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其之参 花散りぬる惜(を)

 新嘗祭において一〇年ぶりに生贄の儀が執り行われることになる。お春はみずから生贄になることを決意するが、才蔵とみくには現実を受け入れることができない。才蔵はお春に過去を打ち明け、ふたりは愛を確かめる。新嘗祭の夜を最期に、お春の姿を見ることは二度となかった。


 その夜、村の年寄会合を終えて茶屋に戻ってきた彦兵衛は、ひどく疲れた様子だった。お春が茶をすすめても無言で断り、誰とも会話せぬまま床に伏してしまった。

「じいじはどうしたのじゃ? 具合でも悪いのか?」

 みくには心配顔でお春に尋ねた。

 お春はみくにの頭を優しく撫でる。

「彦爺だってね、疲れるときはあるもんだよ。村長と彦爺は旧知の仲でしょ? それがかえっていまの立場では厄介なのかもしれないね」

「そうなのか?」

 みくにはきょとんとして訊き返した。

 お春は柔らかい口調で、

「さあ、みくにもそろそろお休み」

 と、布団のほうにみくにを導く。

 みくにはごろんと敷布団に転がると、お春の腹を見た。

「のう、お春。腹ンなかの赤ん坊は動いとるのか?」

 うふふ、とお春は笑う。

「そりゃあ、動くときもあるわよ。ほら」

 お春は横になったばかりのみくにを手招いて呼び寄せると、みくにの耳を自分の腹にそっと押し当てた。

「どう? なにか音がするかい?」

 みくにはお春に抱きかかえられながら、興奮を隠しきれないでいる。

「いったいいつになったらお春と才蔵の子は産まれるのじゃ? そしたらわしがいっしょに遊んでやるぞ」

「遊ぶといっても、みくにと一〇もちがう赤ん坊だよ。走りまわったりはできないの」

 お春はおかしいといったふうに眉をひそめて言った。

 それでもみくには満足そうに微笑むと、再び布団のなかに潜った。



 翌朝早くから、銀子は才蔵を連れて山に入った。平生よりも幾分か奥まで進み、冷たい泉にたどりついた。

「なんだか肌寒いな」

 才蔵は腕を抱えながら辺りを見まわした。

 守成村に流れこんでいる川が泉のむこう側を流れている。

 泉の畔には古びた小さな堂が建てられていた。堂の外壁を取り囲むように、注連縄と呪符が連なっている。

「あの堂が、氏神を祀っているところなのか?」

 才蔵は恐る恐る堂に近づく。

「詳しくはわからぬが――」

 うしろから銀子が答える。

「ただの堂ではなさそうなのは確か。血の臭いがこびりついている」

 才蔵は堂に近づくのをやめ、大きく身震いした。

「氏神だとか儀式だとか、どれもこれも気色わりぃな、まったくよォ」

「才蔵、おぬし、氏神についてなにか知っていることは――」

 そう言いかけた銀子の言葉を遮って、才蔵はなんにも知らないとぶっきらぼうに答える。

「村の連中、おれみたいな余所者にはなにも教えてはくれねえよ。それに、おれが村にきてからはまだ数年だが、一度も生贄の儀なんざ見たことがねえ。はじめからこの村にはお春とみくに以外は婆しかいなかったぜ?」

 銀子は堂を囲う呪符を念入りに調べている。

 才蔵は落ち着かない様子で銀子の背中に呼びかけた。

「なあ、早いとこ村に戻ろうや。なんだかここにいると寒気がひどい」

 風が森を通り抜け、泉をざわわと波立たせた。

 銀子は泉に視線を向けたまま、しばらくじっとしている。

「氏神の姿を見た者はいるのか?」

 銀子が訊くと、才蔵は小首を傾げた。

「神様の姿なんて、そうそうお目にかかれるもんじゃねえだろが」

「それも一理ある」

 銀子は立ち上がり、素絹の皺を延ばすように膝元を払った。

「才蔵」

 銀子の声に、才蔵は、うん? と生返事をする。

「山の散策はきょうで終いだ。生身の人間が瘴気の強い場所に幾度も踏み入れるものではないからな。この数日、目的もわからず連れまわして悪かったな、才蔵」

「なんだなんだ、急にかしこまってよ」

 銀子は涼しく微笑すると、長い銀の髪を風になびかせ、林のなかへと引き返す。不気味な場所に独り取り残されてはかなわぬと、才蔵も小走りに銀子の後を追った。



 みくには川で根菜を洗っていた。白い指先が赤くなり、みくには冷たい風に鼻をすする。

 何気なく顔を上げれば、遠くから村の子供たちが数人、みくにのほうに走ってくるのが見えた。少年たちが自分に手を出してきたら、こんどは冷たい川のなかに突き落としてやろうと、みくには忍び笑いをする。

