十 鬼ごっこ
いったいどれくらい歩きつづけただろうか。
天翔丸は疲労の色濃い顔で、重い足を引きずるようにして前進していた。いくら歩いても母のいる邸にたどりつけなかった。そこへ通じる道が、どうしても見つからない。
疲れきって道端に座りこむと、重い溜息がこぼれた。
(どうしてなんだろう)
やっとの思いで都に来たのに。母のすぐ近くまで来ているはずなのに、なぜ会えないのだろうか。歩けば歩くほど、想えば想うほど、母との距離がますます離れていくような気がした。
「母上……」
声に出してぽつりとつぶやくと、衝動が胸につきあがってきた。
会いたい。会いたい。会いたくて、たまらない。
「母上えぇー! はーはーうーえぇーーーーっっ!」
叫んだ声はむなしくこだまして消えた。返事がかえってこないことに母との距離を感じて心がますます落ちこんでいく。
天翔丸は目の端ににじんだ涙を袖でぐいっとぬぐい、懐から笛をとりだした。名器音羽を口元に運び、目を閉じて息を吹きこんだ。
胸を刺す感情を吐きだしながら、あたりいっぱいに音を響かせた。
一曲を吹き終わり長く尾をひく余韻が消えると、天翔丸は目をあけた。そして笛を懐にしまい、立ち上がって再び歩きだした。
(あきらめるもんか)
道はどこかにつながっているもの、必ず通じているはずだ。あきらめずに歩きつづければきっと母の元へたどりつく。
いま吹いた曲は、母と二人で作った思い出の曲。息子がいなければ存在し得ない曲である。
これを母に聴かせれば、息子のことを覚えていなくても何か感じてもらえるかもしれない。母の心を動かすことができれば、もしかしたら記憶が呼び起こされて甦ることがあるかもしれない。陽炎は「消えた記憶が甦ることはありません」と言っていたが、鞍馬天狗を手元におくための嘘という可能性もある。そうだーーきっとそうに違いない。
天翔丸は希望をいだいて心を奮い立たせ、前進した。
ふと見上げると、血のような色をした夕焼け空に月が浮かんでいた。少し欠けた十六夜の月がみるみるふくらみ、まん丸な月となる。美しい満月であるが、天翔丸にとってはこれほど不吉なものはない。
(狂骨なんか来ないだろうな……)
びくびくしながら歩いていると、かすかな物音が聞こえてきた。
たしたしと地面を叩くような音が前方からやってくる。足音のように聞こえるが、人の足音にしてはいやに軽い。
赤い夕闇から何かが近づいてくる。人ではない、何かが。
七星の柄に手をかけて身構えていると、やがてそれは現れた。
初めて見る生物だった。
背丈は天翔丸の膝ほどまでしかない。頭皮にはえている髪はがさついて枯れ草のよう、全身が土気色で手足はがりがりにやせ細って骨と皮だけ、腹だけがぽっこりと出ている。目のある位置はつぶれて窪んでおり、鼻のある位置に鼻らしきものはあるが穴はふさがっており、顔の両脇に大きく開いた耳がぴんと立っている。横に裂けた大きな口にはぎざぎざの鋭い牙が並び、その口でキーと猿のような声で鳴いた。声も形もどことなく猿を思わせるが、その正体を如実に語るものが額から突き出ている。天を突くようにのびている一本の尖った角。
それは、小さな鬼だった。
たしたしと歩いてきた小鬼は天翔丸の前で立ち止まり、大きな耳をぴくぴくと動かしている。
天翔丸は七星をぬこうとしたが、ふと思い直した。
(見かけで決めつけるのは良くないな)
恐ろしい姿をしているものが必ずしもそうだとは限らない。妖怪にだって琥珀のようなかわいい者もいるし、怨霊にだって音羽を作った立派でかっこいい者もいる。話してみれば、案外話のわかる相手かもしれない。
天翔丸は笑顔を引きつらせながらも友好的に声をかけた。
「よ、よう。おまえも迷子か?」
瞬間、小鬼がぐわっと牙を剥き、いきなりとびかかってきた。
「ーー!?」
