其之五 遠き静寂(しじま)に
銀子は氏神を名乗る魍魎野狐と対峙する。銀子が倒れたところにみくにが現れ、みくにを守るために夜叉丸が動く。銀子は戴天荼枳尼銀狐の力を覚醒させ、野狐を打ち破る。野狐は妖狐の運命を嘆きながら力尽きる。みくには自分の母親が銀子と運命を分かつ異質同形の金狐であることを知る。「悲しみを憎しみに変えてはならぬ。悲しみは優しさに変えるのだ」銀子はみくにに夜叉丸を渡し、守成村を守っていくよう言い残して、黒い瘴気を巡る旅に再び出かけるのであった。
1
なにかが自分に呼びかける声が聞こえた気がした。
みくにはやおら身体を起こすと、月明かりの射しこむ部屋のなかを見まわした。
「なんじゃ? わしはいつの間に戻ってきたんじゃろ?」
記憶が混濁している。なにかとてつもない出来事に遭遇したような気もしたが、よく思い出せない。
布団から出ようとして、傍に小太刀が置かれていることに気づいた。いつも銀子が帯に差している小太刀だった。
みくには小太刀を手にとる。昼間、手にしたときにも感じた不思議な感覚。まるで自分の身体の一部であるような、妙な一体感が湧き起こってくる。
「銀子のやつ、おらんのか?」
みくには襖を開けて部屋を出る。
となりの部屋では彦兵衛が静かに横になっていた。
「じいじ?」
みくには彦兵衛に小さく呼びかけたが、反応はない。苦しそうな寝息も聞こえない。
「ぐっすり寝ておるのう」
みくには銀子の小太刀を抱きかかえたまま、囲炉裏端に腰を下ろした。
「銀子はどこじゃ? 夜の散歩かのう?」
小太刀に視線を落とす。
「うっかり忘れてったんじゃろか?」
みくには落ち着いて思考を巡らせてみる。
茶屋は不気味な静けさに包まれていた。
「そうじゃ、才蔵もおらぬぞ……?」
そういえば、才蔵はどうしたのだろう?
みくには眉間に皺を寄せて記憶をまさぐった。
才蔵は氏神に復讐するため山奥の泉に向かうと言い、みくにはそれについていったはずだ。復讐劇の顛末はどうなったのだろうか。みくには出来事を一つひとつ順に思い返していく。才蔵が泉に向かって怒鳴ると、世にも恐ろしい大蛇の姿をした妖魔が泉から立ち現れた。小太刀を握るみくにの手がぶるぶると震えだす。
「才蔵……」
大きな野太刀を振りかぶる才蔵の身体を、氏神は鷲掴みにした。それから氏神の口が大きく裂けて――
「才蔵……!」
みくには両手で頭を抱えると、悲鳴をあげた。
才蔵は、みくにの目のまえで喰い殺されたのだ。千切れた胴体から噴き出す血液の赤い色が鮮明によみがえる。
みくには喉が擦りきれんばかりに泣き叫ぶ。
いつまでそうしていたのかは判然としない。
「どした! みくに!」
突然、戸口が引き開けられる。
薄汚れた布子を身に着けたひとりの少年が茶屋のなかに駆けこんでくる。少年はみくにに寄ると、その両肩を持ち、激しく揺さぶった。
「なにがあったんじゃ!」
少年はみくにの頬をぱあんとはたく。
「しっかりせぃ!」
少年の呼びかけに応じて、少しずつではあったがみくには正気を取り戻していった。
青緑の瞳をしたみくにの目は真っ赤に充血していた。いまだ泣きやまないみくにを見つめる少年は、心臓の鼓動が速まるのを感じていた。乱暴者で口の悪い南蛮娘だとばかり思っていたが、少年のまえで鼻をすすっているみくには驚くほど可憐に見えたのだ。
「どうじゃ? ちっとは話せるようになったか?」
少年は恥ずかしそうにみくにから顔を背けて言う。
「なんか尋常でないことが起こっとるとは思っておったが、みくにまでおかしくなったかと心配したぞ」
みくには涙を拭きながら少年を見た。
