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其之四 地獄きたりて

 お春の死を受けて、氏神への復讐を決意する才蔵。銀子は才蔵が氏神に力及ばないこと身を以って教えるが、才蔵の心は変わらない。氏神に復讐を試みた才蔵はたやすく喰い殺されてしまう。その様子を目の当たりにしたみくには気を失う。銀子がみくにを村に連れ帰ると、鎌鼬かまいたちが彦兵衛を襲った直後だった。銀子は鎌鼬を倒し、みくにを置いて独り氏神討伐に向かうのであった。


 お春の死は遠い国の御伽噺のように、村人のあいだに広まった。

 余計なことはなにも聞きたくないと、才蔵は心から思っていた。それでもそんな才蔵の気持ちとは裏腹に、村に流布する噂話は彼の耳に届くこととなった。

 お春が堂に篭った翌朝、村長の使いが生贄の儀の始末のために堂を訪ねるや、あまりの惨状に眩暈を起こしたという。堂内の壁面は真っ赤に染まり、糞尿にも似た激臭がたちこめていた。所々に肉片が生々しい色を残したまま散らばっており、完全にぬぐい去るには骨が折れたそうだ。

 陽が高く昇った頃に銀子が堂を訪れたときはすでに、常人が感じとれるような痕跡はなにも残されていなかった。しかし銀子は鼻が利く。血肉の臭いが一帯にこびりついているのを感じ、顔を歪めた。

 銀子が守成村に戻ったときには、才蔵も生贄の儀の夜の惨劇を聞き知るところとなっていた。

 才蔵はまさに鬼相であった。才蔵の放つ異様なまでの殺気に、みくには怯え、けっして近づかなかった。

 彦兵衛は先日から優れなかった体調が昨夜を境にいよいよ悪化し、床に伏せったままである。

 彦兵衛の茶屋は不穏な気配に満ち満ちていた。

 村人は茶屋を避け、いつもはみくにをからかう村の子供たちの活気も鳴りを潜めている。

 みくには部屋の隅で独りうずくまり、膝を抱えたままぶるぶると震えていた。

 店の戸口がひらき、散策から戻ってきた銀子が姿を見せた。銀子が彦兵衛の具合を訊くも、みくには小刻みに身体を震わせたまま返事をしない。布団に横になっている彦兵衛はひゅうひゅうと気味の悪い音をたてながら息をして、いまにも心蔵の鼓動をやめんばかりだ。

「みくに」

 銀子は長い髪をすっと払い、みくにの傍に寄る。

「銀は近々村を出る。いろいろと気になることもあって長居したが、厄介事は御免被るのでね」

 みくには変わらず青い顔をしたままだ。

「いつまでそうしているつもりだ? おまえが塞ぎこんでいようとも、陽はまた昇り、世の流れはけっして弛まぬぞ?」

「銀子……」

 みくには消え入るような声でそう呟いただけだった。

 銀子は感情を抑えて言う。

「普段の威勢はどこへいったのだ。おまえがそんなだから、彦兵衛殿の具合も一向によくならぬのだ」

 みくには不意にほろほろと涙を流し、銀子を恨めしそうに見やる。

 そのとき、となりの部屋の襖が勢いよくひらかれた。

 そこには才蔵が修羅の化身の如く立ち構えていた。背中には巨大な野太刀を担いでいる。髪は逆立っていた。才蔵は銀子やみくにの姿など目に入らぬかのように、ずんずんと外へ向かって歩いていく。

