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七 奇門遁甲

 天翔丸が阿闍梨と会ったのは、物怪よけの護符をもらった五歳のときだ。それ以来、一度も会っていなかったから、実に九年ぶりの再会である。

 天翔丸は声をかけようと口を開いて、だがすぐに言葉をのみこんだ。

 都にいた人々は、陽炎によって記憶を消されている。天翔丸という存在がいたことを記憶から抹消されているから、阿闍梨も自分を覚えていないはずだった。

 なんと声をかけたものか困っていると、阿闍梨がこちらをにらみながら低い声で言った。

「なんという凶々しい赤髪よ」

 はっとして、天翔丸は頭に手をやった。

 天翔丸の髪は、ふだんは茶色だが夜になると赤くなる。

だがいまは昼間だ。昼間だが、立っていた場所は高い築地塀に日差しをさえぎられ、塀の濃い影の中に天翔丸は立っていた。

 天翔丸は動揺した。暗いところに立っただけで自分の髪が赤くなるとは知らなかった。

「ち、違う! これは、この髪は暗くなると赤くなるだけで……ただそれだけだ! 阿闍梨、俺は妖怪じゃない! 俺はーー」

「紅葉の君の息子、天翔丸だな」

 呼ばれるはずのない名を呼ばれて、天翔丸はおどろいた。記憶を消されているはずなのに、なぜ?

 消した張本人に目をむけると、事態を端的に説明した。

「私が記憶を消したのは、あの日あなたと会った者のみです」

 神通力が目覚め、陽炎と出会った日。顔を合わせて言葉を交わしたのは、市の幸太、幼なじみの真砂、忠信をはじめとする舎人たち、そして父と母。

 阿闍梨とは会っていない。

 近しく親しい人々にはすべて忘れ去られてしまったが、この都には自分のことを覚えている人がいるようだ。天翔丸は戸惑った。これははたして喜んでいいことなのだろうか?

「天翔丸、七星をぬきなさい」

 思考をさえぎるように陽炎が言った。

 天翔丸は瞠目し、その冷ややかな目を見た。

「おまえ……この俺に、人間と戦えというのか? 七星で人間を斬れと」

「身を護るためです」

 天翔丸は剣を鞘におしこめるようにして握り、その指示に頑として逆らう姿勢を見せた。

「天翔丸」

「おまえの指図は受けない! 絶対に手を出すなよ!」

 相手は人間、人となら話ができる。そもそも戦う理由などまったくない。

 しかし対する阿闍梨は、光る数珠にふれながら鋭い目でにらんできた。

「あれだけ残忍な殺戮をした上で、自分の存在ごと消して逃げ去るとは徹底しているな。見つからないだろうと踏んで都に戻ったのだろうが、私の目はあざむけぬぞ」

「……え? なに?」

「おまえが失踪した夜、川上家にいた人々が惨殺された。助かったのは紅葉の君とわずか数人のみ。あれはおまえの仕業だろう」

 阿闍梨の見解に、天翔丸は仰天した。

「な、なに莫迦なこと言ってんだよ!? あれは狂骨って骨の化け物の仕業だ! 俺をねらってきた奴らが、皆の命を奪ったんだ!」

 ぬれぎぬを晴らそうと言った言葉を受けて、阿闍梨が得心のいった顔をした。

「やはりおまえが原因か」

「だから、違うって!」

「狂骨という化け物は、おまえをねらってきたのだろう? おまえさえいなければ、川上家の人々は死ぬことはなかった」

 とっさに反論できなかった。それはある意味、真実だったから。

「妖怪は妖怪を引き寄せる。存在そのものが、悪だ」

 そう断言する阿闍梨に天翔丸はたじろぎ、後ずさった。吹きつけてくる強烈な敵意に気圧される。

 そして背後からは、逃げ道をふさいでいる陽炎が冷ややかな声で急かしてきた。

「七星をぬきなさい」

 天翔丸はその言葉を無視した。

 こちらが攻撃的な態度をとれば、相手は反撃してくるに決まっている。何もせずに敵意のないことを示せばいいのだ。誠意をもって話せば、きっとわかってくれる。

「阿闍梨、あなたは俺に魔除けの護符をくれたじゃないか! 俺は『見鬼(けんき)』という物怪を見る力があるから、物怪が寄ってくる。だから物怪たちを護符ではねのけ、ふつうの生活ができるようにととりはからってくれたんだろう?」