天翔丸は反射で身をかがめてかわした。
ごりりりりっっ。
背後で脳に響くようなすごい音がし、ふりむいた天翔丸は瞠目した。勢いあまった小鬼は築地塀に牙をつき刺し、まるで豆腐でも食べるようにたやすく堅い壁をかじりとっていた。壁にはくっきりと歯形がついている。
あんなものに噛まれたらひとたまりもない。
「う……うわああああああ〜〜〜っ!」
天翔丸は叫びながら逃げだした。
小鬼は口にはいっていた壁の残骸をぺっと吐きだし、走って追いかけてきた。
「ついてくるなよ!」
キーと鳴いたのは返事だったのか、嘲笑だったのか。訴えを無視して小鬼は追いかけてきた。ふりむきながら走る天翔丸の目に、悪化する状況が映った。
通りすぎた路地からもう一匹、小鬼がぬっと現れた。別の路地からも一匹、また一匹。小鬼たちが次々と現れ、その数を増やして追っ手に加わってくる。無数の小鬼が牙を打ち鳴らしながら、群となって追いかけてきた。
「なんで追いかけてくるんだよ!? 来るなっての!」
叫ぶたびに、小鬼の数が増えていく。天翔丸は足を速め、全力で走った。
小鬼たちの走る速さは人が小走りするくらいで、全力で走れば天翔丸の方が断然速い。天翔丸は小鬼たちを引き離して角を曲がり、近くにあった井戸の陰に身をかがめ、息をひそめて隠れた。
やってきた小鬼たちは走る足を止め、大きな耳を動かしながら消えた獲物を探しはじめた。
(行け! 早く行っちまえ!)
心の中で訴えたが、小鬼たちはしつこく探しつづけなかなか去らない。
頭上の満月がみるみる大きくなり、強い月光が影を濃くしていく。天翔丸は自分が隠れている井戸の影を見て、ぎくりとした。
一瞬影が波打ったかと思ったら、そこから土気色の手がにゅっとのび、小鬼が這い出てきた。
「うわあっ!?」
声を出すと同時に、影から産まれた小鬼がとびかかってきた。その牙が左の上腕をかすり、厚手の衣をたやすく引き裂く。腕に痛みが走り、血がつたった。
天翔丸は反射で七星をぬきはらい、襲いかかってきた小鬼にふりおろした。神通力をこめた七星にかかり小鬼は瞬時に消え失せた。
しかし危機は去らずさらに高まる。他の小鬼たちに気づかれ、群が一斉にこちらにむかって走ってきた。
天翔丸は築地塀を背にして自分の背後を守り、足元を確認しながら土を踏みしめ七星の柄をにぎりしめ、神通力をこめて襲いくる小鬼たちを次々と斬った。
(一匹、二匹! 三……四、五!……六!)
頭の中で数えながら斬っていく。十五匹までは数えた。それから先は数える余裕もなくなり、息を切らしながらただ剣をふるい、無我夢中で小鬼を斬りつづけた。
手近にきていた小鬼をひとしきり消滅させたとき、身体にどっと疲労がのしかかってきた。
(まずい)
鞍馬山の宝剣七星は神通力をこめればどんなものも消し滅ぼすことができる、陽炎いわく最強の剣である。しかし神通力の使用には重い疲労が伴い、何度もつづけて使うとこちらの体力を消耗してしまう。
影から新たな小鬼が這い出てきて、こちらへむかってくるのが見えた。
(逃げるしかない!)
天翔丸は七星を鞘に入れ、両腕をふって走りだした。
大きな満月が合図のようだった。月光によってできる塀の影、家の影、木の影、あらゆる影から小鬼たちがうじゃうじゃと出てくる。
この都に似た世界は、どうやら小鬼たちの巣のようだった。
「出口……出口……!」
路地を出て、広い大路を走っていると前方に巨大な門が見えた。天翔丸は満面に喜色を浮かべて叫んだ。
「羅城門!」
都の最南端に位置する正門である。都を訪れる人にとっては入り口であり、都人にとっては出口である巨大な門は大きく開かれていた。門のむこう側は濃い霧がかかっていてよく見えなかったが、ともかくあそこをくぐれば出られるのは間違いない。
(やった、出られる!)