「心配じゃと? 太一がわしを心配しとったんか?」
目を丸くするみくに。
太一と呼ばれた少年は小さく咳払いをしてから話をはじめた。
「まぁ、それは言葉のあやっちゅうやつじゃ。それよりもな――」
急に真面目顔をして、
「実はな、おれ、すごいものを見てしもたんじゃ。みくにのところに南蛮の客がきておったろう? あの女が妖魔をぶった切るとこをこの目で見てしもたんじゃ!」
「銀子が、か……?」
「なんだか嫌な気がしておったが、いよいよみくにの声が聞こえて、こうして見にきたわけじゃ」
「銀子は……?」
みくには太一の手を振り払うと、裸足のまま店先に向かって駆けだす。
「銀子はどうしておるっ!」
「みくに! 落ち着け!」
太一は叫ぶ。
「あの南蛮女は山に向かって走っていきよったぞ!」
みくには太一を振り返った。大きな目に涙を浮かべて唇を強く噛んでいる。
「駄目じゃ、銀子! あそこには化け物がおるんじゃ!」
「化け物? いやいや、あの南蛮女こそ化け物じゃ……」
「黙れ、太一! わしは銀子を助けにいくぞ!」
それだけ言うと、みくには夜闇に跳びだした。
「おい、みくに!」
太一は困ったように顔を歪める。夜の山に入るのは男であっても怖いもの。しかしみくにを放っておいては、必ず後悔することになるだろうと太一は思った。
部屋の隅では彦兵衛が布団に寝ている。太一とみくにがあれほど騒いでいたにもかかわらず彦兵衛が目を覚まさなかったことを、そのときの太一は気づく余裕もなかった。
みくにが泣いて座っていたあとには黒い小太刀が残されていた。
「みくにのやつ、なにも持たずに出ていきよったぞ」
太一は大きく溜め息をつくと小太刀を手にとり、みくにを追って茶屋を発った。吐く息が闇夜に映える。
2
銀子は氏神が巣食う泉にやってきていた。
木々がざわめき、神経はいっそう研ぎ澄まされる。
「待たせたな、魍魎野狐よ」
銀子がそう呼びかけると、泉は地獄の釜のように沸き立ち、巨大な水柱とともに大蛇が姿を現した。
「その名を口にするとは、おまえ、ただの半妖ではないな?」
才蔵を喰らった際に裂けていた口は艶なる女の口元に戻っており、氏神と呼ばれる大蛇のような妖魔はゆらりと前足をかざした。
「美味そうな匂い。きれいな顔。おまえを喰らえば、わらわもいよいよこの泉から離れることができそうね。忌々しいあの女の術により泉に閉じこめられ早一〇年、いい加減飽きがきているのさ」
銀子は野狐の姿を斜めに捉えて立ち、おぞましい姿に臆することなく睨みつける。
「怒った顔も、まあ可愛い。ほんとうに美味しそうなやつだね、おまえは」
「野狐よ」
銀子は野狐の言葉を遮るように言う。
「銀はけっして人間の味方などではない。だが、妖狐の名を汚す愚行を見るのは、これ以上耐え難い。たとえそれが瘴気のせいであるとしても」
そうか、と野狐はにやりと笑う。
「おまえ、狐だったのかい。弱々しい妖気もそのためなんだね。さては人化の術を解く方法を失念してしまったのかい?」
銀子はなにも答えない。
「まあ、なんでもよい。わらわは早くここから脱け出たいだけじゃ。もっと美味い人間をもっと喰いたい」
「人の味を覚えたか、魍魎野狐」
「ふふふ、脆弱なおまえも一度くらいは口にしたことがあるだろう? それとも生きた人間の肉を喰らったことはまだないと言うのかい?」
高らかな笑い声が辺りに響いた。
無言のままの銀子に、野狐は満足そうに微笑む。
「初心な子ねえ。ますます気に入ったよ」
野狐はそう言うと、蛇の胴体を大きくくねらせて銀子に接近する。
銀子は両手をまえにして構えて見せた。