「おまえは見鬼などという生易しいものではない。真実を言っては騒ぎとなり、周囲の人々がおびえるから見鬼だということにしておいてやったのだ」

「真実……?」

「昔、おまえに渡したのは護符ではない。おまえの力を封じるための呪符だ」

 阿闍梨は虫けらでも見るような目で天翔丸を蔑視した。

「幼いおまえを一目見てわかった。これは人間ではないと。おまえは化け物だ。恐るべき凶悪な力で人間に害をなす、妖怪だ。都の人間を襲いにきたのだろうが、そうはさせぬ」

「そんな……そんなことはしない! 人間を襲うなんて!」

「人を襲うのが妖怪の本能だ。本能には逆らえん」

 偏見と憎悪に満ちた冷たい目で阿闍梨は言い切った。

 天翔丸は愕然とした。まるで話が通じない。

「違う! 阿闍梨、俺は……!」

「問答無用」

 阿闍梨は呪符を投げ、天翔丸の胸にはりつけた。

「悪鬼調伏!」

 瞬間、呪符が白い閃光を発し、強い衝撃が天翔丸の全身を貫いた。

「がああああああああああああああああああっ!」

 身体に何千本もの針で一斉に貫かれたかのような衝撃が刺さり、その痛みが体内を走って内側から破壊されていくのを感じた。全身を引きつらせながら天翔丸は激痛に絶叫した。

(こ、これが……調伏術!!)

 その術名から連想するに、妖怪をこらしめて屈服させる術かと思っていたが、実際に身に受けてそんな生半可なものではないことを知った。

 これは妖怪の存在をこの世から消し去る術ーー死にいたらしめる抹殺術だ。

 阿闍梨の術に、他の僧侶たちも力を加えだした。合掌し、経を唱えて呪符に法力をそそぎこむ。四方八方から調伏術をかけられ、天翔丸は倒れることも許されなかった。棒立ちになっているところをよってたかっためった打ちにされているような状態だった。

 それでも天翔丸は七星をぬくことをせず、無抵抗でひたすら耐えた。

「俺は……何も、しない! 阿闍梨、信じてくれ……!」

 天翔丸は苦痛に耐えながら必死に訴えるが、阿闍梨と僧侶たちの唱和はさらに高まり、調伏術の威力は増していくばかり。

「阿闍…梨……!」

「やはり化け物。並の妖怪なら、一瞬で消え去る我らの術に、ここまで耐えるとはな。なまじ妖気が強いゆえになかなか息絶えられぬか。ーーいま、楽にしてやる」

 阿闍梨は数珠を手に巻きつけ、それをぐっとにぎりこんで法力を高め、とどめの言葉をはなった。

「オン!」

 法力が呪符に伝わる瞬間、銀の錫杖が呪符を貫き、調伏術をといた。

 崩れる天翔丸の身体を陽炎は両手で受け止めた。腕の中で天翔丸は半分白目をむき、ひどく痙攣していた。調伏術を受けすぎたために瀕死の状態になっている。

 陽炎はその額に手をあてて霊力をそそぎこんだ。それでほんの少しだが天翔丸が回復し、痙攣が止まった。

 天翔丸の目の焦点が合ったのを確認して、陽炎は言った。

「なぜ七星をぬかないのですか」

 その声はかすかに震えていた。

「あともう少し術を受けつづけていたら、あなたの命は失われていました。なぜ抵抗しないのですか。なぜ戦わないのですか」

 調伏術に痛めつけられて動けない天翔丸を、陽炎は容赦なく叱りつけた。

「意地を張るにも限度があります。すべては命あってのことでしょう。生きるか死ぬかの限度も見極められないなんて、戦う戦わない以前の問題です。どんなに望んでもかなわないことはあります。いくら誠意を尽くして訴えても、受け入れられないこともあります。努力してもかなう見込みのない望みは捨てるべきです。都に住むこと、人間になること、いずれもかなわぬ夢です。早く捨てなさい」

 強情な天翔丸に陽炎は怒り心頭のようだったが、それは天翔丸も同様だった。

「うるさい……うるさい! おまえなんかに俺の気持ちが……!」

「黙りなさい」

 陽炎は反論すら許さず、天翔丸を厳しく叱りつけた。

「黙って、力の回復につとめなさい」

 うるさい、うるさい、うるさい! 勝手なことばかり言って、全部おまえのせいじゃないか! おまえさえ現れなけば、都にいられたかもしれないのに!

