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其之弐 死せる神、座してなお

 銀子は、瘴気によって命を落とした友のため、瘴気の真実を求めて旅していることを才蔵に語る。守成村には古くから、稲荷神いなりのかみに似た氏神に捧げる生贄の儀があることを彦兵衛から聞かされる銀子。銀子は妖刀・夜叉丸やしゃまるを携え、妖狐の気配を感じとる。


 時の将軍・武川義秀は、不思議な力を持つ武具に異常なまでの執着を見せているという。幕府が暗に妖刀の類を集めてまわっているという噂がまことしやかに語られているのも、あながち的外れなことではないのであろう。

 才蔵が背負う大きな野太刀は果たしてどうであろうか。義秀が興味を持つ武具の類なのかもしれないし、あるいはまったくそうではないのかもしれない。刀と呼ぶにはあまりにも刀身が広く、むしろそれは、敵を叩き潰すための武器にも見えた。力のある者でなければ持ち上げることすら困難であろう野太刀を、才蔵は自在に扱うことができるのだ。

 しかしそんな才蔵でも野太刀を背負って山中を歩くのは骨が折れた。

 銀子が携えているのは小太刀のみ。

 どんどんさきを急ぐ銀子を見失わぬよう、才蔵は必死に足を進める。筋肉が悲鳴をあげている。

 守成村に滞在するあいだ近くの山々を散策したいと言い出したのは銀子だった。

「いくら旅慣れたお銀殿とはいえ、女の身ひとつで入山するのはいかがなものか。山の神の罰が当たらぬとも限らぬゆえ」

 彦兵衛の提案に賛同したのは才蔵。

「銀子、おれはまだあんたを信用したわけじゃねえ。山に入ってなにをするのか、おれが監視役になってやんよ」

「先日も村の者が山に入ったきり帰ってきておらん。くれぐれもお気をつけなされ、お銀殿」

 才蔵ほど腕のたつ者が同行すればよほどのことがない限り安全であろうと彦兵衛もお春も考え、銀子の入山に才蔵がついていくこととなったのである。

 銀子は時折立ち止まってはなにかを探すように首を左右に動かし辺りを観察する。そうかと思えば、しゃがみこんでは獣の足跡を追うような素振りを見せる。

「なあ、あんた」

 才蔵は銀子に追いつくと呼びかけた。

「あんたがこの村にやってきた目的を少しくらい話してくれたっていいんじゃねえのか?」

 法衣の裾を抱えて地面を探っていた銀子はゆらりと立ち上がり、才蔵を見返した。

「すでに話したろう。銀は古い友人の軌跡をたどっているだけ。それ以外の目的はなにもない」

 才蔵はふんっと鼻を鳴らす。

「あくまでもシラを切る気か。まぁいい。いずれ素性が割れるってもんだ」

「ああ、そうだね」

 銀子は伏目がちに涼しい表情をつくった。

「才蔵、おぬしこそ大きな嘘をついているのではないか?」

 才蔵は、なに? と顔をしかめる。

「みくにが言っていたぞ。おぬしが都で侍をしていたと。だがそのわりには、おぬしの立ち居振る舞いは侍の形式とはまるで異なるように見えるが、気のせいか?」

 銀子が才蔵に目を向けると、才蔵はすっと視線を逸らした。

「……それにその大きな太刀。侍がそのような太刀を使うとは到底思えぬ」

「勝手を言いやがれ。侍っていってもな、世のなかにはいろんなのがいるんだよッ」

「それは失礼した」

 銀子は踵を返して再び歩きだした。

 才蔵は銀子のうしろについていきながら、木々の合間から空を見上げた。太陽が傾いてきていた。

 粗末な衣服で防ぎきれるほど山風は優しくない。

 才蔵は小さく身震いした。背中がぞくぞくする。気がつけば、嫌な汗が背筋を伝って流れていた。

