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三 阿闍梨と安倍晴明

 未明、光がほの明るくあたりを照らしはじめていたが、都の南にある貧しい人々の暮らす場所にはまだ闇が残っていた。

 祖末な掘ったて小屋の周囲では、血の気のひいた顔をした人々がおびえ震えながら事のなりゆきを見つめている。

 彼らの視線の先では、呪符がはりつけられた釜ががたがたと動いていた。ただの釜ではない。飯をたく釜に獣のような手足がはえ、ぎょろりとした二つの目は血走っているーー付喪神と呼ばれる妖怪である。

 物や道具には年をへて古くなると魂が宿り、付喪神となって動きだし人をたぶらかすと言われている。

 おびえる人々に乞われ、それを捕まえたのは年若い僧侶である。 

 夜な夜な悪さをするという付喪神に呪符をはりつけ、読経によって動きを止めているが、僧侶は比叡山に入り法力を学びはじめて日が浅く、妖怪の動きを止めるだけで精一杯だった。

「お、おい、まだか?! まだ退治できないのか!?」

 不安に耐えきれなかったのか、この家に住まう男が怒り混じりの悲鳴を上げた。

 僧侶は集中力をとぎらせないように気をつけながら答えた。

「いま少し、お待ちください。あの方がいらっしゃれば……!」

 その声をさえぎって、力強い声が響いた。

「待たせたな」

 待っていた人物が現れ、僧侶は歓喜の声をあげた。

阿闍梨(あじゃり)!」

 厳しい修行を積み、一定の階梯に達しなければ得られない『阿闍梨』という称号は、僧職の者たちだけでなく民衆からも尊敬をこめて呼ばれる尊称である。

 三十半ばという若さで阿闍梨と呼ばれる男の目に濁りはない。僧侶の模範らしく黒の僧衣と袈裟をゆがみなくまとい、髪一本残さずそりあげられた頭は清廉潔白な彼の性格そのものである。

 阿闍梨は釜の付喪神の真正面に立ち、両足で足元を踏みしめ、首にかけていた長い数珠をはずして両手ににぎりしめた。  

 阿闍梨と共にかけつけた弟子の僧侶たちが呪符を次々と投げ、付喪神に貼りつけて読経をはじめた。付喪神は激しく抵抗するが、僧侶たちの法力でもう身動きすらできない。

「悪鬼調伏!」

 阿闍梨の声で何枚もの呪符が白い光を発し、付喪神に法力をそそぎこんだ。妖怪を退治する調伏術である。激しい苦痛で付喪神が身もだえ、甲高い悲鳴をあげる。

 さらに阿闍梨は長い数珠を投げつけ、付喪神を捕縛した。

 付喪神は弱々しい声をあげて、助けを請う。

 だが阿闍梨はみじんの容赦も迷いなく、とどめの一声をあげた。

「オン!」

 付喪神はか細い悲鳴をあげると、煙のように消え失せ、あとには古びた釜が力なく転がった。

 阿闍梨は愛用の数珠を首にかけ直し、集まっていた人々に言った。

「災いをもたらす物怪は退治した。もう心配はない」

 人々の口から安堵の声がもれ、この家の男が深々と頭を下げた。

「ありがとうございます、阿闍梨様! なんとお礼を申し上げたらよいやら……」

「礼などいらぬ。仏に仕える身として当然のことをしたまで。皆が息災に暮らしなさい」

 民衆たちは仏を拝むように、去りゆく阿闍梨に手を合わせた。

 物怪退治を請け負う者は他にもいるものの代価に高額な金品を要求されることが多く、貧しい人々にはとても手が出ない。しかし比叡山の阿闍梨は助けを求めればすぐさま見返りを求めずに対処してくれる、誠にありがたい存在であった。

 掘ったて小屋を出た阿闍梨のもとへ、十数人の比叡山の法力僧たちが走り寄ってきた。

「阿闍梨、とどこおりなく済みましてございます」

「都にいる物怪はすべて調伏いたしました」

 人間ではない、正体の明らかでないもののことを『物怪』と総称している。怨霊、妖怪、鬼、異形、呼び方はさまざまであるが、ふつうの人間には気配が感じられるだけで姿を見ることはできない存在である。