 そう怒鳴りつけたかったが、調伏術を受けすぎたせいでもうそれ以上しゃべる力もなかった。

 陽炎は天翔丸を築地塀にもたれさせると、背をむけ、阿闍梨と対面した。そして頭部全体に巻きつけていた布をとりはらい、顔をさらした。

 僧侶たちがそれぞれ法具を身構えて警戒するが、蒼い瞳は僧侶たちにはまったく目をむけず、阿闍梨ただ一人を射貫くように見ていた。

「比叡山の阿闍梨、おまえに会いたいと思っていた」

 阿闍梨は陽炎を鋭い目で観察し、記憶をたぐった。

「見たことのない顔だな。初対面だと思うが……なぜ私に会いたいと?」

「おまえは天翔丸をだました」

 天翔丸ははっとして陽炎を見た。

「呪符を護符と偽って持たせて力を封じ、卑劣な手で調伏しようとした」

 見上げて見えるのは黒衣の背だけ。その身から発せられる青白い霊力が怒りで炎のように猛っている。こんな陽炎の姿を以前にも見たことがある。

 比良天狗に非力で愚鈍な天狗だとさんざんけなされたとき。あのときと同じだった。

(ひょっとして、あいつが怒っているのは俺じゃなくて……阿闍梨に対して、なのか?)

 阿闍梨はゆるぎない眼光で陽炎をにらんだ。

「都に巣食い、人々に危害を加える凶悪な化け物を調伏するのが我らの役目。そのためにはあらゆる手段を講じ、全力を尽くす」

「天翔丸が何をした? 戦う力もなく、身を護るすべも知らなかった天翔丸が、誰にどんな危害をおよぼした?」

「危害をおよぼされてからでは遅いのだ。肝要なのは犠牲を未然にふせぐこと。この世に巣食う異形を駆逐し、人々を護るのが私の使命だ」

「この世は人間だけのものではない」

 陽炎と阿闍梨がにらみ合い、空気がはりつめる。

 両者がふみだそうとしたそのとき、天翔丸は背後からふいに声をかけられた。

「この世は人間だけのものではないが、何者にも棲むに適した場所があるものだ」

 ふりむくと、自分と同い年くらいの少年が立っていた。黒い烏帽子をかぶって白い水干をまとった少年が、切れ長の細い目でこちらを見下ろしながら言った。

「都は天狗が棲む場所ではない」

「おまえは……!?」

「陰陽師、安倍晴明」

 晴明は両手の指をすばやく様々な形に交差させ、印を切った。

木火土金水(もっかどこんすい)!ーー奇門遁甲(きもんとんこう)!」

 身の危険を感じて立ち上がった天翔丸の足元に、光の線で五芒星(ごぼうせい)が描かれ、次の瞬間、天翔丸の足元の地面が消えた。

「う……わぁ!」

 地面に星形の穴ができ、その底の見えない闇の中へ天翔丸はまっさかさまに落下していく。

「天翔丸!」

 落ちていく天翔丸を追って、陽炎も五芒星にとびこんだ。二人をのみこみ終えると五芒星は消え失せ、そこはなんのへんてつもない地面にもどった。

 予想していなかった事態に僧侶たちはあぜんとしていたが、阿闍梨はすぐさま晴明につめよった。

「安倍晴明、あの妖怪をどこへやった!?」

 晴明は涼しい顔で答えた。

奈落(ならく)へーー奇門遁甲へ落としました。落ちた者はまず生きて出てこられません。これで天狗退治は完了です」

「退治したという証拠はあるのか?」

 阿闍梨の問いに、晴明は怪訝な顔をした。

「天狗が奈落へ落ちていくさまを、いまご覧になったでしょう?」

「落ちた先が逃げ道という可能性がある。退治するふりをして、仲間の妖怪を助けたのではないか?」

「何を根拠にそんな」

「おまえは狐の子だそうだな。母親が狐だと」

 晴明の細い目がさらに細くなった。ふれたら切れそうな、刃のような鋭い目で阿闍梨を見据える。

「私の母が何だろうと、関係のないことでしょう」

「物怪はさまざまな手段を使って人の中にまぎれこみ、狡猾に人を襲うものだ。おまえもそのような物怪だという可能性がある」

「偏見です」

「ならば答えろ。おまえの母親はどこの誰だ?」

 晴明は口を閉ざして黙りこんだ。

 阿闍梨に追従して、配下の僧侶たちが晴明をとりかこんで言い立てた。

「答えられないところがますます怪しい。おまえのその狐のような細いあご、狐のような細い目、いかにも狐の子ではないか」

「そもそもがおかしいと思っていたのだ。賀茂忠行殿の弟子だというが、忠行殿には立派なご子息と孫がおられる。実の肉親をさしおいて縁もゆかりもない者を後継者にするとは」

