5話 リーネの炎
その依頼を見つけたのはリーネだった。
ギルドの掲示板。銀ランク相当の討伐依頼が、鉄ランクの依頼に紛れて貼られている。受付嬢が分類を間違えたのか、あるいは——報酬に見合わない危険度を誰かが見落としたのか。
「レグノア東部の廃坑。鉱脈蜘蛛の巣の駆除。報酬、銀貨五枚」
銀貨五枚。通常の鉄ランク依頼五日分だ。
「受けよう」
「鉱脈蜘蛛は鉄ランクの相手じゃない」
「知ってる。だからあんたと二人で行くんだろ」
カイはしばらく依頼書を見つめていた。鉱脈蜘蛛。廃坑に巣を張る中型の魔獣だ。糸は鉱石の成分を含んでおり、硬い。通常の刃では切れない。体長は大人の胴体ほど。群れで行動する。
「お前の炎なら糸は焼ける。だが巣の奥にいる母蜘蛛が問題だ。鉄ランクの冒険者が手を出す相手じゃない」
「母蜘蛛はあたしが斬る」
断言だった。迷いがない。
「あんたは手を出さなくていい。見てろ」
岩場で蟲翼蝙蝠を狩ったとき、カイが言った台詞を、そっくり返されている。意趣返しのつもりか——口元に、かすかな笑みがあった。
◇
レグノア東部。島の中ほどにある廃坑の入口は、崩れかけた木枠で塞がれていた。
かつてはここで鉱石を掘っていたという。鉱脈が枯れて放棄されてからは、魔獣の棲み処になった。坑道の中からかすかに風が吹き出している。湿った空気に、鉱物の匂いが混じっていた。
木枠を外して中に入る。
暗い。魔導灯を手に、坑道を進んだ。天井は低く、二人が並んで歩くのがやっとだ。壁には鉱脈蜘蛛の糸が銀色に光りながら張り巡らされている。指で触れると、硬い。金属の線を編んだような手触りだった。
「焼くか」
「まだだ。糸を焼くと煙が出る。坑道の中で視界を潰したくない」
判断が的確だ。この女は頭ごなしに突っ込む猪ではない。戦場を読んでいる。
坑道の奥。空間が広がった。天井が高くなり、廃坑の採掘場に出る。魔導灯の光が届かないほど広い。
そして——糸で覆われた壁。天井。床。すべてが銀色の巣に包まれている。
中央に、それがいた。
母蜘蛛。体長は馬車ほどもある。八本の脚が銀色の巣の上に広がり、腹部には無数の卵嚢が付着していた。複眼が魔導灯の光を反射して、暗闇の中で宝石のように光る。巣の主は動かない。だがその静けさこそが、この空間全体が母蜘蛛の領域であることを物語っていた。
その周囲に、子蜘蛛が二十匹ほど。一匹一匹は猫ほどの大きさだが、硬い糸を吐く。囲まれれば鎧ごと動けなくなる。
「……でかいな」
リーネが呟いた。声に怯えはない。ただ、状況を確認している。
「子蜘蛛を俺が抑える。母蜘蛛に集中しろ」
「手を出すなって言ったのに」
「子蜘蛛の足止めくらいは手を出すうちに入らない」
リーネが鼻で笑った。「都合のいい線引きだな」。剣を抜いた。
刀身に炎が灯る。
赤ではなかった。
白だ。
蟲翼蝙蝠の時に見た色の変遷——赤から白へ——ではない。最初から白い。全力の炎。坑道の暗闇が、一瞬で昼のように明るくなった。
「——行くぞ」
赤い髪が地面を蹴った。
子蜘蛛たちが一斉に糸を吐く。銀色の糸が空中に網を張る。
「——糸の引張強度、ゼロに」
カイの改行。子蜘蛛の糸が、一瞬でちぎれ落ちた。張力を失った銀色の糸が紙くずのように地面に散らばる。五秒。だがその五秒で、リーネの前から障害物が消えた。
白い炎が弧を描いた。
一閃。子蜘蛛三匹が横一線に焼き斬られる。着地と同時に身を低くし、母蜘蛛の前脚の薙ぎ払いを潜り抜ける。返す刃で脚の関節を狙った。硬い外殻に炎が食い込み、焼けた甲殻が爆ぜる音がした。
母蜘蛛が悲鳴を上げた。人の声に似た、甲高い軋み。残る七本の脚で後退しながら、腹部から太い糸を撃ち出す。子蜘蛛の糸とは太さが違う。鉱石の成分が濃い。あれに当たれば鎧ごと拘束される。
避けなかった。
剣を振り上げ、白い炎で糸を焼き切る。溶けた鉱石の飛沫が頬を掠めたが、構わず踏み込んだ。足元の巣糸が炎に炙られて赤く光り、坑道の底に溶岩のような模様を描いた。