これでこんな変な場所とはおさらばだ。天翔丸は勢いをつけて一気に門を駆けぬけた。
「……え?」
完全に駆けぬけたところで、天翔丸は足を止めた。
なぜか、前方には朱雀大路があった。たったいま走ってきたばかりの道が前にある。それがいったいどういうことなのかすぐには理解できず、ぜえぜえ息を切らしながら立ちすくんだ。後ろをふりかえると、羅城門が空虚な口をあけて建っている。
天翔丸は呆然としながらつぶやいた。
「な……なんで?」
信じられない。理解できない。どう考えても説明がつかない。こんなこと、絶対にあり得ない。
羅城門をくぐって都から出たはずなのに、羅城門をくぐって都へ入っていた。
「なんで出られないんだよぉぉぉぉぉーーーっ!」
心からの叫びが朱雀大路にむなしくこだまし、それを嘲笑うかのように背後からキキキと声がした。小鬼たちが羅城門からこちらへむかって走ってくるのが見えて、天翔丸は再び駆けだした。
焦燥が冷たい汗となって全身をつたう。
いったいどうなっているのか? ここはどこなのか? どうすれば出られるのか? 何もわからない。
「おい、雲外鏡! 起きろ! 起きて説明しろっ!」
答を求めて、天翔丸は胸元の鏡をごんごん叩いた。森羅万象、すべての事象を知っているという鏡ならば答を知っているだろう……たぶん。
だがいくら呼びかけても、叩いてもひねっても鏡は沈黙し、目覚める気配はなかった。
いつもこうだ。肝心なときに起きてくれない。
「この役立たず鏡っ!」
悪態をつきながら天翔丸は走りつづけた。
(こんな鬼ごっこ、ありかよ!?)
なにせ相手は本物の鬼。しかも追いかけてくる鬼は無数で、出口はないときている。
それだけでも十分たちが悪いというのに状況はさらに悪化した。
空にあった満月がみるみる細くなっていき、三日月となる。あたりが夜のように暗くなり、視界が一気に悪くなった。
「はぁ、はぁ、はぁ……うあっ!?」
地面に出ていた木の根に蹴つまずいて、天翔丸は勢いよく転んだ。手と膝がすりむけて血がにじんだが痛がっている間もない。立ち止まれば死に直結する。天翔丸はすぐに立ち上がり、また道を走りだした。
「燐火、出ろ!」
天翔丸の掌から青白い火が二つとびだした。八雲からもらった死霊の魂である。ひんやりとした弱々しい火だが、足元がよく見えないいまはかすかな灯火でもありがたい。天翔丸は燐火で行く手を照らしながら、闇の中を駆けつづけた。
もう全身が汗だくだった。力をふりしぼって足を速めようとしたが、思うように腿があがらなかった。息があがって苦しく、もう体力の限界が近い。
キキキキ、とまた小鬼たちが笑った。こちらが疲労困憊だというのに、なんとも楽しげに追ってくる。疲れが見えているからこそ笑っているのだろう。もうすぐ獲物を喰らえることを喜んでいる。
小鬼の牙に裂かれた腕に赤い血がつたい、痛みが強烈に死を感じさせた。後ろから死がせまる。追いつかれたら、あの牙にかかって間違いなく死ぬ。
(嫌だ……嫌だ、死にたくない!)
天翔丸は懸命に走りつづけていたが、はっと息をのんで足を止めた。
まっすぐ走ってきた道の先が、高い築地塀にふさがれていた。
進める道は二つ。右と左に分かれている。
(岐路だ)
ーーこれよりあなたは岐路にさしかかります。
吉路の言葉が脳裏に響いた。
ーーくれぐれも進む道をお間違えになりませんよう。もし間違えれば、命を落としますよ。
道の太さは同じ。暗くて、どちらも道の先がどうなっているのか、その先に何があるのか見えない。
(どっちだ)
右か、左か。
吉路の忠告が本当なら、選択を間違えたら死ぬ。選ぶのが怖かった。だが選ばずこのまま立ち止まっていたら、小鬼たちに追いつかれ確実に喰われて死ぬ。前進するしかない。右か左か、どちらかに進むしかない。
だがどちらへ?
