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九 かくまう女

 琥珀は途方に暮れていた。大勢の人間たちが行き交う道端に座り、その中に天翔丸がいないかずっと探しているのだが、その姿は見当たらない。

 昼寝から目覚めると天翔丸がいなくなっており、陽炎も八雲もおらず一人きりになっていた。しばらく待っていたが誰も戻ってくる気配がなく、仕方なく子猫の姿に化けて天翔丸を探しに出た。天翔丸はにぎやかなのが好きだと言っていたことを頼りに、琥珀は人間が多い場所を探してここにたどり着いた。

 そこは物資が売買される市で、人のにぎわいは著しい。しかしあまりに人が多くて、かえって天翔丸を見つけるのは難しかった。多くの気配が交差し、いろんな匂いが混じってよくかぎとれない。

「天翔丸ぅ〜……」

 琥珀は心細くなってぽつりとつぶやき、あわてて口をつぐんだ。

(いけない、いけない。しゃべっちゃ駄目やった)

 人の前で猫又や童女の姿になってはならない、二本の尻尾を出してはいけない、そしてしゃべってはいけない。都では子猫に化けていること。天翔丸との約束である。人間が猫又の姿にどれだけおどろき恐れるか、琥珀は経験で知っていたから素直にうなずいた。

 このままじっとしていても天翔丸は見つからないと思い、琥珀は道を歩き出した。道行く人間に蹴られないよう、道の端をとことこと歩く。

 しばらく行くと、長くつづく塀の上に数匹の猫を見つけた。猫たちは日当りの良いそこで仲良くまどろんでいる。

(猫なら話しかけてもいいわよね)

 天翔丸を見かけなかった尋ねようと近づいていくが、琥珀に気づいた猫たちは一斉に逃げださいた。

「あっ、待って! ねえ、ねえってば!」

 おさえた声で呼びかけながら少し追いかけたが、猫たちはものすごい勢いで散り散りに逃げていってしまった。琥珀は追うのをあきらめ、口をとがらせてぼやいた。

「なによぅ……お話しくらいしてくれてもいいやない」

 溜息をつく琥珀の頭によぎる声があった。

 ーーあんたは猫の仲間には入れないんだよ。嫌われてるんやから。

 かつて飼い主だった綾女という人間の女に言われたこと。

 ーー誰もあんたなんか好いちゃくれないんだよ。猫も人間も、みぃんなあんたを忌み嫌う。うちの言うことを聞けばかわいがってあげる。せやからうちの言うことをよぉく聞くんだよ。いいね?

 うん、と琥珀はうなずいた。事実、猫も人間も、同じ姿をした三毛の猫又までもが自分を見て逃げていった。だから綾女の言葉を信じて彼女の言うとおりにした。一人ぼっちは寂しくて嫌だったから。

 琥珀自身は気づいていなかったが、その身から発せられる強い妖気が、猫たちはもとより同族の猫又をも恐れさせていたのである。

 琥珀はぶんぶん頭をふって嫌な過去を頭から追い出した。

(いいもん。うちには天翔丸がいるんやから!)

 綾女の言葉は嘘だった。好いてくれる人なんかいないと言われたが、天翔丸がいた。天翔丸は恐れるどころか笑いかけてくれて、一緒に遊んでくれて、優しくしてくれる。天翔丸がいればちっとも寂しくなかった。

 鞍馬山での暮らしは楽しい。にこりともしない陽炎はちょっぴり怖かったが、寒村で皆に嫌われていた頃とは比べようもない。八雲もたまに遊んでくれるし、死霊の蛍はお料理を教えてくれるし、撫子には鞠つきを教えてもらった。これもみんな、鞍馬山へ来いよと誘ってくれた天翔丸のおかげである。

