二十 光の道
陽炎は暗闇の中で一人うずくまり、何を見るでもなくうつろに目を開いていた。
(いつまで待てばいいのだろう)
ーー鞍馬天狗はいつか必ず降山する。
富士の大長のその神託を支えに、もう何年も鞍馬山で待ちつづけている。
はじめは空を見上げていた。翼をもつ天狗は飛翔してくるはずだから、そのときが来たらすぐにその姿を見つけられるよう、鞍馬山の一番高い地の一番高い木の枝に立って待った。そして鞍馬天狗に会ったらすぐに手渡せるよう、いつも七星を胸に抱きながら空を見上げつづけた。
(きっと今日来る)
眠りから目覚めた瞬間にそう希望を抱き、鳥の羽ばたきを聞けば鞍馬天狗の飛翔かとその姿を空に探し、風がおこす葉擦れの音を聞けば鞍馬天狗が樹間を飛んできたのかと山中を駆けてその姿を探した。そんなことをくり返しながら毎日待った。太陽が照りつける日も、雨の降りしきる日も、風のすさぶ日も、雪の舞う日も。
しかし鞍馬天狗は一向に現れない。明日は来ると自分を励ましてただひたすらに待ちつづけた。待った日を指折り数えて樹皮に印をつけたりもしたが、数えることに何の意味もないことに気づいてやめた。待つことしかできない空虚な日々に心身が消耗していった。
ーー鞍馬天狗はいつか必ず降山する。
いつかとは一体いつなのか。
次第に空を見上げるのにも疲れて、木の根元でうずくまるようになった。
(今日も来なかった)
一日の終わりに落胆の溜息をつくのが常となり、連日積もりつづける落胆が絶望を深くした。明日こそはと希望をつなげても、次の日にはそれが断たれて苦しみは増すばかり。
なぜ鞍馬天狗は来ないのか。
天狗は山を守護するもの、そういう本能をもった生物である。この世にいるのなら必ず護山に来るはずなのに、山が滅びの危機にあるのに、なぜ来てくれないのか。
雲外鏡、富士の大長、愛宕天狗、あらゆる識者に訊いたが誰にもわからない。
わからないことが陽炎の苦悶に拍車をかけた。
この事態を引き起こした自分を責めたて、自身にむけて呪われろと呪詛をわめいて、罪悪感にうずく胸をかきむしりながら地をのたうち回った。自傷行為に及んだことも数知れない。そのたびに黒金や雲外鏡に助けられ、諭されて命をとりとめてきた。
このままでは発狂してしまうと思った。
だから感情を殺した。感情をもっていては、待つという苦行にとても耐えられそうにない。生きて七星を鞍馬天狗に渡すために、そのためだけに情を感じる心をーー喜怒哀楽を棄てた。
世界から色が消えて、ときおり山を攻めてくる死物たちとの戦いで負った傷にも痛みを感じなくなり、生物の命を奪うことにも何も感じなくなった。
すでに狂っていたのかもしれなかった。
それでもかろうじて目だけは開けて、暗い山奥でうずくまりながら待ちつづけた。
ふと目の端で、足先から闇色をした泥のようなものが這いあがってくるのが見えた。それは重く、冷たく、ゆっくりと肌を這いながら体温と力を奪っていく。
(死が来たか)
陽炎は自身に這いあがってくる死をうつろに見た。
死ねば楽になれる。役目も、罪も、苦しみも、何もかも忘れて楽に……己の頭から誘惑の声が聞こえる。
陽炎は頭をふって誘惑をふりはらった。
(まだ駄目だ)
まだ七星を渡していない。新たな鞍馬天狗に会って七星を渡すまでは、死ぬわけにはいかない。
陽炎は死をうち祓い、重い身体を引きずるようにして後ずさった。死はゆっくりと執拗に距離をつめてくる。死が近づいてきた分、息を切らしながら後ずさって距離をあける。それを何度もくり返すうち、背になにかが当たった。
ふりむくと、分厚い死に背後をふさがれていた。いつのまにか、右からも左からも下からも死がせまってくる。完全に囲まれて逃げ場がなくなっていた。
闇色をした死が周囲からわっとのしかかってきて、つかまった。
陽炎は静かに絶望した。
(あぁ……寿命か)
生きているものには寿命があり、必ず死が訪れる。誰にも平等にふりかかる災厄。寿命が尽きれば死ななければならない。
それがこの世の理。
