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十七 夕餉にて

 目が覚めたときには身体のしびれもとれて、すっかり回復していた。琥珀は人間の少女の姿に化け、ずっと付き添ってくれていた女性にぺこりと頭を下げた。

「紅葉さん、助けてくれておおきに」

「いいのですよ。困ったときはお互い様ですからね」

 琥珀は顔をぽっと赤らめて、もじもじと白い衣の裾をいじった。不思議とこの女性に微笑まれると、なんだかうれしくなって照れてしまう。

 牛車にのって連れてこられたのは広々とした邸だった。大きな木々で鬱蒼とした山奥とは違い、ここの庭に木々は池の回りに点在しているだけ。鞍馬寺の本堂には住職のきらきらとした所有物が所狭しと並んでいるが、ここには華美な物はなく、灯台や几帳など色調の落ち着いた物が最低限置かれているだけだった。流れている空気も清らかで、ゆったりとしている。ここが天翔丸の生まれ育った場所だとは、琥珀には知るよしもない。

「あなた、名前はあるのですか?」

 琥珀は大きな目を喜びに輝かせ、胸を張って得意げに答えた。

「あるよ! うちね、琥珀っていうの」

「琥珀……きれいな名前ですね」

「そうやろ? うちの名前はね、天翔丸がつけてくれたんよっ」

 紅葉の肩がぴくりと動いた。

「……天翔丸?」

 そのとき忠信が膳を運んできた。

「失礼いたします」

 忠信は少女に化けている琥珀を見て、その愛らしさに顔をほころばせながら注意した。

「これ猫又、耳と尻尾が出ておるぞ。きちんと化けないと、正体がばれてしまうぞ」

「これでいいの! 天翔丸がかわいいって言ってくれたんだもん」

 いいのだろうか、と忠信は首をかしげながら用意した食事をその前に置いた。

「妖怪が何を食べるかわからなかったので、猫の好みそうなものを用意しました」

 膳には、魚料理を中心にごちそうがずらりと並んでいる。

 琥珀は大きな目を輝かせた。

「うわぁ〜、おいしそう! 紅葉さん、これ食べていいの?」

「ええ、もちろん。あなたのために用意したのですから、好きなだけお食べなさい」

「わーい! いただきまーす!」

 琥珀はちょこんと正座し、膳の上をきょろきょろと見た。

「ねえ、お箸は?」

「箸? 猫ならそのままがぶっとかじればいいではないか」

 忠信の提案に、琥珀はぷんとした顔で言い返した。

「お行儀が悪いでしょ」

 猫又の要望に応えて、さっそく箸が用意された。

 箸を使って魚を口へ運び、ぱくぱくと食べる猫又の姿に、忠信が感嘆の声をあげた。

「ほほう、器用なもんだな。紅葉様、猫の妖怪が箸を使って飯を食べておりますぞ」

「ちょっと、おじさん」

 琥珀がかわいい顔でキッと忠信をにらんだ。

「お、おじ……?」

「うちの名前は琥珀や。こ、は、く。しっかり覚えてよね! おじさんの名前は何て言うの?」

「え? あぁ、私は忠信と申す」

「ただ……にゃっ」

 舌足らずな琥珀には少々難しい音のようで、舌を噛んでしまった。

「言いにくいから、ノブさんって呼ぶね。ノブさんもごはん一緒に食べる? うちが食べさせたげる。はい、あーん」

 琥珀は箸で魚の身をつまみ、忠信の口元にもっていく。

 忠信は猫又の人懐っこさに戸惑いつつ、咳払いをした。

「い、いや、私は結構だ」

「どうして? 天翔丸はあーんってすると、あーんってお口開けて食べるわよ?」

「今は腹が減ってはおらぬ。それにそれは琥珀のために用意したのだから、琥珀が食べなさい」

「そお? じゃあ、食べるね。おおきに!」

 紅葉が楽しそうに笑い声をあげながら問いかけた。

「箸の使い方は誰から教わったのですか?」

「天翔丸よ。天翔丸がこうやって食べてるから、うちも天翔丸とおんなじふうに食べたいて言うたら、教えてくれたんよ。はじめはうまくいかへんかったけど、ほら、こうやって」