右か左か。二つの言葉が頭をぐるぐると回る。
後ろからキキキと笑い声がせまってきた。もう、すぐそこまで小鬼たちがせまっている。早くしなければ。道を、選ばなければ。
右か、左かーー生か、死か。
「ええい、こっちだ!」
天翔丸は左の道を選んだ。根拠はない、勘だ。
二、三歩進んで勢いをつけようとしたとき、突然、目の前に現れた人影にぶつかった。
「……わっ!?」
現れた影に一瞬身体をもちあげられて、くるりと向きをかえられた。強引に方向転換させられ、背をおされて、天翔丸は右の道へ走らされた。燐火の青白い明かりに照らされて見えたのは闇のような黒衣、それをまとっている者の横顔には氷炎の模様がある。
「陽炎!」
陽炎は走りながら霊符を放った。
「破魂浄炎ーー死に還れ!」
小鬼に攻撃するかと思いきや、霊符は天翔丸が明かり代わりにしていた燐火を貫いて消しとばした。唯一の明かりが失われて、天翔丸の視界は真っ暗になった。
「なにす……!」
背後でギャッと声が聞こえた。
空で三日月がみるみる膨らんでまた満月になり、強い月光がその光景を天翔丸の目にさらした。
左の道からやってきたのは、さらなる小鬼の群だった。天翔丸を追ってきた小鬼たちとぶつかりあって何匹かひっくり返っている。彼らは合流し、数を増してまた追いかけてきた。
(あのまま左の道を進んでいたら)
挟みうちにあって、完全に逃げ場をなくしていたに違いない。小鬼たちに喰われる自分の姿を想像して、天翔丸はぞっとした。
「こちらへ」
陽炎に導かれ、天翔丸は再び駆けだした。
必死に黒衣の背を追うが、あっという間に遅れて距離があいてしまう。陽炎が速さを落として天翔丸の横に戻った。
「天翔丸、もっと急いで」
「そ、そんなこと言ったって……!」
すでに息は切れに切れて喉もからから、疲労で身体は重く、足はもつれて思うように走れない。天翔丸がもたもたしているうちに先頭の小鬼が追いつき、とびかかってきた。
刹那、陽炎が天翔丸をがばっと抱きあげ、小鬼の牙をかわした。
「お……わぁ!?」
「しっかりつかまりなさい」
有無を言わせずに言って、陽炎は駆けだした。
疾走、ということを天翔丸は体感した。髪が後ろにひっぱられ、全身に空気がたたきつける。ふり落とされないように、天翔丸は陽炎の首に両腕をまわしてつかまった。
陽炎の肩越しに後ろを見ると、小鬼たちがみるみる遠ざかっていくのが見えた。小鬼たちは腕をふり足をあげて懸命に走っているが、陽炎の足の速さにまったくついてこられない。
前方に十字路が見えた。進む道は三つ。
陽炎は右の道を選んでいこうとしたがすぐに止まり、引き返した。右の道から小鬼たちが来るのが見えた。陽炎は急ぎ戻り、左の道へ。だがそちらからも小鬼が群をなして走ってくる。残った直進の道を行こうとしたが、なんとそちらからもキキキと鳴き声がした。三つの進路、そしていま走ってきた背後の道からも小鬼は来た。
天翔丸は再び恐怖に硬直した。もう道が、ない。
十字路の中央で立ち止まっている天翔丸と陽炎にむかって、小鬼たちが一斉にとびかかった。
「うわあああ……っ!!」
天翔丸は目をつむり、陽炎にしがみついた。
陽炎は天翔丸を抱えたまま高く跳躍し、無数の牙をかわした。四方からきた小鬼たちは勢いあまって頭からぶつかり合う。
陽炎は頭上高くにひろがっていた樹木の枝に足をかけ、それを足場にして塀まで跳び、崩れそうな細い塀の上をさらに跳躍した。人ひとりを抱えているとは思えない身軽さで、わずかな足場を利用して小鬼の群を跳び越すと、また道におりて走り出した。
天翔丸が目をあけてほっと息をつくと、陽炎が走りながら注意してきた。
「主たるもの、どんな状況でも目をそらさない。恐くても、悲鳴をあげない」
天翔丸はかっと顔を赤らめた。
「べ、別に俺は恐がってなんか……!」