(これが私の宿命か)
先代の鞍馬天狗に災厄をもたらし、山を滅びの危機に陥れ、次代の主に宝剣を継承できぬままに死ぬ。罪滅ぼしもできなかった。長くつづいた苦難が報われることもなく、願望はかなえられないままに死ぬ。
なんの救いも、なんの喜びもない一生だった。
陽炎は冷ややかに自虐した。
(罪人にはふさわしいかもしれない)
絶望の中で寿命尽きるのが自分の宿命、宿命は受け入れるほかない。
しかし陽炎は死に抵抗し、呼吸しようと口をひらいた。
(まだだ……まだ、鞍馬天狗に会っていない)
あきらめきれない思いが生への執着となって、最後の抵抗をこころみる。
だが死からは逃れられなかった。あたりはすでに死気が充満しており、呼吸をしても死気を吸いこんで生気が奪われるだけだった。
死は非情だ。未練があっても、心残りがあっても、まだ生きたいと願っても容赦なく襲いかかってきて、この世にしがみつこうとする生者を引きずっていく。
(駄目なのか……もう……会えないのか……)
どんなにあがいても、どんなに願っても、もう鞍馬天狗に会うことはかなわない。
胸が痛んだ。泣きたかったが、泣き方すらわからなかった。
急激に眠くなってきて、去来するさまざまな思いがじょじょに薄らいでいく。
陽炎は闇の中で横たわり、胎児のように身体を丸めて鞍馬の宝剣を抱えこんだ。これを次代の主に手渡すことを己の役目と定めて懸命に生きながらえてきたが、どうやらもう役目を果たすことはできないようだ。
もう……鞍馬天狗には会えない。
だから剣を胸に固く抱きしめて、身体で覆って護ろうと思った。死ねばこの身は屍となり、風雨にさらされて腐り果て、やがて鞍馬の土となる。土となって七星を山中に埋もらせて、不当な輩に奪われないように隠そう。
ただ気がかりなのは、正当な持ち主がこれをうまく見つけてくれるかどうかだ。こんなふうに覆い隠してはひどく見つけにくいだろう。もっとましな方法があるのかもしれないが、もう他に方法が思い浮かばなかった。
陽炎は死に侵されながら、いつか降山するであろう鞍馬天狗に懇願した。
(どうか、七星を見つけてください)
見つけたら、その尊い神通力で再びこの剣を光り輝かせてほしい。鞘にこびりついている土などこそげ落として、この剣で襲いくる死という災厄を斬り滅ぼして一日でも長くこの山で生きのびてほしい。
(新たな鞍馬天狗よ、あなたに幸の多からんことを……ーー)
祈りながら目を閉じようとした、そのときだった。
ーー陽炎!
突然響いてきた声に、陽炎は目を大きく見開いた。あたりに目をやって声の主を探したが、闇ばかりでその姿は見えない。
気づくと、胸に抱えこんでいたはずの七星がなくなっていた。
(どこへ)
肌身離さずもっていたはずなのに、どこへやってしまったのだろう。落としてしまったのか、それとも誰かに奪われてしまったのか。
(いや、違う)
ーー陽炎!
その声によって混濁していた意識が澄みわたり、陽炎は自分が過去をふり返っていたことに気がついた。さっき胸に抱えていた七星は幻。十五年も七星をもちつづけていたせいで、まだ自分がもっていると錯覚していた。
ーー陽炎!
響きわたるその声が確信をもたせてくれた。
待つだけの空虚な日々はもう終わったのだと。
(鞍馬の宝剣は、この手で、この声の主に手渡した!)
身体を起こそうとしたが、死がそれを阻んだ。すでに全身に死がおよんでおり、身体の内深くまでしみこんでいる。手をあげるどころか頭をもたげることもできず、四肢は死後硬直のように冷たく固まってまったく動かない。弱々しい鼓動はいまにも止まりそうで、闇色をした死が、喉までせりあがり息の根を止めようとしてきた。
(……っ……っ……!)
息を吸うことも吐くこともできなかった。苦しさにひくつきながら息をしようとあがいたが、そんな抵抗を嘲笑うかのように死は残り少ない生気をも奪っていく。
ーー陽炎!
その声も聞こえにくくなってきた。
意識が遠のいていく。息の根が……止まる……止まりかけた、そのとき。
ーー陽炎!
