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十一 みくびるな

 餓鬼たちの激しい金切り声が遠くで聞こえる。餓鬼の声は新たな餓鬼を呼び寄せ、共喰いは当分終わりそうにない。

 水がさわさわと流れる水路の横で、陽炎は天翔丸を下ろした。ここならば多少の声や物音も水音に消されて聞きつけられることはないだろうが、陽炎は気をゆるめることなく、注意深くあたりを見回して様子をさぐっている。

 怜悧(れいり)なその横顔を、天翔丸は食い入るように凝視した。

(こいつ……)

 次々とおしよせてきた無数の危機を、この男はことごとくのりこえてしまった。確かな武術の腕、多岐にわたる豊富な知識、窮地であっても沈着冷静でいられる度胸、なによりあらゆる状況に即座に対処できるその頭の回転の速さに舌を巻かずにいられない。陽炎が強いことは知っていたつもりだったが、自分が知っていたのはその強さの一端にすぎなかったらしい。

 たった一人で、あの恐ろしい餓鬼の大群をあしらってしまうとは。

(こいつ、すごいっ! かっこいい……っ!!)

 尊敬のまなざしで熱く見つめていると、蒼い瞳がこちらをむいて目が合った。瞬間、天翔丸は我に返った。

(わーーーっ! な、なに考えてんだよ俺っっ! いまのなし! とり消し!)

 復讐相手を尊敬してしまうとはなんたる不覚。自分の頭をごんごん叩いて心の失言を打ち消していると、陽炎が鋭い声でつめよってきた。

「あの燐火はどういうことですか? なぜあなたが燐火を使役していたのですか?」

「へ? 燐火?」

 一瞬なんのことかわからなかったが、ああ、と天翔丸は思いだした。燐火を明かり代わりにして餓鬼から逃げていたところを、陽炎に見られていた。

「あの燐火をどこで手に入れたのですか」

 燐火は八雲からもらったものである。だがそれを言うと面倒なことになりそうだ。そういえば燐火を渡されたとき「陽炎の前では出すなよ」と釘を刺されていた。

 天翔丸は嘘を一瞬で考え、それを口にした。

「道端で拾った」

 問いつめられてもこれで押し通してやろうと心の中で身構える。

 怪しんでいるのだろう、蒼い目が鋭く見据えてきた。対抗してにらみ返していると、陽炎は緊迫した声で言った。

「自分が何をしていたのか、わかっていますか?」

「何って、暗くて道がよく見えなかったから、燐火を明かり代わりに使ってただけだ」

「そうやって、あなたは燐火を虐待した」

 え、と天翔丸の口から力のない声がこぼれでた。

「燐火は死者の魂です。死して肉体をぬけでた燐火はしばらくこの世を漂ったのちにあの世へと旅立ちます。それを掌に封じるという行為は、燐火をこの世にしばりつけて輪廻からはずす悪行です。あなたは、死者の魂があの世へ逝くのを阻んでいた」

 天翔丸は口をぽかんと開けたまま呆然とした。冗談だろ、と思ったが、この男が冗談など言うはずもない。その厳しい表情が事の真実と重大さを示している。

 胸が一気に冷えるのを感じた。

「お、俺……俺、そんなつもりは……っ!」

「そんなつもりはなくとも、あなたがやっていたのはそういうことですよ」

「でも、八雲は!」

 思わず言って、あわてて口を押さえる。だが遅かった。

 その一言で陽炎はすべてを察したようだった。

「いいですか、天翔丸。何度も言っていますが、あなたと八雲では立場が違います。あの男には護るものも責任ある役目もなく、どんな非道な行いをしたとしても己がその罪科を背負えばいいだけのこと。ですがあなたはこれから多くのものたちの上に立つ山の主です。尊敬されなければならない主たるものが、さまよっている魂をいたぶるような残虐な行為をしてはいけません」

「残……虐?」

「滅ぼしの剣の使い手であるあなたが無力な燐火を身に憑かせて使役する、誰がどう見ても、強者が弱者を虐げているとしか見えません」

 天翔丸は激しく動揺した。

 八雲は何も言わなかった。燐火を使うことがどういうことかなんて教えてくれなかった。

「そ、そんな……そんなこと、俺は知らなかったんだ! 本当だっ!」

「年端のいかない幼子(おさなご)や無力な弱者ならば、知らないと言えばあるいは罪が軽減されるかもしれません。情状酌量の余地はあります。でもあなたはもう幼子ではないし、弱者でもない。知らないでは許されない、無知なことが責められる、あなたはそういう立場にあります。あなたのしたことは許されざる卑劣な犯罪行為です。犯罪者と糾弾されても言い逃れはできません」

 ダンッ!

