二十一 天敵
「ーー陽炎、来い! この世に戻って来い! 陽炎……陽炎っ!!」
天翔丸が何度も呼びかけていると、青ざめていた陽炎の唇がかすかに動いた。息を吹き返したばかりの弱い息で、何かを言おうとしている。天翔丸はその口元に耳を寄せた。
「……て……天翔…丸……」
震える声で言いながら、陽炎はゆっくりと目を開けた。
天翔丸はその目をのぞきこんだ。
「陽炎、大丈夫か? 俺が見えるか?」
蒼い瞳にこちらの顔を鮮明に映して、陽炎は噛みしめるように答えた。
「はい……はい、天翔丸……ーー」
その蒼い瞳に光があることにーー陽炎が生き延びたことに、天翔丸はほっと息をついた。
首にふれていた手に陽炎の手が重なってきた。もう神通力はいいのだと、言葉では言わなかったがそう言っているのがわかる。天翔丸はその冷たい手を体温と神通力で温めてから、手を離した。
互いの無事を確認するように見合っていると、下卑た声が無粋にわりこんできた。
「あらあらあら、息の根が止まる寸前に呼び戻しちゃいましたか。かわいそうな屍の皮をはいでかぶろうと思ったのに。浮かばれない魂を捕まえてすすろうと思ったのに。坊や、私の獲物に勝手なことをしてもらっちゃあ困りますよ」
天翔丸は背で陽炎を護り、花咲爺をにらみすえて威嚇するように低い声で凄んだ。
「こいつはおまえの獲物じゃない。俺のものだ。おまえより先に俺が討つって決めたんだ。横取りすんじゃねえ」
花咲爺がかくんと首をひねった。
「討つ? あなたがその方を? あなた方はお仲間ではないのですか?」
「違う」
「はて、不可解な。お仲間でもない方をどうしてお助けになったのですか? お仲間でもないのにどうして一緒におられるのですか? しかも討つとはどういうことで? つじつまが合わないのではないですか? あなた方は、いったいどういうご関係で?」
興味津々な問いかけに、天翔丸は顔をしかめて怒鳴り返した。
「ごちゃごちゃごちゃごちゃうるせえよ! 俺と陽炎がどういう関係だろうと、おまえには関係ねえだろ! 無駄口たたいてる暇があったらとっととかかってこい、この死に損ないのもうろく爺ぃ!」
花咲爺の目の奥に鋭い光がひらめいた。
「口の悪い坊やだ。だめだよ、子供が大人にそんな口をきいちゃあ。礼儀のなってない子はおしおきしなきゃねぇ。もう楽に死なせてあげないからねぇ。生きながらに目玉をえぐりとり、肉を引き裂いてはらわたを引きずり出して喰ってやるからねぇ」
「喰えるもんなら喰ってみやがれ」
天翔丸は七星の切っ先をあげて花咲爺にむけた。
背後で陽炎が錫杖を手にとり、ふらつく身体を起こして立ち上がった。
「天翔丸、あの灰に気をつけてください。浴びれば一気に生気を削がれて動けなくなります」
「浴びなきゃいいんだな」
こともなげに言い放つと、天翔丸は自ら花咲爺に突進していった。
花咲爺は狂い桜の上でにんまりと笑った。
「浴びずに来られますかねぇ? ーー生気を削いで捕らえましょう〜!」
大量の死灰が盛大にばらまかれた。一粒でも肌にふれれば生気を削ぐ細かな灰が、雨のように頭上から天翔丸めがけて降りそそぐ。隠れられるような物陰もなく、よけようもない。
天翔丸は隠れもよけもせず、さらに勢いをつけて前進した。
「へっ、こんな灰!」
七星はいかなる結界をも斬ることができる。ならば結界の壁を斬るように、降りかかってくる灰を壁と見立てて大気ごと消し去れば。
それは経験から学び、天翔丸が自分で考えた七星の応用であった。頭の中でそうなる光景を思い浮かべながら剣をふるったらば、使い手の意に応えて七星がそれを成した。剣光がすべての白い灰を一つ粒残らず大気ごと消し去り、強いつむじ風が巻きおこる。