「それじゃあ、おまえの温かい心臓を喰ってやろうかね!」
野狐の大きな腕が振り下ろされる。
銀子はその腕に飛び乗り、駆け上がる。そのまま右手から神通力の一閃を放った。
大抵の妖魔が相手ならば、銀子のこの一撃ですべてが終わるはずだった。しかし、野狐は鱗に覆われた部分で銀子の妖力を受け止めると、そのまま頭部から突き出ている角で銀子に襲いかかった。
あまりにも距離を詰めすぎていた。
銀子はかろうじて急所を裂けるも、腹部に大きな傷を負った。青白い素絹に赤く染み出す銀子の血。
「ああ……。血を流すおまえの姿もますます可愛いよ。感じてきてしまったじゃないか」
銀子は腹部を左の手で押さえながら、野狐に向かってもう一度構えの姿勢をとる。
再び繰りだされる野狐の腕を跳んでかわし、こんどは空中からの一閃。
しかしそれも、完全に威力を発揮するまえに、野狐の口から放たれた神通力の波動に打ち負けてしまった。
出合い頭に正面から神通力をくらった銀子は、声をあげて倒れた。
まだ一撃すら野狐に与えられていない。こんな妖魔を相手に、才蔵が勝てる見込みなど端からなかったのだと、銀子は才蔵を想った。化け物に喰い殺される際のお春の恐怖を想うと、ひどく胸が痛んだ。銀子はみずからの痛みのためではなく、優しい人たちの顔を思い浮かべて涙した。感傷的になったのではない。自責の涙と自覚している。月明かりは分厚い雲に遮られていた。
「泣いて命乞いかい」
野狐は地面で仰向けになる銀子のうえに身体を伸ばすと、大きく舌なめずりをした。唾液が銀子に垂れ落ちる。
「どうやって喰ってやろうかね。やはり温かいままの臓物を引きずり出してやろうかしら。ああ……たまらないっ!」
全身をぷるぷると病的に震わせる野狐。獣の爪を立て、銀子の下腹部に手を伸ばした刹那、大きな声が野狐に跳んだ。
「化け物め! わしが相手じゃ! わしはおまえなんぞ怖くもないぞ!」
野狐が顔を上げると、森のなかから少女が駆けだしてきた。
みくにだった。そのうしろには少年の姿も見える。少年は腰を抜かしていた。
「みくに……?」
みくには茶屋で寝ているとばかり思っていた銀子は、焦りを隠せない。
「馬鹿者……! どうしてこんなところへきたのだ! おまえまで喰われてしまうぞ!」
顔を真っ赤にするみくにを見て、野狐はさらに涎を垂らした。
「こんどはなんと美味そうな生娘だこと! 今宵はご馳走ばかりじゃないか!」
銀子が上体を起こすよりも速く、野狐は大蛇の如く地を這い、みくにのもとへと向かう。
「みくに、逃げろっ!」
銀子が顔だけ向けて叫ぶも、みくには踏ん張ったまま動かない。いや、全身が硬直して動けないのだ。それは太一も同様だった。
銀子は自分の不甲斐なさを恨んだ。油断しすぎたと後悔しても、時すでに遅し。
そのときだった。
みくにの手に握られていた小太刀が突然その手から放れて宙を跳び、みくにに伸びる野狐の腕に突き立った。
野狐は大きく身をよじり、この世のものとは思えない恐ろしい叫び声を轟かせる。
みくには呆然としていた。
小太刀の突き刺さった野狐の右腕は黒く腐りはじめる。野狐は左腕で、自分の右腕を引きちぎった。気色悪い体液が辺りに飛び散り、それでもみくには目を逸らさない。
野狐は地面に落ちた自分の右腕に刺さったままの小太刀を睨みつけた。
「きさまっ、妖刀か!」
ご名答、と銀子の呟きが夜風に舞う。
「妖刀のなかの妖刀、夜叉丸よ……」
「妖刀夜叉丸……だと……? それではおまえ、もしや――」
野狐が振り向けば、倒れていたはずの銀子がわずかに地表から浮かび上がり、大きく両手を広げていた。