 天翔丸は拳を思いきり地面にたたきつけ、猛然と反論した。

「悪気は、なかった! 虐げるつもりも! 燐火は夜道を歩くのに便利だって言われたからもらったんだ! それだけだ! 知らないことが許されないなんて言われたって、知らないもんは知らない! 俺にどうしろっていうんだよ!? 暗闇の中で燐火を捨てて餓鬼に喰われた方が良かったっていうのか!?」

「そうではありません。何をするにも慎重に、事の善し悪しをしっかりと考えてから」

「考える余裕なんかねえよ! 必死だったんだから!」

 本当に、必死だった。阿闍梨に問答無用で襲われたと思ったら、突然現れた初対面の陰陽師に妙な術をかけられ、気がついたら不気味な場所に一人きり。いくら歩いても出口は見つからず、恐ろしい餓鬼の群に追いかけられ、恐くて、燐火の明かりにすがるようにしながら懸命に逃げていただけなのに、どうして犯罪者呼ばわりされなければならないのか。

「俺は……俺は、おまえみたいに物知りじゃないし、頭も回らないし、強くもねえよ。どう逆立ちしたってあんなふうに戦えねえよ。でも俺なりにがんばったんだよ! 精一杯やったんだよ! なのに……なんだよっ!?」

「声をおさえなさい。また餓鬼がーー」

「うるさいっ!!」

 天翔丸は拳を震わせながら、陽炎をにらみすえた。

「おまえはいつもこうだ。俺を責めて……なじって! 結局、おまえは俺が気にくわないんだ! 何をしたって不満なんだっ!」

 陽炎が口をつぐんだ。いつもなら即座に冷たい言葉を返してくるのに、なぜか困ったように考えて言葉を探しているようだった。

 煮え切らない反応に天翔丸はいらだった。

 なにをいまさら言い繕おうとしているのか、はっきり「そうだ」と言えばいいのに。

「不満なのはおまえだけじゃねえんだよ! 俺だって、俺が不満なんだよ!! 武術はちっとも上達しないし七星だって思うように使えない、ぜんぜん強くなれない俺に、俺が一番腹立ってんだよ!」

 自分の吐き出す言葉でさらに気が昂り、頭に血がのぼって天翔丸の顔を紅潮させた。心の中に(おり)のようにたまっていた感情が決壊し、噴きだす怒りが自分でも止められない。

「あぁ、俺は無知だよ! 燐火のことなんか何も知らないし、阿闍梨にだまされてることも知らずに、呪符を護符だと信じて毎日大事に持ってたよ。悪かったな、こんな大莫迦で!」

「天翔ーー」

「なんで俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ!? なんで都に来ただけでよってたかって襲われなきゃならないんだ!? 気配が人間じゃないのがいけないのか!? 髪が赤いのが悪いのか!? 好きでこんなふうになったんじゃないのに!」

 何もかもが理不尽だった。

 鞍馬天狗になどなりたくないし、戦いたくもない。望んでいたのはつつましやかな暮らしだった。都で笛を吹きながら、母と静かに暮らしていけたらそれでよかった。

 だが現実はーー。

 心が荒れ狂った。引き裂かれるような胸の痛みを消したくて、天翔丸は自分の髪をかきむしり、憎々しげに引っぱった。長い髪を結わえていた紐がほどけ、ちぎれたり抜けたりした髪がばらばらと落ちた。

「天翔丸、何を!?」

「こんな髪だから……!」

 阿闍梨が言っていた、凶々しい赤髪だと。この血のような髪が物怪の証だというのなら、全部引きちぎってしまいたかった。

 さらに引きちぎろうと髪に手をかけたが、両手を陽炎につかまれた。

「やめなさい!」

「さわるなよ! 離せっ、離せえぇっ!」

 暴れて抵抗したが、陽炎にあっさり地面におさえつけられて自傷行為は封じられてしまった。天翔丸はざんばらになった赤髪の間から手負いの獣のような荒んだ目を光らせ、牙を剥くようにしてうなった。