「黙って呼吸を整えなさい」
ぴしゃりと言われ、天翔丸は心の中でぶつぶつ言いながらも、呼吸を整えることにつとめた。混乱していた頭が陽炎の冷たい声で冷やされて、少し冷静になれた。
跳躍して小鬼の群を跳びこすなど、思いつきもしなかった。
天翔丸にとっての道とは、人間が歩ける道のこと。しかし人間離れした身のこなしをもつ陽炎にとっては、他にいくつも道があるようだった。
だが鬼ごっこはまだ終わっていない。追いかけてくる小鬼たちはその数をさらに増している。
やがて進路に見覚えのある建物が見えてきた。
西寺である。陽炎は開かれている大きな門をくぐり、西寺の境内に駆けこんだ。広い境内には数々の伽藍があり、その一角に空高くそそりたつ五重塔がある。
陽炎は五重塔へむかいながら、またもや天翔丸が思いもしない道を示した。
「上へあがります」
「うえ?……わっ!」
陽炎は五重塔の屋根を足場に上へ上へと跳躍し、塔のてっぺんまで一気にのぼり、そして反り返った屋根に天翔丸をおろした。
天翔丸は屋根瓦に四つん這いになりながら恐る恐る下を見る。
百は下らないだろう小鬼の大群が五重塔をとり囲んでいた。ぞろぞろと蠢くさまは蟻の大群のようである。
この塔にものぼってくるのではと思ったが、小鬼たちに陽炎のような跳躍力はなく、またよじのぼる力もないようだった。のぼってこようと上にむかって跳ねたり、柱にしがみついたりするが、どの小鬼も失敗して地面に転がった。扉をあけて塔の内部からのぼってくるかもと思ったが、それを思いつく知能はないらしい。小鬼たちは塔の回りを右往左往するばかりであった。
どうやらひとまず、安全なところに避難できたようである。
天翔丸は地上で蠢いている小鬼たちを見ながら、陽炎に問いかけた。
「何なんだ、あいつらは?」
「あれは『餓鬼』、地獄に棲む鬼の一種です。あの世のものですから死物、死物には疲労がありません」
疑問がひとつとけた。疲労がない、だから餓鬼は息を切らさずに走りつづけられる。
「餓鬼がいるってことは、ここはまさか……地獄か?」
「いいえ。ーーあれを」
陽炎が指さした方を見ると、朝日がのぼってくるのが見えた。このでたらめな世界に朝というものがあるのかわからないが、朝日のような明るい太陽が闇のむこうから昇ってくる。煌々とした光でこの不可思議な世界の全容が明らかになり、それを目の当たりにした天翔丸は口をあんぐり開けたまま固まってしまった。
碁盤の目のように整備された平安京が眼下に広がっている。だがその向こうには何もなかった。本物の都の周囲には比叡山や愛宕山、巨椋池などがある。しかしこの都は境で地面がすっぱりと切り落とされて、その先はただひたすらに闇があるだけだった。
碁盤のような、ではなく、本当に巨大な碁盤だった。
「な……何なんだここは!?」
「ここは陰陽師の術によって作られた奇門遁甲という結界の中です」
「結界? こんなでかいのが!?」
「私も初めて見ました。昔、書物で読んだことがあります。古代、大陸の王黄帝が神より授かり、軍師諸葛孔明が完成させたと言われている兵法の一種です。星の変化を読みとり、方位の吉兆を判断し、人や軍勢、天候や自然物を最大限に利用し勝利に導いていく。優れた術者はその奇門遁甲を具現化し、一つの世界、結界を造ることができます。ただそれを成すには甚大な霊能力とそれを使いこなす才覚が必要なため、奇門遁甲の術を使える者は長い歴史の中でも数人しかいないとか。半ば伝説と化している秘術です」
「出口はどこだ? どうすれば出られるんだ?」
「奇門遁甲は捕らえたものをその結界内に永久に封じこめるためのものです。書には、出口を見つけるのは不可能だと記されていました」
天翔丸は愕然とした。
脱出不可能。だとしたら、この結界の中で餓鬼の餌食になるしか道はないのか?