 と琥珀は箸で魚の身を口へもっていき、もぐもぐと頬張った。

「うわあ、これおいしいっ! ノブさん、これ、なんて食べ物?」

「それは鯖の煮付けだ」

「天翔丸にも食べさせてあげたいなぁ。これ、おみやげに持っていってもいい?」

 その微笑ましさに紅葉はいっそうやわらかな笑みを見せて、忠信に言った。

「忠信、それと同じものを用意できますか?」

「はい。かしこまりました」

「えっ、いいの? うわーい、おおきに! ノブさん、天翔丸はいっぱい食べるからおっきいのお願いね!」

 忠信は強面だと言われる顔を崩して笑った。はじめは大きな妖怪にそれとなく警戒していたが、その幼子のような無邪気な様子に安心し、主人に一礼して退席した。

「天翔丸、きっと喜んでくれるわぁ。おいしいおいしいって食べてくれるよね!」

 その光景を思い浮かべるだけで琥珀の顔には笑みがあふれ、声が弾む。

 紅葉は盲いた目をやわらかく細めた。

「あなたはその天翔丸という方を、とても慕っているのですね」

「したって……? それなぁに?」

「大好きということですよ」

 琥珀は目を輝かせて大きくうなずいた。

「うん! うち、天翔丸だーい好き!」

 紅葉はにっこりと微笑んだ。

「そう」

 琥珀はごはんをもぐもぐ食べながら、盛んにしゃべった。

「うちね、鞍馬山から来たんよ。天翔丸と一緒に棲んでるの。天翔丸はね、鞍馬山の主なんよ。鞍馬天狗って言うの。紅葉さんは天狗って知ってる?」

 紅葉は微笑みながらうなずいた。

「ええ。わたくしも天狗にお会いしたことがありますよ。もうずいぶん前のこと。わたくしが出会ったあの方は……」

 紅葉は空を仰ぐようにして、懐かしそうにつぶやいた。

「あの方は、空のような広いお心と、力強い大きな翼をもった天狗でした」

 琥珀はもぐもぐと魚を食べながら、ふぅんと相づちを打った。

「紅葉さんが会った天狗さんには翼があるんね。天翔丸は天狗なんやけど翼がないんよ。前にね、鳥の天狗さんたちが鞍馬山へ来て、みんなで飛べない天翔丸をいじめたの。ひどいよね!」

「そう……きっとその天狗たちは、それまで翼のない天狗を見たことがなかったのでしょう。知らないものや新しいもの、自分たちと違うものがいると、おどろいて恐れたり嫌ったりしてしまうようですから」

 琥珀は箸を下ろしてうつむいた。

「あのね……うちも、違うものなの」

 ぴんと立っていた耳がしゅんとしおれ、その元気な声が沈む。

「うちね、ふつうの猫とは違うみたいなの。違うから、猫のみんな、仲良くしてくれないの。仲良くしたいのに……人間も、うちがしゃべるとおどろいたり恐がったりするの……恐い顔して追いかけてきたり……うちが、ふつうの猫と違うから……」

 天翔丸が優しくしてくれるからいい……そう自分を励ますが、でも見ず知らずのものたちに嫌われればやっぱり胸は痛む。逃げていく猫や人間たちの背を思い出して、琥珀の目がじわりと潤んだ。

 紅葉がやわらかくもしっかりとした声で言った。

「『違う』ということは悪いことではありませんよ。少し誤解されやすいだけです。琥珀、あなたは悪くないのですから、自分を責めてはいけませんよ」

「うち、悪い妖怪やない?」

「違いますよ。あなたにはとても良いところがあるではありませんか」

「良いところ? どこ?」

「あなたの良いところは、好きな方のために一生懸命にがんばれることです。天翔丸のためにととてもがんばっている」

 琥珀は目をぱちくりさせ、じっと考えた。

「うん……うち、天翔丸のためならがんばれるよ。だって、天翔丸に笑ってほしいもん。天翔丸が笑うと、うち嬉しいもん」

「人を好きになる心はとても大切なものですよ。そしてその人のために行動するということは、簡単なようで難しいこと。それができるあなたは、決して悪い妖怪ではありませんよ」