「おまえの目論みは大成功だ。あぁ、よくわかったよ。都に俺の居場所はない。帰る場所なんて、もうどこにもないんだ」

「あります。あなたには鞍馬山が」

「山にいたって、初めて会った天狗たちにいきなり襲われたじゃねえか! どこにいたって俺は疎まれる。俺が天狗だと? ふざけんな! 天狗ならなんで俺には翼がないんだ!? なんで仲間のはずの天狗から人間だと蔑まれ、翼がないと莫迦にされるんだ!? これが……こんなのが、俺の宿命なのかっ!?」

 ふいに、強い孤独を感じた。

 人間から見ても天狗から見ても自分は異端だ。忌まれ、憎まれる存在。

 孤独に胸が絞めつけられた。無性に腹が立って、くやしくて、情けなくて、みじめで……すごく悲しい。天翔丸はたまらず目にこみあげてきたものを怒りに変えて、陽炎にぶつけた。

「どうせ俺は嫌われ者だよ! 弱いし、莫迦だし、無能だし……最低だよ!! おまえだってそう思ってんだろ、俺が必要だとか言いながら、腹ん中じゃ俺にうんざりしてるんだろ!?」

「ーーうんざりなど、していません!!」

 突然、陽炎が声をはりあげた。

 目の前でいきなり大声で言い返されて、天翔丸は面食らった。

 陽炎は天翔丸を引っぱり起こして座らせると、膝をつきあわせてまくしたてた。

「なぜ私があなたにうんざりしなきゃならないんですか。なぜ不満に思っているなどと決めつけるんですか。そんなこと一言も言っていないし、うんざりしたり不満に思ったりする理由など何もないじゃないですか。私はあなたを責めたのではなく、燐火を使えば悪く思われてしまうということを知ってほしかったのです。あなたに悪気がないことなどわかっています。悪いのはあなたに燐火を渡した八雲です。そうでしょう!?」

「そ、そうか?」

「そうです! あなたはみじんも悪くありません! でも事情を知らない者が燐火を使役するあなたを見たら、それだけで犯罪者だと思われてしまうのです。知らなかったことや悪気なくやったことで責められ、悪し様に言われるなんて、くやしいでしょう!?」

 言いながら、陽炎の方がくやしそうに顔をしかめた。

「なんと訴えても聞き入れられず、一方的に襲われ、理不尽に思う気持ちはわかります。でもそれはあなたが悪いのではなく、人間ではないというだけで排除しようとする阿闍梨たちが横暴なのです。見かけや(しゅ)の違いだけで善悪を決めつけるような愚か者たちの言い分など聞く必要はありません、聞き流しなさい! くだらない愚見をとりたてて自分を傷つけるなんて、もってのほかです! 赤い髪の何が悪いんですか。髪が何色でも、人間でなくても、あなたはあなたでしょう。後ろ暗いことなど何もないのですから、正々堂々と胸をはっていればいいんです。それからーー」

 餓鬼の大群に追われても息一つ乱さなかった男が息を切らし、ひと呼吸してさらにつづける。

「それから、あなたは莫迦などではありません。無能だなんてとんでもない。いままであなたに必要な知識や技術を教授する師がいなかっただけのこと。ただそれだけです。少し前まで剣のにぎり方すら知らなかったのに、おどろくべき速さで上達し、剣技はすでに練達の域に達しつつある。あなたには武術の才能があります。強い神通力だってあります。翼がないくらいがなんですか! これから生えてくるのかもしれないし、たとえ生えてこなくてもいいじゃないですか。飛べなくたって、致命的な弱点がなくていいじゃないですか。他山の天狗が何と蔑もうと、あなたは正真正銘の鞍馬天狗です。この世でただ一狗の尊い守護天狗です。ですから、あなたが自分を最低などと卑下(ひげ)する根拠は、まったくありませんっ!!」

 陽炎の熱弁はあたりいっぱいに響きわたり、長く余韻を残した。

 天翔丸は目をぱちくりとし、首をかしげた。

(えーっとぉ…………あれ?)

 いつの間にか話の道筋が妙な方向に進んでいる。

 陽炎がはっと我に返った。あわてて自分の口をふさいであたりを見回し、餓鬼が来ていないことを確認すると、ちらりとこちらを見て気まずそうに顔をそらした。

 天翔丸はそんな陽炎の顔をまじまじと見た。

(こいつ……ひょっとして、俺を励まそうとしたのかな?)

