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グリモワール・コード  作者: 一条信輝


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7話 最初の共闘

 出発は明後日と決めた。


 空路船の便を港で確認し、北回りの航路でマリスティアに向かう。南側の桟橋は使えないが、北側はまだ生きている。途中フォルジアで乗り換え、三日の船旅。銀貨十枚。二人分で、手元の路銀ぎりぎりだ。


 残り一日。最後に依頼をこなして、少しでも余裕を作っておきたい。


 ギルドの掲示板を二人で眺めていたとき、目に留まった依頼があった。


「レグノア南部、灰牙洞の魔獣駆除。灰鬣狼の群れ。推奨ランク、銀。報酬、銀貨八枚」


 銀貨八枚。破格だ。だが推奨ランクが銀。鉄ランクの二人が受けるには本来、ギルドの許可がいる。


「鉱脈蜘蛛の実績がある。受付で交渉すれば通るだろ」


 読みは正しかった。受付嬢は渋い顔をしたが、鉱脈蜘蛛の討伐記録を確認して許可を出した。「自己責任です」と三回言われた。


 ◇


 灰牙洞。


 レグノアの南端、島の縁に近い崖の中腹に口を開けた天然の洞窟だ。入口から湿った風が吹き出している。獣の匂い。それと、微かに血の匂い。


「灰鬣狼。群れで狩りをする。一匹一匹はそこまで強くないが、連携がうまい。数は依頼書では六匹」


「六匹。あたしが三匹、あんたが三匹」


「違う。お前が六匹だ」


「は?」


「俺は手を出さない。ただし——お前の炎を強化する」


 眉が上がった。島の東端の岩場で交わした会話を覚えているはずだ。酸素の密度を上げれば炎の温度が上がる。あの時は理論だけだった。今日、実戦で試す。


「具体的にどうなる」


「改行を発動した瞬間、お前の周囲の酸素濃度が跳ね上がる。炎刃の温度は二倍以上になるはずだ。五秒間だけ」


「二倍」


「ただし注意がある。酸素が濃い環境では、炎の燃焼速度も上がる。制御が甘いと自分を焼く」


「制御なら任せろ」


 迷いがない。自分の炎を信じている声だった。


「合図を出す。『上げる』と言ったら息を止めろ。酸素濃度が変わるから、深呼吸すると眩暈が起きる」


「分かった」


 洞窟に入った。


 魔導灯の光が濡れた壁を照らす。天井は高いが、通路は狭い。二人が横並びで歩ける程度。足元に水が流れている。岩肌に爪痕がある。新しい。


 奥に進むにつれて、獣臭が濃くなった。


 通路が開けた。


 広い空間。天井から鍾乳石が垂れ下がり、床には水溜りが点在している。そして——六つの影。


 灰色の毛並み。鬣のように逆立った首周りの毛。牙が長い。体長は大型犬ほどだが、脚が太く、爪が鉤のように曲がっている。六匹が扇形に広がり、こちらを見つめていた。低い唸り声が洞窟に反響する。


 群れの連携。すでに陣形ができている。正面に二匹、左右に各一匹、後方に二匹。逃げ道を塞ぐ配置だ。知能が高い。洞窟を根城にする魔獣は、地形を使う術を心得ている。


 低い唸り声が六つ重なり、洞窟に反響して数が分からなくなる。音で惑わす。こいつらは狩りを知っている。


「来るぞ」


 正面の二匹が同時に跳んだ。


 剣が鞘を離れた。炎が灯る。赤い炎。まだ通常出力だ。正面の一匹を炎の斬撃で弾き、もう一匹を蹴りで横にずらす。


 左右から二匹が挟み込むように突進してくる。


「——上げる」


 右手を伸ばした。リーネを中心に、半径三十メートルの空間。


「——酸素密度、三倍」


 世界が書き換わった。


 炎刃が、赤から白を通り越して、青みを帯びた。


 熱が変わった。空気が歪むのが見える。洞窟の鍾乳石が、炎の熱だけで表面が乾いた。リーネの剣が一閃するたび、軌跡が空気を焼いて残像のように光る。


 左からの灰鬣狼を斬り上げた。炎の軌跡が岩壁まで伸び、壁面が焦げた。右からの一匹には剣を振り下ろす。青白い炎が灰色の毛並みを一瞬で焼き尽くし、灰鬣狼は悲鳴を上げる間もなく吹き飛んだ。