 琥珀は自分の胸に手をあてて考えた。

 天翔丸は想う気持ちは誰かに言われてそうしたのではなく、自分の中で自然と生まれたものである。天翔丸を好きだというこの気持ちには自信がある。

「良かったぁ……うち、天翔丸と会えて良かったぁ」

 琥珀はしみじみとつぶやき、この気持ちを大切なものだと教えてくれた女性に微笑んだ。

「紅葉さんとも会えて良かった」

「わたくしも、あなたと会えてとても嬉しいですよ」

 紅葉と笑みを交わすと、元気が出てきた。

 琥珀は箸をもちあげ、残っていたごちそうをきれいにたいらげた。

「ごちそうさまでしたっ」

 行儀良く手を合わせてぺこっと頭を下げると、琥珀は立ち上がった。

「天翔丸、探さなきゃ。一緒に都へ来たんやけど、はぐれちゃったの。紅葉さん、いろいろおおきに。うち、ノブさんにおみやげのお魚もらって、行くね」

 庭先から飛び出していこうとしたが、それを紅葉が引き止めた。

「琥珀、お待ちなさい。もう日が暮れています。夜の都はとても危険です。人にとっても、妖怪にとっても」

「えっ、そうなの? どうしよう、天翔丸、大丈夫やろか?」

「天翔丸は一人なのですか?」

 琥珀は首をかたむけて考えた。貴族の邸で目覚めたときにはもう誰もいなかったのでわからないが、鞍馬山では、天翔丸のそばにはいつも黒衣の男がいる。

「たぶん、陽炎と一緒やと思うけど」

「眷属が一緒なのですね」

 琥珀は大きな瞳をぱちくりとさせた。

「けんぞく?」

「山の主たる守護天狗には、その身を護衛する眷属がいるのだとか。その陽炎という方がそうなのでしょう?」

 琥珀は大きく首をかしげた。

 眷属という言葉は、以前黒金が天翔丸に話しているのを聞いたことがある。守護天狗に仕える配下だと言っていた。要するに、天翔丸と一緒にいられるのが眷属なのだと、琥珀はなんとなく理解したものだ。

 天翔丸のそばにいたいから「うち、天翔丸のけんぞくになる!」と言ったことがあったが、天翔丸は「眷属なんかにならなくたって、そばにいていいんだぞ」と言ってくれたので、結局ならずにいまに至る。

「眷属が一緒にいるのなら、天翔丸は大丈夫ですよ。琥珀は今夜はここにお泊まりなさい。夜が明けたら探しに行くといいでしょう」

 そう提案されて、琥珀はうなずこうとした。

 だが、なぜかできなかった。

(……あれ?)

 紅葉の言葉に、胸がちくりと痛んだ。細い針で刺したような小さな小さな痛み。それがゆっくり、じわりじわりと胸に広がっていく。

(なんやろ、これ)

 この胸の痛みが何なのかわからず、琥珀は戸惑った。

 今夜、ここに泊めてもらえるのは嬉しいし、夜が明けたら天翔丸を探しに行くことにも異論はない。ただ。

 ーー眷属が一緒にいるのなら、天翔丸は大丈夫ですよ。

 その言葉が胸に刺さった。

 陽炎はいま、きっと天翔丸のそばにいる。絶対にいると断言できる。鞍馬山でも修行だと言って朝早くから夜遅くまでずっと天翔丸を一人占めしている男だから、今もきっとそうに違いなかった。

 天翔丸に一番憎まれていて、天翔丸を一番傷つけていて、天翔丸の一番近くにいて、天翔丸を一番護っている男。

 陽炎が一緒にいるのなら、天翔丸は大丈夫……確かにそうかもしれないけれど。

(なんで、いつも、うちは一緒にいられないの?)