 言われたことをまとめると、たぶんそういうことなのだろう。

 この冷酷非情な男が励ましてくるとはおどろきだ。かっかと熱く息巻く姿も意外や意外。しかもおかしなことに、人を励ましておいてなぜか気まずそうにしている。

(……変な奴)

 世にもめずらしい陽炎の姿におどろくあまり、荒れていた気持ちも、孤独も、全部ふっとんで消えてしまっていた。

 重くない沈黙がしばし流れた後、陽炎がいつもの無感情な声でそれを破った。

「自分を卑下することはありませんが、あなたは多くのことを学ぶ必要があります。あれの他に、まだ燐火をもっていますか?」

 天翔丸は両手をにぎりこんだ。手の中にまだ二つの燐火をもっている。

「あなたは燐火についてどれだけのことを知っていますか?」

 冷たい口調ではなかった。静かな問いかけにうながされ、天翔丸は答えた。

「燐火は……死霊の一種だろ」

「そうです。死したものの魂です。では、燐火があなたの手の中に棲むことをよしとしていると思いますか?」

「……そんなの知るかよ。燐火がどう思っているかなんて」

「想像してください。あなたの手の中に捕らわれ、あなたが必要とするときだけ呼びだされ、用がすめばまた閉じこめられる。そこに一切の自由はない。そうやって強制的に使役されることを望むものがいると思いますか?」

 天翔丸ははっとした。

 使役などと大げさなことをしている意識はなく、明かりが欲しいときに掌から出し、蹴鞠(けまり)を転がすような気軽な感覚で使っていた。だが言われてみれば。燐火が逆らうことも言葉を発することもなかったので気づかなかったが、元は生きていたものの魂なのだから心や意志があってしかるべきだ。

「相手が望んであなたに仕えているものならいいのです。でも燐火がそれを望むことはまずありえません」

「どうして?」

「燐火が自ら誰かに仕えるなどということは不可能なんです。言葉を発することもできず、己の意志を示す力すらないのですから。抵抗することもできず、捕われたら逃げようがない。ただあなたの手の中でもがくだけ」

 天翔丸はうつむいて自分の手を見つめた。陽炎の言っていることが真実なら、燐火は弱者に他ならない。それを閉じこめていたこの掌は、燐火にとって牢獄そのもの。

「燐火を解放してあげてください」

 強制でも命令でもなく、静かなうながしだった。

 天翔丸はにぎりこんでいた掌をひろげた。

「燐火、出ろ」

 出てきた二つの魂にむけて、陽炎は霊符を放ちながら言った。

「死に還れ」

 霊力にふれた燐火は一瞬火の粉のように舞い、宙にとけるように消えた。

「死物を見つけたら、死に還してやるのが慈悲です。死後もこの世をさまようのは不幸なことですから。早くあの世へと送りだし、その魂がまた生まれ変わることを祈る、それが弔うということです」

 陽炎は燐火の消えた方をむき、目を閉じて黙祷した。

 天翔丸は小さく息をついた。

(うまく言いくるめられたのかもしれないな)

 陽炎の話がすべて真実だという確証はない。八雲のやの字でも嫌いそうな男だから、八雲から与えられた燐火を始末したかっただけかもしれない。正直、燐火がないとすごく困る。自分は陽炎のように夜目がきかないから、夜道を歩くときはまたいちいち松明を灯さなければならず、かなり不便になるだろう。

 でも、これでいいと思った。黙祷する陽炎を見てそう思えた。

 天翔丸は陽炎に習って目をとじ、心の中で燐火に詫びた。

(ごめんな……あの世へ逝って、また生まれ変わってこいよ)

 黙祷を終えて目をあけると、陽炎が神妙な顔で念を押してきた。

「主たるもの、ただ強い力をもつだけでなく、その精神は誇り高くあらねばなりません。格下の弱者を力づくで従える、それは無慈悲な暴君のすることです。七星という最強の神器をもっているからこそ、弱きものをいたわる慈悲の心を忘れないでください」

「……おまえ、勘違いしてないか?」

 天翔丸は不機嫌な面持ちで陽炎を見返した。

「言っとくけどな、俺は立派な主になりたいなんてこれっぽっちも思ってないぞ。鞍馬天狗になるとは言ったが、それはおまえを討つだめだ。鞍馬山がどうなろうと俺の知ったことか。というか、俺が滅ぼすって言ってんだろうが」

「ですが現実、いま、あなたは鞍馬の主です」

「主でも、そうじゃなくても」

 天翔丸は勘気にひらめく瞳で陽炎をにらみすえた。

「俺は弱いものをいたぶるような卑劣漢じゃない。相手が弱者だとわかれば剣はむけないし、虐げることもしない。やれと脅されたってやるもんか。おまえにわざわざ言われるまでもねえよ。みくびるな」