天翔丸は赤髪をなびかせながら吹き巻く風の中を突進し、狂い桜の幹を駆け上がって、枝にいる花咲爺に斬りかかった。
「だあああっ!」
「おっと」
花咲爺はひょいっとそれをかわし、隣の桜の枝へ跳んだ。そして枝に骨の足をかけて逆さまにぶら下がり、ぶらぶらしながら大仰に驚いてみせた。
「なんと! なんとなんと! 散らばる灰を剣で斬ってしまうとは! いやぁ〜、たまげました。どういう代物か知りませんが優れた武器をおもちなんですねぇ。でもいくらすごい武器をもっていても、私に届かなきゃあ無意味ですよ」
「届かせる!」
舞い散る桜の花びらの中、狂い桜の樹上を猿のようなすばしっこさで跳び回る花咲爺を、天翔丸は投げつけられる灰を斬りながら追った。鞍馬の山中で陽炎がそうしているように、その姿に習って樹の枝から枝へ飛ぶように駆ける。
「坊や、こっちこっち、こっちだよ〜。鬼さんこちら、手の鳴る方へ〜」
骨の手を打ち鳴らし、笑いながら挑発してくる。天翔丸は全力で追うが、樹上での動きや跳躍力では花咲爺の方に一日の長があり、その姿をなかなか捕らえられない。
天翔丸は舌打ちしながら地上へ跳びおり、
「猿まね爺、木から落ちやがれ!」
その動きの先を読んで、花咲爺が跳び移ろうとした桜の木を丸ごと一本、七星で消した。
「うきゃ?」
足場をなくして落ちてくる花咲爺を、地上で七星を輝かせて待ち構える。
だが花咲爺は隣の桜の木に灰をかけ、のびてきた枝につかまってきゃっきゃと笑いながら剣をかわした。
「無理無理、坊やの腕じゃあ、無理無理」
渾身の攻撃を笑われ、天翔丸は唇を噛みながらも心の中で自分の力が相手より劣っていることを認めた。いまの自分の動きでは花咲爺をとらえることはできず、その骨の一つも滅ぼせない。
だがそれは自分が一人だったらの話だ。
天翔丸は深呼吸をして剣をにぎり直すと、背後に控える男に金色の瞳をむけた。
「陽炎、もう一度やれ」
天翔丸の顔を見て、陽炎は息をのんだ。覇気に輝く双眸と闘志みなぎる凛々しい表情に一瞬目を奪われる。
「俺が灰を斬って道をひらく。その道へ霊符を飛ばし、もう一度あいつの躰をふっとばせ」
それでいったいどうするつもりなのか、陽炎は問わなかった。まるで主から命令を下された眷属のように即座に受け答えた。
「御意」
花咲爺が樹上を楽しげに跳び回りながら近づいてきた。
「さぁ、今度はこっちから行きますよぉ〜」
濃厚な死気をはらんだ向かい風を、天翔丸は真っ向から浴びながら七星を身構える。その背後で、陽炎は一枚の霊符をにぎって呼吸を懸命に整えた。
錫杖に寄りかかりながら立っているだけでめまいがする。死灰をまともに浴びた上に花咲爺に生気をほとんど奪われ、神通力を与えられて回復はしたもののまだ完全とはいかず、思うように霊力を練ることができなかった。それでなくても、自分の能力では全力をもってしても花咲爺を倒すことはできないだろう。
だが、いま自分は一人ではない。そばに七星をもつ主がーー待ち望んだ鞍馬天狗がいる。戦いを嫌い、己の宿命から目をそむけている主だけれど。
でも。
(来てくれた)
背をむけずに、逃げずに、戦う意志をもって戦場に来てくれた。
そして、自分を呼んでくれた。
待ちつづけるために殺したはずの感情が息を吹き返す。熱くたぎる心が、陽炎の底力を呼び起こした。
「霊真気形躍如」
精神統一の呪文を唱えて雑念を消し、気を研ぎ澄ます。
いま自分がやることはただ一つ。
(鞍馬天狗に命じられたことを、必ず成す!)