速い。あの岩場で見た動きより、明らかに速い。あの時は蟲翼蝙蝠相手に温度を落としていた。手加減ではなく、相手に合わせていたのだ。
今は——合わせていない。全力だ。
海賊の剣。父親に教わった剣。波の上で、不安定な甲板で、足場を信じずに体幹だけで斬る剣術。
この坑道の足元は巣の糸で覆われている。滑る。不安定だ。だがリーネは乱れない。船の上と同じだ。足元を信じない代わりに、体の軸だけで戦う。
母蜘蛛の二本目の脚を斬った。三本目。四本目。炎が暗闇を照らすたびに、リーネの横顔が見えた。
笑っていない。怒ってもいない。ただ——集中している。剣と炎と体が一つになった、純粋な没入の表情。
父に教わった剣を振るうとき、この女はこういう顔をするのだ。
◇
終わった。
母蜘蛛が動かなくなり、子蜘蛛たちは巣の奥に散った。採掘場に静寂が戻る。
白い刃が下りた。炎が消える。暗闇が戻り、魔導灯の弱い光だけが二人を照らした。
肩で息をしている。汗が顎から落ちた。鉱石の飛沫で頬に小さな火傷がある。
「……強いな」
口に出すつもりはなかった。だが出た。
赤い髪が振り返った。暗がりの中で、琥珀の目がこちらを見ている。
「当たり前だろ。誰に教わったと思ってる」
その声が、ほんの少しだけ震えていた。
坑道を出る途中、空気が変わった。鉱石と蜘蛛の巣の湿った匂いから、草と風の匂いに。出口に近づくにつれて、外の光が差し込んでくる。暗闇に慣れた目には、それがひどく眩しかった。
「父さんの顔は覚えてる」
唐突だった。リーネが前を歩きながら、背中越しに言った。
「大きい人だった。笑うと目がなくなるくらい細くなる。髭が濃くて、あたしが子供の頃は髭でくすぐられるのが嫌だった。手も大きかった。あたしの頭がすっぽり収まるくらい」
カイは黙って聞いていた。前を歩くリーネの背中が、魔導灯の残り光でうっすらと照らされている。
「剣の握り方も覚えてる。踏み込み方も。炎の焚き方も。全部体に入ってる」
足音が、少しだけ遅くなった。
「でも——最後に何を言われたか、思い出せないんだ」
出口の光が近い。赤い髪が、外からの陽射しで縁取られていた。
「別れ際に何か言ってくれたはずなんだ。あたしの名前を呼んで、何か。でもそこだけ、どうしても——」
声が途切れた。
カイは何も言わなかった。言えることがなかった。慰める言葉も、気の利いた返しも持ち合わせていない。
ただ、並んで歩いた。坑道を出て、午後の陽射しの中に出た。レグノアの空が青い。島の縁の向こうに雲海が白く広がっている。眩しくて、少しだけ目を細めた。
隣で空を見上げる気配がした。目元を拭ったかどうかは、見なかった。見ないほうがいいと思った。
「……ま、いつか思い出すだろ」
声はもう震えていなかった。振り返って、いつもの目でカイを見る。強い目。折れない目。だが今だけ、その奥にわずかな湿り気があった。
「帰ろう。銀貨五枚もらいに行かないと。あんたほとんど何もしてないけど、折半だからな」
「糸の強度をゼロにした」
「五秒だけだろ」
「五秒がなければお前は糸に絡まってた」
「絡まってない。焼き切ってた」
「たぶんな」
赤い髪が歩き出す。その半歩後ろを歩く。いつの間にか、それが二人の歩き方になっていた。
逃げるのは——まだ、明日じゃなくていい。
そう思った自分への警戒が、昨夜よりほんの少しだけ、薄れていた。それを怖いと思う感覚すら、少しだけ鈍くなっている。
お読みいただきありがとうございます。
リーネの戦闘回、いかがでしたでしょうか。
炎刃の真価と、父親の記憶の断片。強さの裏にある影を少しだけ見せました。
次話、ギルドの酒場で不穏な噂が流れます。
蒐集院、校正者──二つの名前が、カイの耳に届くとき。
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