「やい、怪力女!」

 案の定、少年のひとりがみくにに声をかけてきた。

 みくにはそれを無視して、洗い終えた根菜を小さな籠に移し入れている。

「おまえみたいな南蛮女は、氏神様も好かんそうじゃの」

 大声を出しながら駆け寄る少年に、みくには水飛沫をかけてやった。

「うおっ、冷てぇ!」

 大袈裟におどけてみせる少年は、にやにやしながらこう言った。

「こんどの新嘗祭の生贄だって、氏神様は怪力女なぞ御免じゃと!」

 みくには眉をひそめて訊き返す。

「新嘗の祭りに生贄じゃと? いままでそんなもんはなかったぞ?」

「でもなあ、うちのおとんが言うておったぞ。新嘗祭の夜に、氏神様に生贄を奉るんじゃと。おっとろしいなあ」

「生贄になど誰がなると言うんじゃ!」

「心配せんでもおまえみたいなやつは選ばれんぞ」

 少年は顎を突き出して、みくにを挑発するよう。

 みくには仁王立ちになって少年に叫ぶ。

「ならいったい、誰が生贄になるというんじゃ!」

 嫌な予感がみくにを襲う。

「聞いたとこだとなァ――」

 少年の口の動きが、やけに遅く感じられる。

 子供のみくにでもわかる。単純な消去法だった。氏神への生贄に選ばれるのは村の女に限られる。当然自分のような余所者は選ばれるはずがない。生贄に適した年頃の女といえば、残る候補はひとりしかいない。

「黙れ、黙れっ!」

 みくには籠を放ったまま走りだすと、一目散に茶屋へと向かった。

 目のまえの景色がぼやけていき、まるで世界が反転するかのような錯覚に陥る。それでも走ることをやめなかった。



「じいじっ!」

 引き戸を勢いよく開け、みくには喉を擦りきらせて叫んだ。

 部屋のなかにいた彦兵衛とお春は驚いた様子でみくにを振り返る。

「どうゆうことなんじゃ!」

「とりあえずなかに入って戸を閉めなさい」

 お春はいきり立つみくにに優しくそう言った。

 それでもみくにはその場に立ったまま、ぐじゅぐじゅと鼻を鳴らしている。寒さのせいなのか、鼻水やら涙やらで、顔面の表情がなんとも酷い有り様である。

「太一らから聞いたぞ! どうして生贄なんかするんじゃ!」

 生贄という言葉は、彦兵衛とお春の顔を強張らせた。ふたりとも分が悪そうにうつむく。

「そんなことをしてなんの意味があるんじゃ! 村のモンがひとり、いなくなるだけじゃあっ!」

「みくにや、とにかくなかに入るんじゃ」

 彦兵衛の言葉で、みくには乱暴に戸を閉めると、外履きのまま畳に上がりこんだ。

「わしは……お春が生贄になるなんて絶対に嫌じゃ!」

 取り乱すみくにの姿に、お春は静かに涙を流していた。

 みくにの情緒はますます乱れ、ただひたすらにわめき散らす。

「お春も言っておったではないか。お春のおっかあが生贄になってしまったのが辛いのじゃと。じいじも、じいじじゃ! なんで二度もそんな悲しい思いをせなアカンのじゃ! 大馬鹿者じゃ! じいじもお春も、とんだ大馬鹿者じゃあっ!」

 お春はみくにの傍に寄り、両手でぎゅっとみくにを包みこんだ。みくにの頭に自分の頬を擦りつける。

「みくに、心配してくれてありがとね。だけどね、わたしは死ぬわけじゃあないんだよ。氏神様とお話するために、常世にいってくるだけなんだからね」

「常世なんて、結局はあの世のことじゃろが……!」

 お春の腕のなかで、みくには泣きじゃくる。

 ちょうどその場に帰ってきたのは、銀子と才蔵だった。みくにたちの尋常ならざる雰囲気に戸惑うも、事態がのみこめるや、才蔵までもがわなわなと震えだした。大きな握り拳で柱をどんと殴り、恐ろしい剣幕で彦兵衛に詰め寄る。

