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グリモワール・コード  作者: 一条信輝


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6話 酒場の噂

 銀貨五枚は大きかった。


 鉱脈蜘蛛の討伐報酬をギルドで受け取ったとき、受付嬢が二度見した。鉄ランクの冒険者が銀ランク相当の依頼を二人で完了したのだから、無理もない。


 マリスティアまでの路銀に目処が立ちつつある。もう数日、依頼をこなせば出発できるだろう。


 その夜。


 リーネが「たまには酒場に行こう」と言い出した。情報収集だ、と付け加えたが、単に飲みたいだけだろう。


 ◇


 ギルドに併設された酒場は、夜になると昼間とは違う顔を見せる。


 天井の低い石造りの広間。壁に掛けられた魔導灯が琥珀色の光を落とし、テーブルの上には安い蒸留酒の瓶と、皿に盛られた干し肉やチーズが並んでいる。武装を解いた冒険者たちが卓を囲み、声が重なり合って一つの騒音になっていた。昼間はギルドの掲示板の前で肩をいからせていた男たちが、酒が入ると途端に饒舌になる。情報は、こういう場所で落ちている。


 奥の隅の卓についた。壁を背にできる席。出入口が見える位置。カイが何も言わずにその席を選んだことに、リーネは気づいたかもしれないし、気づかなかったかもしれない。


「何飲む」


「水でいい」


「水」


「水だ」


 呆れた顔をされたが、赤毛の相棒は自分の分だけ蒸留酒を頼んだ。運ばれてきた杯を一口含み、「強い」と顔をしかめている。海賊の娘のくせに酒に強くはないらしい。


「あんた、酒飲まないのか。嫌いなのか」


「嫌いじゃない。飲めない」


「体質?」


「酔うと改行の制御が甘くなる」


 言ってから、少し後悔した。余計な情報だ。


 案の定、目の色が変わった。杯を置き、声をひそめる。


「それ、結構やばい情報だぞ。あたしに言っていいのか」


「お前はもう知りすぎてる」


 一瞬の沈黙。それから、小さく笑った。


「……信用されてるってことでいいのか」


「都合よく解釈するな」


「する」


 杯に口をつけながら、琥珀の目が笑っている。面倒な女だ。


 ◇


 酒場の騒がしさには利点がある。誰もが自分の話に夢中で、隣の会話を気にしない。だが逆に言えば、耳を澄ませれば他人の話が断片的に聞こえてくる。


 カイは水の杯を傾けながら、周囲の会話を拾っていた。これが酒場の本当の価値だ。依頼書には載らない情報が、酒の勢いで冒険者の口から溢れ出る。


 隣の卓。銀ランクの冒険者が二人、声を潜めて話している。胸元の登録証が銀色に光っていた。鉄ランクとは情報の質が違う。


「——マリスティアの港が閉鎖されたってよ。喰海の浸食が加速してるらしい」


 隣で、杯を持つ手が一瞬止まった。すぐに動き出す。聞いていないふりをしている。だが耳は完全にそちらに向いていた。


「閉鎖って、空路船が出入りできないのか」


「南側の桟橋が三本やられた。北側はまだ使えるが、時間の問題だと」


 声がさらに落ちた。


「それだけじゃない。蒐集院が動いてる。各島で目撃情報が増えてるんだ。フォルジア、ノクターン、セラフィーム——どこでもあの歯車の紋章が見つかってる」


 歯車の紋章。あの夜、壁に刻まれていたものと同じだ。自分だけが標的ではない。蒐集院は各島で活動を広げている。


「蒐集院が何を集めてるか知ってるか。原典の断片だ。世界を作った一冊の書が砕けて島になった——あの伝説の破片を探してるんだと」


「御伽噺だろ、そんなの」


「御伽噺で何十人もの工作員を各島に送るか?」


 沈黙。酒を飲む音。


「……もう一つ。校正者が動いてるって話もある」


 聞き慣れない名だった。


「校正者?」


「プルーフリーダーとか呼ばれてる連中だ。蒐集院とは逆で、原典を消したがってる。世界を法則から解放する、とかなんとか」


「物騒な話だな」


「リーダーの名前は——ゼノ。禁刻の使い手だって噂だ」


 禁刻。


 水が冷たい。表情は動かさない。だが、指先が微かに強く杯を握っていた。


 禁刻の使い手。自分以外にもいるのか。


 改行はカイが知る限り、唯一の禁刻だった。この力がどこから来たのか、誰が刻んだのか、何も分からないまま使い続けてきた。だが——「削除」。原典を消す力。改行が「書き換え」なら、削除は「消去」。対極にある力だ。