 まえを見れば、銀子も才蔵と同様、先刻までとは異なり全身をにわかに緊張させている。

 才蔵ほどの者であると、相手の背中を見れば大概のことはわかる。

 銀子は才蔵に背を向けたまま呟いた。

「死臭が漂ってきている」

 才蔵は鼻をひくひくさせて臭いを感じとるよう努めてみたが、死臭どころかなんの気配も感じられない。

「……死臭だと? 夏の暑い日じゃあるまいし、死肉がひどく腐敗することなどあるはずねえ……」

 そうは言いながらも、才蔵も無意識のうちに右手を背中の大太刀の柄に当てている。

「まさか……」

 才蔵はごくりと唾を飲みこむ。

「瘴気が……黒い瘴気が近づいてきているのかッ?」

 才蔵が言葉を終えるよりも早く、銀子は腰を落として構えた。

「才蔵! 下がっていろ!」

 銀子の叫ぶ声を合図に、前方の地面が盛り上がる。

 巨大な蜘蛛の化け物が姿を現した。化け物は声ならぬ声をあげて、大きく身体を揺すぶる。

 先程までは気づきもしなかったが、いまや強烈な腐敗臭が才蔵の鼻腔を刺激する。淀んだ大気が目に染みて、才蔵は知らぬうちに涙を流していた。

 不気味な巨大蜘蛛は切子を爪で引っ掻いたような咆哮とともに、銀子めがけて複数の腕を四方から振り下ろす。

 ほんの一振りだった。

 銀子は帯から素早く小太刀を抜き、そのまま流れるような動作で、襲いかかる蜘蛛の腕を切り落としたのだ。

 蜘蛛は悲鳴にも似た金切り声をあげて身体を大きく反らした。ぼとぼとと地に垂れる土の身体はまるで腐った肉のよう。

 残った腕を振りまわしながら暴れ狂う化け物に対して、銀子はそれでも冷静でいる。大地をとんっと蹴り、身の丈を遥かに凌ぐ跳躍をする。空中でくるりと身体を回転させると、純白の法衣が美しくひるがえった。

 才蔵は夢を見ているような心地だった。だとすればそれは、とびきりの悪夢にちがいない。

 優雅にはためく法衣に隠れて、鋭い光が才蔵の目を射る。

 銀子の小太刀だった。

 跳躍した勢いそのまま、蜘蛛の胴体に切っ先を通していく。

 銀子が切り裂いた蜘蛛の身体からは、どす黒い霧が立ち昇る。

「なんなんだよ……」

 才蔵は間の抜けた声を発していた。

 銀子が着地すると同時に蜘蛛の化け物は崩れ落ち、そのまま黒い霧となって宙に消え入った。

 すべては寸秒の出来事。

 さきに声をかけたのは銀子のほうだった。

「才蔵、だいじょうぶか? 黒い瘴気にあてられてはないか?」

 才蔵は荒い呼吸を繰り返しながら、心配ないとだけ答えた。

「そろそろ日も暮れる。きょうのところは村へ戻ろう」

 銀子はそう言うと、何事もなかったかのようにもときた道を引き返しはじめた。

 才蔵の心臓は激しい鼓動をまだやめない。

 才蔵は小さな常世とこよの者どもを斬ったことはあったが、あれほどまでにおぞましい化け物はいまだかつて見たことがなかった。銀子はそれをいともたやすく倒したのである。そのことが才蔵の心中をますます揺さぶった。

 山がちな帰路も終盤にさしかかり、目のまえに守成村の景色がひらけてきた。

「……なぁ」

 才蔵は不意に呟く。

「あんた、ほんとにいったい何モンなんだ?」

 銀子は才蔵の問いかけに耳も貸さず、茶屋を目指す。

「人間離れした身のこなし……それに、化け物の放つ妖気にもまったくひるむことがねえ……」

 銀子は長い銀の髪を左手でさっと払うと、才蔵を振り返って目を細めた。

「すべては慣れるもの。おぬしは知らぬかもしれぬが、いま、この現し世には常世の者どもが溢れている。さきの蜘蛛の妖魔程度のやつは、これまでにも幾度となく相手してきたよ」