「どういうことだ、彦爺! なぜ彦爺まで生贄の儀に賛同しやがった! そこまで村のしきたりが大事なのかよ。おいっ、なんとか言えや、彦爺!」

 彦兵衛に凄んで見せる才蔵に、お春は涙声で訴えかける。

「才蔵、やめて。彦爺はなにも悪くないの」

 手で顔をぬぐいながら続ける。

「生贄の儀のことはね、わたし自身が受け入れたこと」

「なんだと……?」

 才蔵は鼻息荒く、お春を振り向く。

 皆が一瞬静まり返るなか、彦兵衛は大きく息をついてから、やおら口をひらいた。

「年寄会から戻ってのう、わしはお春に言ったんじゃ。才蔵といっしょに村から出ていくように、とな。じゃが、お春は村に残ると言いよった」

「そうよ、すべてはわたし自身が決めたことなの」

 お春はみくにから腕を解いて才蔵に近寄ると、その太い二の腕をぎゅっと掴む。

「もうね、わたしも嫌なんだよ、こんなしきたり。だからわたしが氏神様とお話して、金輪際生贄を喰らわぬようにと、直にお願いしてきたいの」

「……だからって、なんでおまえがその役目をしなくちゃいけねえんだよ。そんなことよりも、おれや……おれとおまえの子供のことはどうすんだよ、お春!」

 黙りこむお春に代わり、戸口に立つ銀子が抑揚のない声で才蔵を制した。

「それ以上はやめておけ。お春の目をしっかりと見よ。死を覚悟した人間に、いったいどんな説得が利くというのだ」

「畜生!」

 才蔵は大声で怒鳴ると、となりの部屋に駆けこみ、壊れるような勢いで襖を閉めた。

 銀子は溜め息をつきながら囲炉裏端に上がり、ゆっくりと腰を下ろした。

「みくに、こっちにおいで」

 銀子はみくにを呼ぶと、柔らかな眼差しを向ける。

「おまえまでそんな顔をしていると、彦兵衛殿やお春がますます落ちこんでしまうよ」

 みくには鼻水を垂らしながら、銀子に向かって言う。

「銀子は薄情じゃ……。お春が生贄になるというのに、どうしてそんな平気でいられるのじゃ……!」

「銀はね、長いこと旅をしているから。他人ひとのことではいちいち感傷的にはならんのだ。そうね。いささか常人よりも薄情なのかもしれない」

 彦兵衛は銀子とみくにを見ると、諭すように話す。

「みくにや。お銀殿は強いお方じゃ。みくにもお銀殿に倣って強い心を持たねばならん。この平安の世も所詮は流砂の塔。義秀様の嫡男であられる秀千代様の都入りについても、種々の勢力による陰謀が渦巻いておると聞く。偽りの安寧はすぐに崩れ落ち、戦国の時代よりも苦しい世のなかがやってくるじゃろう。わしはそう感じておる。じゃからな、みくに、おまえはお銀殿のように強い心を内に持って生きていかねばならん」

 重い雰囲気のなか、お春は無理やり笑顔をつくり、なにかを思いついたように手を鳴らした。

「さ、とりあえず夕飯の準備でもしなくちゃね。ところで、みくに。お芋はどうしたんだい?」

 そんなものは川に置いてきたと、みくには目を腫らして答えた。

「駄目じゃない、食べ物を粗末に扱っちゃ」

 お春に促され、みくには置いてきた野菜をとりに渋々茶屋を出ていった。

 みくにが去ったあとの部屋には沈黙が居座り、鼓膜が破れたのではと錯覚するほど。

 となりの部屋にいるはずの才蔵も、物音ひとつたてない。

 茶屋のなかはひどい圧迫感で押し潰されんばかりだった。



 夕飯時も、才蔵は部屋から出てこなかった。

 四人は一言も声を発さずに、黙々と雑炊を食べた。こんなに不味い雑炊はいまだ口にしたことがないと、みくにはこみ上げる胃液を飲みこんだ。雑炊が、ともすれば吐瀉物のようにも見えてくる。

