9話 空路船の朝
朝日が雲海を金色に染めていた。
レグノアの港。北回り航路の空路船「風読み号」が、桟橋に横付けされている。全長三十メートルほどの中型船。木製の船体に刻印術式で浮力が刻まれており、船底の六つの浮遊石が青白く光っている。帆は三枚。風ではなく気流を捉えるための術式帆で、薄い布地に無数の文字が織り込まれていた。
これが空路船だ。島と島を繋ぐ唯一の交通手段。この世界に道はない。海もない。あるのは空だけだ。
乗客は十五人ほど。商人が大半で、冒険者はカイとリーネの他に三人。護衛依頼を受けた銀ランクのパーティだった。カイたちも同じ護衛依頼を受けている。報酬は銀貨二枚。三日間の船旅の間、空賊や魔獣から船を守る仕事だ。
「乗るぞ」
「……ああ」
リーネの返事が弱い。タラップに足をかける前から顔色が悪い。
「まだ飛んでないぞ」
「分かってる。分かってるけど、足の下が空ってだけで——」
桟橋の板の隙間から、下が見えた。雲海の白い渦。底が見えない。リーネの足が一瞬止まった。
「海賊の娘だろう」
「海は落ちても泳げる。空は落ちたら死ぬ。何度も言ったろ」
「泳げないだろう。島の人間は」
「理屈の話じゃないんだよ」
タラップを上がった。甲板に足をつけた瞬間、リーネの顔色がさらに悪くなった。船が微かに揺れている。風のせいだ。まだ桟橋に繋がれているのに。
◇
出港の合図は、汽笛ではなかった。
船長——白髪の痩せた男——が船首に立ち、浮遊石に手を触れた。術式が起動する。船底の六つの石が一斉に光を増し、低い振動が足裏から伝わってきた。船体がゆっくりと浮き上がる。
繋留索が一本ずつ外される。港の作業員が索を巻き取り、手を振った。桟橋が下に離れていく。一メートル。三メートル。十メートル。
術式帆が開いた。薄い布地に織り込まれた文字列が光り、気流を捉える。帆が風を受けるのではない。帆そのものが気流を生んでいる。船が前に進み始めた。ゆっくりと。だが確実に。
レグノアの島が——小さくなっていく。
石畳の街並み。ギルドの建物。広場。港湾倉庫の屋根。昨夜、二人で星を見たあの屋根が、眼下に豆粒のように縮んでいく。
島が視界の中で一つの塊になった。断崖で縁取られた、空に浮かぶ岩の塊。上に街がある。周囲には何もない。ただ空。
これが、島だ。
地上にいると忘れる。自分たちが立っているのは、空に浮かぶ一片の岩の上だということを。
船が高度を上げ、雲海の上層に入った。白い雲が窓の外を流れていく。やがて雲を抜けた。
その瞬間、息を呑んだ。
雲海の上。
どこまでも広がる白い雲の絨毯。その上に、青い空が果てなく続いている。太陽が近い。光が強い。空気が薄いが、船内の術式が補正している。
そして——島が見えた。
遠くに、大小の島々が浮かんでいる。雲海から頭を出した山のように、緑と岩と建物の色が点在している。近くの島は輪郭がはっきりと見え、遠くの島は霞んで影になっている。その向こうにも島がある。さらにその向こうにも。
世界は、島でできている。
百を超える島が空に浮かび、それぞれが一つの都市であり、一つの国であり、一つの生態系だ。島と島の間を、空路船が白い航跡を引いて行き交っている。小さな漁船から、軍の大型艦まで。
こうして上から見ると分かる。島はただの岩ではない。一つ一つが光を放っている。核に宿る法則が、微かな輝きを雲海に映している。
なぜ島が浮くのか。酒場で聞いた断片が、今この景色と繋がった。
太古に一冊の書——原典——が砕けて島になった。原典に書かれた法則が島の核に宿り、浮力を生んでいる。すべての島は原典の断片だ。島ごとに宿る法則が異なるから、気候も生態系も文化も違う。そして人間の体に刻まれた刻印術式も、元を辿れば原典の法則の写しだ。
