五 酒盛り
天翔丸が八雲の書き置きにあった貴族の邸宅に到着したのは、昼を少しすぎた頃であった。大きな門の前に立っていた門番に声をかけると、話は通っているようで、すぐに中へと案内された。
雪で白く染められた庭を見ながら長い廊下を通り、天翔丸たちは奥の部屋へと案内された。
「おーい、八雲……うわっ!?」
几帳のむこうをひょいとのぞきこんだ天翔丸は、顔を真っ赤にしてあわてて引っこめた。そこでは半裸の八雲が、同じく半裸の女性と睦みあっていた。
「やっと来たか」
「な、なな、なにやってんだよ!?」
「おまえを待っているうちに盛り上がってしまってな。早く来ないからだぞ」
「人のせいにすんなっ! っていうか、真っ昼間からするな! この生臭坊……わっ!」
陽炎が天翔丸の肩をつかんで踵を返しながら、生臭坊主に冷ややかな声を放った。
「隣室にいる。身なりを整えてから来い」
「面倒だな。このままでも話はできるだろ」
「主の前では礼節をわきまえろ」
主の立場を敬ってのことであったが、当の主は肩の手をわずらわしげにはらった。
「気安くさわんな!」
隣室でそわそわしながら待っていると、やがて衣をまとった八雲がやってきた。その身につけている袈裟や装飾品は一言でいえば派手、通常の僧侶のする格好とはずいぶんと趣が異なるが、彼が信仰しているという八雲宗ではこれが正装なのだという。
天翔丸は少しむっとした顔で八雲に言った。
「怨霊退治、さっさとすまそうぜ。怨霊はどこにいるんだ? この邸にいるのか?」
「そう急くな。まずは一杯やろう」
八雲が手をたたくと、あらかじめ準備されていたのか、すぐに酒と料理が運ばれてきた。
「なぁ八雲、ここはあんたの別荘か?」
「いや、さっきの女の邸だ」
自分の邸でもないのに、主人のような偉そうな態度はずうずうしいことこの上ない。八雲宗にはきっと遠慮という言葉はないのだろう。
しかしせっかくの酒と料理である。天翔丸は遠慮なくごちそうになることにした。
「いただきますっ!」
天翔丸が言ったのを真似して、少女の姿に化けた琥珀も手を合わせて言った。
「いただきまぁす!」
猫又である琥珀も、天翔丸と同じように箸をもち、膳にのっているものを食べる。天翔丸の真似をしているうちに人の所作が自然と身に付いてきている。もっとも白い髪の間からは猫耳がひょっこりとび出ており、おしりからは二本の尻尾が出ているおかしな人間の姿ではあったが。
「陽炎、おまえの分の膳もあるぞ」
八雲の厚意に、陽炎は返事もしなかった。天翔丸の背後に正座して、食事の輪に入ろうともせず、我関せずとばかりに目を閉じている。
(失礼なやつめ)
天翔丸は無視して食事を進めた。早朝から鞍馬山を出立してから何も食べていないので腹ぺこである。気のきくことに膳には瓶子三本と杯がのっており、天翔丸はさっそく酒を口にした。
「うまい! 上等の酒だな」
「にゃは〜、てんちょーまるぅ〜」
となりにいた少女がいつの間にか猫又の姿になり、いきなり抱きついてきた。
「おわっ! お、重っ! こ、琥珀、重い!」
猫又に巨体に、天翔丸は押しつぶされてしまった。身体をよじらせて抜け出ると、猫又は床にどべっと横たわった。大きな耳や鼻がほんのり赤らんでおり、目はとろんとしている。そのかたわらには空になった瓶子が転がっていた。
「あっ! 琥珀、おまえ酒飲んだのか!?」
「おしゃけっておいちーねっ! にゃはははは〜」
天翔丸の真似をして酒の一気飲みをし、酔っぱらってしまったのだった。琥珀はにゃははは〜と笑いつづけ、突然ばったり倒れた。
「琥珀? おい琥珀、大丈夫か?」
琥珀はくかーくかーと寝息をたてて眠っていた。
「お〜い、琥珀! 子猫の姿にもどれ〜。邸の人に見つかったら大変だぞ〜」
「人払いしてあるから大丈夫だ。寝かせといてやれ。酔いがさめれば目覚めるだろ」
八雲に言われてそれもそうだと思い、天翔丸は自分の飲酒を再開した。
毎日朝から晩まで武術の修行をしており、このような美味い酒を真っ昼間から飲めるなどきわめて珍しいことである。気分よくぐびぐびと飲んでいると、膳にのっていた瓶子はまたたく間に空になってしまった。
「なあ、八雲ーー」
もっと酒をくれ。