「お腹に入らないのなら、無理しなくていいのよ」

 箸の進まないみくにに、お春は優しくそう言った。反応のないみくにの姿を見てから、お春は雑炊が半分ほど残っているみくにの器を静かに下げた。

 彦兵衛が身体を折り曲げて咳きこんでいた。

 お春は炊事場に皆の器を運んだあと、となりの部屋に篭りきりの才蔵の様子を窺うため襖のむこうを覗いた。

 才蔵は灯りも点けず、薄暗い部屋のなかで片膝を立てて座っていた。傍にはいつも背負っている大きな太刀が置かれている。

 お春がなかに踏み入れてゆっくりと襖を閉めると、部屋は再び闇に沈んだ。才蔵の気配を探り、その向かい側に正座する。しばらくすると夜目が効いてきて、かろうじて才蔵の輪郭を捉えることができるようになった。

 お春は過呼吸のように何度も何度も肩を上下させてから、息を整えてようやく一言、才蔵、と呼びかけた。いったん声を出してしまえば、そのあとは想いが自然と口を突いて出てくる。

「愚かな選択しかできないわたしを許しておくれ」

 才蔵は黙ったまま返事をしない。お春のほうを見ているのかどうかも判然としない。

「でもね、氏神様から逃げだそうとしても、結局は末代まで呪われてしまうんだよ。そう、生贄に選ばれるのはもはや定め。定めから逃れては人の世の輪廻からはずれてしまうのじゃないかしら」

「定め……か」

 ようやく才蔵は口をひらいた。

「定めなんざクソ喰らえだ」

 お春にも次第に才蔵の姿がはっきりと見えてきた。

 才蔵は強い視線をお春に投げかけている。

「おれは……ゴミのような自分の定めを、みずからの手で変えることができたと信じていた。それは、お春、おまえに出会ったからだ」

 才蔵は唇を噛みしめる。

「おれはおまえに話したな、都で侍をやっていたと」

 お春は小さく頷く。

「だがな、あんなのは嘘っぱちだ。おれは侍などという堅気じゃあなかった。都への道中に縄張りを持つ盗賊の一団をまとめていた。そうだ、おれは下賤な盗人だったんだよ。侍なんかとは似ても似つかねえ、旅商人や目障りな同心どもを片っ端から襲う下劣な生き方よ」

 才蔵は一呼吸置いてから、わずかばかりお春に詰め寄る。

「あの日、おれが村のはずれで倒れていたのはな、おれたち盗賊団の根城が奉行所の奇襲を受けたからだ。おれの仲間は次々と殺され、戦いのなかで妹の行方はわからなくなっちまった。大きな傷を負ったおれも、命からがらここまでたどりついたところでいよいよ力尽き、倒れた。

 だが、次に目を覚ましたとき、布団で横になるおれを見て微笑んでいたのは、お春、おまえだったんだ。誰からも避けられていたおれに、心から接してくれた初めての女――おれが盗賊であることを知らぬ人間ゆえの優しさと思い、事実を内に隠したまま、きょうまでやってきたが……もう、隠し事をする必要もなくなったってわけだ」

「……とっくに気づいていたよ」

 お春は子供に接するように笑みをこぼした。

「あんたがお侍でないことくらい、世間知らずのわたしでもすぐにわかったよ。ほら、村には本物のお侍様もやってくることがあったからねえ。あんたの姿格好や横に転がっていたその大きな太刀は、まるでお侍のものとはちがうと、すぐに気づいたさ」

 才蔵は怪訝な表情でお春の顔を覗きこむ。

「でもね――」

 お春は才蔵を真っ直ぐ見返して言った。

「わたしは才蔵がお侍だったからって親切に振る舞ったわけではけっしてない。それくらいわかってよ。わたしはね、あんたが必死に生きようとする姿に、心打たれたの」

 才蔵は柄にもなく情けない顔をしてお春に迫る。

「ならば、なぜおまえは生きようとしない? なぜそんなにも死に急ぐ? それが……それがおまえの言う定めというものなのか!」

 そうよ、とお春は軽く受け流した。

 定めとはかくも非情なり。

 才蔵は涙を堪える。

「結局はおれも過世すぐせに縛られているのだな……。ようやく掴みかけた幸せも、いとも簡単に指の隙間からこぼれ落ちていきやがる。結局おれには盗賊相応の生き方しかなかったんだよ。ふつうの男のようにひとりの女を娶り、その子供を育てるといった生き方は、おれには用意されていなかったんだよ、はじめからなっ!」