 髪の合間から、銀子の細く白い首筋が覗いて見えた。

 まるでこの異国の女こそが化け物のようだという畏敬にも似た思いを、けっして口には出せぬ才蔵であったが、胸中ではその感触を何度も反芻した。



 彦兵衛の茶屋に戻れば、ちょうど夕飯の支度をしているところだった。辺りには野菜を煮る甘い匂いが漂っている。

「銀子、やっと帰ったか!」

 一番にふたりを出迎えたのは薄汚れた緋色の着物に身を包んだみくにであった。まくしあげた袖から伸びる腕が大きく擦りむけている。

「銀子も才蔵もおらんかったから、暇で暇で死にそうじゃったぞ」

 才蔵は野太刀を背中より下ろしながら、腰を落としてみくにに手を伸ばす。

「それならみくに、おまえもお春の手伝いをして料理でも覚えればよいだろが」

 才蔵はみくにの赤黒く擦りむけた右腕をとる。

「いつまでほかのガキどもと喧嘩ばかりしているつもりだよ? いずれ女の力じゃ男にかなわなくなるんだぞ?」

 みくには才蔵に、いーっと歯を見せてから銀子に抱きつく。

「ええんじゃええんじゃ! 料理などできんでも、わしは困らんのじゃ! 太一たちをぶっ飛ばすほうがよっぽど性に合っておるぞ!」

 そう息巻いていたみくにだったが、銀子に優しく頭を撫でられると、とろけるような笑みを浮かべた。

 銀子の帰りが待ち遠しかったのか、夕飯時、みくには雨嵐の如く喋り散らした。よほど喋り疲れたのであろう、食事を終えるやいなや、みくには部屋の隅に敷いてある布団に転がりすうすうと寝息をたてはじめた。

 才蔵はなにも喋らぬままとなりの部屋にいくと、ぴしゃりと襖を締めきってしまった。

 囲炉裏の炎がぱちぱちと音をたて、静かな夜であることをいっそう際立たせる。

 湯呑みを置いて、銀子が尋ねた。

「みくにはいつも喧嘩ばかりしているのか?」

 お春は彦兵衛と顔を見合わせてから困ったように答える。

「そうなのよ。みくにったら、毎日毎日、村の子供たちと喧嘩ばかり。怪我をしないか心配でたまらないわ」

 お春は一口、茶をすすってから続ける。

「でもね、あの子。なぜかはわからないけど、どんな男の子よりも喧嘩が強いの。いつも誰と喧嘩してもみくにが勝ってばかり。ほんと、どうなってるのかしらね。あの子、身体だって華奢なのに。どこからそんな腕っ節の強さが出てくるのか不思議でならないわ」

 笑い話のように喋るお春とは対照的に、銀子は表情を変えぬまま訊く。

「ときに、どうして彦兵衛殿がみくにの面倒を看ているのだ? 話しにくいことならば無視してもらって結構」

 笑っていたお春はとたんにおとなしくなった。助け舟を求めるように彦兵衛を見る。

 しばらくの沈黙のあと、彦兵衛が溜め息混じりに話しはじめた。

「あれは確か、才蔵が村にくるまえじゃから一〇年ほどむかしのことかのう。村の入口に赤子を抱えた若い女がやってきた。みくにの母君じゃ。お銀殿には話しても関係のないことじゃが……」

 銀子はじっと彦兵衛を見たまま次の言葉を待っている。

「みくにの母君は、お銀殿と瓜二つじゃった。姿も顔立ちも、それはもう、双子の姉妹のようじゃった。な、お春?」

 お春は静かに頷く。

「ただ、お銀殿とみくにの母君でちがうのは、髪の色じゃ。お銀殿は雪のような白。対してみくの母君は、太陽のような、まるで向日葵の花のような髪の色じゃった。みくにの髪の色は、母君から受け継いだものじゃろうて」