 そう思うと急に天翔丸のふところにもぐりたくなってきて、琥珀は目をこらし気配を探りながらその姿を懸命に探した。

 すると前方の曲がり角のむこうにふわふわそよぐ髪が見えた。黒よりうすい、茶色の髪。

「あっ、天翔丸や!」

 琥珀は嬉々として走り、角を曲がった。が、そこにいたのは一頭の馬。天翔丸の長い髪だと思ったのは、赤毛の馬の尻尾だった。

「んもう、まぎらわしいわね」

 馬が琥珀の妖気を感じて暴れだした。興奮していななき、脚を高々とあげる。

「ああん、もう! なんで暴れるのよう!?」

 琥珀は馬に踏まれないようによけて、馬に文句を言った。言って、ぎくりとした。

 馬の様子を見にきた人間の男が、目を丸くしてこちらをじっと見ている。

「ね……猫が、しゃべった?」

 琥珀はあせって思わず声を発した。

「う、うち、しゃべってないよ!」

 それが駄目押しとなった。

「化け猫だぁ!」

 琥珀はあわてて駆けだした。子猫の姿で人間の足元を駆け抜けて逃げようとした、そのとき。

 ただならぬ気配を感じて、琥珀ははっと顔をあげた。目の前に数人の男たちが立ちはだかるように立っている。彼らは陰陽寮へむかう途中に通りがかった妖怪討伐の精鋭、阿闍梨と法力僧たちであった。

 阿闍梨の鋭い眼光が、ひと目で琥珀の正体を見破った。

「妖怪、猫又め」

 鋭い声で言って、阿闍梨は呪符を投げて琥珀にぴたりとはりつけた。

「悪鬼調伏!」

 とたん、琥珀の全身に激痛が走った。

「ぎゃんっっ!」

 法力で妖力が大きく削がれたせいで尾が二本に割れ、子猫の身体が膨れあがる。琥珀の変化の術がとけて、本来の姿である大きな猫又になってしまった。

 周囲の人間たちがいっせいに悲鳴をあげた。

 その声におどろいて、琥珀は駆け出した。

(痛い……痛いよぉ! 天翔丸ぅ……!)

 甲高い人々の悲鳴の中を、涙ぐみながら懸命に走った。いつもなら人間などすぐにふりきれるが、阿闍梨の術をまともに受けたせいで脚がふらつき、まっすぐ走ることも木にのぼることもできなかった。ふりむくと、怖い顔をした僧侶たちが追いかけてくる。

 琥珀は泣きたいのをこらえながら必死に走った。

(天翔丸、助けて……!)

 そのとき、流れてきた音が琥珀の耳に届いた。のびやかで優しい旋律ーー笛の音だ。

(天翔丸や!)

 琥珀は音が聞こえてくる方にむかって、全速力で走った。

 笛の音がだんだん近くなってきた。その音は、曲がり角のむこうから聞こえてくる。

(天翔丸!)

 琥珀は勢いよく角を曲がった。

 そこは両側を塀にはさまれた細い路地で、塀のきわに身を寄せるようにして一台の牛車が止まっていた。牛車の後ろのすだれが半分開いており、笛の吹き手はその中に座っている。すだれの下から見えたのは、何枚も重ねた美しい衣と長い黒髪。笛の吹き手は女だった。

(違う、天翔丸やない)

 絶対に天翔丸だと思ったのに。

 ここまで全力で走ったせいでもう逃げる体力はなく、阿闍梨たちの気配はもうすぐそこまでせまってきている。

(もうだめや……!)

