8話 星の見える屋根
出発前夜。
荷物はまとめた。といっても、二人とも大した持ち物はない。カイは外套と武器と少しの着替え。リーネも似たようなものだ。冒険者の荷物は軽い。身一つでどこへでも行ける——それが、寄る辺のない人間の唯一の自由だ。
明日の朝、北回り航路の空路船に乗る。フォルジアで乗り換えて、マリスティアへ。三日の旅。この島で過ごした日々のほうが、もう長くなる。
午後にギルドで最後の手続きを済ませた。鉄ランクの登録証は各島で有効だが、遠征届は出す必要がある。受付嬢が「お気をつけて」と言ったとき、隣でリーネが「すぐ戻ってくるよ」と返した。戻ってこられるかは分からない。だが嘘とも言い切れない。
宿で夕食を済ませたあと、カイは港に向かった。理由はない。ただ、部屋にいると余計なことを考える。蒐集院の紋章。偽情報の残り時間。校正者。ゼノという名前。考えても仕方のないことばかりが頭を回る。眠れないなら、歩いたほうがましだ。
夜の港は静かだった。
昼間の喧騒が嘘のように、桟橋には空路船が二隻、停泊灯だけを灯して眠っている。繋留索が風に揺れて、低い軋みを立てていた。港湾倉庫の屋根が月明かりに青く光っている。夜番の港湾員が灯りを手に巡回しているのが、遠くに小さく見えた。
その屋根の上に、人影があった。
赤い髪だ。見間違えようがない。
港湾倉庫の屋根に座って、空を見上げている。革の胸当ては外していて、薄い上衣だけ。剣は隣に置いてある。手放さないが、握ってもいない。
気配に気づいたのか、こちらを見た。
「あんたも眠れないのか」
「……そういうわけじゃない」
「嘘だ。顔に出てる」
出ているのか。自覚はなかった。
屋根に上がった。倉庫の壁に手をかけ、積み荷のロープを足場にして登る。リーネの隣に腰を下ろした。
高い。港を一望できる。桟橋に繋がれた空路船の甲板が下に見える。船体の下は空だ。島の縁まで二十歩もない。足元の港。その先が途切れて、雲海が月に照らされて銀色の絹を敷いたように光っている。風が冷たい。高いところの風は、地上とは質が違う。澄んでいて、少しだけ寂しい匂いがする。
「明日からあの上を飛ぶのか」
「空路船はあの上じゃなくて、雲の中を行く。雲海の上層は気流が安定してるらしい」
「詳しいな」
「港で船員に聞いた」
「あたしは船酔いしそうだな……」
「海賊の娘が?」
「海と空は違うだろ。海は揺れても落ちない。空は落ちたら終わりだ」
妙に切実な声だった。冗談のつもりだったのか本気なのか、判別がつかない。
◇
星が見えた。
レグノアの夜空は、魔導灯のせいで街中からは星が見えにくい。だが港の端まで来ると、灯りが届かない。頭上に天蓋のように広がる星空が、島の縁の向こうの雲海まで続いていた。
「きれいだな」
隣で呟く声が聞こえた。戦いの時の鋭さも、日常の威勢のよさもない。ただ空を見ている声。
星が多い。数えるのを諦めるほどだ。この世界に地上はないが、空だけはどこまでも続いている。島々は星の間に浮かんでおり、遠くの島の灯りは星と見分けがつかない。世界そのものが一つの星空のようだ。
「マリスティアは海の島だから、星がもっと近く見えるんだ。水面に映って、上も下も星で。父さんが、世界で一番きれいな場所だって言ってた」
父親の話。あの坑道の日——鉱脈蜘蛛を斬った後で、最後の言葉が思い出せないと言っていた。あれ以来、自分から父の話題を出したのは初めてだ。
カイは黙って聞いていた。
「小さい頃、父さんの船に乗せてもらったことがある。海賊って言っても、あの頃はもう足を洗ってた。漁船に乗り換えて、島の周りを回るだけ。でもあたしには大冒険だった」