「天翔丸、滅ぼしの力を使えますか?」
行き詰まっていた天翔丸の思考をひろげるように陽炎が言った。
「七星ならば、いかなる結界をも斬って破ることができます」
改めて七星のすごさを知ったような気がした。
天翔丸は両手で七星の柄をにぎりしめ、祈るように力をこめた。
だが黒い剣身は少しも光らなかった。すでに体力は限界に近い。まともに走ることもできないのに、神通力を使えるわけがなかった。それでも必死に力をしぼりだそうとしていると、突然、足元がぐらついた。
「うあっ!?」
陽炎に腕をつかまれ引き寄せられ、すんでのところで落下をまぬがれた。
いきなり五重塔が傾きはじめた。
下をのぞきこむようにして見ると、なんと餓鬼たちが塔をかじっていた。鋭い牙で塔の壁や柱をがりごりとすごい音をたてながら猛烈な勢いでかじり、かじりとった土壁や木材を吐き出してはまた牙をたてている。まるで凶暴な白蟻だ。
どうやら五重塔をかじり倒して、てっぺんにいる獲物を落とそうとしているらしい。
「……嘘だろ……?」
常識を越えた事態に天翔丸は頭が真っ白になり、口を開けたまま呆然とした。顔面蒼白になっている天翔丸とは対照的に、陽炎は顔色一つ変えず、きわめて平静な声で言った。
「塔が倒れます。七星をしっかり鞘におさめなさい」
「え?」
「七星を落とさないよう、鞘に」
「あ、うん」
剣を鞘におさめると、また陽炎にひょいっと抱えあげられた。
「しっかりつかまって。舌を噛まないよう歯をくいしばりなさい」
「ん」
どうすればいいかわからなくなっているところで具体的な指示を出されると、反発心はなくなってしまうものらしい。天翔丸は陽炎の指示どおり、その首にしがみつき口をぐっと閉じた。
餓鬼の猛撃に耐えきれず、五重塔が大きく傾いてとうとう根元から折れた。轟音をたてて崩れていく塔と共に、二人も地上へむかって落ちていく。
天翔丸は陽炎にしがみつき、すべてをまかせた。
足場にしている屋根が地面に叩きつけられる直前、その瞬間、陽炎は屋根を蹴って跳躍した。そして宙を回転して落下の勢いを殺し、近くの伽藍の屋根に軽やかに着地した。
轟音と共に五重塔はこっぱみじんに崩壊し、土煙がもうもうとあがってあたり一面にたちこめる。無惨に倒壊した五重塔やそれにまきこまれた餓鬼たちには目もくれず、陽炎は天翔丸の頭から足までひと通り見やり、念のために声をかけた。
「怪我はありませんか?」
「う……うん」
天翔丸はかろうじてうなずき、呆けたように陽炎の顔を見つめた。
地面に激突する直前に屋根を蹴って跳躍する。
理屈ではわかるが、それを実際にできる者がどれだけいるだろうか。陽炎とて翼がないのだから、高いところから落ちればただではすまないだろう。なのになんの躊躇もなく、たった一度きりの失敗の許されない、練習なしのこんな行為を正確にやってのけるとは。
あぜんとしている天翔丸を抱えたまま、陽炎は再び走りだした。
餓鬼たちがまた追いかけてきた。五重塔の倒壊にまきこまれてかなりの数の餓鬼がつぶされたはずだが、それにひるむこともなく追いかけてくるしつこさに陰りはない。餓鬼というのは生前の悪行のために餓鬼道に堕ち、飢えと渇きに苦しみつづけるという亡者だから、獲物を追うのが本能なのかもしれない。
二人が朱雀大路に戻ると、目に見える速さで太陽が沈み、再び大きな満月が空に現れた。そしてまたあちこちの影から新たな餓鬼が這い出てきて、追っ手に加わっていく。
いっこうに減らないばかりかむしろ増えていく餓鬼たちに、天翔丸は奥歯を噛みしめた。
(このままじゃきりがない)
陽炎は健闘している。いったいどんな修行をしているのか、これだけの速さで走りつづけているのに呼吸はほとんど乱れていない。だがその掌にはじっとりと汗がにじみ、首筋の温度もあがってきている。
疲れ知らずの餓鬼とは違うーーこのままでは。
天翔丸は掌にめいっぱい力をこめ、神通力が使えないか試みた。
(七星さえ使えれば)
だがいくらがんばっても己の掌から光は出てこなかった。滅ぼしの力を使えばここから出られるとわかったのに、それができない。
(くそ……くそ!)