銀子はゆっくりと顔を上げ、野狐に向かって言う。
「月の光を浴びて目が覚めたよ」
大きな月が泉の真上にやってきている。雲は完全に捌けていた。
夜叉丸はぴょんと跳びはねると、みくにの傍に寄った。みくには事をよく解さぬまま、夜叉丸を手にとる。とたん、みくにとその傍で尻餅をついていた太一は白い光に包まれた。
「ちぃッ、小結界か!」
野狐は苦々しく吐き捨てる。
そんな野狐に、銀子は落ち着いた口調で続けた。
「魍魎野狐、みくにに気を向けている暇などないぞ」
そして右手を大きく天にかざす。
「今宵はきれいな満月」
銀子の身体は宙高くに昇り、いよいよ光を放ちはじめた。銀子は涼しい目をして野狐に笑いかける。
「たかだか五〇〇年たらずしか生きておらぬ小童がいっちょまえに稲荷神気取りとは、笑い話にもならぬ」
野狐は先程までの勢いを失い、ただただ銀子を仰いでいる。
「黒い瘴気に喰われ、我ら妖狐の名を汚す愚かな野狐よ。銀が天に代わっておまえを裁いてくれよう」
銀子の全身が光に包まれる。まるでもうひとつの月がそこにあるかのようだった。
「我が名は戴天荼枳尼銀狐。血生臭い風に誘われ、悪しき妖狐のおまえを裁きに参った」
戴天荼枳尼銀狐――その名を聞いて、野狐は全身をがくがくと震わせる。
「銀狐……様……!」
光がおさまったそこには、大きな白い尾を七つ持った銀子の姿が浮かんでいた。虹色に輝く法衣をまとい、袂は優美に揺れている。
「尾を四つしか持たぬ野狐よ。瘴気に喰われた己の未熟さを、常世に帰って悔いるがよい」
野狐は唸り声をあげて、宙に浮かぶ銀子へと襲いかかった。口が大きく裂け、喉の奥から神通力を放つ。大気が歪み、野狐の放った神通力が銀子に届く。
しかし銀子が片手をそっとまえにかざしただけで、野狐の攻撃はいともたやすく掻き消されてしまう。
「未熟者よ」
銀子はそう言うと、両手の指を絡ませて、なにやら術を唱えた。
ひときわ強い光が銀子から放たれ、それはそのまま野狐へと流れこむ。
野狐は残った左腕で顔を隠すが、全身の鱗が一瞬にして溶けだした。
「ああ……銀狐様……!」
大蛇の姿は崩れ落ち、跡には痩せ細った狐の姿が横たわっていた。尾が四つある、くすんだ毛色の野狐。
銀子はそっと大地に降りてから、虫の息の野狐に歩み寄った。
「一〇年まえ、おまえと戦った金狐はすでに病に侵されていた。そうでなければ、金狐が野狐ごときに苦戦するはずがない」
野狐は力なく銀子を見上げる。
「あの女は……金狐様であったか……。銀狐様とよく似ておいでだったのも、そういうわけ……か」
光が銀子の身体のなかに消え、七尾の姿はもとの銀子の姿へと戻っていた。野狐の傍で腰を落とし、どことなく優しい口調で言う。
「金狐と銀は、ともに定めを分かつ異質同形の者。我らは荼枳尼天の使いとして現し世に馳せ参じたのだ」
それから一筋の涙を流す。
「野狐よ、なぜにおまえまでも瘴気にやられたのだ?」
野狐は焦点が定まらない目をしたまま答える。
「銀狐様とあろうお方も……わからぬと言うのか……。嘆かわしいこと。黒い瘴気は我ら妖魔の存在よりも大きなもの。瘴気に喰われるのもまた、定めということにほかならない……」
「解せぬな」
銀子は吐き捨てるように言う。
「それでは野狐よ。おまえは金狐も瘴気に打ち負ける定めだったと、そう言うのか?」
「瘴気にあてられて病になったのならば……それが金狐様の定めだったのじゃ、ないかしら」
黙れ、と銀子は言い放ち、すっと立ち上がる。
倒れている野狐は大きく咳きこむとどす黒い血を口から吐いた。
「ああ……わらわもいつかは、銀狐様のような妖狐に、なりたかったものよ……」