戦刻、匠刻、識刻。三つの系統に分類される刻印術式は、生まれたときに体に刻まれるか、後天的に修行で開花する。どの系統の術式を持つかは個人差があり、系統を越えて使える者は稀だ。
そしてその外側に——禁刻がある。原典の法則そのものを直接操作する、禁じられた力。
改行は、その一つだ。
「……すごいな」
甲板の手すりにつかまりながら、リーネが呟いた。顔色は相変わらず悪い。だが目だけは光っている。
「マリスティアは、どっちだ」
「南南西。今は見えない。フォルジアの向こうだ」
「あの大きいのがフォルジアか」
南西の方角に、赤みを帯びた巨大な島が見えた。島の中央から煙が上がっている。溶鉱炉の島。鍛冶の都市。明日の昼にはあそこに着く。
「おい、お前」
声をかけようとした時、リーネが手すりを握りしめて前のめりになった。
「……ちょっと待て。揺れるな」
「船は揺れるものだ」
「分かってる。分かってるけど——」
青い顔のまま、手すりの向こうに体を乗り出した。
海賊の娘が、空路船で船酔いしている。
何かの冗談のようだが、理屈は通る。海の船は波で揺れる。上下の動きだ。体が覚えている揺れ方。だが空路船は気流で揺れる。上下左右に加えて、浮遊石の出力変動で船体が微妙に傾く。三半規管が対応できないのだろう。海の娘だからこそ、体が「違う」と叫んでいる。
「水を持ってくる」
「……頼む。あと、できれば何か軽いものも」
船室から水と干しパンを持って戻ると、リーネは甲板に座り込んでいた。手すりに背中を預けて、膝を抱えている。受け取った水を一口飲み、深く息を吐いた。干しパンには手をつけない。
「情けない。海の上では一度も酔ったことないのに」
「慣れの問題だ。三日もあれば体が適応する」
「三日もこれが続くのかよ」
「たぶん明日には楽になる。気流の上層は揺れが少ない」
港で船員に聞いた知識がここで役に立った。リーネがこちらを見上げる。青い顔に、薄く笑みが浮かんだ。
「あんた、妙に面倒見いいな。こういう時だけ」
「別に。パートナーが戦えない状態だと困る」
「パートナーって言った。今」
「……相棒と同じ意味だ」
「相棒って自分で言ったのは初めてだぞ。嬉しい」
「吐きそうな顔で言うな」
リーネが笑った。笑いながら、また顔をしかめた。笑うと揺れが堪えるらしい。
◇
午後。リーネは船室で横になっている。少し寝たほうがいいと言ったら、珍しく素直に従った。よほど辛いのだろう。
一人で甲板に出た。
風が吹いている。雲海の上の風は冷たいが、穏やかだ。手すりに腕を乗せ、流れていく雲を見下ろした。
雲の下に、世界がある。島々があり、人がいて、蒐集院がいて、校正者がいる。そしてさらにその下——雲海の底——には喰海がある。甲板からは見えない。だが、あの黒い霧はゆっくりと、確実に這い上がっている。上から見れば美しい雲の絨毯の裏側で、世界は侵食されている。
レグノアを離れた。
あの島で得たものは、路銀と、経験と、そして——隣にいる赤い髪の女。一人で来て、二人で出た。それだけのことだが、それが重い。
もう引き返せない。レグノアは雲の向こうに消えた。前にはフォルジアがあり、その先にマリスティアがある。
風が外套を膨らませた。空路船の甲板から見る世界は、広い。昨夜の屋根の上より、ずっと広い。
この広さの中に、自分の居場所があるかどうか。それを探す旅でもあるのかもしれない。
船室の方から、微かに呻き声が聞こえた。赤い髪の相棒が、まだ揺れと戦っている。
この状態で空賊でも来たら厄介だな——と思った。護衛依頼を受けている以上、その可能性はゼロではない。
——明日には楽になる。たぶん。そう願った。