そう言いかけたとき、手にもっていた杯に横から酒をそそがれた。
陽炎が自分の膳にのっていた瓶子をもち、天翔丸に酌をした。
「どうぞ」
手慣れた感じの流れるような所作だった。
天翔丸は杯につがれた酒と陽炎を交互に見て、驚嘆の声をあげた。
「おいおいおい、どういう風邪の吹き回しだ!? 気が利くじゃないか!」
当意即妙。絶妙の間合いでされた酌に、天翔丸は思わず陽炎を褒めてしまった。
褒められた方も意表をつかれたようで、戸惑った様子でつぶやいた。
「私とて、酒の酌くらいします」
天翔丸は陽炎の手から瓶子を奪いとり、
「おまえも飲めば? ほらよ」
と、陽炎に杯をさしだして酒をすすめた。
天翔丸は酒が入ると陽気になるたちである。少し酒が入ったせいでいつもは刺々しい態度も少しやわらかくなり、普段なら絶対にしないことをする気になった。ちょっとした気まぐれである。
しかしその気まぐれに、陽炎はつきあおうとはしなかった。
「いえ、私は結構です」
「なんだよ、俺の酌じゃ飲めないってのかぁ?」
「そういうわけでは」
「じゃあ、どういうわけだよ?」
酒がからんだ天翔丸の追及に、陽炎は深刻な顔で黙りこんだ。たかが酒を飲むのに、何をそんなに考えこむことがあるのだろうか。
天翔丸が不審に思っていると、二人の様子を眺めていた八雲がふと言った。
「陽炎、おまえひょっとして下戸か?」
奇妙な間があった。
ふいと顔をそらす陽炎を、天翔丸はじいっと覗きこんだ。
「酒、飲めないのか? 一滴も?」
陽炎は小さな声で気まずそうに言った。
「……酒など飲めなくても、別に何の支障もないでしょう」
認めた。
天翔丸は八雲と顔を見合わせた。
「なあ八雲、飲めないと聞くと飲ませたくならないか?」
「まったく同感だ」
陽炎の背後に忍び寄っていた組紐がいっせいに襲いかかった。
八雲が霊能力で組紐をあやつり捕縛術でとらえようとしたが、陽炎はすばやい身のこなしでそれをかわして庭先へととびだし、そのまま姿を消してしまった。
「ちっ、逃げられたか」
天翔丸は舌打ちして残念がりながらも、すぐにまた席に戻って酒を飲みはじめた。
一方、八雲は歓喜を顔に浮かべて震えている。
「くくくく……下戸か。そうか、下戸だったのか! どうやって飲ませてくれようか……!」
悪巧みを思案するその表情は、実に活き活きとしている。
天翔丸にとっては思いつきのこの場限りの嫌がらせにすぎなかったので、失敗したならそれきりなのだが、どうやら八雲は達成するまで挑むつもりらしい。
いい大人のくせに困ったものである。
天翔丸は陽炎の酒を飲み干し、ついでに琥珀が飲み残した酒も空にした。酒をたしなむ大人でも充分に酔う量であるが、天翔丸は頬が少し赤くなる程度で酔うまでにはいたらない。なぜか昔から、めっぽう酒には強かった。
天狗という生物は酒好きで、また酒に強い種族である。酒豪なのは天狗の血筋であるためなのだが、天翔丸自身はそれを認めてはいない。
思う存分に飲み食いして一息ついた天翔丸は、庭先から空を見た。
都に来た目的は母に会うことである。この都の空の下、ほどなく歩いて行った先に母はいる。
「八雲、あのさ……」
「そろそろ母に会いにいくか?」
考えていたことを先に言われて、どきりとした。
八雲はすべてお見通しだというように微笑みながら、耳打ちしてきた。
「実は怨霊退治の依頼があったというのは嘘でな。おまえを都に連れ出すための口実だ。子が親に会いたいと思うは当然のこと。いまのうちに会いにいってこい」
「八雲……」
天翔丸はじーんと感動した。八雲のこういう心配りがうれしい。こちらの気持ちを察してくれて、協力してくれる。
「ありがとう。じゃ、さっそく行ってくる」
その言葉に甘えて天翔丸が立ち上がると、八雲が待ったをかけた。
「おい、それは外していけ」
「え?」
「首の連珠だ。陽炎につけられたものだろ。それが何なのか知っているのか?」
「何って……俺の気配を消して、身を護るものとかなんとか言ってたけど」
「ふっ、なるほど。そう言われればつけないわけにはいかないな」
八雲に鼻で笑われ、天翔丸は眉をひそめた。
「違うのか?」
「それはおまえがどこにいるか把握しておくためのものだ。言うなれば首輪、いや猫の鈴か」