狂い桜の上から花咲爺が笑いながら大量の灰を何度もまき散らした。絶え間なくふりそそぐ灰を、七星がことごとく斬り消していく。斬りひらかれたその道の先に花咲爺が見えた瞬間、陽炎は霊符を投げ放った。霊符は矢のように飛んで正確に花咲爺の胸元に貼りつく。
「破ァ!」
その声と同時に霊符の文字が光り、発せられた霊力によって花咲爺の骨がばらばらになってふっとんだ。だがやはり地に転がる前に骨は集まりだす。
そのときにはすでに天翔丸が踏み出し、次の行動にうつっていた。
「だああああっ!」
天翔丸は狙いを一つにしぼった。骨が戻るとき、戻るその瞬間、ばらばらになった骨は一瞬空中で止まると同時に無防備になる。そこを狙って七星をふるい、一つの骨を消滅させた。
かちかちと音をたてて骨がつなぎ合わさっていく。花咲爺が大口を開けてげらげら笑いとばした。
「わからない方たちですねぇ。無駄だと言っているのに。ほら、あっという間に元通……ん?」
一つ、上半身と下半身をつなぐ右の骨盤が戻ってこなかった。欠けた部位をそのままに無理矢理つないだために、まっすぐ立っているのに上半身が傾いてしまう。
花咲爺は傾いたままきょろきょろとあたりを見回した。
「はて? 右の骨盤が戻ってきませんねぇ。あれぇ? おかしいですね、私の骨盤はいったいどこに?」
「いくら探しても無駄だぜ、花咲爺。おまえの骨はこの七星で消し滅ぼした」
天翔丸は黒剣を身構えながら言った。
花咲爺は首をかしげた。
「しちせい? その剣はしちせいというのですか? はて、どこかで聞いたことがあるような……しち……」
つぶやいているうちにある昔話に思い至り、花咲爺は顎を引きつらせて吐きかけた黒い息をのみこんだ。
「『七星』!? まさか、滅ぼしの剣、七星!?」
「おう、よく知ってんじゃねえか」
花咲爺の様子が一変した。常に浮かんでいた笑みが消え失せ、その顔が大きくゆがむ。
「ま、まさか……お、お、おまえは何者だぁ!?」
「俺は天翔丸だ」
すると、陽炎が背後から小声で注意してきた。
「名乗るときは、鞍馬天狗と」
「あのなぁ!」
天翔丸は反論しようと勢いよくふりむいて、うっと言葉につまった。
衰弱しているのに霊力を使わせ、無理をさせてしまったせいだろう。陽炎は先ほどにも増して血の気の失せた真っ青な顔をしていた。
鞍馬天狗などと名乗るのはまっぴらごめんだ。ごめんだが、こんな病人みたいな顔をした相手と言い争う気にはなれなかった。
天翔丸は花咲爺にむき直り、自分と陽炎の折衷案をもってもう一度名乗り直した。
「俺の名は天翔丸。鞍馬天狗と呼ばれることも、たまにある」
花咲爺の骨の躰が引きつった音をたてた。
骨の髄からわき上がってきた感情で、歯の根が合わずがちがち震え、膝がかくかくと鳴る。躰を貫く戦慄。ぬくみも痛覚もない骨の身で感じたそれは、恐怖。
死物の間でささやかれている一つの伝説がある。
昔、この世に恐ろしい生物がいた。それは滅ぼしの剣『七星』をたずさえて暗闇で金の双眸を光らせている。この世に息づいている死物を見つけ出し、死に還すために。その目ににらまれたら決して逃げられない。その剣にかかったら二度と甦ることはできない。死物にとっての災厄、恐るべき最強の天敵、その生物の名をーーーー
「く、鞍馬天狗!!」
悲鳴をあげるように花咲爺は叫んだ。
「まさか、まさかまさか! 嘘だ! あれは伝説だ……ただの昔話だ! 鞍馬天狗はとうの昔に墜ちたはず……!」