 阿闍梨は長年の経験から、物怪は満月の夜になると活発化する傾向があることを知っている。

 そのため満月の数日前に法力僧たちを率いて、都をうろついている物怪を一掃するのを恒例としていた。

「これで都も平穏になりましょう」

 無事に仕事を終えて一息つく弟子たちに、「いや」と阿闍梨は厳しい顔で告げた。

「油断するな、奴らは狡猾だ。我らの目をかいくぐって逃れたものもいるやもしれぬ。奴らは人をだまし、あざむき、災いをもたらす。暗闇にひそみ、こちらが隙を見せればそこをついて襲ってくるだろう。心して気を引きしめよ」

 事実、阿闍梨の師である円覚(えんかく)は、土蜘蛛(つちぐも)という妖怪に情けをかけたために殺されている。とらえた土蜘蛛が泣きじゃくり、もう二度と人を襲わないと誓ったため、円覚は慈悲をかけて野に解き放った。

 翌朝、比叡山延暦寺の根本中堂で、惨殺された円覚の遺体が発見された。引きちぎられた両手両足は白い糸に刺しぬかれ、裂かれた腹から引きずりだされた内臓は薬師如来像に飾られていた。

 散乱した円覚の数珠と肉片を拾い集めながら、阿闍梨は誓った。

 無念の死を遂げた師の志を自分が継ぐ。慈悲を踏みにじり、人に害をなす忌まわしき物怪どもをこの世から完全に駆逐してみせる、と。

 尊敬する師の形見である数珠をにぎりしめて、阿闍梨は昇りゆく朝日に向かって近いを新たにした。

(見ていてください、円覚様。この都を、人々が物怪におびえることなく暮らせる浄土にしてみせます、あなたの夢を、この私の手で実現します)

 朝から気迫をみなぎらせる僧侶たちの横を、大内裏に参内する役人たちの牛車がゆっくりと通っていく。その中の一台がとまった。

「お役目ご苦労様です、阿闍梨」

 牛車から降りてきた白髪の男は、阿闍梨もよく知る陰陽寮の陰陽頭である。

「賀茂忠行殿か」

 陰陽道といえば秦氏という中で、賀茂氏の名を一気に押し上げたのがこの賀茂忠行である。陰陽術の実力もさることながら人望もあり、帝の信頼も厚い。

 忠行は阿闍梨に一礼をし、人の良い笑みをむけた。

「ちょうど良いところでお会いしました。先日、私の弟子が正式に陰陽師となりまして、今日から陰陽寮に出仕いたします。ご紹介を」

 忠行に促されて、その背後から一人の少年が前に進みでた。

「安倍晴明ともうします」

 少年は声変わり前の高い声で静かに名乗り、ゆっくりと頭を下げた。

 阿闍梨は少年を頭から足先までじっくりと観察し、陰陽の守に言った。

「ずいぶんとお若いな」

「十四でございます。先日元服を終えたばかりでして」

 真新しい黒い烏帽子と白の狩衣をまとう姿がまだしっくりせず、衣を着ているというより、衣に埋もれているという感じである。同じ年頃の少年と比べても小柄で、手足も首も少女のように細く、肌は生白い。

 阿闍梨は安倍晴明と初対面であったが、実はその名はすでに知っていた。この少年について、いま都で聞き捨てならない噂がもちあがっている。

 ーー安倍晴明は狐の子。

 事の真偽は定かではないが、まことしやかにささやかれている噂である。

 つり上がり気味の切れ長の目はいかにもという感じだ。挨拶の所作は丁寧であったが愛想というものがなく、にこりともしない。子供らしい表情のないところがいっそう怪しげである。

「まだまだ未熟な陰陽師ではありますが、私同様、この安倍晴明をどうぞお見知りおきください」

 そろって頭を下げる師弟の姿に、阿闍梨は一抹の懸念を抱いた。

 賀茂忠行には実子があり孫もいる。忠行の手によって陰陽術を伝授された息子の保憲はすでに一人前の陰陽師として活躍しているが、筋からいけば次に育てるのは孫の光栄のはずである。しかしそちらは保憲にまかせて、血縁のない子供をそばに置くとはどういうつもりなのか。

 陰陽寮における実権はいまだ賀茂忠行がにぎっており、隠居した老人が暇つぶしに弟子をとるのとはわけが違う。新人の陰陽師をこのようにわざわざ紹介することもめずらしく、この安倍晴明なる陰陽師の存在を周囲に知らしめようという忠行の思惑が感じられた。

 大陸の歴史には、人間に化けた物怪が政治の中枢に入りこみ、一国を滅ぼしたという例もある。もし物怪が陰陽師になりすまし、陰陽の守をたぶらかして大内裏に忍びこもうとしているのだとしたら……。

