り合ったり、共に時を過ごしたりすれば、ある程度は理解を深めていくこともできますが、それには限界があります。個々に生まれもった性格の合う合わないがあり、のりこえられない壁が存在する。まず相手との相性が良いか悪いかを見極めるべきだと思うのです」
それはなんとなくわかる気がした。
いままでさまざまな相手と出会ったが、気の合う相手はすぐに仲良くなれるし、合わない相手はどこまでいっても合わないと思う。
「私の見立てによりますと、あなた様と陽炎様の相性は最高です」
「……は?」
「こんなに相性の良い方々を見たのは初めてです。抜群の相性というのは、まさしくあなた方のことを言うのでしょう」
天翔丸は口をあんぐり開けたまま固まってしまった。
あぜん、呆然、奇々怪々。あまりのことに返す言葉もない。
何を言いだすかと思いきや。この案内人は占いの力をもって、自分と陽炎の相性占いをしたらしい。そしてその結果たるものや。
「あなた方の相性のすばらしいところは、共にいることで互いを高めていけることです。強固に支え合えるだけでなく、足りないところを補いあい、尊敬しあい、響きあい、輝きあえる。あなたにとってあの方は一生という道を共に歩む同行者、別の言葉で言いかえれば最良の伴侶です」
「伴侶〜〜〜〜〜っ!?」
仰天して天翔丸はすっとんきょうな声をあげた。
「おいおいおい、陽炎は男だぞ? 言うまでもないが俺も男だ。伴侶なんて気色悪いこと言うなよっ」
「あなたのおっしゃる伴侶とは夫婦のことですね。私の言う伴侶とは魂で結びつく相手のことです。もちろん夫婦である場合もありますが、それ以外にも親友であったり、親子であったり、兄弟であったり、主従であったり。精神的なことですから、性別や種族は関係ありません。たとえばーー」
案内人はかたわらにいた子犬をなでた。
「この小路と私は、互いに伴侶だと思っております」
「え? 飼い主と飼い犬じゃないのか?」
「はたから見ればそのように見えるでしょうが、縁あって私たちは出会い、世知辛いこの世で寄り添いながら共にすごしております。なくてはならない存在です」
案内人は慈しむように子犬をなで、子犬もうれしそうに案内人の手にすり寄っている。
たしかに仲良さそうに見える。が、人と犬が伴侶だと言われても、かなり違和感があった。
案内人は天翔丸に目を戻し、表情を改めて断言した。
「この世に、陽炎様以上にあなたを理解できる者はいません。そしてあなたも、あの方を誰よりも深く理解できる。互いにしがらみを捨てて心を通わせることができたなら、あなた方は良きつがいとして生涯仲睦まじく添い遂げられるでしょう」
怒るのも阿呆らしくなってきた。一笑にふして笑い話にしてしまいたいところだが、案内人は大真面目な顔をしており笑える雰囲気じゃない。天翔丸は困って頭をかいた。
「悪いけど、やっぱりあんたの占いは間違ってると思うぞ。だってよ、今まで会ってきた中で、あいつが一番腹立つ奴なんだから」
「それはあなたが頭から拒絶しているからです。またあの方も、心を固く閉ざしてしまっています。いくら相性が良くても、互いに求めあわなければ結びつくことはできません」
「だからさ!」
もはや聞くに耐えられず、天翔丸は反論にかかった。
「いいか、これだけははっきりさせておくぞ。俺は陽炎が大嫌いだ。いや嫌いなんて生易しいもんじゃない。俺はこの世で一番、心の底から陽炎を憎んでる」
「なぜ?」
「あいつは俺からすべてを奪ったんだ。帰る家も、母も……いきなり、力づくで」
「それをお許しになることはできませんか?」
案内人はこれが大事なことだと言うように、一言一言をおさえるように反復した。
「陽炎様を、お許しになることはできませんか?」
思いもかけない意見に、天翔丸はあぜんとせずにいられなかった。
いま自分がしていること。いたくもない鞍馬山にいて、やりたくもない武術の修行をして、なりたくもない鞍馬天狗になった。すべて陽炎を討つためだ。その目標をめざすことに迷いはなかったし、疑問をもったこともなかった。それしか道はないと思っていたから。
だから案内人の提案には頭が真っ白になってしまうほどの衝撃を受けた。
陽炎を許す。
そんな選択が……そんな道があったなんて!