すると何を思ったのか、ふいに陽炎は朱雀大路のど真ん中にしゃがみこんで天翔丸をおろした。
「お、おい、何を……?」
「餓鬼をやりすごします。決して動かず、声をたてず。いいですね?」
次の瞬間、天翔丸は黒衣にうもれていた。陽炎に引き寄せられ、その腕と身体に包みこまれるようにして抱きしめられた。
(こんなときに何すんだ〜〜!?)
頭の中でそう叫ぶ自分がいたが、それは声にならなかった。
キキキという声と共に、餓鬼の大群がおしよせてくる。逃げようにも、陽炎にがっちり抱えこまれて身動きができない。動けたとしても、隙間がないほどの数でおしよせる餓鬼たちに対抗できるすべはなく、もう逃げられない。
餓鬼たちが踊るように、来た。
(うわああああっ!)
天翔丸は心の中で絶叫した。
しかし想像したような痛みは襲ってこなかった。
天翔丸は恐る恐る目を開け、目の端でそっとまわりの様子をうかがった。
キキキキと彼らの鳴き声がすぐそばで聞こえ、屍の腐臭のような強烈な体臭が鼻をつく。完全に餓鬼の群に包囲されて隙間もない。
しかし、餓鬼たちは一匹たりとも襲いかかってこなかった。
(な……なんで?)
餓鬼たちは耳をさかんに動かしながら歩きまわり、暗がりで探し物をするように地面や石や草を手当たりしだいにぺたぺたと触っている。間近に獲物がいるのに、なぜかその姿がまったく見えていないようだった。
天翔丸ははっとし、ようやく気がついた。
(そうか)
なぜこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。餓鬼には目がないーー何も見えていないのだ。鼻もふさがっているから匂いを嗅ぐこともできない。だから大きな耳を立てて聴覚のみを頼りに音をたてる獲物を追っているのだ。
呼吸を静め、動かず音をたてなければ、餓鬼は獲物がどこにいるのか認知できなくなる。
(そうとわかれば!)
天翔丸は息を殺し、身体を硬直させた。
鬼ごっこの次は、隠れんぼならぬ根比べである。
餓鬼は獲物が近くにいるということはわかっているらしく、執拗にあたりを手探りで探している。
やがて数匹の手がうずくまっている陽炎を探り当てた。黒衣をつかみめくったり、肩にのぼって顔をぺたぺたとさわったり、黒髪をひっぱったりとやりたい放題である。だが陽炎はまったく動じず、目を閉じて岩のように動かない。
やがて餓鬼の手は天翔丸にものびてきた。身体の大部分は黒衣に覆われていたが、覆いきれない足先やわずかに出ている頭部や髪をざらついた手が無遠慮にさわってくる。すぐ耳元でキイキイという鳴き声が聞こえ、冷たい呼気が首筋に吹きかかり、周囲にたちこめる腐臭に息がつまる。背がぞくぞくとして全身が総毛立った。
(うぅ……う……)
一人だったら、きっと恐怖に耐えきれず悲鳴をあげていただろう。天翔丸は黒衣に顔をうずめ、しがみつきながらじっと耐えた。身体が小刻みに震えだしたが、陽炎が音をたてないように抱きしめる腕にじわりと力をこめて震えを押さえつけてくれたので、なんとか動くのを防げた。
一匹の餓鬼が天翔丸の髪をつかんでひっぱりだした。さらさらした長いものが気に入ったのか、ぐいぐい引っぱり、キーキーと楽しげな声をあげる。他の餓鬼たちもそれに加わって髪で綱引きをはじめた。
引っぱられる方はたまらない。
(痛たたたっ! 痛い、痛い、痛ーーいっっ!)