「どこへいくのだ、才蔵」

 銀子は背中を向けたまま才蔵に問うた。

 才蔵は立ち止まり、わずかに顔を横に向ける。

「……氏神をぶっ殺しに」

 野暮なことを訊くなといったふうに、銀子を一瞥。

 銀子は強い眼差しで才蔵に向きなおった。

「馬鹿なことはやめておけ。無駄死にしたいのか?」

 しかし才蔵は、銀子の言うことなどまったく意に介さず、興奮した様子で続ける。

「おれは氏神を殺したあと、村の畜生どもも皆殺しにしてやるつもりだ。あんたが止めようとも、おれの意志は変わらん」

 やれやれというように銀子は首を振り、一歩、二歩と才蔵に歩み寄る。

「お春の心配していたとおりだな」

 才蔵の表情がにわかに曇る。

「お春はおぬしが復讐の鬼と化すことを微塵も望んではいなかった。それは才蔵、おぬしが一番よくわかっているであろう?」

「あんたにお春のなにがわかるってンだ? どんな説得もおれには通用しねえ……!」

「では、はっきりと言わせてもらう。才蔵。おぬしが氏神とやらに復讐を試みたところで、犬死にするのがオチ。おとなしく彦兵衛殿の面倒を看ているほうが得策だ」

「……なんだと?」

 才蔵は鼻の頭に皺を寄せて銀子を振り返った。

 みくにはふたりの会話から逃れるように、膝の合間に顔をうずめている。

「黙っていれば好き勝手言いやがって……! いったいてめえは何様のつもりだ、銀子?」

 拳を握りしめ、肩を大きく震わせる才蔵に向かって、銀子はさらに詰め寄る。

「気迫だけは十分なようだが……たかが蜘蛛の化け物にすら腰を抜かす小心者。そんなやつが氏神とやらに勝てるはずはなかろう」

 そして才蔵の正面で立ち止まり、にやりと笑みを浮かべた。

空羅そらの狂犬・才蔵と言われた男も、所詮は人の子、無茶をすれば我が身を滅ぼすに過ぎぬ。人斬りには慣れていても、妖魔退治の術は知らぬものを」

「どうしてその名を……!」

「ふふ、都にいれば大概の話は聞き知るところ」

 才蔵もにやりと不敵な笑みを銀子に返すと、高鳴る感情を抑えつけて言った。

「銀子、おれははじめからあんたのことが気に入らなかったが、喧嘩を売ってくるなら買うまでだ! 表に出やがれっ!」

「よいだろう。万が一におぬしが銀に勝つことがあれば、なにも言わず復讐の路に送り出してやる。だが銀に負けるようなことがあれば、おとなしく彦兵衛殿とみくにの面倒看に徹するがよい」

 才蔵は銀子の言葉も話半分に、茶屋の表に出て太刀を抜き、大きく足を広げて構えた。

「望むところだっ、銀子! 女の分際でこのおれを挑発する阿呆には痛い目を見させてやんよっ!」

 才蔵に続いて銀子も外に立ち、脱力させた両手を身体の側面に垂らす。

 ふたりの毒々しい言い合いに不安を感じたみくには、誘い出されるようにして店の外に姿を現した。

「銀は刀を抜かぬ。おぬしなど素手で十分」

 そう言うと、銀子は瑠璃色の帯に差した小太刀を静かに抜きとり、軒先に立つみくにに手渡した。

 それを受け取ったみくには両手で小太刀をぎゅっと握りしめた。なにかがみくにのなかで共鳴する気がした。

「どこまでもふざけた野郎だ……」

 才蔵は苦々しく吐き捨てると、両手で構えていた大太刀を地面に突き立てた。

「ならばおれも素手で十分よ」

 銀子は呆れたように首を横に振る。

「少しでもおぬしに勝機を与えてやろうというものを……まあ、よい。さっさとはじめるぞ、才蔵」

 銀子が言い終わらぬうちに、才蔵は大きくまえに跳びだした。

 一息に間合いを詰める。

 才蔵の大きな身体からは想像もつかないほどの身のこなし。

 銀子を正面に捉えると、流れるように突きと蹴りを繰りだした。しかしそれらは空を切る。銀子はわずかに身を反らすだけで、才蔵の攻撃をすべて避けてしまう。才蔵は手を休めない。右の蹴りを終えて、すぐさま左でうしろ蹴りを放つ。しかしこれも銀子には当たらない。