「……で、その母親は、なぜにみくにを残して消えたのだ?」

 銀子の言葉に、彦兵衛は力なく首を振った。

「病じゃ」

 大きく息を吸い、

「ひどい病に冒されておっての、数日のあいだ、なにかにうなされるようにしておったが、結局はみくにを残して亡くなってしもうた」

「それで、彦兵衛殿がみくにを実の子供のように育ててきた、と」

 彦兵衛はことさら豪快に笑って見せる。

「みくにはわしの大事な子じゃ。血はつながっておらずとも、わしら家族の絆はまやかしなどではないわい」

 みくには幸せ者だなと銀子も頬を緩めた。

 お春は立ち上がり、銀子さん、と呼びかけた。

「そろそろお休みになります? ちょっと才蔵をこっちに呼んでくるからね、となりの部屋でゆっくり休んでくださいまし」

 銀子は小さく頭を下げた。



 翌朝、衝撃が村じゅうを巡った。

 数日まえに山に入ったきり音沙汰なかった村の者が、見るも無残な姿で発見されたのである。

 ただの怪我ではなかった。

 才蔵と銀子が、村に運ばれてきたばかりの茣蓙にくるまれた件の遺体を見たところ、遺体の頭と腹だけが引き裂かれており、柔らかな脳髄や臓物がすっぽり抜け落ちていた。

 才蔵は眩暈がした。誰かの吐瀉物が才蔵の草履を汚す。向かいで必死に嗚咽を堪えているのは死んだ男の兄だという。

 人山を切りひらくようにして現れたのは、ひとりの年老いた男だった。

 老夫を見た誰かが村長むらおさと声をあげる。

 村長と呼ばれた老夫は野次馬を追い払うようにしてから、遺体にそっと茣蓙を掛けなおした。

「お怒りなのじゃ……」

 村長は誰に言うでもなく呟いた。

「氏神様がお怒りになっておるから天罰が下ったのじゃ……」

「最近、黒い瘴気がますます濃くなってきている気がしてならねえんだ」

 村人のひとりが口をひらく。

「おれのところのガキもいっこうに熱が下がらねえ。このままじゃ危ねえと思っていたが、考えてみれば、それも氏神様が怒っていなさるせいなのかもしれん」

 村長は残った連中をじろりと見まわすと、最後に才蔵と銀子に目を留めた。そして苦々しい口調で言う。

「よそ者は、去ねい」

 銀子はじっと村長を見返したが、やがて村長は銀子たちに背を向けてゆっくりとその場から去っていった。

「こんどの新嘗祭でやるしかなかろうて……」

 そんな言葉を残しながら。

 それを聞いたほかの村人たちは皆うつむいたまま、聞いてはならぬものを聞いてしまったような、それでいてどこか救われたような、複雑な表情を浮かべていた。



 その日はさすがに外で遊びまわる子供の姿はなく、みくにも茶屋で退屈そうに過ごしていた。

 南中時を過ぎ、みくには思い出したように提案する。

「そうじゃ! 草団子じゃ! じいじ、わしは久々に草団子が食べたいぞ!」

 最近とんとつくってないからねえ、とお春も草団子を催促するように口添えする。

 彦兵衛はやれやれといった物腰で、茶屋の奥に姿を消した。

 才蔵は村の警護が日課となっているため、茶屋にいるのは女三人と彦兵衛だった。

 お春は店先に腰掛けて、空を眺めながら銀子に言う。

「銀子さんのように、都から行き来する旅のお人が村を通ることがあるのだけどね、そんなとき、彦爺は決まって草団子を振る舞うの」

 みくにはお春の横に飛び乗る。

「でもね、近頃は瘴気があちこちから湧いているご時世でしょう?」

 お春は笑顔のみくにを見つめながら話を続けた。

「いまでは村を訪れる旅のお人もめっきりいなくなってしまってね。むかしはわたしたちもよく口にする機会があったのだけどねえ、草団子。最近食べたのはいつだったかしら」

 しばらく三人は他愛ない談笑にふけっていた。

 四半刻ほどが過ぎ、彦兵衛が茶と団子を三人分用意して現れた。

 みくには大きく伸びをして顔を輝かせる。

「美味そうじゃのう!」

 めいめいが皿を手にし、団子を頬張る。

 みくにとお春は久々の味に満足げな表情。

「つぶあんが絶品じゃ!」

 歓喜するみくにとは対照的に、銀子は平生と変わらぬ様子だ。

 そんな銀子の姿に少々拍子抜けしたみくにとお春だったが、銀子の次の言葉を聞き、思わず吹き出してしまった。

「銀は甘いものが苦手なのだ……」

 銀子が申し訳なさそうに差し出す皿の団子を、みくには遠慮なく手にとって口に入れた。



 奇怪な出来事があっても夜は同じように更け、やがていつもと変わらぬ朝を迎えた。

 次の日も、銀子は理由も言わぬまま山のほうへと出掛けていく。

 才蔵も当然のように銀子についていった。

 冬空は濃い藍を呈していて、雲がきれいな尾を引いている。気持ちのよい空だった。

 村の子供たちは大人の心配などどこ吹く風で、普段と同じようにはしゃぎまわっている。いつもみくにと喧嘩しているというのは、あの少年たちだろうか。銀子はそんなことを考えながら、どうしても腑に落ちない点がみずからの胸中にとどまっているのを自覚していた。