 琥珀が立ちすくみ泣き出しそうになったそのとき、ふいに笛奏者の女が演奏をやめて笛をおろし、白く細い手で琥珀にむかって手招きした。

「おいで」

 それは初めて聞く声で、女が誰なのかわからない。だが不思議と迷いは少しも生まれなかった。

 琥珀は最後の力をふりしぼり、牛車の中へとびこんだ。とびこんだとたんに力が尽きて、牛車の中でどっと横倒しに倒れてしまった。

 大きくゆれ軋む牛車を、牛車の外にいた水干姿の中年の男と牛飼い童がおさえてゆれを止める。中年の男はすばやくすだれを下し、外にはみ出ていた二本の尻尾を牛車の中へおしこんで、猫又を隠した。

 その直後、あわただしい足音がやってきた。

「おい、いま、こっちに猫又が逃げてきただろう。白い毛並みの大きな猫の妖怪だ。どっちへ行った?」

 僧侶の一人が中年の男に問いかけた。男ーー忠信は素知らぬ顔で僧侶たちに道を指し示した。

「あちらへ走っていきました」

 僧侶たちがそちらへ走りだしたとき、遅れてやってきた阿闍梨がそれを止めた。

「待て」

 その刃のような鋭い声に、琥珀はびくっと身体を震わせた。

 逃げなきゃ、と身体を起こそうとすると、笛奏者の女が両手で優しくふれてきて「じっとしていなさい」と小声で言った。琥珀は素直にその言葉に従い、じっと息をひそめた。

 阿闍梨は見覚えのある牛車を見やり、中の女にむかって言った。

「これはこれは……こんなところでお会いするとは。奇遇ですな、紅葉の君」

 女ーー紅葉は猫又に手をそえながら、すだれ越しに挨拶した。

「お久しゅうございます、阿闍梨」

「ここしばらく病に臥せっておられると聞いておりましたが」

「はい。十日ほど臥しておりましたが、おかげさまでこのように回復いたしました」

「……ほう」

 紅葉のやわらかい声とは対照的に、阿闍梨の声は冷たく刺がある。その刺を隠そうともせず、阿闍梨は不信をあらわに牛車を凝視した。

「病み上がりの方が、こんなところで何をしているのですか?」

「右大臣よりお招きいただき、二条のお邸で笛の音を献上してきたところです」

「『物怪退治の笛』を、ですか」

 物怪退治の笛……紅葉の君の吹く笛の音は、ひとたびその音が響くと周辺の物怪が消え失せることからそう呼ばれ、尊ばれている。それはまぎれもない事実で、確かにこの女の笛の音が響きわたると物怪は一匹残らずいなくなる。だがもう一つ、その笛には不可思議な効力があった。

 その笛の音は物怪を消すーー同時に、なぜか法力僧の法力も消され、無とされてしまうのだ。笛の音が響いている間はどんな術も使えなくなり、強固な結界も消え、読経もかき消されてしまう。しかしそうなるのは笛の音が響いている間だけで、演奏が終わって余韻が消えると次第に法力も使えるようになり結界も元通りになる。

 まったく不可解な現象だった。

 物怪を消し去る美しい笛の音は貧富を問わず多くの人々に愛されてやまない。しかし尊い法力を無にしてしまうそれは、阿闍梨には不吉で凶々しいものにしか聞こえなかった。

「紅葉の君、あなたの笛はいったい何なのですか? 本当に物怪を退治しているのですか?」

 もう幾度となくぶつけてきた問いを、阿闍梨は問わずにいられない。

 そしていつものように紅葉は答にならないことを答えた。

「皆様、そのようにおっしゃってお喜びになります」

「真実は違うのでは? なにせあなたは、妖怪の子を産んだ方だ」

 この紅葉という女には大きな矛盾があった。本当にその笛に物怪退治の効力があるなら、吹き手には物怪がいっさい近寄れないはずである。だが、彼女は妖怪と交わり、子を産み落とした。

 紅葉は困惑をあらわにつぶやいた。

「妖怪の子……ですか。以前にも申しあげたとおり、わたくしに子はありませんが」

 阿闍梨の顔が疑心暗鬼で大きくゆがむ。

 笛についても、子供についてもすでに何度も追及している。はじめはこちらをからかっているのかと思ったが、何度問いつめても答は同じ。なぜか母親であるはずの彼女は、自分に息子がいたことを完全に忘れ去っていた。