 才蔵が体勢をなおそうと顔を上げると、すでに銀子の白い腕が才蔵に向かって伸びていた。そしてそのまま才蔵の首に両腕をまわし、その頭を抱えこむ。

 両者の動きは止まり、才蔵は顔を歪める。

 この間、わずか一呼吸。

 みくには銀子から手渡された小太刀を握りしめながら、自分でも驚くほどの汗をかいていた。ついいましがたまで感じていた悲しみやら絶望やらは、一瞬にしてどこかへと消え失せてしまっていた。みくにのなかにあるのは、不思議な高揚感。理由はわからねど、みくには本能的に感じとっていた。才蔵はけっして銀子に勝てぬのだと。

 才蔵は呻きを漏らしながら銀子の両腕から逃れようとするが、まったく動くことができないでいる。銀子は涼しい顔をしたまま、才蔵のうしろ首の辺りで手首を内側に折り曲げているに過ぎない。

 銀子の細い腕のどこにそのような力があるのか、才蔵は信じられなかった。

 才蔵の額に血管が浮かび、とうとう銀子の固めから自分の右腕を振り抜いた。

 刹那、銀子の左肘が才蔵の顎を捉える。

 左に大きく傾く才蔵の胸元を掴んだ銀子は、そのまま襟元を締めあげた。

 一、二、三――

 みくにが数える間もなく才蔵の頭はがくんと落ち、全身の緊張が解かれた。

 それを確認した銀子は才蔵を掴んでいた手を放す。

 才蔵の身体はごろんと大地に倒れた。

 みくには声にならない声を発して、仰向けになる才蔵に駆け寄る。

 銀子は優しく言う。

「頬でも叩いてやれ、みくに」

 みくには言われるがままに、才蔵の頬を引っ叩いた。

「心配するな。ほんのわずか、気を失わせたに過ぎぬ」

 銀子の言うとおり、才蔵はすぐに意識を取り戻した。

 才蔵はみくにと目を合わせることもなく、空高くを仰いでいる。

 銀子は大の字になって地に寝そべる才蔵の足元に立った。

「これでわかったろう、才蔵。おぬしは素手の銀にすら勝てぬのだ」

 みくには怯えた表情で銀子を見上げる。あまりにも美しく、あまりにも強い、そんな銀子がいまさらのように遠い存在に思えた。

「くっくく……ふはははは……」

 不意に才蔵が笑いだした。

 みくにも銀子も、才蔵の顔を見る。

「確かにそうだ。おれは女風情にも勝てぬ雑魚に過ぎんのさ。だがな、氏神への復讐は絶対に諦めねえ……!」

「まだそんなことを言うか」

 銀子は面倒臭そうな面持ちで言った。

「どこまで意固地になっているのだ、才蔵?」

「女のあんたにゃわからねえだろうがよ――」

 才蔵の目には涙。

「男にはな、たとえ負けるとわかっていても臨まねばならない戦ってのがあるんだよ。意固地と言われようが、馬鹿と言われようが、そんなのは関係ねえッ! 絶対に避けられない戦いが、男にはあるんだよ……!」

 銀子は黙ったまま、才蔵を見下ろしている。

「それがな、おれにとってはいまなんだ。おれは氏神に復讐をしなけりゃあいけねえんだ。お春を生贄にした村人どもを、ぶちのめさにゃあならねえんだ。できる、できないの問題じゃあない。おれのなかのなにかが、おれを駆り立ててやまねえんだよ!」