 山に入っては、前日と同様、銀子はなにかを探すように歩きまわった。

 才蔵は首を鳴らして、言う。

「なあ、あんた。黒い瘴気についてなにか知ってるんだろ?」

 銀子はそびえ立つ山々を望みながら、なにが言いたいのだと逆に訊き返す。

「いや、なに、あんたは化け物退治にも慣れているようだしな。あんたの旅の目的と黒い瘴気とは、なにか関係があるんじゃねえかと思っただけだ」

 銀子は才蔵を直視する。

「才蔵。おぬしは黒い瘴気の正体を知っているか?」

 知るわけねえだろ、と才蔵は鼻で笑う。

 銀子は神妙な面持ちで語りはじめた。

「黒い瘴気とは、平安の世に巣食う悪しき情念。天下分け目の大戦を終え、大義名分のもとに命を賭ける生き方が世から消えた。人間の心はかえって荒み、その荒んだ心が常世の者どもを目覚めさせる。結果、現し世の存続が危うくなっている。人間の多くは現し世の危機に気づいておらず、黒い瘴気はゆっくりと確実にこの世を覆うのだ」

 才蔵は怪訝な顔をする。

「そんなのいまの時代にはじまったことじゃねえだろが。どんな時代だって人間の本質はたいして変わっちゃいねえ。それなのに、なぜいまになって化け物どもが動きだすんだよ?」

「それを知るために、こうして真実を求め、銀は旅している」

 銀子はそこまで言うと、才蔵から視線をはずした。

「銀の友も瘴気にやられて命を落とした」

 ふたりのあいだに沈黙が流れ、葉擦れの音だけが辺りに響き渡る。

「さあ、そろそろ帰るか。あんな事件のあとだ。みくにもお春もおぬしを心配しておるぞ」

 歩きだす銀子の背中に向かって、才蔵は感情を押し殺したような声を絞りだした。

「おれは怖いんだ……」

 顔を歪める。

「おれは、いざあんな化け物が村を襲ってきたときに、お春や彦爺を守りきる自信がねえ……! 強さだけが自分の証だと思っていたが、あの蜘蛛の化け物を見たときに、おれは身体が震えて動くことすらできなかった」

 両拳を握りしめる才蔵の姿を振り返り、銀子は優しく諭す。

「妖魔を斬ることだけが愛する者を守るということではなかろう。守る術はほかにいくらでもある」

「おれは頭がわりぃンだよ」

 才蔵はふてぶてしくこぼした。

「見ればわかる」

 と、銀子はためらいもなく。

 ひときわ冷たい風がふたりのあいだを通り抜けていった。



 夜はいつもの粟の雑炊であり、毎度変わらぬカブや大根が入っているだけのものだった。それでもみくには美味そうに雑炊を平らげ、湯も浴びぬまま床に就いてしまった。

 才蔵が平生よりも落ちこんだ様子であるせいか、彦兵衛やお春も心なしか口数が少ない。

 銀子は順に三人を見ると、誰に言うでもなく呟いた。

「この村についてからずっと気になっていたことがある。訊いてもよいか?」

 お春は小声で才蔵になにやら話しかけている。

 彦兵衛が我に返ったようにはっとして、頷いた。

「なんじゃ、お銀殿? 遠慮なく申しなされ」

 彦兵衛が銀子を一瞥すると、銀子は目にかかった前髪をすっと払い、口をひらいた。

「みくにはいつも村の子供たちと遊んでいるが、銀が見る限り、女子はみくにしかおらぬようだ。いや――」

 銀子は切れ長の目で彦兵衛を直視する。

「子供だけではない。この村では女の姿をほとんど見かけぬ。みくにとお春、それから幾人か年老いた者がいるのみ。小さな村とはいえ、あまりにも不自然ではないか」

 才蔵と夫婦の会話をしていたお春も、話をやめて銀子を見ている。

「ふむ……、やはりお気づきなさったか」

 意を決したような表情の彦兵衛に対し、お春は首を横に振ってなにかを伝えたが、それでもなお、目を閉じた彦兵衛は言葉を続ける。

「この土地には古来、氏神様がおられてのう。稲荷神いなりのかみにも似たお姿の氏神様と言われておるのじゃが……これがちょっと困ったもんでな」

 彦兵衛は言葉を選ぶようにして、ゆっくりと言った。

「人を喰らうのじゃ」

 銀子の表情がにわかにけわしくなる。

「この守成村には悪しき風習が残っておってのう。生贄の儀じゃよ。事あるごとに村の女を氏神様に差し出しておったが、その結果、いまではご覧のとおり、村の女衆はほとんど絶えてしもうた」