声がひときわ大きく闇に響くと同時に、まばゆい閃光が走った。
強く神々しい光が陽炎の体内から噴き出し、その身に深く侵食していた死を瞬時に焼きはらった。あたりの暗闇から新たな死がせまろうとするが、力強い光はうねりながら陽炎をとりまき、死を寄せつけない。
まばゆい光の中で陽炎は身体を起こした。光の熱が冷えきっていた身体を巡りながら温め、立ち上がる力を与えてくれた。
死から救ってくれたこの光が何なのか、わかりすぎるほどにわかる。
(……あぁ……)
陽炎は自分の身体を抱きしめて体内を流れる熱い力を感じ、恍惚とした。あの小さな身体を抱きしめるよりも、やわらかな髪に頬を寄せるよりも、その存在を強く、深く感じる。
これは本人そのもののような、強靭で優しい神通力。
(ずっと待っていたんです……あなたを……)
待ちつづけた十五年、苦痛に倒れたことは数知れない。でも倒れながらも耐え、あきらめずに生きてきて良かったと、心から思える。
(ずっと……ずっと、会いたかったんです……)
会えて、初めてわかったことがある。
七星を使える神通力さえあれば、鞍馬天狗でありさえすれば、どんな天狗だろうとかまわない、そう頭では考えていたが本当はそうではなかった。自分でも気づかなかったが本心は違っていた。誰でもよかったわけではない。
この思いが何なのか、わからない。待つことに疲れ果ててくじけそうになったとき、いつも自分の奥底にあるものが訴えてきた。
会いたいーーと。
あきらめたら会えない、そう自分を奮い立たせてきた。新たな鞍馬の主がどんな天狗かまったくわからなかったのに、なぜかずっと、会いたくてたまらなかった。
七星を渡すという役目だけでは、おそらく十五年は耐えられなかった。
会いたい……その願望があったから耐えられた。
待っていればきっと会える。必ず、会ってみせるーーそう決意できた。
どんな天狗でもよかったわけじゃない、天を翔けるという名をもつ鞍馬天狗に会いたかったのだ。会って、それがわかった。
十五年間、十四歳のその身がこの世に生まれる前から、ずっとその存在に支えられてきた。支えられ、この世で生きて出会えたことに、救われた。
復讐相手にこんなことを言われてはきっと困らせてしまうだろうから、決して伝えたりはしないけれど。
(あなたに会えて、うれしかった……ーー)
ーー陽炎!
声は闇に響きつづけ、神通力の光もとどまることなく輝きつづけている。
身体からあふれた神通力が足元に集まりだした。光が地表をぎゅんとのびて暗闇をひらき、陽炎の前に一本の光の道を作った。
空から来ると思っていた主に翼はなく、自ら山に来てくれることもなかった。だが飛ぶことのできない自分でも迎えに行ける地上にいた。「新たな鞍馬天狗は都にいる」と知ったあのときも、都へむかう道がこんなふうに輝いて見えた。
一筋の光明の先にあるのは、喜びそのもの。
苦しみぬいた十五年が報われた証。
ーー陽炎!
声は何度も、何度もくり返し呼びかけてきた。
しかし陽炎は口をつぐんでその声に答えることをせず、光の先を見つめながら瞳をゆらした。
(私は……私は、あなたのそばにいてはならないのです)
自分は罪人、鞍馬の主にはべることなど許されない身だ。
七星を手渡して自分の役目は終わった。役目を終えた時点で本当は鞍馬山を去るべきだったのだが、降山した主が戦うすべをまったく知らない天狗だったから、心配でとても離れることができなかった。
しかしいまこうして死に瀕している自分に呼びかけているということは、花咲爺率いる狂骨の群を倒したということだ。それだけの力を発揮できたのなら、もう自分で身を護っていくことができるだろう。
いまが身を引くべきときなのかもしれない……。
ーー陽炎!
何度もくり返される呼び声に、たまらないほど胸を衝かれた。許されるならこの呼び声に答え、そばへ駆けつけて力となりたい。だがそれは眷属の役目である。
(私はあなたの眷属になる資格をもっていません。眷属になれる見込みのない者が、いつまでもそばにいてはいけないのです……)
たとえいくらなりたいと望んだとしても、罪人に眷属になる資格はない。まして復讐相手である自分がそばにはべることを許可されるはずもない。
いずれ離れなければならないのなら、早く離れた方がいい。長くそばにいればそれだけ離れがたくなる。
(だから……もう離れた方が……ーー)
ーー陽炎!
しかし一向にやまない声に離れようとする心をゆさぶられ、かき乱された。
声を張りあげて呼んでいる。鞍馬天狗が呼んでいる。他の誰でもない、自分の名を。
陽炎は瞳をゆらして闇に立ちすくんだ。
鞍馬天狗のそばにいてはいけない、いずれ必ずその元を去らなければならない、共に行くことなど絶対に許されない。だが理性では駄目だとわかっているのに、その呼び声に背をむけることがどうしてもできなかった。
(いいのですか? こんな私が……あなたのそばへ行ってもいいのですか?)
心の中ですがるように問うと、まるでそれに答えるかのように、声が闇に轟いた。
ーー陽炎、来い!!
その一言で、迷いが吹き飛んだ。陽炎は全身で叫んだ。
「天翔丸ーーーーっ!!」
そして光の道へ踏みだした。