 才蔵の言い分を聞き終えた銀子は呆れたように肩を竦ませ、それから才蔵に向かって手を差し伸べた。

「まったくもって、不条理な生き物だ」

 だが、と銀子は才蔵の手をとりながら言う。

「おぬしがそこまで思うならば、銀はもう、なにも言わぬ」

 才蔵はふらふらと立ち上がると、首をさすりながら強い視線で銀子を射抜く。

「あんたの手助けも不要だぜ?」

「あたりまえだ」

 銀子はみくにの腕から小太刀をそっと抜きとると、自分の帯に差しなおした。

「そうだ、才蔵。最後にひとつ言っておく。相手が氏神ともなれば、ただの刀では傷つけることすらあたわぬぞ」

 才蔵は大太刀を鞘にしまいながら銀子を睨みつけて言う。

「この世に傷つかぬものなどない。力さえあればすべてを粉砕できると、おれは身を以って知っている」

「現し世の者が相手ならばな」

 銀子の呟いた意味を深く考える余裕など、そのときの才蔵にはなかった。



 夜の冷えこみは一段と厳しさを増し、それは茶屋のなかにも容赦なく入りこんでくる。

 数日まえまでの団欒の時が信じられぬほど静かな夕飯を、銀子は彦兵衛ととっていた。

 みくには早々に布団に入り、才蔵はすでに山中へと向かっている。

 彦兵衛は才蔵の動向に気づいていたようだったが、才蔵が茶屋を発つときも、その行き先を尋ねるようなことはしなかった。

 銀子は椀に口をつけながら向かいに座る彦兵衛を上目遣いに見やり、調子を尋ねた。

「具合は相変わらずか、彦兵衛殿?」

「なあに、たいしたことではない。この時期になると身体が痛むのは毎年のことじゃ」

 布団から出たばかりの彦兵衛は、大根のぶつ切りが浮かぶ鍋を覗きこむ。

「ところで、お銀殿。そろそろこの村を出なさるそうじゃの」

 銀子はこくりと頷いた。

「お銀殿に是非とも聞いておいてもらいたいことがあるのじゃ」

 彦兵衛はいつになく寂しい眼差しをして部屋の隅を見つめている。

「みくにの母君のことじゃ」

 銀子は箸を置き、彦兵衛の年老いた顔を見た。

「みくには見てのとおり異国の血が混ざっておる。みくにの母君が異国の方じゃったからのう」

 彦兵衛は懐かしい思い出と戯れるかのように笑顔を覗かせた。

「その母君は村のはずれで赤ん坊のみくにを抱き、倒れておったのじゃ。それは美しい方じゃったわい。透き通るような金色の長い髪に、天女様のように整ったお顔」

 そこまで言うと、銀子の目をしっかりと捉える。

「そう、お銀殿。そなたと瓜ふたつじゃった」

「――それで?」

 銀子はまったく動揺することなく話のさきを促した。

「ほっほっほっ、似ておるからと言って、お銀殿にあれこれ問い詰める気など毛頭ないわい。それよりもじゃな、わしが一番不思議に思っておるのは、みくにの母君が亡くなるその時のことなのじゃ。まえにも話したかもしれん、わしらが見つけたときにはすでに、みくにの母君はひどく弱っておっての。顔はますます青白く、喋ることも辛そうな具合じゃった。わしとお春はすぐに床を用意して横にならせたが、それでも数日ともたぬうちに息を引き取ったのじゃ。幼いみくにを残してな」

「その話は先日も伺い申した」

「うむ。大事なのはここからじゃよ。わしらはこの世のこととは思えん出来事に遭遇したわけじゃ」

「えらくもったいぶるな」

 珍しく銀子は少し苛立ったような声を出した。

 彦兵衛はより深く皺をつくり、銀子に笑いかける。

「いやいや、ほんとうにわしらは腰を抜かしたわい。なにせ、みくにの母君が亡くなるとその身体は光に包まれて、まるで誰もそこにおらなんだかのように消え失せてしまったのじゃからな。そう、まるで常世の者のように消えてしまったのじゃ」

 銀子は変わらずじっと彦兵衛の目の奥を見つめている。

 しばらくの沈黙のあと、銀子が口をひらいた。

「つまり、みくにの母親は常世の者なのではないか。そして、その人物に似ている銀も常世の者なのではないか。そう言いたいのだな、彦兵衛殿?」

「そりゃあ早合点というものじゃわい」

 彦兵衛は大きく首を横に振った。

「わしにとっては常世の者であろうがなかろうが、そんなことは些細なこと。わしはただ、みくにはこの村で一生を終えるような子ではないと、強く感じておってのう。どうせならば、雰囲気のよく似たお銀殿が連れていってくださらぬか、という相談なのじゃよ。そのほうがみくにも幸せだと思うのじゃ」