 銀子は苦々しい表情で口を挟む。

「生贄だと? そんなものを求める氏神など聞いたことがない。ましてや稲荷神と言ったな、彦兵衛殿?」

 彦兵衛はゆっくりと頷く。

 銀子の鋭い眼差しは彦兵衛を捉えたままだ。

「人を喰らうこともある妖狐だが、白狐びゃっことなれば話は別。人を食するような低級な輩が白狐であるはずがない」

「わしらもな、生贄を喜んで差し出しておったわけではない。じゃが、昨今のこの有り様じゃ。黒い瘴気がたちこめるようになり、氏神様のお考えにも変化があったのやもしれん。生贄の儀をしばらくのあいだやめておったせいか、不可解な出来事が茶飯事の如く起こるようになってきたのじゃ」

「きのうのように村人が喰い殺されるということか?」

「それだけではない。原因不明の病に侵されたり、あらゆる作物が一夜にして枯れてしもうたり、悪しき兆候が頻発するのじゃよ」

「だが、それが氏神と関係するとは限らんだろう?」

「それはそうじゃが……」

 彦兵衛は言葉を濁す。

「確かなことは誰にもわからぬが、生贄の儀を行っていた時分にはそのようなことがなかったのは事実。村の者は生贄以外、ほかに手立てを知らぬのじゃよ」

「馬鹿馬鹿しい」

 そう吐き捨てた銀子はすっと立ち上がり、引き戸に手をかけた。

「銀子さん?」

 お春が心配そうな顔で銀子を見上げる。

「なに、しばらく夜風に当たってくるだけ。心配はいらぬ」

 銀子はそう言うと、外の闇に姿を消した。

 残された三人は互いに顔を見合わせる。

「彦爺」

 才蔵が呼びかける。

「なにも旅の人間に話すこともなかったんじゃねえか?」

 彦兵衛は湯呑みを静かに置くと、小さく笑った。

「そうじゃな、才蔵。おまえさんの言うとおりかもしれん。じゃがわしは――」

 才蔵もお春も黙ったまま彦兵衛を見つめている。

「お銀殿に不思議な縁を感じてのう。わしはお銀殿になにかを期待してしまっているのかもしれん。あのお人なら、わしらを忌々しい呪縛から解放してくれるかもしれんと、いつの間にかそう考えていたのやもしれぬ」

 才蔵は大儀そうに首を鳴らす。

「まあ、彦爺がそう思うのも無理はねえな。おれも銀子の異様な強さにはなにか神懸ったものを感じてならねえ」

 ふたりが思いつくまま喋るなか、お春は湯を浴びてくると言って部屋をあとにした。

 彦兵衛はお春の出ていった中空にぼんやり視線を漂わせながら、身体を震わせて言った。

「お銀殿には申し訳ないが、あのお人にはどうしてもなにかを期待してしまう気持ちが抑えられんでのう……」

 それから顔を上げて、強い目をする彦兵衛。

「わしの娘――お春の母親も、生贄となり命を落とした。わしはそれが悔しくてならん。心のどこかで氏神様を討ちとってくださる者の存在を願っているのかもしれぬ」

 才蔵はあぐらをかいた膝のうえ置いた自分の拳を見つめながら奥歯を噛みしめた。



 晴れた日の夜はことさらに冷えこむ。

 銀子の吐く息は暗闇のなかでもはっきりと見え、それは大気の冷たさをいっそう物語る。茶屋から村の真ん中に向かって歩きながら、銀子は誰かに話しかけるように独り呟く。

「あの話、村の者が言う氏神とやらは妖魔にちがいないと思うが、夜叉丸はどう考える?」

 しばらくしてから、銀子は小さく笑った。

「ふふ、別に村の人間に情が移ったわけではない。銀はいちいち小さな厄介事に付き合うほど義理堅くはないからね」

 だけど、と夜空を見上げる銀子。

 澄んだ空気の守成村は満天の星空を銀子に与える。

「銀は、あのみくにという子が気になるのだ。みくにはやはり――」

 銀は言葉を途中でのみこみ、いつの間に浮かべていたのであろう、目の淵に溜まっていた涙を指先でぬぐう。

「相変わらずおまえは無口よの、夜叉丸」

 それだけ言うと、銀子は素絹の襟元をきゅっと寄り合わせた。

「月が大きく浮かんでいるな」

 白い光は銀子の素絹に銀河を映しだしていた。

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