言い終わらないうちに、狐の身体は黒い霧となって闇に吸いこまれていった。
「黒い瘴気か……。我ら妖狐にとってここまで脅威になるとは、銀も考えてはなかったな」
銀子は長い銀の髪を手で払うと、目を丸くしたままのみくにと太一のもとに歩み寄った。
「だいじょうぶか、おまえたち?」
みくには返事をする代わりに、堰を切ったようにして泣きだした。
「なんでじゃ、銀子! なんでわしを置いて独りで出ていったんじゃ!」
銀子はしゃがみ、みくにをぎゅっと抱きしめる。
銀子の着物に顔をうずめながら、みくにはわんわんと泣く。
「お春も才蔵も……皆がいなくなって、銀子にまで置いていかれてしもたら、わしはどうすればいいんじゃ……」
「だいじょうぶ、みくに。おまえは強い。母親がいなくてもいままで気丈に生きてこられたじゃないか」
みくには銀子に涙をこすりつけるように、頭を大きく左右に振る。
「強くなんかないぞ、わしは。わしは母様のことをよう覚えておらん。だから母様がいなくても平気じゃったんじゃ。じゃけどお春や才蔵は別じゃ! 優しい皆がいなくなって、わしはどうやって生きていけばよいのか、わからんのじゃ!」
銀子はみくにの両肩をしっかりと掴んで、強い視線を投げかける。
「銀は見てのとおり妖狐。そして、みくに、おまえの母親も銀と同じ、妖狐だったのだよ」
みくには怪訝な面持ちで銀子を見つめている。
「銀は月の力の化身、そして、おまえの母親は太陽の力の化身として、現し世に生を受けたの。だから――」
銀子はそっとみくにの頭を撫でる。
「おまえは太陽の子。これからは大きな過世がおまえを待ち受けているかもしれぬ」
「わしにはようわからん……」
みくには両の握り拳を震わせて声を荒げた。
「わしにはようわからんが、もしもわしに力があるのなら、わしは妖怪どもをけっして許さんぞぃ! お春や才蔵をひどい目に遭わせた妖怪の一味を、片っ端から殺してやりたいのじゃ……!」
銀子は少し悲しい目をした。みくにの足元に落ちていた小太刀を拾い上げると、みくにの手をとり、握らせる。
「みくに」
銀子は言い聞かせるように呟く。
「悲しみを憎しみに変えてはならぬ。悲しみは優しさに変えるのだ。憎しみの心こそが黒い瘴気を生み出す元凶なの」
「無理じゃ……」
みくには鼻をすすりながら泣きつづけている。
「わしは銀子みたいに強くない。優しさなど、欠片もないぞ……」
だいじょうぶ、と銀子はもう一度みくにを抱き寄せた。
「夜叉丸はおまえに渡そう。それは本来、おまえの母親より譲り受けた品。みくにが持っているのがふさわしい」
夜叉丸が鈍い光を放つ。
銀子はみくにの手を包みこんで言う。
「夜叉丸は主を選ぶ妖刀。みくに。夜叉丸はおまえを選んだのだ。だから心配ない。おまえがまちがった道に進みそうになろうとも、夜叉丸が正しきへと導いてくれるはず」
みくには手のなかの小太刀を見つめた。小太刀を通じて、銀子と、そして顔も知らぬ自身の母親の温もりを感じた気がした。
「わしは……」
みくには涙を拭きながら銀子を真っ直ぐに見据える。
「尻尾も生えておらん……。ほんとうに銀子と同じなのか?」
銀子は笑う。
「みくににはきっと、人間の血が半分流れているのだよ。いつか力が必要なときがやってきたら、そのときにわかるはず」
銀子は立ち上がり、夜空を見上げた。白い花弁が舞っている。
「ほら。淡雪だよ。きれいだね」
銀子はそれだけ言うと、泉のむこうへと歩きだした。
みくには夜叉丸を握りしめたまま仁王立ちになり、銀子の背中に向かって叫んだ。