 五秒。酸素濃度が元に戻った。


 炎の色が青から白、白から赤に戻っていく。だが動きは止まらない。通常の炎刃でも、残り四匹のうち二匹はすでに戦意を失っていた。尾を丸め、壁際に退いている。強化された五秒間の衝撃——あの青い炎の熱と光が、群れの統率を根こそぎ崩したのだ。


 残る二匹が後方に回り込んでいる。逃走か。いや——追い詰められた獣は退かない。


 三十秒。クールタイムが明ける。


 後方に回り込んでいた二匹が、逃走を諦めて突っ込んできた。追い詰められた獣の突進。速い。


「——もう一回行ける」


「上げろ」


 即答だった。


「——酸素密度、三倍」


 二度目の青い炎。


 赤い髪が低い姿勢で突っ込んだ。足元の水溜りが炎の熱で蒸発し、蒸気が視界を白く染める。その霧の中から青い光が閃いた。


 二匹同時に斬った。左右から迫る狼を、一振りの弧で。


 蒸気が晴れたとき、六匹すべてが倒れていた。洞窟の壁面には炎の痕が焼き付き、天井の鍾乳石が何本か溶け落ちていた。青い炎の余波だ。


 ◇


 洞窟の外に出た。午後の陽射し。風が涼しい。


 剣が鞘に収まった。大きく息を吐く音。額に汗が浮いているが、表情は晴れやかだ。


「……すごいな」


 自分の炎に驚いている。


「あの青い炎。あたしの炎刃がああなるなんて思わなかった」


「お前の炎の素質が高いから成立する。制御が甘い術者なら、酸素を上げた瞬間に自分が焼ける」


「褒めてんの?」


「事実を言っている」


 にやりと笑われた。「お前の事実って、だいたい褒め言葉だよな」。


 その指摘は無視した。


「課題もある。酸素濃度を上げている間、お前以外の味方がいたら巻き込む。閉鎖空間でしか使えない。それに、五秒は短い」


「五秒で充分斬れたろ」


「今日の相手は六匹だ。もっと多ければ足りない」


「なら三回目を撃てばいい。三十秒あたしが稼ぐ」


 同じ台詞を、もう何度目か聞いた。「三十秒あたしが稼ぐ」。この女はそれを、最初から一度も変えていない。


「お前の炎と俺の改行は相性がいい」


 口に出してから、それが自分の意志で言った言葉だと気づいた。理論的な分析ではなく——認めた、のだ。この組み合わせを。この連携を。


「……知ってた」


 返ってきた声は静かだった。いつもの勢いがない。代わりに、確信がある。


「あの岩場で、あんたがあたしの炎を見たときから。相性がいいって分かってたんだろ。でも言わなかった。言ったら、離れられなくなるから」


 答えなかった。


 答えられなかった。


 それ以上は聞かなかった。剣を担ぎ直して、レグノアへの道を歩き出す。


「明後日、出発だな」


「ああ」


「マリスティアまでの船の中で、もっと連携の練習しよう。酸素以外にも使える組み合わせ、あるだろ」


「いくつかは」


「いくつかって何だ。具体的に言え」


「……風向きを変えて炎の方向を制御する。温度を局所的に下げて炎の壁を作る。空気中の水分を飛ばして乾燥させ、着火しやすい環境を作る」


「全部試す」


「船の上で炎は使えない」


「じゃあ着いてからだ」


 レグノアの道を歩く。夕暮れが近い。空の端が橙色に染まり始めている。


 明後日、この島を離れる。蒐集院の偽情報がいつまで持つか分からない。校正者の影も近づいている。マリスティアの港は沈みかけている。


 時間はない。敵は増えた。世界は思っていたより広く、思っていたより暗い。


 だが——隣に、炎がある。自分の改行と噛み合う炎が。


 それが心強いと思った自分を、もう怖がらなくていいのかもしれない。


 まだ分からない。でも——明後日のことは、明後日考えよう。今夜は、あの青い炎の残像がまだ目の奥に焼きついている。

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