 阿闍梨はこの女といくら話しても要領をえないと判断し、行動にでた。

「紅葉の君、猫又の妖気はこのあたりで消えました。念のため、牛車の中をあらためさせていただきます」

 強行しようとする阿闍梨の前に忠信が立ちはだかった。

「阿闍梨、申し訳ありませんが紅葉様は疲れておいでです。お話がおありなら日を改めて……あっ」

 阿闍梨が忠信をつきとばしたのを合図に、僧侶たちが物々しく牛車をとり囲んだ。

 牛車の中から、紅葉の凛とした声が響いた。

「阿闍梨、わたくしの従者に乱暴はおやめください」

「これは失礼、申し訳ありませんでした。牛車の中を検分して異常がなければ、我々はすみやかに去りますので」

 口先だけの謝罪をし 、阿闍梨は数珠をかまえて牛車をにらみすえた。

 牛車から妖気は感じない。だが、調伏術をまともに受けたあの猫又に逃げきる余力はないはずで、この牛車の他に逃げこめるようなところは見当たらない。

 阿闍梨が弟子たちに号令をかけようとした、そのとき。

「僧侶ならよろしいのですか?」

 阿闍梨が怪訝にふりむくと、安倍晴明が淡々とした声で言った。

「私は都に来たばかりの田舎者ですので都の作法にはうといのですが、男が高貴な女性と対話するときは御簾や屏風越しにおこなうのが常識で、女性の姿も顔も見ることはしないものだと教わりました。僧侶は、このような公衆の面前で、御簾を無理やりこじあけて貴族の女性のお姿をさらすことが許されるのですか?」

 阿闍梨は目の端で周囲を見やった。騒ぎに集まってきた市井の人々が遠巻きにこちらを見ている。たしかに事情を知らない者が見れば、僧侶が牛車をこじあけて貴族の女性の姿をさらすという暴挙にしか見えない。

 牛車の中に猫又がいればいい。だが、もしいなかったら。

 さらに彼女の従者がそばに来て、耳打ちしてきた。

「阿闍梨、我が主君のお身体がご丈夫でないことは、あなたもよくご存知のはず。もしまたわが主が病に臥し、それがあなたの暴挙のせいではないかと噂がたつようなことがあれば、物怪退治の笛を心待ちにしていらっしゃる高貴な方々のご不興を買うかもしれません。場合によっては、あなたに咎めが及ぶ可能性も」

「……脅すつもりか?」

「滅相もございません。そういう可能性もあるということです」

 しらじらしくも頭を下げる男をにらみながら、阿闍梨は頭を巡らせた。たとえ事実でなくても噂となればそれを信じてしまう者もいる。僧侶とて、貴族の不興を買えば都でなにかと動きにくくなる。