「すまぬが銀はお断り申し上げる」

 銀子は即答した。

「銀の旅は、彦兵衛殿も気づいておられるかもしれぬが、ただの行楽ではない。常に死ととなり合わせ。そんな旅にみくにを連れていけると本気でお思いか?」

「みくにならだいじょうぶじゃ」

 彦兵衛は嘆願するように銀子を見つめる。

「あの子は不思議な力に守られておる。いや、わしがそう感じるだけかもしれん。じゃがな、年寄りの勘もまんざらではないぞ」

 彦兵衛は自分の思いを言い切ると、とたんに苦しそうに咳きこんだ。

 銀子は彦兵衛のほうを見ているが、その焦点はすでに彦兵衛にはない。いまは亡きみくにの母親の姿が、向かいの壁に映って見える気がした。

「それにしてもみくにのやつ、きょうはなにも口にせぬまま寝よったわい」

 彦兵衛は口元を手でぬぐいながら、無理やりにでも会話を続けたいという雰囲気だ。

「――みくに!」

 銀子は突然立ち上がると、みくにが寝ているであろうとなりの部屋の襖を引き開けた。

「なんてこと!」

 銀子が覗いた部屋には、人の気配がなかった。

「彦兵衛殿!」

 銀は鋭く叫ぶ。

「みくにのやつ、こっそり脱けだして、才蔵について氏神のところへいってしまったぞ!」

 彦兵衛はただただぽかんと口を開けたままだ。

「馬鹿者め……!」

 銀子はそのまま茶屋を跳びだすと、山に向かって稲妻のように駆けていった。



 一方そのころ、銀子の懸念どおり、みくには才蔵について氏神を祀る堂のある泉の傍までやってきていた。

「いいか、みくに」

 才蔵はまえを向いたままみくにに言う。

「おれが氏神と戦うあいだ、おまえは茂みにでも隠れていろ。昼間は銀子にやられたが、おれが本気を出せば相手が氏神だろうと負ける気はしねえ。おまえは心配せずに最後まで隠れているんだ」

 わかったな? と、ここでようやく才蔵はみくにに振り向いた。

 みくには大きな目をして才蔵を見返す。みくにの瞳は濡れており、星明かりを映していた。

「ほら、あそこだ。あの泉が氏神の縄張りにちがいねえ……!」

 才蔵は木立のひらけたところで立ち止まり、みくにに遠くに隠れて待っているようにと、顎で茂みのほうを指し示した。

 みくには無言のままこくりと頷き、一目散に茂みへと駆けこむ。

 才蔵は大太刀をゆっくりと構え、腰を落として周囲に気を張る。氏神はいったいどこから現れるのだろうか。そもそも氏神とはいかなる姿をしているものか。才蔵は未知に対する恐怖からくる震えを、唾とともにのみこんだ。

 深呼吸がてら大きく息を吸い、少し溜め、それから大声で叫ぶ。

「氏神の野郎! 狂犬と呼ばれたこの才蔵が、神様気取りのきさまに噛みつくべく参上したぜ!」

 夜の山林に才蔵の声だけがこだまする。しかしそれもすぐにもとの静寂にのみこまれてしまう。

 不意に泉の波面が揺れる。

 才蔵は固唾をのんでそれを見つめる。

 みくにも暗い茂みで息を潜めていた。

 漆黒の林のなかに巨大な水柱が立った。水柱は天に昇る勢いで、あまりの轟音に才蔵は鼓膜が裏返ったような感覚に陥る。

 激しい水飛沫のむこうに巨大な影が見え隠れする。

 まさか、あれが氏神なのだろうか。

 才蔵はただ、その影を仰ぎ見るしかなかった。

 妖艶な女のような口元には濃い紫色の紅。さきがふたつに割れた蛇の如き長い舌がちらりと覗く。

 水柱の収まったあと泉に立ち現れたのは大蛇の姿をした妖魔であった。口元は女のようだが、その顔の上半分は不気味な鱗で覆われている。鱗はそのまま角となって両脇に伸びる。蛇の胴体には巨大な獣の前足が生えており、そのうしろには尻尾が四つ、不気味に揺れていた。