十五年も前に、鞍馬天狗は護山もろとも死に絶えたと言い伝えられている。
そうだ、と花咲爺は自分に言い聞かせた。鞍馬天狗がこの世にいるはずがない。花咲爺は目玉がこぼれ落ちそうなほどに鞍馬天狗だと名乗る子供を凝視し、そうではないという証拠を探した。それはすぐに見つかった。
「ほ……ほーっほっほっほ! 危ない危ない、うっかり騙されるところでしたよ。鞍馬天狗だなんて真っ赤な嘘ですねーっ!?」
「あ?」
「鞍馬天狗どころか天狗ですらない! なぜならその証拠に、天狗は翼をもった生物なのに、あなたには翼がぬわいっ!」
「それがどうした?」
悪びれもしない平然とした返答に、花咲爺はかちんときた。
「あなたねぇ、いいかげんにしなさいよ! すぐにばれる嘘をついておいて、よくもそんなふうに開き直れるもんですね! 翼もないのに鞍馬天狗を名乗るなんて、いったいどういうつもりですか!?」
「うるせえな。どう名乗ろうと俺の勝手だろ」
まったく説明する気のない当人に代わって、その背後に控える黒衣の男が代弁した。
「翼はなくとも、七星を輝かせる神通力がある。鞍馬の宝剣を使えるのはこの世でただ一狗のみ。七星を知っているのなら、おまえの骨を消滅させた力が何なのかおのずとわかるだろう。いかなる死物も瞬時に死に還す力ーーこれが鞍馬天狗の『滅ぼしの力』だ」
その説明は花咲爺が納得するのに充分なものだった。
なぜ天狗のくせに翼がないのかはわからないが、狂骨の群をまたたく間に殲滅し、舞い散る死灰をすべて消すなどという芸当のできる者が他にいようか。なにより滅ぼしの剣の威力を直に体験してしまった。斬られてなくなった骨が何よりの証拠。
天敵、鞍馬天狗が目の前にいる!
花咲爺は激しく動揺しながら、飼い犬にすがった。
「ポチィィィィ! これはいったいどういうことだ!? 鞍馬天狗がどうして生きている!? しかもなにゆえ都にいる!? 鞍馬天狗のなわばりは鞍馬山じゃないのかぁ!?」
「ココ掘レ、ワンワン……?」
もとより狂骨犬のポチが鞍馬天狗の事情など知るはずもない。
「おい、もういいだろ」
鞍馬天狗にぶっきらぼうに声をかけられ、花咲爺は声をうわずらせた。
「は、はい?」
「俺が何者だろうと、そんなことはどうでもいいだろ。おまえと話すことなんか何もない。さっさとけりをつけようぜ」
素振りをするように七星をふりながら、闘志満々に鞍馬天狗が言った。
花咲爺は指先の骨をわなわなと震わせながらわなないた。
「ど、どうでもいい……? どうでもいいですって? あなた、自分が鞍馬天狗なのがどうでもいいって言うんですか? どうでもよくなんかないですよ! どうして最初に鞍馬天狗だと名乗らないんですか!」
「なに寝ぼけたこと言ってんだ? 最初に俺を襲ってきたのはおまえだろうが。人に喧嘩を売っといて……ーー陽炎を殺しかけといて、いまさら話し合いで済むとでも思ってんのか?」
凄みのある声から怒りがびりびりと伝わってくる。
花咲爺は己の迂闊さを激しく悔いた。ただの人間の子供だと思った、弱々しく美味そうな獲物だと。こともあろうに天敵を襲い、怒らせてしまうとは。
確かにいまさら何を話したところで済む問題ではない。
「く、鞍馬天狗なんて、何するものぞーっ!」
花咲爺は自分に喝を入れるように叫んで、死灰を辺り一面にばらまいた。
「皆さぁぁん、起きて起きて! 起きてくださぁぁぁぁぁぁぁい!」