 阿闍梨が忠行に安倍晴明の生い立ちをくわしく尋ねようとしたとき、そこへ近づいてくる人物がいた。

「妖怪退治の精鋭がおそろいだな」

 毛並みの美しい白馬に乗って、馬以上に目立つ人物が現れた。その身を飾る華美な装飾、きらびやかな袈裟、それらに負けない派手な顔つきの男が肩にかかる長い黒髪をかきあげた。

 その人物を、忠行はにこやかな笑みで迎えた。

「これはこれは、八雲殿ではないか。相も変わらず、帝に負けず劣らずのきらびやかないでたちですなぁ」

 八雲は馬上から陰陽の守に微笑みを返した。

「これは自分に似合う格好を追求していった結果だ、賀茂忠行殿」

「たしかに大変お似合いで。しかし貴殿が都に来られたと知ったら、また都の女たちが大騒ぎするでしょうな」

「できれば静かに上京したいのだがな。これも因果か」

「罪なことで」

 ぬけぬけと言う八雲に、陰陽の守はおおらかに笑って応じた。

 八雲は忠行のそばに控えている少年に目をむけた。

「今日から弟子を陰陽寮に入れると聞いたが、その少年がそうか」

 晴明は八雲に丁重に頭を下げた。

「安倍晴明と申します。お見知りおきを」

「鞍馬寺の住職、八雲だ」

 忠行は感嘆の息をもらした。

「私の弟子のことをすでにご存知とは。いつもながら耳が早いですな。山中にいながら、どうしてそうも都の事情におくわしいのですか?」

「ま、いろいろとな」

 八雲は笑みで答を濁し、次に険しい表情をしている僧侶に目を移した。

「久しいな、比叡山の阿闍梨」

「都へ何をしに来た? 鞍馬寺の破戒僧」

 阿闍梨は嫌悪を隠さずに刺々しい声をぶつけた。ぶつけられた方は気にするふうもなく、微笑を浮かべながら髪をかきあげた。

「都のとある高貴な御仁から、怨霊退治の依頼を受けたのでな」

「それを口実に、女子を漁りにきたのだろう」

「女の方が寄ってくるんだ」

「おまえがいると都の風紀が乱れる」

「男と女が求めあうのは自然の摂理だぞ。俺もあんたも、父母がまぐわったからこそこの世に生まれおちたのだからな」

 女犯の罪を犯していることを堂々と言ってのける不遜な男に、阿闍梨のこめかみが引きつる。

 その不快を察して、弟子の僧侶たちが八雲に食ってかかった。

「貴様、阿闍梨に対して無礼であろう! 口をつつしめ!」

「そのだらしのない髪はなんだ! なぜ剃髪しない!」

「目上のお方を馬上から見下ろすとは何事だ! 馬を降りろ!」

 集中する抗議に反論するでもなく、八雲は笑みを浮かべたまま言った。

「阿闍梨の飼い犬はよく吠えるな」

 顔を真っ赤にしてい憤慨する僧侶たちを、阿闍梨が手でとどめた。

「相手にするな。こやつは僧侶とは名ばかりの不心得者、いずれ仏より天罰が下るだろう」

 弟子を引き連れ去ろうとする阿闍梨の背に、八雲は投げつけるように言った。

「阿闍梨、都にまもなく凶悪な妖怪が来るぞ」

 阿闍梨は足を止めてふりむき、馬上の男に目を向ける。

 全員の視線が自分に集まったのを確認して、八雲は微笑んだ。

「凶悪な妖怪ーー鞍馬山の主、鞍馬天狗だ。もちろん止めようとしたんだが、俺は山の片隅に住まわせてもらっている身だから、主には逆らえなくてな。そもそも俺は怨霊退治専門、妖怪の類いの調伏は不得手だ。比叡山の阿闍梨は調伏術に長けているから、それを期に鞍馬天狗の調伏を頼もうと思ったというわけだ」

 破戒僧の頼みをきく義理など阿闍梨にはまったくなかったが、その言葉の内容な無視できるものではなかった。

 阿闍梨がその言葉の真偽を見極めようと八雲をにらんでいたとき、ふいに晴明が言った。

「確かに感じます。北より、強い気配が近づいてくるのを」

 その言葉からやや遅れて、阿闍梨も異変を察知した。阿闍梨の首にかけられている数珠がとつぜん、光を放った。

「こ、これは……!」

 阿闍梨と僧侶たちがどよめいた。円覚の形見であるこの数珠は、強大な物怪が接近するとこのように淡く光を放つ。そこらの小物ごときでは光らない代物であり、阿闍梨もこれがこのように煌々と光るのを見たのは十数年ぶりのことであった。