ぽかんとしている天翔丸を見て、八雲はくくっと笑った。
「だまされたな」
「ーーあんにゃろう!」
天翔丸は頭のてっぺんから湯気が出そうな勢いで憤慨した。なんとずる賢い奴なんだろう。鞍馬天狗の居場所を把握しておくために、嘘をいってこれをつけさせるとは。
天翔丸は水晶の連珠を引きちぎろうとしたが、水晶は首にぴったりはまっていてはずれなかった。
「それは念の力でおまえに付着している。はずれないのは、陽炎が強い念をこめているからだ」
鞍馬天狗に執着している男である。さぞかし強い念をこめているに違いない。
「う〜、これ、どうにかならないのか?」
「まかせろ」
八雲が水晶に軽く手をふれ、経のようなものを唱えた。
すると首にはりついていた水晶が離れ、簡単に外れた。
八雲はそれを火鉢の中に投げ入れた。透きとおった水晶は熱っした炭にふれた一瞬、青白い煙があがり、黒ずんでただの石ころのようになった。
「これでいい」
「ありがとな、八雲」
解放されて天翔丸は深呼吸した。猫又に目をむけると、大きな身体を床に横たえて気持ちよさそうに眠っている。起きる気配はない。
「八雲、琥珀のことなんだけど」
「ああ。見ていてやるから、心置きなくいってこい。気をつけてな」
うん、と天翔丸は笑顔で答え、部屋から出ていった。心は早くも最愛の母の方へとむかっており、見送る八雲の口元が不穏な笑みでゆがんでいたことには気づかなかった。
天翔丸は抜き足さし足でそっと廊下を進み、邸の人にたのんで裏口から出してもらった。裏の戸口からそっと顔を出してあたりの様子をうかがう。細い路地に人影はない。
(よし)
見つからずにぬけだせた、と歩き出そうとしたとき。
「天翔丸」
かけられた声にうぐっとつまる。ふりむくと、音もなく黒衣の男が立っていた。
陽炎は天翔丸を見るなり、すぐになくなっているものに気がついた。
「水晶の連珠はどうしたのですか?」
「へへん、いまごろ火鉢の中で黒こげだ」
そう小気味よく言って、天翔丸は陽炎をにらみつけた。
「八雲から聞いたぞ! あれは俺の居場所を把握しておくための首輪なんだってな。それを身を護るためのものだとか言いやがって、もう少しでだまされるところだった」
「……それを信じたのですか?」
まっすぐ見つめてくる蒼い目の表情が変わり、天翔丸はたじろいだ。
緊迫した視線に気圧される。
「連珠があなたの身を護るための物なのか、居場所を把握しておくための首輪なのか。私か八雲か、どちらかがあなたに嘘を言っていることになります。どちらが正しいのか、きちんと吟味したのですか? あなたをだまそうとしているのは私かもしれませんが八雲かもしれない、その可能性を考えましたか? それとも連珠をはずしたのは、熟慮して判断した結果ですか?」
その問いつめに天翔丸は返答できなかった。
特に考えることはしなかった。八雲に言われて、そうなんだと思っただけ。
それを陽炎は見抜いているのだろう、冷たい声で厳しく叱責してきた。
「山の主ともあろう者が、言われたことを吟味もせずに鵜呑みにするとは、あまりに浅はかで軽卒です。もっと考えて行動なさい」
「う、うるさいな! 俺にとって、おまえは復讐相手なんだぞ!? 八雲とおまえ、どっちかっていったら、八雲を信じるに決まってるじゃないか!」
次の瞬間、天翔丸ははっと息をのんだ。
顔を近づけて食ってかかるように言い返していたので陽炎との距離が近い。そのせいか、ほんの一瞬、かすかに陽炎の目がゆれるのが見えた。
だが陽炎はすぐに目を閉じてしまった。まばたきほどの間をおいてすぐに目を開け、そのときにはもうゆれは消えていた。
「私を信じる必要はありません。でも八雲の言いなりになるのだけはやめなさい」
蒼い瞳は、いつものように鋭く威圧的だった。
「いいですね?」
頭をおさえつけるような言いように、天翔丸はむっとした。
「おまえの指図は受けねえ!」
一瞬見えた蒼い目のゆれ……痛そうで、傷ついたように見えたが。
(ない、ない! 絶対にありえねぇ!)
天翔丸は気のせいだと自分に言いきかせ、肩をいからせながら足早で道を歩きだした。その後を少し距離をおいて、陽炎はゆっくりと追った。