呼びかけに応えて、狂骨、死霊、腐りかけの屍までもが目覚め、幾躰もの死物たちが立ち上がる。
いくら滅ぼしの剣をもっているとはいえ、鞍馬天狗も生物だ。生物ならば疲労があり、その力には限界がある。
「死灰はまだまだた〜くさんあります。ここには骨も死骸も豊富にありますし、夜明けも遠い。灰をまきつづければ、私の勝ちです!」
無数の狂骨が鞍馬天狗めがけて殺到した。人骨だけではない。犬、猫、鼠、鳥といった獣の狂骨たちも、敏捷な動きで正面から、頭上から、足元からと、次々と襲いかかる。また死霊は毒気をもって弱らせようと濃厚な黒い呼気を吐きつけ、腐りかけの屍は強烈な腐臭を放ちながらつかみかからんとする。
だがどの死物も、鞍馬天狗にふれることすらできなかった。骨も、屍も、死霊も、毒気も、すべて滅ぼしの剣に消されていく。皆なにもできず、ただその牙にかかって消えていく。あまりに一方的な戦いだった。剣の刃にふれるだけで消されてしまうのだから、戦いようがない。
鞍馬天狗は死物たちを斬り消しながら、一歩、また一歩と距離をつめてくる。灰をまいても、まいても、まきまくっても、その前進を止めることができなかった。
花咲爺は後ずさりながら、愛犬ポチに命じた。
「い、行けポチ! 鞍馬天狗を噛み殺せぃ!」
飼い犬は飼い主の背後に隠れ、尻尾を股の間で丸めて怯えた声で鳴いた。
ポチもひどく動揺していた。ついさっきまで弱々しい獲物だったものが、いきなり恐ろしく獰猛な獣に豹変した。死物としての本能が告げている。あれに近づいてはいけない、危険、危険、危険……ーーポチは鞍馬天狗の発する覇気に威圧されていた。
「ポチ、何をしておる! 行けと言うに! ほれ、早う行けぇぇっ!」
飼い主にせかされ、忠犬ポチは駆け出した。本能よりも飼い主の命令を優先させ、吠えながら果敢にも立ち向かっていく。
だがやはりポチは本能を優先させるべきだった。
ポチは人間の目ではまず捕らえられないような速さで激しく左右に動きながら襲いかかる。それを鞍馬天狗は身構えもせずに、虫でもはらうように軽く七星をふってこの世から消滅させた。
花咲爺はあぜんとした。
「な、なぜ? 最初はまったく反応できていなかったのに……」
最初に襲いかかったとき、こちらの動きにまったく反応できていなかった。ただ呆然と立ち尽くし、震え、連れの黒衣の男に護られていただけ。それがなぜ今、反応できるのか。
鞍馬天狗が死物を斬りながらこちらへ近づいてくる。斬るごとにその剣が速く、鋭くなっていく。最初は見えていたその剣の軌跡が、だんだん見えにくくなっている。
花咲爺ははっと息をのんだ。
「ま、まさか……」
最初にその剣戟をかわしたとき、これがこの坊やの限界だと決めつけた。だがそれが限界なのではなく、はじめの一歩だとしたら。一歩を踏み出し、助走し、じょじょにその本領を発揮しはじめているのだとしたら。
「もしかして……戦いながら、強くなってるの……?」
自分が導きだした結論に、花咲爺はぞっとした。これでは死物を放てば放つほど、鞍馬天狗は強くなってしまう。それを裏付けるように鞍馬天狗の剣戟は勢いを増していき、輝きつづける剣が貪欲に無数の死物たちを喰らい消していく。
灰をまいて枯れ木に花を咲かせたように、灰をまいて鞍馬天狗の武術の才能を開花させてしまった。
自分が天敵を成長させているという事実に、花咲爺は愕然とした。
