二 下山
「なんでそうくるんだぁ〜〜〜〜〜!?」
夕闇に染まる鞍馬山に、この山の主の声がこだました。
天翔丸はつばを飛ばしながら、対戦相手に抗議した。
「八雲、この手はないだろ!? 卑怯じゃねえか!」
ここは山の南端にある鞍馬寺の本堂。
脇息にもたれながら優雅に座し、碁盤をはさんで天翔丸と対面しているのは、きらびやかな僧衣をまとったこの寺の住職である。僧侶とは思えない長い黒髪をかきあげながら、八雲は微笑んだ。
「勝負に卑怯もへったくれもないだろう。負ける方が悪い」
碁盤は八雲の白い石でほとんど埋まっている。
武術の修行が終わったあと、天翔丸は目付役の目を盗んで鞍馬寺へ来ては、八雲とときどき囲碁の勝負をしている。娯楽のない山での貴重なひとときである。
しかしこれまで十回対戦したが、結果は0勝十敗。十一回目の勝負もまた天翔丸に黒星がつきそうな形勢であった。
「おまえはその場をしのぐことしか考えないからだ。碁は先の先、裏の裏を読まなければな。これは人生においても言えることだぞ。碁も人生もよく考えて進まないと、思わぬところで足をすくわれるぞ」
「ーーくそっ!」
天翔丸はうしろにばったり倒れて床に五体をなげだし、しぶしぶと負けを認めた。
碁の勝負をかたわらでおとなしく見ていた少女が、心から同情した。
「残念やったねぇ、天翔丸。がんばったのにねぇ」
少女のふわふわとした白髪の中からは大きな猫の耳が出ており、おしりからは二本の尻尾が出ている。人間と猫がほどよく混じった猫又である。琥珀はその名の由来となった大きな琥珀色の目をぱちくりとさせて、天翔丸をねぎらった。
「元気だして。はい、どーぞ」
いつも勝負に負けたあとは天翔丸がやけ酒を喰らうことを知っている琥珀は、すかさず杯と瓶子をさしだす。
天翔丸は酒をちらと見て、少し曇った笑みで答えた。
「や……今日は酒はいいや」
「そぉ? めずらしいねぇ、天翔丸はお酒いらないなんて」
その声を聞いて、天翔丸の胸元の鏡がぱっちりと目を開けた。
「いらんのなら、わしが飲もう」
「雲外鏡、おまえ、こういうときだけ目を覚ますなぁ。いつもは呼んでもぜんぜん起きないくせに」
調子のいい奴、と言いながらも、天翔丸は首にかけていた紐をはずして雲外鏡を琥珀に渡した。琥珀は雲外鏡を床に起き、「どーぞ」と鏡面に酒をそそいでやった。鏡がぐびぐびと音をたてて酒を飲む姿は、ちょっと不気味な光景である。
天翔丸は溜息をつきながらごろんと寝返り、南の方角ーー都のある方へ目をむけた。
(母上……いまどうしてらっしゃいますか? お元気……ですか?)
最近とみに母の様子が気にかかる。
自分がいなくなった後、母はきちんと生活できているのだろうか。舎人たちにちゃんと手を引いてもらっているだろうか。家にこもって病に伏せったりしていないだろうか。
そんなことばかり考えていたせいだろうか、昨夜、母の夢を見た。庭で一緒に笛を吹きながら曲を作っている、泣きたくなるほど幸福な、昔の記憶。
ーー羽ばたきなさい、天翔丸。
夢の最後に言われたその言葉は、神通力が覚醒したあの満月の夜にも言われた言葉だった。母とまともにかわした最後の会話で、それが離別の言葉となってしまった。
しかし考えれば考えるほど意味深な言葉である。
羽ばたく……空を飛ぶ。
それらの言葉から連想するのは、翼をもつ生物。
ーー天狗とは、天空を翔ける生物じゃからの。
雲外鏡にそう言われたときから実は気になっていた。母がつけてくれた『天翔丸』という名は、まるで天狗そのものを示唆するような名である。
ーーあなたは、先代の鞍馬天狗とあなたの母親との間に生まれた子供です。
陽炎のその言葉が真実なら、母が先代の鞍馬天狗・威吹となんらかの関係があったということになる。母は一人息子が天狗の子だと知っていたのだろうか。
でも自分には立派な検非違使の、人間の父がいた。
ーーあなたが自分の父親を他の誰かだと言うのなら、母親があなたに嘘をついていたのでしょう。
陽炎の言葉を頭をふって追いだし、天翔丸は自分の身体を抱きしめた。
(違う、俺は天狗じゃない)
母が嘘をつくはずがない。たとえ天狗の証であるという神通力を持っているとしても、天狗には必ずあるという翼がないのだから、違う。
(じゃ……何なんだ?)