天翔丸は心で叫びながら歯を食いしばって耐えていたが、髪を強く引っぱられた拍子に首が後ろにがくっとのけぞった。
「……うっ……!」
喉からおしだされた息が小さな声となって口からもれた瞬間、餓鬼たちの鳴き声がぴたりと止まった。群が一斉に踏みだし、身をのりだし、耳をさかんに動かして音の発生源を探りだす。わずかな声を鋭い聴覚は聞き逃さなかったが、一瞬の小さな声では確信が得られなかったのか、無数の手が天翔丸の髪を引っぱり、衣を引っぱり、もう一度声をあげさせようとさかんにさわってくる。
天翔丸は首をのけぞらせたまま歯を食いしばった。周囲は餓鬼たちに幾重にも包囲されている。もう一度、わずかでも動いたり声をもらしたりしようものなら一巻の終わりだ。
陽炎は天翔丸のばくばくと鳴る鼓動を餓鬼に聞かれないよう、その胸を己の胸に押しつけてじっとこらえる。
すると餓鬼たちは、今度は陽炎の髪や衣をつかんで引っぱりはじめた。どうやら声をたてたものが何かに包まれていることを知ったらしい。その包みをーー陽炎を天翔丸から引きはがそうとしてきた。
天翔丸は必死に陽炎にしがみつき、陽炎も天翔丸を奪われまいと腕に力をこめる。
だが相手はなりは小さいとはいえ群である。いくら陽炎に力があっても、これだけの数に引っぱられては耐えきれない。餓鬼たちは陽炎の指を一本一本つかんではがし、同時に別の餓鬼たちが天翔丸の髪や衣を引っぱった。天翔丸の身体が、ずっ、ずっ、と陽炎の腕からぬけていく。
(も……もう……駄目だぁ……!)
ずるっ。
天翔丸は陽炎の腕の中から引っぱりだされ、強く尻餅をついた拍子に思いきり声が出た。
「うあっ!」
餓鬼の群が、一斉にぐわっと牙を剥いた。
瞬間、陽炎が動いた。利き腕をつかんでいた餓鬼たちの手を力づくで引きはがし、鞘から錫杖をぬいて声をはりあげる。
「変幻!」
銀の錫杖が瞬時に長い太刀へと形を変えた。陽炎はその刃を一閃し、まず天翔丸に手をかけていた餓鬼たちの腕を斬りおとした。そして次の一振りで己に群がる餓鬼を斬りのける。さらにとびかかってきた餓鬼の足を断ち、耳を落とし、腹を裂く。電光石火の剣戟で、陽炎は数十匹もの餓鬼をなで斬りにした。
「ギギャアアア!」
「ヒギィィィィ!」
斬られた餓鬼たちが身の毛もよだつような叫び声をあげながら、地面をごろごろと転げのたうち回る。
すると他の餓鬼たちの牙が天翔丸から逸れ、痛みに絶叫する仲間にむかった。
餓鬼にはより大きな音をだすものを襲う習性がある。陽炎はその知識をもとに数十匹の餓鬼を殺さずに斬って叫ばせ、他の餓鬼たちの意識をそちらにむけさせた。
凄絶な共喰いがはじまった。肉を喰いちぎる音、骨を噛み砕く音、それに絶叫と悲鳴がいりまじる。阿鼻叫喚、地獄に棲むという餓鬼たちが自ら地獄絵図を描いていた。
そのすきに陽炎は天翔丸を抱えあげて軽やかに跳躍していく。足音は喰い争う餓鬼たちの怒号と叫声にかき消され、去っていく二人に気づく餓鬼はいなかった。