だがそれがわかったところで、灰をまくのをやめるわけにはいかなかった。やめれば自分が鞍馬天狗に襲われてしまう。その牙に喰われてしまう。
捕食者と獲物、喰うものと喰われるもの、立場が完全に逆転していた。
「あわわ……あわわわ……!」
花咲爺は灰で盾となる死者を起こしながら、鞍馬天狗に隙はないか、どこかに弱点はないか、探した。見つけなければこの世から抹消されてしまう、文字通り必死になって探した。
やがて鞍馬天狗の後方で、その連れである黒衣の男が地に膝をついてうずくまっているのに気がついた。どうやら動けないらしい。生気を根こそぎ奪ったのだからそう簡単に動けるようになるわけがない。
花咲爺はにんまりと笑った。
仲間ではないと言っていたが、ただの連れではない。どんな関係かは知らないが、死の淵から呼び戻したということは、鞍馬天狗にとってなにかしらの価値のある存在なのだろう。
あれを人質にとれば。
「皆さぁぁん、鞍馬天狗のお連れさんを狙いなさぁぁぁぁい!」
瞬間、赤髪がぞわりと逆立ち、怒髪天を衝いた。
「やってみろよ……やれるもんなら、やってみろっ!!」
花咲爺のこそくな一言が、卑怯なおこないを何よりも嫌う鞍馬天狗のさらなる怒りを呼び、その成長を加速させた。
人質をとるには鞍馬天狗の背後へ行かなければならないが、それができなかった。死物たちは数の有利をいかそうと前後左右、さらに上下の空から地中から攻めたが、そのすべてを鞍馬天狗は疾風のような迅速な動きと剣術で撃破した。その身のこなしも剣の動きも、花咲爺の目にはもうまったく見えなくなった。そんな取り返しのつかない状況になってから鞍馬天狗の逆鱗にふれてしまったことに気づいて後悔したが、もう遅い。
花咲爺は灰をまくことも忘れて、天敵の凄まじい戦いに目を奪われて呆然とした。
陽炎もまた、その戦いに目を奪われていた。
鞍馬天狗の戦いの邪魔にならないように、その成長を妨げないように、後方で身を低くして控えながら、戦う鞍馬天狗の一挙手一投足を見つめた。
このふた月、その身をいためつけながら教えこんだことが動きの端々に見える。怒りだけで強くなれるほど武術は甘くない。このような戦いが来るまでに、修行という下積みをどれだけ積めるのか、その才能をはたして自分が磨けるのか、すべてが手探りで試行錯誤の毎日だった。
役に立てたなどとおこがましいことは思わない。間に合った、間違ってはいなかったーーそんな安堵を感じた。
(これは羽化だ)
卵から生まれる天狗の成長には、大きく二つの段階がある。
卵の殻を破る『孵化』と、翼を広げ巣から飛びたつ『羽化』。
呪符という殻を破り、神通力が目覚めたことを天翔丸の孵化とするなら。
これは翼のない天狗にとっての羽化ではないか。雛は巣で羽ばたきの練習をくりかえし、ある日突然、巣立って飛翔する。いま、天翔丸は武術の天賦の才という翼を大きくひろげ、羽ばたいている……そんなふうに見えた。
陽炎はその飛翔を見つめながら、静かに感動を噛みしめた。
「……無関係な奴らを斬らせやがって」
鞍馬天狗の不機嫌なつぶやきに、花咲爺ははっと我に返った。気がついたときには盾となる死物は一躰もいなくなっており、鞍馬天狗はまっすぐ射貫くようにこちらをにらんでいた。
「花咲爺、俺に七星をぬかせたのはおまえだろ。雑魚なんかよこさないで、おまえが来い」
「い……行けるわけないでしょぉぉぉぉ!」
戦意などとっくに喪失している。逃げ腰で悲鳴まじりに叫びながら再び灰をまこうとしたーーが。