 しかし数珠が光ったのは一瞬だけで、光はすぐに消えてしまった、

「き、消えた……?」

「物怪はどうした?」

「都を去ったのではないか?」

 僧侶たちの見解に、「いいえ」と晴明が異議を唱えた。

「なんらかの方法で気配を消したのでしょう。自ら気配を消し、都にまぎれこんだと思われます」

 晴明の見解に阿闍梨はうなった。得体のしれない陰陽師の言など信用できなかったが、その可能性は充分にあった。鞍馬寺の破戒僧の言、そして数珠が光ったこと、すべてを合わせるとつじつまが合う。

 強大な力を持つ天狗が都に侵入した、そう考えざるを得ない。

 阿闍梨は陰陽の守に告げた。

「忠行殿、我々は即刻、天狗討伐にむかう。貴殿ら陰陽師も早急に対応を」

 陰陽頭は「ふむ」とあごに手をあてて何やら考えている。

「忠行殿、いかがした?」

「いや、その天狗はわざわざ山を下りて、都へ何をしに来たのかと思いましてな。八雲殿は天狗の目的をご存知か?」

 その天狗をけしかけた張本人は、素知らぬ顔でしらばっくれた。

「さあな。獲物でも狩りに来たんじゃないか? 都には天狗の餌となる人間が山ほどいるからな」

 阿闍梨は忠行につめ寄った。

「忠行殿、相手は山を根城にする凶悪な物怪ですぞ! そんなものが襲ってきたら都の人々はなすすべもない。被害が出てからでは遅いのです!」

「まあ、それもそうなんですが、これはなかなか興味深い珍事ですぞ。山の天狗がなぜ都に?……うむ……」

 阿闍梨はいらだち内心で舌打ちした。陰陽師は物怪に対抗できる優れた力をもってはいるが、しょせんは宮仕えの身の上、宮中の凶事や貴族たちの身にふりかかった災いには先を争うように対処するが、一般庶民のことをおろそかにする傾向がある。

 阿闍梨は険のある声で陰陽の守に言った。

「忠行殿、事は一刻を争うのです。己の出世や保身のことばかりでなく、もっと民のことを考えなさい」

 それは明らかな侮辱であったが、忠行は聞こえているのかいないのか、それよりもなぜ山に棲むはずの天狗がわざわざ都へ来たのかが気になるらしく、思案をつづけている。

 阿闍梨の言葉に反応したのは、忠行ではなく新米の陰陽師の方だった。

「私がまいります」

 晴明が阿闍梨の前に進み出た。

「阿闍梨、私を天狗討伐へお連れください」

「これ、晴明」

 忠行はあわてて止めようとしたが、それをさえぎり晴明は凛として言った。

「行かせてください。これを陰陽師としての私の最初の仕事に」

 弟子の気迫に、師匠は説得する言葉を失った。狐目と称されている細い瞳にはゆるぎない意志があり、その性格をよく知る忠行は止めるのは無駄だと判断した。

「わかった。ただし、なにかあったらすぐに私に報せるのだぞ。くれぐれも無茶はせず、自分の身を第一に。よいな?」

「はい」

 忠行は僧侶たちの長に言った。

「阿闍梨、この晴明をお連れください。若輩者ではありますが、陰陽師としての力は私が保証いたします。必ず皆様のお役にたちます」

 阿闍梨は迷った。物怪退治ができる能力をもつ人数は多いにこしたことはないが、相手は得体の知れない少年である。だが逆をいえば、これは正体を確かめるいい機会である。

 安倍晴明は狐の子か、否か。

「よかろう。安倍晴明、我らについてくるがよい」

 阿闍梨は僧衣をひるがえし、気迫みなぎる声で僧侶たちに檄を飛ばした。

「我らの使命は都に暮らす人々を護ることだ。跳梁跋扈する異形物怪を完全に排除しなければ、都に平和はおとずれない。都に侵入した鞍馬山の天狗を探しだし、我らの手で全力をもって駆逐する!」

 阿闍梨を要とする比叡山屈指の法力僧たちと、のちに希代の陰陽師と称される安倍晴明。

 北の方角より来たりし天狗の討伐のため、そうそうたる術師たちが立ち上がった。

 




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