 蒐集院だけではない。校正者という別の勢力も動いている。世界は、三つの思惑がぶつかり合っている。


「蒐集院と校正者。それに七都市連合の軍。三つ巴だな。俺たち冒険者は、どれにも関わらないほうがいい」


 二人はそう言って杯を交わしていた。


 ◇


 酒場を出た。


 夜のレグノア。通りには酔った冒険者がちらほらと歩いている。空には月。島の縁の向こうに雲海が銀色に光り、遠くの島々が影絵のように浮かんでいた。あの島のどこかに蒐集院がいて、校正者がいて、そして喰海が這い上がってきている。


 しばらく、二人とも黙って歩いた。酒場の賑わいが背後に遠ざかり、通りが静かになっていく。


 沈黙を破ったのは、宿に近い角を曲がったときだった。


「マリスティアの港、閉鎖か」


「南側だけだ。北側はまだ使える」


「でも時間の問題だって言ってた」


「だから急ぐ」


 隣の足音が止まった。振り返る影。月明かりの中で、表情が読みにくい。


「蒐集院の話。あんた、聞いてたとき顔色変えなかったけど——知ってたんじゃないか?」


 鋭い。


「……多少は」


「多少って何だ。壁の紋章か? あの夜、あんた何か隠してたろ」


 あの夜。蒐集院の印を書き換えた夜。「何かあったか」と聞かれて「何でもない」と答えた夜。あの時は聞かなかった。「話したくないなら聞かない」と言ってくれた。だが今夜、酒場で聞いた情報が、あの夜の違和感と繋がったのだろう。この女は鈍くない。断片を集めて、自分の頭で絵を描ける。


「あんたの力を狙ってる奴がいるんだな。蒐集院か、校正者か、どっちか分からないけど」


「両方かもしれない」


 自分でも驚くほど素直に出た言葉だった。


 琥珀の目が据わった。怒っているのではない。覚悟を決めた目だ。


「なら尚更、一人で抱えるな」


「お前には関係ない」


「ある。あたしはあんたの相棒だ。あんたが狙われてるなら、隣にいるあたしも狙われる。もう関係ないなんて言えない距離にいるんだよ、あたしたちは」


 反論できなかった。正論だからだ。


 カイは月を見上げた。白い光が顔を照らしている。


 この女を巻き込んでいる。改行の力に近づいた人間は法則の歪みに巻き込まれる。だが今、最も危険なのは法則の歪みではなく、蒐集院と校正者の影だ。リーネの隣にいることが、リーネを物理的な危険に晒す。


 分かっている。分かっていて——


「……明日、出発の準備をしよう」


 琥珀の目が丸くなった。


「マリスティアか」


「路銀は足りる。これ以上この島にいると、余計な目に留まる」


 本音はそれだけではない。マリスティアの港が閉鎖されつつある。時間がない。この女の故郷が沈む前に着かなければ、組んだ意味がなくなる。


 だが、それは言わなかった。言えば、この女はもっと急ぐだろう。急いで判断を誤る。今は冷静に動くべきだ。


 小さく笑った。月明かりの下で、安堵と決意が混ざった顔。


「やっと動く気になったか。遅いんだよ、あんた」


 宿の前で別れた。赤い髪が角を曲がって消え、一人になる。部屋に入った。


 窓辺に立った。壁の紋章を確認する。偽情報はまだ生きている。だが長くは持たない。


 蒐集院。校正者。禁刻。ゼノ。


 世界は思っていたより騒がしい。


 だが——少なくとも、明日の朝はまだギルドの門柱の前に赤い髪が立っているだろう。


 今はそれで充分だ。

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