それより前に鞍馬天狗が剣を葬送地の大地に突き刺して、叫んだ。
「死んだ奴が起きあがってくんな!ーー寝てろっ!!」
辺り一面の地中から閃光がもれた。そして次の瞬間、轟音とともに地面全体が大きく沈んだ。
「ひいいい〜〜っ!」
足元の地面が崩れ、花咲爺は後方へごろごろと転がった。すぐさま起き上がって灰を地面にまいたが、死者は誰一人起き上がってこなかった。
「あ、あれ……? なんで? 皆さん? 皆さぁぁぁん、どうして起きてこないんですかぁぁぁぁ!?」
その疑問に、鞍馬天狗が答えた。
「死物は全部消した。あとはおまえだけだ」
地中に眠っている死物すべてを消すーーそう念じて、地層のように幾層も積み重なっている死物たちを、滅ぼしの力で根こそぎ消滅させた。重なるほど多いから、滅ぼしの力を伝えやすく消しやすかった。
都の三大葬送地の一つである蓮台野から、充満していた死気が完全に消えてなくなった。
花咲爺はがくがくと震え、はーはーと黒い息を吐いた。
かつてこの地で、先代の鞍馬天狗によって死物が一躰残らず消されたと伝え聞いている。しかし地中深くまで折り重なっている大量の死者をどのようにして一躰残らず、一躰も逃がさずに消し尽くしたのか、その方法はわからなかった。それを目撃した死物はすべてこの世から消されてしまったからだ。
奇しくも、花咲爺はその再現を目撃した。
「こ、こうやって消したのねぇぇぇぇぇぇ〜〜〜!」
しかも葬送地の死物をすべて消してもなお、鞍馬天狗は平然と立っている。ゆっくりこちらへむかって歩いてくる力強い足取りにも、凛とした表情にも、疲労などまったく見えない。
その神通力には果てが見えなかった。
死物の天敵ーーその意味を、花咲爺はせまりくる恐怖と共に知った。
花咲爺は態度を一変させ、地面にへばりつくようにして土下座した。
「く、鞍馬天狗! どど、どうかお許しを! お助けを……!」
「そうやって助けを請う相手をおまえは喰らってきたんだろ。助けてくれと懇願するものいたぶり、笑いながら殺してきたんだろ」
金色の双眸が怒りをあらわに輝きを増した。
「許せねえ」
これと同じような目を、花咲爺は生きていた頃に見たことがあった。
数多くの女たちを犯した罪状で首を斬られるとき、せまる死の恐怖に死ぬのは嫌だと泣きわめき、刀をもった処刑人に謝って助命を請いた。だが処刑人の目は一切ゆらがなかった。被害にあった女たちの苦痛、悲しみ、無念、そういうものを一身に背負い、力のない彼女たちに代わって、人の尊厳を踏みにじった罪を一刀で断罪した。
鞍馬天狗の目も同じだった。ただ自分が侮られたと怒っているのではなく、虐げられて喰われた生物たちの無念をすべて背負っているような、そんな目に見えた。こんな目ににらまれていると、これまで働いてきた悪事が頭を駆け巡り、到底許されないことを思い知らされる。
花咲爺は二度目の死の恐怖を味わった。
こうなったからには残された道はただ一つ。
「ひやあああああああああ〜〜〜〜〜!」
花咲爺はなりふりかまわず全力で逃げにかかった。伝説となっている先代の鞍馬天狗とは違い、この天狗には翼がない。脚力ならばこちらのが上、飛んで追いかけてこられないから全速力で走れば逃げきれる。
だが退路に銀の錫杖をもつ黒衣の男が立ちふさがり、花咲爺は逃走を阻まれた。生気を奪われてまともに動けないはずなのに、身体を張った構えで逃がすものかという気迫をぶつけてくる。