 激臭が才蔵を襲う。涙が流れるのは瘴気のせいか。あるいは現し世にはあり得ない光景を本能が拒否しているからか。

 茂みに身を隠していたみくには氏神のあまりにおぞましい姿に意識が飛びかけていた。

「神様っていうわりにはとんでもねえ化けモンじゃねえか……」

 噛みしめられた才蔵の唇からは赤い筋が流れ落ちた。

 氏神の口元がわずかに歪む。

「誰がきたかと思えば不味そうな人間だこと」

 氏神の声は地獄の胎動にも似ていた。

「風の運んできた匂いでは、もっとマシな人間かと思ったんだけどねえ」

 せわしく舌をちらつかせる氏神の表情を読み取る余裕など、才蔵にはない。

「おれはてめえを……」

 才蔵の目つきはすでに常軌を逸している。

「お春を喰いやがったてめえを、ぶった斬ってやるよッ!」

 才蔵は構えていた太刀をめいっぱいに振りかぶる。

「おやまあ、おまえ、あの女の恋人かい」

 才蔵は加速し、大きく跳躍。

「あの女」

 氏神は大きな獣の手を顎先に当てて、わざとらしく言い放つ。

「あまり上等ではなかったじゃないか」

 才蔵と氏神の距離、実に一〇尺。残りわずかで太刀の間合い。

「やはり喰うのは生娘に限る」

 氏神は大きく舌なめずり。

 才蔵は自分の間合いになったことを確信し、電光石火の早業で太刀を振り下ろす。氏神の眉間を叩くに十分な体勢。まさに復讐の瞬間。

 刹那、才蔵の身体がみくにの視界から消えた。

 一瞬の出来事だった。

 凄まじい速さで、氏神の片腕が横から才蔵を鷲掴みにしたのだ。

 肉と骨が潰れる音が聞こえる。

「あの女はいまいちだったが、腹のなかの赤子はなかなかの味だったよ」

 才蔵の身体は氏神の大きな手のなかで悲鳴をあげる。白目を向いた才蔵の口からは、めきょめきょという気持ちの悪い音が漏れていた。

 氏神は才蔵を握る手をゆっくりとみずからの顔に近づけた。口の端が粘着質な糸を引くようにして徐々に裂けていく。氏神は一瞬動きを止め、その直後、才蔵の上半身に大きく噛みついた。

 みくにの頭のなかは、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。想像しえなかった地獄絵図に、身体は自律を失う。

「やはり、不味い」

 氏神はそう言うと、手の内に残った才蔵の半身を丸呑みにしてしまった。小刻みに身体をぷるっぷるっと震わせると、ほかにも誰かがいると気づいたのだろうか、長い胴体を高く伸ばして周囲に気を張り巡らせた。