「憎しみは何も生み出しません。そればかりかあなたの目を曇らせてしまう。願わくば憎しみを捨てて、あなたの寛大なお心で陽炎様をお許しいただきたい」
陽炎のやったことが頭を駆けめぐった。
助けられたことは確かにある。不承不承だが、認めよう。
でもそれは、鞍馬天狗だからだ。鞍馬天狗がいないと困るという勝手な都合で助けているだけで、本当にこちらのためを思ってのことではない。そうでなければ、ああもこちらの意思を徹底的に無視できるはずがない。そもそも鞍馬天狗になるという忌まわしい宿命に突き落としたのはあの男ではないか。
陽炎さえいなければ。
天翔丸の心にくすぶっていた怒りがまた燃えだした。
「ーーできない」
天翔丸は語気を強めて断言した。
「陽炎を許すことはできない。それだけは。絶対に」
その返答に案内人は残念そうに小さく息をついたが、すぐに次の提案をした。
「では、ご自分の本能に則してください」
「本能?」
「生物には生きるための本能がそなわっているものです。あなたにもそういった本能があります」
「そういった本能って、具体的にどういった本能?」
「相手をかぎわける能力です。誰が敵で、誰が味方か。野生の獣が生まれながらに天敵を選別するように、あなたも感覚でおわかりになるはず。たとえば以前、陽炎様がお倒れになったときあなたは激怒なさったでしょう。鞍馬天狗としての本能が、比類なき伴侶を奪おうとした者に対して怒りを抱かせたのです」
背筋がぞくりとした。
案内人が何のことを言っているのか、天翔丸はすぐに思い至った。
それは鞍馬山で比良山の天狗たちの襲撃を受けたときのこと。比良天狗の攻撃で陽炎が倒れたときなぜか怒りがわいて、そのあとの記憶はなかったが無意識に七星をふるって暴れたらしい。なぜなのか、ずっと不思議に思っていたことだった。
まさか今、それを説明されるとは。
そもそも自分は鞍馬天狗のことなど一言も言ってないし、この案内人が鞍馬山でおこったことなど知っているはずがないーーないはずなのに。
天翔丸は目の前の老人の、説明のつかない能力に身震いした。
「理性で物事を思慮することは大切です。ですがときに、理性はもっとも大切な本能を否定してしまう。いまあなたが理性で陽炎様を憎み、伴侶であることを否定しているように。命が危険にさらされたときは理性よりも本能を信じ、それに則して行動することです。それできっと生きのびられます」
「あんた……何者だ?」
「私は吉路と申します。私の望みは、縁あって出会った皆様に最良の道を歩んでいただくことです。己が傲慢であることは承知の上、ですがこんな愚かな私にも道案内人として誇りがございます。どの道を誰と歩むか選択するのはあなたご自身ですが、私は私の誇りをかけて、最後にこれだけは言わせていただきます」
吉路は強く念を押すように言った。
「陽炎様をお捜しください。それが、あなたが生きのびることのできる唯一の道です」
吉路は子犬を抱えて立ち上がると、深々と一礼して踵を返して角を曲がった。
「待てよ! おい、えっと……吉路!」
あわてて追いかけ角を曲がると、もうそこに吉路の姿はなかった。隠れられるようなところなどないのに、煙のようにかき消えてしまった。
「な……なんなんだよ?」
天翔丸は腕組みをし、難しい顔で考えこんだ。
吉路の言葉を思い返しながら、これからどうするか考え、そして決断をくだした。
「誰が捜すか、あんな奴」
天翔丸は忠告にさからい、肩をいからせながら出口のない道を一人で歩きはじめた。