床に流れ落ちている自分の長い髪が目に入った。目の覚めるような赤である。昼は茶色の髪は、なぜか夜になると真っ赤に変色する。自分の知るかぎり、こんな不思議な髪をした人間はいない。
天狗でもない、人間でもない、だとしたら何なのだろう。
(俺は……何者なんだ?)
いくら考えても堂々巡り、そんなことを悶々と考えていると知らず知らずのうちに気持ちが重く落ちこんでいき、好物の酒を飲む気も失せた。
「さて、今回は何をしてもらおうかな」
八雲が楽しそうに意地悪な笑みを浮かべた。何も賭けずに碁の勝負をするのもつまらないので、負けた方が罰で何かをするということになっている。
天翔丸は半分自棄になって言い放った。
「どうとでもしやがれ」
「負けず嫌いが、めずらしく潔いな。なら、呪詛祓いの依頼を受けたから、その助手をしてもらおうか」
「またかよ!? も〜、呪詛祓いとか妖怪退治とか、なんでそんな仕事ばっかりするんだよ〜」
「決まってるだろう。金になるからだ」
金のためと言い切るところが八雲らしいところである。仏に仕える身でありながら無料で人助けをする良心はないらしく、必ずそれ相応の見返りを要求するとんでもない僧侶である。
「さっそく明日、都に同行してくれ」
さらりと言った八雲の言葉に、天翔丸は跳ね起きた。
「都!?」
「そうだ。今回は都に住む貴族からの依頼だからな」
どくんと天翔丸の胸が大きく高鳴った。
(都へ……行ける!)
天翔丸は身をのりだして息巻いた。
「行く行く! 妖怪退治でも呪詛祓いでも、何でもするから都へ連れてってくれ!」
八雲は満足げに微笑んだ。
「心強いぞ。ただ、問題はあいつだな」
八雲の指摘どおり、都へ行くには一つ大きな難問があった。天翔丸は腕組みをし、天井を仰ぎながらうなった。
「あいつかぁ……」
「駄目です」
山の見回りを終えてやってきた黒衣の男に言うと、予想どおりの答が返ってきた。
陽炎は無表情で、天翔丸の申し入れを少しも考慮することなく却下した。
「妖怪退治の手伝いだぞ。修行になるだろ」
「修行は毎日、この鞍馬山で私としているでしょう」
「いっつもおまえが相手で飽き飽きしてんだよ! たまには違う相手と戦えば、武術の腕が上達するかもしれないだろっ」
「そのような要求は、私から一本とれるようになってから言いなさい」
ぐっとつまる天翔丸を、陽炎は淡々と言いつめた。
「さまざまな相手と立ちあうことも必要ですが、まずは私とまともに立ちあえるようになってからです。それに山の主がおいそれと山を離れるものではありません。都へなど行く必要もありません。いまは少しでも武術の腕があがるよう、この鞍馬山で修行なさい」
何をするにも陽炎の許可をとらなければならないこの現実はまことにもって忌々しいが、口では反抗できても、対抗できる力を天翔丸はもっていない。鞍馬山から出るにはこの男が首を縦にふる必要があったが、取りつく島もなかった。
たやすく言いこめられて黙ってしまった天翔丸に、八雲が加勢した。
「ならば肩もみでもしてもらおうかな、鞍馬天狗に」
陽炎は眉間にしわを寄せ、射殺しそうな目で八雲をにらんだ。
八雲が目で送ってきた合図に天翔丸はぴーんときて、肩をすくめて仕方がないというようにうなずいてみせた。
「そうだな、そうするか。八雲、肩でも足でも腰でももむよ」
「さっそく肩から頼む」
「わかった」
八雲の方へ行こうとした天翔丸の前に、陽炎が立ちはだかった。
「あなたはこの山の主なのですよ? 主たるものが、小姓のような真似をしてはなりません」
天翔丸は内心にんまりとした。陽炎は立場とか格とかいったことに妙にこだわる。特に鞍馬天狗がこの住職のために行動することが気に障るらしい。そこを突け、と八雲に示唆されてやってみた作戦が見事に的中した。