「銀子! わしも……わしもいっしょに旅に連れていってくれ! じいじにはきちんと餞別してくるから……わしも銀子といっしょに旅をしたいのじゃ!」
銀子は立ち止まり、みくにを振り返った。月明かりに照らされた横顔が、まるで天女のように微笑む。
「みくに、おまえはまだ旅をするには早い。それにこの後も村に危機が訪れないとも限らぬ。そんなとき、みくにがいなくて誰が村を守るというのだ?」
みくには目のまえの銀子に母親の面影を想い重ねる。
「みくには強い子。もしも定めというものがあるならば、いずれ銀とも再びまみえようぞ」
「銀子!」
みくにの声を受けた銀子は優しく頷くと、光の粒となって姿を消してしまった。
「銀子! わしは……わしは瘴気なんかに負けぬぞ! わしは強くなって、銀子に会いにゆくぞ! 銀子!」
流れ星が夜空に尾を引いて横切った。
村の子供たちにからかわれていた日々が遠いむかしのことのように感じられる。
自分がいったい何者で、どこからなんのためにこの地へとやってきたのか、それはけっしてわからない。
だが、みくには心の内に強く誓った。この夜に授かった悲しみは、無上の優しさに転生させるのだと。
悲しみを憎しみに変えてはならぬ。悲しみは優しさに変えるのだ。
銀子の残した言葉の意味を知るには、みくにはまだ幼い。それでも銀子の言葉を幾度となく反芻し、みくには銀子の名をもう一度叫んだ。
誰しも人知を超えた存在に畏怖するもの。人々は押し寄せる不穏な空気に『黒い瘴気』というかりそめの名を与えることで、ひとまずの平穏を得ていた。
それは山間にある守成村とて同じこと。
月は妖しく大地を照らしていた。
3
彦兵衛が息を引き取っているとみくにが気づいたのは、翌朝のことだった。
村長をはじめ、村の男衆が力を貸し、彦兵衛を葬ってくれた。
みくには涙を流さなかった。悲しくなどない。彦兵衛はきっと、この村で幸せな時間を過ごしたのだから。
彦兵衛の墓といっしょに、お春と才蔵の卒塔婆も用意した。皆で眠れば寂しくはないだろう。みくには心の底からそう思った。
村の子供たちはもう、誰もみくにをからかわない。太一の心の変化は、ほかの少年たちにも緩やかに伝播していったのだ。
彦兵衛と幼い頃からの友人であった村長も、彦兵衛亡きいま、みくにのことを気にかけてくれている。それゆえみくにが村の生活に不自由を感じることはなくなった。
それからしばらく経ったある日、少しずつ落ち着きを取り戻してきたみくには茶屋を丹念に掃除した。
「銀子」
みくには冬晴れの空を笑顔で見上げ、力強く呟く。
「わしは瘴気などに負けん。わしは独りでも、夜叉丸とともにこの村を守っていくぞ」
店先を見ていると、不意にお春の姿が浮かんだ。
奥からは彦兵衛が草団子と茶を用意して運んでくる。
談笑にふけっていれば、村の見まわりを終えた才蔵が、いつもと変わらぬ無粋な格好で現れる。
草団子の少し苦味の効いた味がひどく懐かしい。
みくには埃の入った目を手でぬぐう。緋色の着物の黄色い帯には夜叉丸が黒く輝いていた。
4
山を越えたところに小さな宿場町があった。
空っ風が吹きつけて女は思わず顔を歪める。
辺りを見まわすも、町全体が死んだよう。そこに人の気配はない。
「ここにもすでに、瘴気が押し寄せているのか」
白い素絹を着た長い髪の女は辺りを警戒。
刹那、道のなかほど、大地がにわかに盛り上がる。
腐った身体の死人が数体、金切り声をあげて姿を現した。
「えらく臭う。墓場でなくとも死人が出るとはな」
女は呆れたように呟くと、空手で死人の群れに跳びこんだ。
美しい銀の髪が風に輝く。
まるで、あやかしの月のように。