 阿闍梨は小さく舌打ちしながら、牛車をとり囲んでいた弟子たちを下がらせた。

「紅葉の君、妖怪は人を襲うだけでなく、狡猾に人を惑わすもの。くれぐれもお気をつけなされよ」

「お心遣い、感謝いたします。阿闍梨もどうぞお気をつけて」

 阿闍梨は鋭く牛車をにらみながら、弟子たちを率いて去っていった。

 彼らの姿が遠ざかり、残された晴明が小さく息をついたとき、牛車から声がかかった。

「もし、よろしければあなた様のお名前をお聞かせ願えませんか」

 晴明は牛車にむき直って一礼した。

「陰陽寮の陰陽師、安倍晴明と申します」

「安倍晴明様……わたくしは」

「存じ上げております。物怪退治の笛の名手、紅葉の君。お噂はかねがね。一度お会いしたいと思っておりました」

「まあ、なぜ?」

「あなたの笛をお聴きいたしたく。ぜひ今度、お聴かせ願えませんでしょうか」

 紅葉はやわらかに問い返した。

「退治なさりたい物怪でも?」

「いいえ。物怪退治の笛がいかなるものなのか、興味があります」

 晴明はまっすぐな口調、まっすぐな視線で簾を見つめる。

 忠信がその視線をさえぎった。

「恐れながら、紅葉様の笛は見せ物ではありません。興味本位のご依頼はお断りしております」

「忠信、よい」

 紅葉は忠実な従者をおしとどめ、穏やかな口調で若き陰陽師の申し出に答えた。

「晴明様、わたくしの笛でよろしければ、いくらでもお聴かせいたしますよ」

「ありがとうございます」

「陰陽寮におうかがいすればよろしいですか?」

「いいえ。こちらがお願いしたことですから、私が足を運びます。日を改めまして、近いうちに紅葉様のお邸にうかがわせていただきます」

「わかりました。お待ちしております」

 では、と晴明は背をむけ立ち去ろうとしたが、足を止めてふりかえった。

「……紅葉の君、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか」

「なんでしょう?」

「私をどう思われますか? あなたの目から見て、私は何に見えますか?」

 晴明の表情に感情らしきものはない。しかし簾を見つめるまなざしはまっすぐで、どこか請うような様相をしている。

 じっと答えを待つ晴明に、忠信が耳打ちした。

「恐れながら、紅葉様は生まれつき盲目ゆえ、あなたのお姿を見ることはできません」

「……これは、失礼いたしました」

「あなたはあなたですよ」

 頭を下げて詫びる晴明に、簾越しにやわらかな声がかけられた。

「どのような姿をしていようと、どのような過去があろうと、人からどのように見られ何と思われようと、あなたはあなたです。回りの声に惑わされてご自分を見失いませんよう」

 細い狐目がかすかに見開かれる。晴明は簾をしばし凝視し、その返答に深くうなずいた。

「はい」

 若き陰陽師は深く頭を下げ、すでに先を行っている阿闍梨たちを追って小走りで駆けていった。その姿が完全に見えなくなったのを確認して、忠信はこめかみに浮かんでいた冷や汗をぬぐった。

「ふぅ……どうなることかと思いましたよ」

 すべての見物人がいなくなったのを確認し、牛車の簾を少しひらいて隙間から中をのぞきこむ。中でぐったりしている妖怪の大きさに、忠信は息をのんだ。

「これはまたずいぶんと大きな妖怪で……二本の尾、猫又ですな。あっ、あまりふれない方が! 鋭い牙をもっています!」

「大丈夫です。この子から邪気は感じません」

 紅葉は大きな獣を少しも恐れることなく、子猫をなでるのと同じように猫又をなでており、その様子に忠信の方がびくびくしてしまう。

「しかし紅葉様、よろしいのですか? あのような約束をなさって」

「何がですか?」

「あの安倍晴明という陰陽師です。本当に邸にお招きになるおつもりですか? 物怪退治の笛に興味があるなどと、面と向かってぬけぬけと」

「正直で良いではありませんか。探究心が旺盛な方なのですよ」

「しかし相手は陰陽師ですぞ。まだ子供のようでしたが油断は禁物。紅葉様をおとしめようとなにか良からぬことを企んでいるのかもしれません」

「心配性ですね、忠信は」

「当然の警戒ですよ! この猫又が気づかれなくて、本当に幸いでした」

 紅葉は猫又をなでながらさらりと言った。

「晴明様は、この子に気づいていたと思いますよ」

「え?」

 忠信は目をしばたたいた。

「気づいていた……? 猫又の妖気にですか? まさか、紅葉様の霊符があるのに」

 この牛車の内側には物怪の気配を消す霊符が貼ってある。これで猫又の妖気は外にはもれないはずなのだが。

「晴明様はものの気配を感じとる能力に優れた、鋭敏な方だとお見受けしました。おそらくわたくしの霊符では隠しきれなかったでしょう」

 忠信は顎に手をあててうなった。この盲目の女主人が、周囲や人の様子を感じとる感覚が優れていることはよく知っている。ときに目の見える者よりもそれは鋭い。その彼女が言うのだから、おそらく間違いはない。