 その言葉に対する陽炎の返答はなかった。何も言わず、けれど何か言いたげに蒼い瞳がゆれている。

「なんだよ、まだ文句があるのか?」

「……いえ……」

 陽炎が目をそらしてつぶやいた。

 その様子がなんだかいつもと違うような気がして、天翔丸はうつむいている陽炎の顔を覗きこもうとかがみこむ。

 が、それよりも先に陽炎が顔をあげ、いつもの無表情で天翔丸の左腕をつかんだ。

「な、なんだよ!?」

「傷の手当てを」

 餓鬼の牙がかすって左上腕が傷ついていたのを忘れていたが、思いだしたとたんじくじくと痛みだした。

 陽炎は懐から小さな木の器をとりだし、その中にある薬を天翔丸の傷に丁寧に塗りこんだ。いままでにも傷を負ったときこの薬を何度かぬられたことがあるが、やたらとよく効く薬で、ひとぬりしただけで腕の傷は跡形もなくきれいに消えて治ってしまった。

 手当てを終えると、陽炎は一息ついて言った。

「疲れているでしょう。少し眠りなさい」

「こんなところで寝ろってのか? また餓鬼が来るかもしれないのに」

「私が見張っています」

 天翔丸は心の中でうなった。(しゃく)なことだが陽炎の指摘どおり、心の底から身体の芯から疲労困憊で、ひと眠りして休みたいところである。だが復讐相手に見張りをまかせて眠るというのはいかがなものだろうか。

 そんな天翔丸の抵抗を察したように、陽炎が言葉をつけ加えた。

「奇門遁甲から脱出するには七星の力が必要です。あなたが回復しなければ、私もここから出られません」

 なるほど、と思った。一方的に護られるのには抵抗があるが、互いの力を利用しあうと思えば。

「ここから出るためだ。寝てやるよ。しっかり見張ってろよな」

 偉そうに言いつけて、天翔丸はそばの塀にもたれて膝をかかえた。

 目を閉じると、先ほどの息巻く陽炎の顔がまぶたに浮かんだ。ぜんぜん似合わない励ましの言葉は妙に耳にこびりついている。

(あれで励ましたつもりかよ)

 根本的に励まし方が間違っている。こっちは好きこのんで鞍馬天狗をやっているわけじゃないのに、尊い守護天狗などと言われて喜ぶわけがないだろう。

(ま、しょせん陽炎だしな)

 復讐相手に何を言われたところで、励まされることなどありはしないのだ。そう……気持ちがすっきりしたのは思いきり怒鳴って鬱憤を吐き出せたからであって、断じて励まされたからではないのだ。

 いつまでも陽炎のことを考えているのは莫迦らしいと、天翔丸は膝に顔をうずめて寝にかかった。疲れきっていたからすぐに眠れると思ったが、寒さがじわじわと身にしみて邪魔をする。

 小さく震えて身を縮めたとき、ふいに寒さが消えた。

 何か温かいものに身体を包まれ、心地よいぬくみは眠気を呼び、全身にはりつめていた緊張を溶かしていく。

(あぁ、そういえば……)

 うとうとしながら、陽炎の言葉で一つうれしいことを発見した。

(俺……武術、上達してたんだぁ……)

 天翔丸はにんまりして、ぬくみ吸いこまれるように眠りに落ちていった。


 陽炎はよりかかってきた重さを胸と腕で包みこむように受けとめた。天翔丸は早くも寝息をたてている。その手をとりあげ、掌をふさぐようにしてにぎった。

(おぞましい。鞍馬天狗の手に燐火が憑いていたなんて……)

 燐火に囲まれて走っている天翔丸を見つけたとき、ぞっとした。青白い死火に照らされる顔がまるであの世へおもむく亡者のように見えて、息が止まりそうだった。

 微弱とはいえ、燐火もれっきとした死物である。

 守護天狗が死物をはべらせるなどとんでもないことだ。どんな言い訳もきかない。もし天狗一族のものに見られでもしたら一生軽蔑されるだろう。

 燐火がどういうものか知らなかったのは仕方がない。問題は、よく知りもしないものを体内に入れて使役していたことだ。こんな危険なことはない。

 死物が身に憑けば、体内から死気を放たれて生気が衰え、寿命を縮めることになる。天狗は生命力が強く寿命の長い生物であるから、微弱な燐火を身に憑けてもさほど支障はないのかもしれないが、それでも長い時を重ねれば命とりになる可能性も否定できない。