 ふいに、琥珀の目から大粒の涙がぽろぽろこぼれた。

「琥珀……?」

 琥珀は紅葉に駆け寄り、その膝に顔をうずめた。

「うち、天翔丸に会いたい……会いたいの」

 修行を中止して都へ行くと決まったとき、今日はずっと天翔丸と一緒にいられると、本当に本当に嬉しかった。でも結局、天翔丸とはぐれてしまい、いつも通り離ればなれになってしまった。

 修行の場へ行くと、天翔丸の気が散ると言われて追い払われる。だから天翔丸と顔を合わせることができるのは、修行以外のほんのわずかな時間だけだった。ゆっくり天翔丸と話ができるのは、朝と晩のごはんを食べるときくらい。夜に話をしたくても、天翔丸は疲れていてすぐに眠ってしまう。今日は晩ごはんのこの場に、天翔丸はいない。ご飯はすごくおいしいが、天翔丸がいない。

 天翔丸のことが大好きだから、もっと一緒にいたいのに。もっとたくさん話したいのに。もっと、もっと、もっと……ーー天翔丸と。

 でもかなわない。

 それができる男がうらやましい。うらやましくてたまらなかった。

 それは琥珀の中に初めてわきあがった感情ーー嫉妬、だった。

(陽炎はずるい)

 自分ばかり天翔丸と一緒にいて。

(うちだって、天翔丸と一緒にいたいのに)

 紅葉は泣きじゃくる琥珀の頭を優しくなでた。

「天翔丸が恋しいのですね」

 琥珀は声をあげて、思いきり泣いた。

 涙が枯れるほど泣きつづけた後、琥珀は涙をぬぐい、紅葉の前に正座して問いかけた。

「紅葉さん、眷属ってどうやってなるか知ってる?」

「え?」

「うち、天翔丸の眷属になりたい」

 紅葉は少し考えて、諭すように言った。

「琥珀、天翔丸を好きだというあなたの気持ちはとても大切なものです。でもそばにいたいと思うことと、守護天狗の眷属になるということは、まったく別の話だと思いますよ」

「好きなだけじゃ、天翔丸のそばにいられないの」

 琥珀は身を乗り出し、食い下がった。

「主のためにがんばるのが眷属なんでしょ? うち、天翔丸のためなら何でもできるもん。眷属になりたいの。だからお願い、教えて」

「ですが……わたくしは天狗について、すべてを知っているわけではありません」

「知ってることだけでいいの。教えて。お願い。ーーお願いします」

 琥珀は手をついて頭を下げて頼みこんだ。

 その姿は盲目の紅葉には見えなかったが、琥珀の言葉や口調から、真剣さは充分に伝わってきた。紅葉は琥珀の一途さに根負けし、少しためらいながらも、知っていることを教えた。

「守護天狗の眷属になるには、主の許可をもらうことです」

「きょか?」

「本来、山の主はとても神聖なもので、滅多なことでは近づけない、触れることもできない、会うことすらかなわない存在です。その主に、近づいて良いというお許しをもらうのです。どちらか一方が望むだけでは、その関係は成立しません。お互いの合意があった上で、眷属は生涯の忠誠を誓い、主はそばにはべることを許す……そして契りを結ぶのだとか」

「ちぎり?」

「滅多なことでは触れることのできない主の身に、眷属が触れるーーそういう儀式をおこなうのだそうです」

 幼いながらも、琥珀は紅葉の言葉を懸命に聞き、考えた。

 天翔丸はとても大切な存在で、陽炎のようにその身を傷つけたり痛めつけたり、むやみに触れたりしてはいけないのだ。そして誰が天翔丸のそばにいるべきか、それを決めるのは天翔丸本人であって、陽炎ではない。

 陽炎の言うことに従う必要などまったくない。それがわかった。

(うち、負けない)

 もっと天翔丸と強くつながりたい、必要とされたい、そばにいろと言われたい……天翔丸が大好きだという気持ちには自信があるから。

 陽炎にも、誰にも、負けたくなかった。

「うち、天翔丸の眷属になる。天翔丸の一番になる」

 陽炎は眷属ではない。天翔丸にとって陽炎は憎い復讐相手で、そんな相手がそばにいることを天翔丸が許可するはずがない。

 だから陽炎より先に、誰よりも先に、天翔丸の一番に。

「絶対なるんや」

 天翔丸のいない夕餉(ゆうげ)にて、琥珀の胸に強い決意が生まれた。

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