「ということは……あの陰陽師は、私たちをわざと見逃したと?」

「そう思います」

「妖怪を討伐する側の陰陽師が、いったいなぜ……?」

「それを知りたいから、邸にお誘いしたのですよ」

 紅葉はうっすら瞼をひらいた。何も見ることはできないその目にはしかし知性の色が浮かんでいる。

「物怪は何であろうとすべて討伐するという風潮に都は長く染まり、阿闍梨を筆頭にその気勢は高まるばかり。その渦中に現れた新たな陰陽師が、妖怪をかくまう女を見逃した……閉鎖的なこの都に新たな風が吹きこむ予感がします。風をおこせる強い力を晴明様から感じました。ぜひとも膝をつきあわせて話し、そのお心を知りたい」

 やわらかな口調がかすかに熱をおびている。

 そんな女主人を、忠信はあきれたような感心したような顔で見つめた。

「……忘れておりましたよ。紅葉様が誰よりも探究心旺盛な方だということを」

 紅葉はいたずらをした少女のように微笑んだ。

「苦労をかけますね、忠信」

 公には『笛で物怪を退治する』という名目で行動している立場上、妖怪をかくまったなどと知られたら大ごとになる。絶体絶命の危機だったのだが、それに少しも臆することなくいつものように微笑んでいる主人を見て、忠信は一人であせっていることが莫迦らしくなり肩の力をぬいた。

「並大抵のことでは動じない主人をもって心強い限りですよ。妖怪をお助けになるなり、陰陽師とお話しになるなり、思うようになさいませ。ま、多少の苦労があった方が、おつかえする甲斐があるというものです」

「頼りにしていますよ」

 主人と舎人は笑みを交わしあった。

 琥珀はぐったり横たわったまま、紅葉と呼ばれる人間の女性を朦朧としながら見上げた。

(ふわぁ……きれいな人……)

 神通力をもっている天翔丸は身体からきらきらとしたものを発していてきれいだが、それとは違う。鞍馬寺の住職はきらびやかな袈裟や装飾品を身につけてきれいだが、それとも違う。たんなる見た目ではなく、なにかすごくきれいな感じのする人だった。

「怖い目にあいましたね。でも、もう大丈夫ですよ」

 優しい笑顔で語りかけてくれる女性は目を閉じていた。琥珀はぽーっとしながら首をかたむけた。

(この人、目が見えないんやろか)

 いままで会った人間は皆、妖怪だとわかったとたん、怖がって悲鳴をあげたり嫌悪をむけてきたりしたが、この女性は身構えるそぶりすらない。目が見えないから、この姿が見えないから自分を怖がらないのだろうか。だが女性を見つめているうちに、たぶんそういうことではないように思えた。

 僧侶たちにいきなり襲われて琥珀は警戒心に全身を逆立てていたが、「おいで」というひと声だけで警戒心が消えてなくなってしまった。

(どうしてやろ……?)

 初対面なのに、どんな人かわからないのに。うまく言えないが……傷つき尖った心を包みこんでゆるめてしまうような、そんな温かくやわらかい雰囲気がこの女性にはあった。

「忠信、邸へ」

「はっ」

 牛車がゆっくりと音をたてて動きだした。

(お礼を言わなきゃ)

 助けてもらった礼を。だが全身がしびれて、首をもたげることすらできない。それを察してか、紅葉という名の女性は耳元でそっとささやいた。

「お眠りなさい。少し休めばよくなるでしょう」

 うっとりするような優しい声だった。いたわるように身体をなでてくれる手がなんとも気持ちがいい。こんな優しさを前にももらったことがある。

(天翔丸みたいや)

 そういえばこの人は天翔丸とよく似た匂いがする。琥珀は温かい膝枕に頭をすり寄せ、相手が天翔丸の母その人だとは知らずに、安心しきって目を閉じた。


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