 ここで、みくにの意識は完全に途切れた。

「何者だっ!」

 氏神は素早く空を見上げる。

 強烈な閃光が方陣を形成し、氏神を囲いこむ。

「簡易結界か……!」

 氏神が叫ぶや、泉は眩しい輝きに包みこまれた。

「わらわを押しこめる力とは、これはいったい……!」

 結界から放たれる白い光は木々のあいだに伸びていき、黒い瘴気は浄化される。

 氏神は雄叫びをあげると、狂ったように身体をくねらせて泉の底へと潜っていった。

 力なく茂みのなかに倒れたみくにの身体にそっと伸ばされたのは銀子の手だった。銀子はそのままみくにを抱きかかえると、立ち上がって夜空を見上げる。

「遅かったか……」

 それから波紋の残る泉に視線を落とし、

「まさか氏神の正体が狐だったとはな」

 そう呟くと銀子は軽く地面を蹴り、高い木々の枝のうえを器用に渡っていった。



 みくにを抱えたまま村に戻るなり、銀子は怪しい気配を即座に感じとった。大気がいつになく鋭い。銀子の薄皮が音もなく裂ける。

「これは……常世の瘴気」

 銀子は、はっと息をのむ。

「彦兵衛殿が危ない……!」

 茶屋まで一息に駆けた。

「彦兵衛殿!」

 意識のないみくにを両腕に抱えたまま、銀子は足で茶屋の戸を蹴破った。急いで奥の部屋に上がる。

「ああッ!」

 銀子ははたと立ち止まり、布団のうえの彦兵衛を見た。部屋の壁は飛散した鮮血に濡れている。

「なんてことを……」

 彦兵衛の首には大きな裂傷。まだ血が噴き出しているところを見ると、何者かに襲われたのはついいましがたのはず。

 銀子は布団の傍にかがみこみ、強くみくにを抱く。

 黒い瘴気が濃くなっている。

 銀子はけっしてみくにを放すことなく、目に力をこめて外へ跳びだした。

 まちがいない。妖魔の仕業だと銀子は確信する。

 外は月夜。

 空に雲は見当たらぬが、闇に紛れて舞っているのは雪の粉であろうか。月明かりを反射させて、まるで桜の舞い散るが如く、風情を醸しだしている。

 銀子の後方、遠くのほうに気配が立ち現れる。

「あんたが野狐やこ様のおっしゃていた半妖半人の女だね」

 小柄な人影は少年の声で銀子に話しかける。顔は大きな頭巾で隠されており、上下がひと続きとなった大きな服は、けっして人影の正体を明かさない。

「確かにきれいな顔をしているよね。それに、妖気もなかなかに強い」

 銀子は押し黙ったまま人影に向き合う。視線を逸らさぬようにして、腕に抱えたみくにを静かに地に横たえる。

「きさまは鎌鼬かまいたちか」

 銀子は帯に差した小太刀の柄に右手を当て、人影を睨む。

「ふふ、さすがだね。人化していてもあんたにはすぐにバレちゃうみたいだ」

 鎌鼬と呼ばれた人影は、服の裾から鋭く光を放つ刃を曝した。よく見れば、それは刃ではなかった。複数伸びるそれは、人影の指先から生える爪にほかならない。身の丈に不釣合いなほどに長い爪をいたずらっぽく舌で舐める鎌鼬に、銀子は厳しく問いかける。

「なぜだ? なぜに無関係な者を殺しに人里まで下りてきたのだ、イタチよ」

「無関係な者?」

 鎌鼬は無邪気な笑みを口元に浮かべる。

「あの爺さんのことかい? ぼくが関係もない人間をわざわざ斬りにくるほど暇だなんて、あんたもまさか思っちゃいないよね?」

 ふん、と銀子は聞き捨てる。

「あの爺さんはね、一〇年まえ、野狐様に歯向かった者を助けようとしたんだよね。つまり、ぼくたちにとっては邪魔者以外の何物でもないってワケ。そして――」

 鎌鼬がにやりと笑う。

「最近村に入り浸っているあんた。あんたも目障りなんだよね。半妖のクセに、あまり粋がるのはよくないよね。だから今夜、爺さんもあんたも、まとめて殺っちゃおうって思ってさ」