風が吹いた。赤い髪が揺れる。星明かりの下では、赤というより深い銅の色に見えた。
「父さんが舵を握って、あたしが船首に立って。波が跳ねるたびにきゃあきゃあ騒いで。父さんが怒鳴るんだ、『しっかり掴まれ! 海に落ちたら助けないぞ!』って。絶対助けるくせに」
声が柔らかい。記憶の中にいる声だ。
「帰りに父さんが、星を指差して——」
少しだけ間が空いた。
「何て言ったか、覚えてる?」
尋ねてから、聞くべきではなかったかもしれないと思った。あの坑道の日、最後の言葉が思い出せないと言っていた。
「……星の話は覚えてる。『リーネ、空の星は全部島だぞ。いつかお前も、あの星まで行けるようになる』って」
声が少し震えた。すぐに持ち直す。強い女だ。だが、強い女の震えは弱い人間の涙より重い。
「でもさ。最後に何を言ったかは、やっぱり思い出せないんだ。声は覚えてる。あたしの名前を呼んでくれた気がする。でもそこから先が、どうしても——ごめんな、同じ話で」
「同じ話でいい」
口に出ていた。
「何度でも聞く。思い出すまで」
リーネが振り返った。琥珀の目が、星明かりを映している。驚いた顔。すぐに、ふっと笑った。鼻で笑うのではなく——息が漏れるような、柔らかい笑い方。
「あんたがそういうこと言うの、珍しいな」
「言わないほうがよかったか」
「ううん。——ありがと」
しばらく黙った。星が見えている。風が吹いている。港の繋留索がきしむ音と、遠くで雲海の波が島の崖を洗う音が、夜の底を満たしていた。
「お前は? 家族は」
来るだろうと思っていた質問だった。
「いない。孤児院で育った」
短く答えた。それ以上を語るつもりはなかった——はずだ。だが、この星空と、この静けさと、隣で黙って聞いている女の気配が、口を少しだけ緩くしていた。
「物心ついた時には孤児院にいた。親のことは何も知らない。顔も名前も。術式が目覚めてからは、長くいられなかった」
「追い出されたのか」
「自分から出た。いると周りに迷惑がかかる」
壁を壊した日のことは言わなかった。子供たちの目が変わった日のことも。法則の歪みが周囲を蝕むことも。まだ、そこまでは。いつか言うかもしれない。言わないかもしれない。
「……じゃあ、あたしが最初の仲間だね」
仲間。
その言葉に、何か返すべきだと思った。肯定か、否定か、茶化すか。だが——何も言えなかった。否定する気にはなれない。肯定するには、まだ重い。この言葉を受け取るということは、もう一人には戻れないということだ。
だから黙った。
黙ることが答えだと知っている女だ。賢い。あるいは——同じように、一人だった時間が長いのかもしれない。
二人で屋根の上に座り、星を見ていた。
明日の朝、この島を離れる。行き先にはリーネの故郷がある。沈みかけた島と、父の遺産と、喰海がある。蒐集院の影がどこまで追ってくるか分からない。校正者がいつ現れるかも分からない。
分からないことだらけだ。
でも——空には星がある。隣の島の灯りも星も、ここからでは同じ光だ。あの女が言った「上も下も星」の景色を、いつか見ることになるのだろうか。隣にあの赤い髪がいる状態で。
「……そろそろ降りるか。明日早い」
「ああ」
屋根から降りた。港の石畳に足をつき、それぞれの宿に向かう。
「おやすみ」
「……ああ」
背を向けて歩き出した。十歩。足が止まった。
振り返らない。振り返ったら何か言ってしまいそうだから。
代わりに、小さく呟いた。聞こえないくらいの声で。
「——最初の仲間、か」
悪くない響きだった。
明日の朝、この島を離れる。空路船が雲海の上を飛ぶ。行き先に何が待っているか分からない。
でも——一人ではない。それだけが、レグノアで手に入れたものだ。