「おまえは人間に化けて、忠行殿をたぶらかしているのではないのか? 忠行殿の人の良さにつけこんでとり入り、陰陽の術を盗みとろうとしているのではないのか」

 僧侶たちは眉をつりあげ、喧々囂々と一人の少年を責めたてた。

 晴明はうつむきながら黙って聞いていたが、やがて静かに目線をあげた。

「お疑いになるなら、落ちてみますか?」

 え、と声をもらす僧侶たちを、晴明は狐目と称されるその切れ長の目で見据えた。

「あの天狗がどうなったのか、後を追ってその目でお確かめになればいい。お望みなら奇門遁甲へ落としてさしあげますよ。ただし先ほど申し上げたとおり、奇門遁甲に落ちて生きて出てきたものはただの一人もおりませんが」

 晴明が術の構えをとると、その気迫に圧されて僧侶たちは後ずさった。

「どなたから落ちますか?」

 阿闍梨は弟子たちを背にかばいながら、晴明をにらんだ。

「安倍晴明、その発言、我ら比叡山と敵対する意があると受けとるが、良いか?」

「先に言いがかりをつけてきたのはあなた方の方です」

「物怪討伐の任を負う者として、当然の警戒だ。火のないところに煙が立たないように、何もないところに噂は立たないもの。お前が狐の子だと噂されるのは、それ相応の怪しい行いがあるからだろう」

「その怪しい行いとやらをあなたは見たのですか? もし見てもいないのに憶測だけで私を疑っているのだとしたら、比叡山は無実の人間を罪人あつかいするような横暴な集団だということになりますが」

「その慇懃無礼な物言いがそうだと言っているのだ。力で人を脅し、子供のくせに目上の者を莫迦にするその態度が問題なのだ。おまえは人間と同じように暮らしてきたつもりかもしれんが、人となじめたか? 親しい友人などおるまい? おまえのその態度や力から感じる危険な気配を人は本能的に忌避し、それゆえに狐の子と呼ぶのだろう」

 黙りこむ晴明を、阿闍梨は下賎な卑妖を見るように頭から見下した。

「賀茂忠行殿の先行きが危ぶまれるな。弟子が不祥事を起こせば、師としてその責任を問われることになるのだからな」

 阿闍梨に習って、僧侶たちも少年陰陽師を刺々しい視線で責める。

 重い沈黙のあと、晴明は低い声でつぶやいた。

「……私にどうしろとおっしゃるのですか?」

「まずは奇門遁甲という術について説明してもらおうか。その術にかかった妖怪がどうなるのか、くわしく話せ」

 命令口調の阿闍梨の要求に、晴明はしばしの無言をおいて応じた。

「わかりました。ご説明いたします」

 説明をしようと口を開いた晴明を、阿闍梨は手で止めた。

「賀茂忠行殿に同席してもらおう。おまえの話だけでは信用できない」

「……では、どうぞ陰陽寮においでください」

 晴明は僧侶たちを先導しようとしたが、阿闍梨はそれを無視して追い越して歩きだした。その後につづいて僧侶たちが列をなして歩いていく。都に侵入した天狗を始末し、一番の功績をあげたはずの若き陰陽師は敗者のようにうつむき、僧侶たちのあとを一人孤独に歩いた。



 都の東にひろがる東山一帯を鳥辺野(とりべの)という。都で息絶えた死者たちの屍が運ばれる葬送地の一つである。ふりつもった雪の上には早くも新しい屍が放置されて凍りついている。まだ明るい昼間であるにもかかわらず、暗くうすら寒い空気がたちこめているように見えるのは、冬の寒さだけでなく、この土地に死者の気配が充満しているせいかもしれない。

 ふつう葬送以外の用で足を踏み入れるようなところではないが、鞍馬寺の住職は別用でそこを訪れていた。

 八雲は幾千本もの卒塔婆が立ち並ぶ中で、罰当たりにも墓石のひとつに腰かけて酒を飲んでいた。青白い燐火を目の前に浮かべ、それを通して天翔丸と阿闍梨たちのやりとりを盗み見ながらくつろいでいたのだが、初めて目にした術に八雲は思わず身をのりだし、うなった。

「奇門遁甲……とんでもない術を使う陰陽師だな」

 昼間抱いた女や鞍馬寺に抱かれにくる都の女たち、彼女たちと(ねや)で交わす睦言には少なからず都の情報が含まれており、おしゃべりな女たちの口からたいていのことは耳に入ってくる。賀茂忠行が並外れた才能を持つ新進気鋭の陰陽師を弟子にとったとは聞いていたが、その実力がこれほどのものだとは想像していなかった。