「碁で負けた方が勝った方の言うことをきくっていう約束だったんだ」
「そんな約束、反故にすればいいでしょう」
「主たるものが約束を簡単に破っていいのかよ。格が高いもののすることとは思えないけどな〜」
「だからといって、この男の肩をもむなど」
「しょうがないだろ? 都の怨霊退治の手伝いですませようとしたのに、誰かさんが駄目だって言うんだから」
深刻な顔で黙りこむ陽炎に、天翔丸の中で希望がふくらんだ。このままの流れでいけばうまく話を運んでいけるかもしれない。都へ行けるかもしれない。
だが相手はそんなに甘くなかった。
「何にせよ、山を下りることはなりません。あきらめなさい」
陽炎は話の流れを一刀両断に断ち切った。
天翔丸はにぎりしめた拳を震わせた。この男はいつもこうだった。力を笠に着てあらゆる行動を制限し、こちらの気持ちなどまったく意に留めない。無理矢理鞍馬山に連れてこられたときからずっとそうだった。
「俺は行くからな! おまえが邪魔しても、絶対、絶対都へ行くからな!」
天翔丸は顔を紅潮させて言い張った。
対する秀麗な顔は少しも崩れず、陽炎は冷ややかに天翔丸を見つめながらしばらく無言をつづけ、ふいに言った。
「わかりました。では明日、都へ行きましょう」
突然の方向転換に、天翔丸はとっさに反応するのが遅れた。
「え? えっと……都へ行く、のか?」
「はい。ただし、私も同行しますからそのつもりで」
天翔丸は大きく息を吸って、勢いよく声を張りあげた。
「やったああああーーーっ!」
そばで事の様子を見守っていた琥珀が、天翔丸の真似をして「やったぁ」と両手を挙げて万歳をした。
「天翔丸、うちも、うちも都ってところ行きたい!」
「おっし、一緒に行こう! 琥珀は都は初めてだよな。俺が案内してやるからなっ」
「うわ〜い!」
天翔丸と琥珀は手をつないでぐるぐる周り、じゃれあいながら喜んだ。
「天翔丸、出発は明朝とします。早く巣へ戻り、明日にそなえて身体を休めなさい」
「おう! 琥珀、寝るぞっ」
「うん!」
天翔丸はうれしさのあまり復讐相手に反抗するのも忘れ、うながしを素直に受け入れて琥珀と共に本堂を駆け出ていった。
しんとなった本堂に二人の男が残された。
「意外だったな。おまえが天翔丸の都行きをこんなにすんなり許可するとは」
陽炎が八雲をにらみすえた。
「八雲、何をたくらんでいる?」
「ん〜? 何の話だ?」
扇子を開いたり閉じたりしながらとぼける住職に、陽炎は鋭い声で宣言した。
「鞍馬天狗に手出しはさせない。貴様が何をしようと、私が阻む」
「それじゃあまるで、俺が天翔丸をどうかしようとしているみたいじゃないか」
その言葉に陽炎は答えなかった。蒼い瞳の鋭い視線は疑惑ではなく敵意、警戒を越えた威嚇である。
八雲はふっと笑み、ぱしんと閉じた扇子の先端で陽炎を指した。
「おまえこそ何をたくらんでいる? 主は滅多なことでは山を離れないものだと、いまさっき言ったばかりだろ。なぜようやく山の生活になじんできた主を下山させ、母親のいる都に行かせるんだ? 相当母親を恋しがっているようだしな。もしいま会えば里心がつくのは必至。鞍馬に戻りたくないとごねるかもしれん。その危険を冒してまで、天翔丸に何をさせようとしているんだ?」
陽炎は突き飛ばすように冷ややかに答えた。
「貴様に言う義務はない」
「ならば、俺も言う義務はないな」
冷えきった本堂で、二人の男は見えない火花を散らした。
翌朝はいつも寝坊気味の天翔丸にはめずらしくしゃっきり起きて、身支度をてきぱきと済ませた。昨夜は都へ行けるという興奮でほとんど眠れなかったのだが、その喜びが眠気も疲れもふっとばしていつもより元気なくらいだった。