 次第に怒りが混ざりはじめた才蔵の声に、お春はそっと手を差し伸べ、彼の頬に優しく触れた。

 お春の冷たい指先の感触が才蔵の頬を伝わり、今まで栓をしていた才蔵の涙腺が一気に緩む。

「そんなことはない」

 お春は自分に言い聞かせるように呟いた。

「そんなことはないよ、才蔵。あんたは十分、一端の男の生き方をしてるじゃないか」

 才蔵は大きくかぶりを振る。

「ちがうんだよ、お春。おれはそんなきれい事じゃあない、目に見える、手で触れられる幸せが欲しいんだよ、わかってくれよ、お春! おれはおまえが好きなんだ、おまえがいないと、今の理性を保つ自信が欠片もないんだよ、お春! おれを置いていかないでくれ。子供を連れてふたりで遠い常世にいくなど、悲しいことを言ってくれるなよ!」

 才蔵はお春を力いっぱい抱き締める。お春も細い腕を才蔵の大きな背中にまわし、ふたりは身体を寄り合わせる。

「わたしも才蔵のことを愛しているよ」

 才蔵は定めという言葉が憎くてたまらなかった。定めがいったいどれほどのものだというのだ? 自分の力を以ってしても断ち切れぬほど強固なものなのだろうか?

「才蔵」

 お春は遠くに呼びかけるよう、才蔵の名を何度も呟いた。それから、

「わたしがいなくなってもね、けっして村の者や氏神様を恨んではいけないよ。わたしのためなんかに、あんたの手を汚してはいけないんだからね、絶対に」

 お春に言葉を返す代わりに、才蔵は強くお春の唇を吸った。



 新嘗祭の夜を迎え、村じゅうが通夜のようだった。

 本来、その年に収穫した新穀を神に供えて豊穣を感謝するものであった新嘗祭。だが守成村では、氏神に村の若い女を差し出す風習と為り変わり、古くから伝えられてきた。村の女がほとんどいなくなってしまったのも、まさにその特異な新嘗祭が理由にほかならない。

 村全体の平穏無事を保つためには避けられない儀式と心得ていた村人たちであったが、それでもお春の姿を見ると、目を向けてはいられない心苦しさに苛まれる。一〇年ぶりの生贄の儀とは、それほどに重い。

 陽が山のむこうに沈み、辺りに冷気が漂いはじめるなか、お春は純白の襦袢に身を包み、広場に集まる村人たちのまえに現れた。白く化粧したお春の顔は、すでに現し世のものではないように見えた。遠くを見つめるお春の目に映るのは、愛する者か。懐かしい故郷の空か。血にまみれた己の亡骸か。

 広場までは彦兵衛とみくにが付き添った。そこからさきは、新嘗祭を取り仕切る村長の使いの者がお春を引き連れ、山中、泉の湧き出るところの傍にある堂まで向かうことになる。

 ぱちぱちと音をたてて燃える焚き火に浮かび上がるお春の顔は、心なしか笑っているかのように暗闇に映える。

 広場に才蔵の姿はない。ずっと独りで茶屋に篭っているらしいことを、銀子がみくにに教えてくれた。

「さあ、そろそろ時間だべ」

 使いの者たちがお春の両脇に立ち、感情を押し殺した口調で言った。

 広場の中心にこさえられた火が、ひときわ大きく燃え上がる。

 そのときだった。

 広場に集まる村人たちの背後からお春の名を叫ぶ声がした。

「……才蔵!」

 村の若い衆の腕を振り払いながら叫ぶ才蔵の姿が、お春の目に飛びこんできた。とうに決めていたはずの覚悟が崩れそうになる。化粧を汚してはならないと思い、お春は必死に平静を装う。これ以上言葉をつむげば涙が流れてしまいそうだと思った。

 幾人もの村人に取り押さえられて地に伏した才蔵は、顔だけお春に向けたまま、何度もお春の名を呼ぶ。

「お春! いかないでくれ! おれを独りにしないでくれよ、お春ーっ!」

 誰かが木の棒で才蔵の頭部をがつんと殴った。

 みくには思わず目を背け、彦兵衛にしがみつき顔をうずめる。

 彦兵衛はみくにを力いっぱいに抱き締め、現し世に別れを告げた孫娘の姿を遠い目で見つめていた。

 極光にも似た幕が夜空を覆い、銀子は深く息をつく。

 月の奏でる調べは壊れそうなほどに繊細だった。

 それに誘われるようにして、村人のあいだから不思議な唄が流れ出る。

 この夜が、お春の姿を見た最後となった。

 花が散れば二度ともとには戻らぬように、一度過ぎ去った春は二度と戻ってはこないのだと、みくには知った。これから訪れる冬の季節が未来永劫続くのかもしれない。

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