「安倍晴明か。覚えておくとしよう」

 まだ子供ながら、幻と言われている奇門遁甲の術を駆使するほどの力をもっているのだ。将来必ず、都において重要な存在になるに違いない。敵になるか味方になるか、いずれにせよその名を記憶に刻んでおいて損はないだろう。

 そう考えながら持参した酒をひとり手酌で飲もうとしたとき、何かに袈裟の裾をくんと引っぱられた。

 透きとおった手が草葉の陰からにゅうっとのびて、執拗に八雲の袈裟を引っぱっている。くいくい袈裟を引く様子は言葉のしゃべれない子供が母を呼ぶような感じではあるが、相手はかわいげのある子供とは似ても似つかないものである。

 草陰にいるその死霊に、八雲はわずらわしげに言った。

「おい、まだ真っ昼間だぞ。生物を引っぱっていく時刻じゃない。日が没するまでおとなしく草葉の陰にひそんでろ」

 だがその死霊は聞き分けが悪く、しつこく袈裟を引っぱりつづけている。通常、死者が活動するのは夜であるが、どうもこの死霊は分別をわきまえていないようだ。自分が死んだこともわかっておらず、死を認めたがらず、この世をさ迷って生者を引っぱっている。

 八雲が息をつき、面倒くさそうに右手をあげた。その手首には色とりどりの美しい組紐が巻かれており、八雲はそれに霊力をそそぎはじめた。

 霊能力者は『霊具(れいぐ)』と呼ばれるさまざまな道具を媒介して霊力を使用するが、八雲が愛用している霊具がこの組紐である。

 組紐が蛇のようにうねりだしたとき、ふいに八雲の掌から青白いものがするりと出てきた。

 十二単を身にまとった若い女の死霊である。彼女は手にもっている扇子で、袈裟をつかんでいる死霊の手をぱしんと叩いた。死霊はぎゃっと声をあげて草葉の陰へと引っこんだ。

撫子(なでしこ)

 名を呼ばれ、撫子は花がほころぶように微笑む。

 八雲のもう片方の掌から、もう一人の死霊が現れでた。巫女の装束をまとった少女である。少女は八雲の手から酒の入った瓶子をとり、杯にそそいで酌をした。

(ほたる)

 呼ばれて、蛍は夜闇にまたたく蛍火のように淡く微笑んだ。

 彼女たちの肌に生きている色はないが、ぬくみのない姿がかえって妖しい美しさを際立たせている。

 荒涼とした墓場で、美貌の破戒僧にはべる美女の死霊二人。八雲を見つめる二人の死霊のまなざしはひたむきで、また彼女らを見つめる八雲の瞳も優しかった。

 逢瀬を楽しむ三人のまわりで、まだ何かががさごそと音をたててうごめきだした。何もしゃべらず、草葉の陰でざわざわと草をゆらしながらこちらを見つめているのは、八雲の生気を感じとって集まってきた死物たちである。じりじりと寄ってこようとする彼らを、撫子と蛍は静かににらみ威嚇した。

 八雲は組紐を周囲に巡らし、結界をはって二人に言った。

「このあたりの死霊は雑魚ばかりだから護衛は不要だ。必要なときは呼ぶ。それまで俺の中で眠ってろ」

 撫子と蛍は微笑みながらそろってうなずき、八雲の掌の中へ吸いこまれるようにして消えた。

 八雲は杯の酒を飲み干し、再び青白い燐火に目をむけた。

 そこには先ほどまで天翔丸の目が見ていた光景が映っていた。天翔丸の身にとり憑かせている燐火がこちらの燐火に情報を送り、それを見ることで鞍馬天狗の動向を監視することができる。

 首尾は上々であった。

 阿闍梨たち恒例の妖怪退治がすんだ後、妖気がきれいさっぱりなくなった都で、天狗の気配はさぞかし目立ったことだろう。狙いどおり、放った餌に術師という獣たちが次々と食いついた。

 八雲は餌を追って奇門遁甲へ飛びこんでいった愚かな男に思いをはせた。

「陽炎、大変な事態になったなぁ。脱出不可能とされる結界から、はたして鞍馬天狗と共に生還できるかな?」

 美貌に愉しげな笑みが浮かぶ。草葉の陰でうめく死者たちの声を聞きながら、八雲は酒をくらいつつ見物としゃれこんだ。


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