 陽炎は奥歯をぎりと噛みしめた。

 天翔丸のうかつなところは確かに問題だが、このおぞましい悪事の根源は別にある。

(あの男、何をたくらんでいるのか)

 天翔丸の無知につけこんで燐火を憑かせた鞍馬寺の住職。

 いやに天翔丸にちょっかいを出してくる。いっそ山から追いだしてしまえればいいのだが、いまの状態でそれはできない。主は降山したがその力はまだまだ未熟であるし、眷属もおらず、山を護る力は皆無にひとしい。忌々しいことだが、鞍馬山を護るにはあの男の結界術が必要不可欠だった。

(八雲を近づかせないようにしなければ)

 対策を講じはじめようとしたとき、天翔丸の胸元からのんびりとした声が湧いた。

「おぉ、陽炎、久しぶりじゃのう。おぬしとこうして顔を合わすのは」

 目覚めた雲外鏡がかわいい孫に会った祖父のように、うれしそうに話しかけてきた。

 鞍馬天狗の供を頼んでからというもの、いつも近くにいるものの顔を合わせてゆっくり話す機会はほとんどない。陽炎は祖父をいたわる孫のように雲外鏡の背面に手をそえて起こし、気遣わしく声をかけた。

「雲外鏡、身体の具合はどうだ?」

「すこぶるいいぞい。最近はひびが痛むこともない。鞍馬天狗のそばでその神通力を浴びているおかげじゃろうな、だんだんと目覚めの回数が増えてきたわい。目覚めの気分もいいぞ」

「そうか。なによりだ」

 雲外鏡が陽炎の顔をじっと見て、ふふっと笑みをこぼした。

「なんだ?」

「陽炎、おぬし、良いことがあったじゃろ? やわらかないい目をしておるぞ」

 思いがけない指摘に陽炎は戸惑った。

 これから天翔丸に武術だけでなく多くの知識を教えこんでいかなければならないし、八雲への対策も考えなければならず、問題は山積している。……気をゆるめている暇などないのに。

「天翔丸と何があったんじゃ?」

 とっさに陽炎は否定しようとしたが、すぐに無駄なことだと悟ってやめた。付き合いの長い雲外鏡にへたな言い訳は通じないし、ごまかすことに意味もない。

 沈黙に水音が静かに流れる。

 その水音にまぎれてしまうような小さな声で、陽炎は胸中を吐露した。

「天翔丸が言ったんだ……私に、『みくびるな』と」

 強い力をもつものは(おご)り高ぶり、弱いものを力で屈伏させる傾向がある。だが天翔丸は力強く否定した。俺は弱いものをいたぶるような卑劣漢じゃない、と。

「予想外だった。天翔丸の口から、あのような言葉が聞けるとは思わなかった……」

 武術の腕を磨くには修行をして鍛えればいい。

 知識も順に教えていけば頭に入っていくだろう。

 だが精神的なことを教えるのは難しい。どんなに教え諭しても、相手にそれを受け入れられる器量がなければなかなか身につかないからだ。どう教えていけばいいものか、悩んでいたのだが。

「主にふさわしい、慈悲深い心と誇り高い精神を天翔丸はもっている。生来のものなのか、母親の教育によるものなのかわからないが……得難き資質だと思う」

「そうか。それがわかって、うれしかったんじゃな?」

 陽炎は答えることをせず、ただ天翔丸の寝顔を見つめた。その瞳の表情はやわらかい。

 雲外鏡は破顔した。

「よかったのう」

 我が事のようによろこびながら、鏡は再び眠りに落ちていった。

 陽炎は天翔丸の頭を腕で支えながら、その長い髪にそっと指をさしいれた。餓鬼たちにさんざん引っぱられ、本人にも乱暴に扱われてくしゃくしゃにからまっていたが、指で何度か()いているうちにきれいにほどけた。

 真紅の髪は暗闇の中でよく映える。

(どこが凶々しいものか)

 これほど鮮烈で美しい髪が他にあるだろうか。

 その髪におずおずと頬を寄せると、張りつめていた緊張がゆるんで肩に入っていた力がぬけた。奇門遁甲の中ではぐれて行方を見失ったときはあせったが、いまこうして腕の中にいる。幸い、燐火も大事にいたる前にとり祓うことができた。

 陽炎は噛みしめるようにつぶやいた。

「……よかった……」

 やわらかな髪の感触、温かな身体のぬくみ、健やかな寝息……それらで鞍馬天狗の無事をしみじみと実感し、陽炎は安堵の息をついた。


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