 鎌鼬の周囲に真空の渦が発生する。それは間もなく銀子に襲いかかった。

 銀子は真空の刃を避けるでもなく、体勢を低くして鎌鼬のほうへと大地を蹴る。

 真空の刃は銀子の美しい髪を幾本か宙に散らせる。

「ふうん。ぼくの技を避けることもなく突っこんでくるとはね。あんた、戦い慣れしてるよね」

 鎌鼬は十の爪を銀子に向けて突き出して構えた。

「でも所詮は半妖。ぼくらの餌になるのが丁度の雑魚さ」

 複数の刃は死角から銀子を襲う。

 銀子の右腕が熱を帯びた。素絹に血が滲む。

「ふはは、どうだい! ぼくの爪には瘴気を練りこんだ毒薬が仕込んであるんだよ! 全身の自由を奪う強力な毒さ! もう助からないぞっ!」

 銀子が持つのは小太刀。対する鎌鼬の爪は銀子の小太刀の幾倍もの間合い。勝負は明らかと思われた。

 小太刀の間合いには遥かに遠い。柄に当てている銀子の右手に力がこもる。

「こんな距離で抜刀? まるで大道芸だよね」

 嘲笑う鎌鼬は、しかしすぐに異変を感じとった。

 痛みはなかった。痛みはなかったが、気がついたときにはすでに、鎌鼬の長い爪はすべて斬り落とされていた。

「……えっ?」

 銀子は小太刀を鞘に納めた状態で鎌鼬の眼前に立っている。

 鎌鼬は一瞬の出来事に戸惑いを隠せない。

 銀子は柄に手を当てたまま、鎌鼬を挑発。

「どうした? さっきまでのお喋りはもう終いか?」

 鎌鼬は息を荒くして一歩ずつ後退る。

「あんた、いったい何者なんだ! このぼくにも太刀筋がまったく見えなかったぞ!」

「当然。イタチごときといっしょにされるのは、銀も心外だね」

「それに、傷口から染みこんだ毒の効果がないなんて……! 黒い瘴気の力をのみこんだというのか!」

「うるさいぞ、鎌鼬」

 銀子は素早く抜刀。

 小太刀は月明かりを受けて、眩しく緑の光を放つ。刀身は意志ある鞭のようにしなり、鎌鼬の胴体を捉えた。

 上下ふたつに千切れる鎌鼬の身体。胴から足にかけて、もとのイタチの姿に戻る。少年の顔を歪めながら、鎌鼬の上半身は大きく吹き飛ぶ。

「妖刀……使いとはね……」

 どさりと鎌鼬の上半身が地面に落ち、銀子は静かに小太刀をしまう。

 それからゆっくりと鎌鼬の傍に寄った。

 鎌鼬は消え入るような声で、それでもなお喋りつづけた。

「野狐様が気にされているのも納得……だよね……。あんた、尋常じゃないよ……。あんたはほんとに、いったい……」

 銀子は鎌鼬の顔を踏み潰した。手応え薄く、鎌鼬の身体は霧散する。

 夜空の月を見上げた。大きな満月。

「人間の村でなにが起ころうと銀の知ったことではない。だがこれ以上、妖狐の名を汚す行為を放っておくわけにもいかぬ」



 銀子はみくにを抱えて茶屋に戻り、血の気を失った彦兵衛に術をかけた。

 部屋から血の臭いが消え去り、彦兵衛の首の大傷も嘘のように消えた。幾分か顔色もよくなったように見えるのは気のせいか。

 これ以上みくにに惨劇を味あわせてはならないと、銀子は強く思っていた。黒い瘴気は弱った人間を好んで襲う。いまのみくにに瘴気に抗う力が残されているとは到底思えない。命尽きた者を生き返らせることはできねども、惨状をそのまま残しておくことは避けねばなるまい。

 銀子はとなりの部屋に布団を敷くとみくにを横にして、自分も寄り添うようにして寝た。みくにの髪から、季節に似合わぬ暖かい陽の匂いがした。まなかいにかかったみくにの前髪をそっと指で払ってやり、しろがねよりも黄金くがねよりも尊いその寝顔に愛おしさを覚えた。

金狐きんこよ」

 銀子は静かに呟く。

「あなたの子供はいま、力を必要としている。銀は、そんなみくにの力になれるのだろうか」

 しばらく横になっていた銀子はみくにの穏やかな寝顔を確認すると、静かに布団から抜けでた。

悪狐あっこは速やかに駆逐せねばなるまい」

 銀子は茶屋の外に出て、瑠璃色の帯をきゅっと締める。黒い鞘の小太刀は差してない。みくにの身を案じて布団の傍に置いてきたのだ。

「雲が出てきたな」

 胸には熱き想いを、思考は努めて冷静に。

「みくにを頼んだぞ、夜叉丸」

 銀子の眼差しは遠く山の頂に向けられている。

 狼の遠吠えが物悲しく響いた。

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