住居としている影立杉の巣を出て、山中を駆けて鞍馬寺の本堂に到着すると、文机の上に書き置きがあるのを発見した。それには平安京のとある場所が書き記してあり、『ここに来い』と達筆な文字で一言添えられていた。
「天翔丸、住職様はどうしたの?」
肩に乗っている子猫からの問いに、天翔丸は渋い顔で眉をひそめた。
「先に都へ行ったみたいだ。あいつ、つれないなぁ」
八雲にはこういうところがあった。好物の酒をよくさしいれてくれるし、一緒に温泉に入りながら話すのは楽しく、おもしろい。天翔丸は少なからず親しみのようなものを感じているのだが、しかしときどきこんなふうにものすごくそっけないのだ。どうにもがっくりくる。
本堂を出ると、上から耳障りな濁声がふってきた。
「今日も朝っぱらからまぬけ面してんなァ」
枝の上から挨拶代わりとばかりに、大鴉の黒金がにやけた顔で憎まれ口をたたいてきた。
「寝てるときも起きてるときも惚けた顔しやがって。莫迦さかげんがよく顔ににじみ出てるなァ、莫迦天狗」
天翔丸は黒金からそっけなく顔をそらし、我関せずを決めこんだ。
「天翔丸、黒金がまたバカバカって言ってるけど、いいの?」
首をかしげる琥珀に、天翔丸はそっと耳打ちした。
「あいつは俺をからかって怒らせるのをおもしろがってるんだ。相手にしないで勝手に言わせとけばいい。無視、無視」
莫迦と言われるたびに怒鳴り返していた天翔丸であったが、それでは相手の思うつぼだと気づき、考えだした対処法が無視することであった。我ながら大人な対処法だと悦に入っている。
そこへ陽炎がやってきて、大鴉を見上げて言った。
「黒金、主の留守中、鞍馬山を頼む」
黒金は笑いを消し、真面目な声で言った。
「こっちは問題ねェよ、わしがいるんだからなァ。それより陽炎、気をつけろよ。昨夜も言ったとおり、平安京で起こっている異変はただ事じゃねェ」
天翔丸はぴくっと耳を立てて聞きとめた。
「平安京で異変? 都で何か起こっているのか? おい黒金、何が起こってんだよ?」
身をのりだしてきた天翔丸に、黒金はくちばしを大きくあけて言い返した。
「おめえには教えてやんねェよ、莫ァァァァ迦ッ!」
天翔丸の顔にかっと朱が昇った。
「莫迦とはなんだ、莫迦とは!? 莫迦って言う奴が莫迦だーーーっ!」
「ゲッゲッゲ、ここまで飛んできてみろよ、莫迦天狗。天狗なら、ふつう誰だってこれくらい軽く飛べるぜ」
「俺は天狗じゃねえっ!」
天翔丸は雪玉を枝上の大鴉に投げつけるが、当たりやすそうな大きな身体なのにひょいひょいとよけられ、一つも当てることはできなかった。
黒金は天翔丸の背後にいる黒衣の男に言った。
「陽炎、こんな奴が鞍馬の主でいいのかよォ? 他にもっとましな天狗はいくらでもいるぜ。なんならわしが他山で良さげな天狗を見繕ってきてやろうかァ?」
陽炎は一切の考慮もなく断言した。
「必要ない。翼があろうとなかろうと、天翔丸が鞍馬天狗だ」
陽炎と黒金は視線をかわし、やや重い沈黙が流れた。
「……ふん、そうかよォ。おめえが良ければいいけどよォ。じゃあな」
黒金は悠然と翼をひろげ、山奥へと飛んでいった。
「こらーっ、黒金! 待ちやがれ! 話は終わってねーぞぉっ!」
「天翔丸、行きますよ」
言って、陽炎はすたすたと鞍馬寺の階段を下りだした。
「おい、待てよ! 都の異変って何だよ?」
「行けばわかります」
黒金同様、答えるつもりはないらしい。天翔丸は舌打ちしながらその後を追い、つづら折りの道を下りながら考えた。
(都で何が起こってるんだろう)
鞍馬山へ来て、ふた月あまりがたっている。その間、都へ行ったことは一度もなく、様子を知る手だてもなかった。
(母上はご無事だろうか)
母は目が見えず、身体も弱い。もし何かあっても一人では逃げることもできないだろう。
大きな不安が胸によぎり、天翔丸は足を速めて都への道を急いだ。