主の身を護るため、またその命令を遂行するために死地にも迷わず飛びこんでくるーー守護天狗にはそういう存在がいることを花咲爺は思い出した。弱い人間ばかりを狙って喰っていたから、天狗という種族の手強さを忘れていた。
翼のない主の欠点を全身全霊で補おうとするその姿から、この男が鞍馬天狗の何なのか、その関係が言われずとも知れた。
「そ、そうか……おまえ、鞍馬の眷属か!」
眷属ーー守護天狗のそばに常に付き従い、補助するもの。
主と眷属という関係、天狗社会におけるその制度は実によくできている。
生物には休息が必要不可欠で、どんなに強くとも疲労があり、睡眠時ともなれば必ず無防備になる。また天狗には翼を折れば墜ちるという絶対的な弱点もある。だから守護天狗は眷属という存在を常にそばに置いて護衛をさせ、それらの隙や弱点を克服するのである。
鞍馬天狗と鞍馬の眷属。
古来より、彼らにどれだけの死物が消し滅ぼされたことか。
武神と称されるほどの屈強な主にふさわしく、それに仕える眷属も武術に優れていることで有名だった。噂にたがわず武術の猛者である黒衣の眷属が、錫杖で攻撃してきた。
「くくっ!」
花咲爺は自分の骨身をかばって防御の姿勢をとった。
だが眷属の狙いは花咲爺ではなかった。
「……あっ!」
腰元に下げていた灰の入っている籠が錫杖で打ちはらわれ、宙をくるくると回転しながら飛んでいく。籠が飛んだ先には鞍馬天狗が待ち構えており、絶妙の間合いで光り輝く剣を一閃し、死灰を籠ごと一粒残らず消し去った。
狙われたのは死灰だった。
花咲爺の能力は素早く動き回ることと、灰をまくことだけ。灰を奪ってしまえば恐れるに足らない。天翔丸と陽炎はそろってそれを見抜き、瞬時に互いの役割を判断して行動したのである。
完全に無力とされた花咲爺は絶望的に叫んだ。
「おまえたち、比翼か……っ!!」
なぜ言葉もかわさずにこんなことができるのか。よほど息が合わないとこうはいかない。
二狗での行動を基本とする天狗の主従を、翼を並べて飛ぶさまから『比翼』と呼ぶ。この鞍馬天狗と眷属のいずれにも翼はなかったが、ぴったり息の合った戦い方はまさしく比翼そのものであった。二狗でありながら一心同体、強い信頼で結ばれ、力を合わせて実力以上の戦闘力を発揮する比翼と戦うほどやっかいなことはない。
二人が別々でいたら。どちらか一方であれば、いずれも難なく喰らえたのに。
そんな思っても仕方のないことを悔やむ花咲爺を、鞍馬天狗は燃えるような黄金の双眸で容赦なく見下ろした。
「死んだらあの世へ逝くのが理だろ。いつまでもこの世をうろついてんじゃねえよ」
天翔丸の口から、陽炎がよく口にする言葉が自然とすべり出た。
「死に還れ」
七星が花咲爺の躰の中央、背骨の骨を貫いて輝いた。
「ひぎゃああああぁぁぁぁぁぁぁ!」
叫びながら花咲爺は最後のあがきをした。とかげが尻尾を切って逃げるように、胸部から下の骨を自ら切り離す。胸から足までの骨を消し滅ぼされ、頭部と肩と両手の骨が残った。花咲爺は両手を車輪のように動かして逃げようとするが、逃走の道は黒衣の男にふさがれる。
花咲爺は助けを請うように叫んだ。
「白夜様ぁぁぁぁぁぁぁ!」
その言葉に、陽炎の身体が硬直した。
「白夜……!?」
一瞬の動揺が隙を生んだ。
花咲爺は止まった錫杖の脇をすりぬけて、がしゃがしゃと音をたてながら濃い闇の中へ消えていった。




